2017年2月28日火曜日

マネは物議をかもした

芸術の楽しみは、表現された世界の意味あるいは空間に関わることにある。絵画の場合、絵の中の空間はどんな世界かを鑑賞者は各々の視点で読み取ることから始まる。その絵が美しいか、明るいか、好きか、嫌いか、判る、判らないではなく、描かれている世界を解き明かし、その世界を友人と共有する、あるいは議論し意見を述べ合うことが楽しみと言えるようだ。

絵画はもともと集団の中にあるもの、したがってルネサンス以来教会を離れたヨーロッパ絵画は建築のお飾りでも、個人的な趣味・趣向でもなく、教養人にとっての話題の対象、あるいは社交の道具であったと言って良いのかもしれない。

この項を書くきっかけはル・モンド・ディプロマティーク日本語版の「そしてマネは物議をかもした」を読み面白いと思ったからだ。ル・モンドの記事を書いたのはフランスの社会学者ピエール・ブルデューだが、彼は冒頭でマネが「象徴革命」を創始したと書いている。東京では大人気の印象派展はいつも混んでいる。そこでは名画を鑑賞することより、いかに素早く題名と画家名を読み取ろうか画策している自分に気づき辟易する。そんなことから、最近はマネもモネもドガもルノアールもセザンヌもほとんど観ていない。しかし、ネットメールで知ったピエール・ブルデューのマネの記事を読みながら、久しぶりに19世紀の絵画展を見に行きたいと思い始めた。

19世紀ヨーロッパは経済的興隆期、絵画の愛好者は貴族館の住人たちだけではなく、多くのブルジョワ、市民たち。彼らは誕生したばかりの美術館に押しかけ、様々な絵画を楽しんでいる。教会や貴族が健在である時代ならば、画家たちは彼らの庇護のもと生活できたかもしれないが、19世紀、名もない画家が画家として認められ、絵を描くことで生きて行こうとするならば、上層階級のパトロンばかりではなく、絵画を楽しむ市民と商才にたけた画商たちが必要であった。したがって、画家として生きようとする人は、サロン(官展)に出品し、賞を取り評価を得ることが不可欠となる。マネの父親はパリの高級官僚、母親の家系もブルジョワジーではあったが、彼もまた画家として生きることを決意した時から、サロンへの出品に明け暮れる毎日を送っている。

マネは1859年から出品を始めているが1861年にはサロン(官展)に初入選している。「草の上の昼食」は1863年、マネ31歳、そろそろ名が出始めてきた時の出品作だが、「現実の女性の裸体」を描いた作品は「不道徳」であるとされ、スキャンダルに巻きこまれ落選した。そもそもこの時のスキャンダルはマネだけの問題ではない。すでに巨大化したアカデミーの会員であるサロンの審査員たちは、もはや沢山のライバルたちを入選させたくはなかったのだ。そしてこの年、サロンに選ばれた作品数は前年を大きく下回り、多くの愛好者たちは、その不満をアカデミーの会員たちに投げつけた。スキャンダルはさらに続く。同時代すでに人気を失いつつあった皇帝ナポレオン三世、彼は自身の人気復活の為、市民に迎合しサロンから落選した作品ばかりを集め展覧会を開いた。「現実の女性の裸体」を描いたマネの「草の上の昼食」はナポレオンの知るところではなかったようだが、彼が開催した落選展はアカデミーが主張する「不道徳」と重なり、今度は不道徳な皇帝が取りざたされ大騒ぎになった。つまり、マネの責任ではないのだが「現実の女性の裸体」はその後のフランス皇帝の失墜にもつながる一大スキャンダルとなったのだ。

ピエール・ブルデューがル・モンドの記事に触れている「象徴革命」はタイトルが「物議をかもしたマネ」とあるように、このスキャンダルが下敷きとなっていることは間違いない。そして、文末ではマネの「草の上の昼食」は「効果より性向」だと言っている。もちろん、ここでいう「性向」は個人的趣味に関わることではなく社会的性向ということなのだが、なんとも分かりにくい。「現実の女性の裸体」が描かれた「草の上の昼食」は「不道徳」という物議をかもしたが、むしろ彼はこの絵は「絵を評価する認識のカテゴリー」を「効果から性向」変容してしまった、と言っている。このことがピエール・ブルデューの言う象徴革命であり、マネが醸した物議であるなら、19世紀の「不道徳」から一線離れて、その革命とはどのようなものかを考えてみなければならない。

「草の上の昼食」はよく知られていることだが、ティツィアーノの「田園の奏楽」を引用している。さらに彼の兄弟子であるジョルジョーネの「テンペスタ」にまで戻るべきかもしれない。どちらも絵画史における物議の対象、難解な絵画として有名だ。
「田園の奏楽」はウェルギリウスの牧歌にあるようなルネサンスのアルカディア、裸のニンフが二人、紳士たちが奏でるリュートと笛の合奏に寄り添い聞き入っている。「現実の着衣の紳士」と「神話の女性の裸体」が同一画面の中の、のどかな日常風景となって我々の目を惹きつける。
「草の上の昼食」を「不道徳」と批評した19世紀のアカデミーの会員たち、彼らは当然「田園の奏楽」は「神話と現実」を一枚の画面に重ね合わせた二重世界、ルネサンス音楽のような多旋律な合奏を意味する名画だと認知しているはずだ。
ではアカデミーの会員が抱いた物議の対象とは何なのか、ピエール・ブルデューは「草の上の昼食」のあらゆる面に見られるヒエラルキーの対立にあると言っている。この対立は当然、マネ自身が意図して画面の中に描いたものだが。落選当時の物議はまさしく、マネが描いたのは様々な「対立」を一画面に併置する事でアカデミーいや社会全体への鋭い批評にあったと言えるかもしれない。

「田園の合奏」は対立ではない、対比された二つの世界が同一画面に重ね合わされ描かれている。中世以来の都市の崩壊を体験したルネサンス、同時代の現実世界の中に新たな自然(アルカディア)を発見しようとしている。ジョルジョーネの「テンペスタ」は嵐に見舞われる都市と田園の対比があり、描かれているのはオリンポス神話なのかエデンの園、あるいは秘教哲学か錬金術か、描かれた世界は対立どころか迷宮のような様相を呈している。しかし、合奏同様、当時の社会批評を日常風景よって展開しているところは変わらない。ジョルジョーネとティツィアーノ、二人が描いた謎の絵はどちらも当時としては珍しく神話世界ではなく、「あるがままの現実」、日常の風景画であったというところが重要だ。彼らの時代、描かれる世界は神話か宗教という人間が想像する観念の世界、「あるはずの世界」が多いのだが、二人は虚構・観念の世界を日常風景、「あるがままの世界」として描いていることが面白い。
「草の上の昼食」の世界も当然「あるがままの現実」。さらにその日常風景はルネサンスの二人とは異なり複数時間ではなく、もっとリアルな現実として一画面に一つの時間を描いている。こんなリアリズムがルネサンス絵画を知るアカデミーの会員の顰蹙を買ったのかもしれない。「裸の女性」を描くなら、それは「神話の世界」、「あるがままの世界」では「不道徳」であると。確かに、18・19世紀の絵画を見るとヌードは全てヴィーナスやニンフ、あるいは神話の世界の女性たち。もっとも、神話が先かヌードが先かは19世紀の画家に聞かなければ判らないが。

マネはこの「草の上の昼食」を「二組のカップルの交換パーティ」と名付け、当初より意識的戦略、議論を引き起こしたかったに違いないと書くピエール・ブルディユーは重ね合わせや対立を手掛かりにこの絵を読み取っていく。まず世界は神話ではなく、あるがままの現実風景、流行の最先端のジャケットを着る二人の男は貴族、草の上の裸の女性は娼婦。その対立は同時代のアカデミーの会員たちと自由奔放な画学生の有り様を象徴している。ピエール・ブルデューは書いている。そこには美学と倫理をヒエラルキー化し、非常識や不作法を強調しようとするマネの意思。美学的視点から低い地位を示すあらゆる兆候とみだらな場面、潜在的にきわどさを秘めた場面を示すあらゆる兆候を重ね合わせる。社会的な意味での高位と下位の対立、男性と女性の対立。断絶を引き起こす作品を理解するためには作品は生み出した社会的効果を考慮に入れることが重要。反響あるいは効果に関する美学は意図ではなく、性向の美学といえる、と。

さらに、面白いのは風俗画としては大きすぎる画面(2・08mX2・64m)にある。裸の女性の日常を描いた猥褻イメージなら、当時はやり始めた写真同様、紳士の隠れた財布に忍ばせれば良いのではないか。水浴シーンとしては写実的すぎる、とても牧歌とは読み取れない。ここから見えてくることは神聖なるものへの逸脱と言えるようだ。
マネは構図も遠近法も知らないと非難されていた。遠くに行けば行くほど小さくなるという画法の代わりに光を真正面から照らす効果を利用し、平面的に見える表現方法を用いたからだ。それは意味を伝えるより、色彩の筆触の戯れ、造形的な効果を及ぼす形、色。その手法は形式主義ともいえるが、肉付けを減らし、写実に徹し、理想化を取り除く、写実主義でもある。
マネを形式主義であり、写実主義であると言うところは重要だ。印象派の画家たちは皆「あるがままの世界」をよりリアルに、より立体感を持って描いている。マネも印象派には違いないが、画面は後にクリムトが試みたように望遠鏡で見るがごとく遠近法を離れ、写実的であるより形式的に、人や物の持つ立体感を押さえ平面的に描がいている。その平面には色、テクスチャーが別種のパターンを作り別世界へ誘導する。多分、その世界がピエール・ブルデューの言う性向なのだろう。現実的リアルな世界というより、雰囲気、印象、気質。マネはルネサンスの二人と同じように様々な対比、重ね合わせによって「あるはずの世界」ではなく「あるがままの世界」にある社会的性向、気質の傾きを描いているのだ。さらにまた、「あるがままの世界」をそのまま写実したのでは、絵画はいつまでも古典を超えることが出来ない。マネは現実世界を写実ばかりでなく形式の持つ力を使って、あるがままの世界の持つ、冷ややかな雰囲気、内面的な気分、機械的な印象さえ表現している。彼は審査員でもあるアカデミー会員、印象派の画家たちを超えた最初の現代画家であった。


from ル・モンド・ディプロマテーク日本語版2016年9月 http://www.diplo.jp/articles16/1609-MDVmanet.html

2017年2月21日火曜日

英語の方が“style”だからね

今、世界中で一番話されている言語は何か、というネット記事を読んだ。一番はなんと中国語。なるほどな、そうかもしれないな、と感じつつさらに読み進めると、二番目は当然英語だろう、と思ったら、スペイン語だった。各々を母語としている人口統計によると、驚くなかれ中国語はなんと12億、スぺイン語が4億で、次の英語が3億だ。

そんな記事を読みながら、昨年、Everenoteにキープしておいた「欧州の言語」を思い出した。デュトゥルトル氏はイギリスが抜けつつあるEUだが、そこでの言語は英語であり、歴史的ヨーロッパ特有の多言語主義は一掃されたと書いている。グーグルやヤフー等に浸かりきった我々も、いまやフラットな日常生活。60年代から始まったと言われる情報時代は、かの国のレーガン・ブッシュ・トランプに呼応して、リベラルでインダストリーだったモダニズムから、グーローバルで経済実用主義的なポピュリズム、ポストモダンへと変容した。

確かに、ルモンド・ディプロティークの記事の冒頭にある「英語の方が“style”だからね」は巧みに、我々のポストモダンを言い当てている。

以下は「欧州の言語」から抜粋

by ブノワ・デュトゥルトル

from ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2016年6月号

“style”という言葉は「流行の(branché)」、「世の中の事情に通じた(dans le coup)」、「今日の(d’aujourd’hui)」を表現している。英語は単なる言語ではなく、世の中の変化や未来を示す印であり、どんな概念にも現代的な特徴を加える。

欧州のリーダーたちは経済概念や衛生・安全に関する諸ルール、規制緩和と民営化の目標、2本の線が引かれた通貨マーク、そして今やその言語までも米国から輸入した後、躊躇うことなく同じ外交・軍事路線に賛同していた。そしてあやふやだった欧州の防衛計画は、こうした路線へと置き換えられた。

この数年間、偽りの実用主義によってその使用が義務とされた英語のために、EUの多言語主義は一掃された。20世紀中頃に社会全体で始まったこの変動は、インターネットの影響のもとで驚くべき加速を見せている。グーグル、フェイスブック、ヤフー、ツイッター、そして米国で生まれた他の沢山のコミュニケーション・ツールは、それらの原産国のスキーマによってモデリング「英語の方が“style”だからね」。我々は日々、インターネットを通じて少しは飛び込んでくる英語に直面するだけではなく、米国的な思考をするようにも促されている。

EUは創設国の言語(フランス語やドイツ語、イタリア語……)を見捨て、その機構を長い間特徴付けていた多言語主義の原則を諦めながら、加盟国の中でも最も遠く離れた国の言語に頼っている。それはすなわち英国だ。つま先立ちの状態であるこのEU加盟国は、間もなくそこから離脱するかも知れないが、そうなれば英語というこの素晴らしい特権に訴える理由はなくなるのだ。

http://www.diplo.jp/articles16/1606-2languedelEurope.html

2017年2月10日金曜日

ブルックリン・フォリーズ ポール・オースター

「ブルックリン愚行(フォリーズ)」をタイトルとする、この小説のオースターの真意は「アメリカの愚行の書」ではないだろうか、そんな印象を持った読後感。ガンを煩い退職し小康を得てブルックリンに移住、マンハッタンの損害生命保険会社の社員であったネイサン・グラスは「人間の愚行の書」を書こうと思い立つ。60歳近くなり、犯してきた失態、ヘマ、恥、愚挙、粗相、ドジをシンプルな言葉で綴ろうとする、なんとも悲劇的な決意。そんな始まりを持つこの物語はどうやら2001年9月11日のWTCの崩落が大きな背景と読めてくる。アメリカでのこの書の出版は2006年、事件から5年後のことだ。オースターは幻影の書、オラクル・ナイトに引き続いてこの書を執筆している。

ここまで、書き進んで思い出した、病み上がり、ブルックリンに住み、散歩の途中、文房具店で青いノートを購入、ノートにオラクル・ナイト(神託の夜)を書き始めるのが前作の「オラクル・ナイト」。今回もまた同じようにブルックリン散歩から始まるが、違うのは立ち寄ったのは屋根裏部屋と称する古本屋なのだ。そこで出くわすのが、ネイサンの甥のトム。物語はこのトムを中心に展開されるが、ブルックリン・フォリーズはあくまでもブルックリンの街とそこに住まう人々が主役だろう。この物語の街の人々は、この物語が終わった直後、イーストリバー対岸のロワーマンハッタンでのビルの崩落をどんな思いで眺めたのであろうか。そして読後、勝手に得心した。オースターの書く愚行のブルックリンはアメリカそのもののことなのだと。

ブッシュがゴアに勝ったのは2000年の大統領選。彼の当選でアメリカが失ったものはすこぶる大きい。その40年前のケネディ暗殺から始まるアメリカの愚行、それは戦後のアメリカを支配してきたニューディール連合の亀裂による南部白人層の衰退。その後、ニクソン、カーターと左右に揺れるが、レーガンの80年代以降の社会問題への対処はすべて新自由主義による市場ベースが常識となる。その後の民主党の大統領クリントンは、天安門の不問を続ける中国を最恵国対偶から外し牽制するが、そこからの人とモノの流れを妨げるものはなにもなくアメリカの沈滞は進行する。そして、ブッシュだ。彼の責任とは言わないが、生まれたのはテロと難民、グローバリズムは新たな生き甲斐を生み出すことなく、ポピュリズムの波を高めていくのみとなる。2016年はトランプが勝ったのではない、クリントンが負けだのだ。そんな話しをよくネットで読む。オバマは様々に健闘したが、北部白人層の衰退に見舞われ、アメリカ経済の現状維持にのみ汲々となりチェンジが叶わず退陣した。そしてトランプ、クリントンにはメッセージらしいメッセージがどこにも無く、彼女は敗れるべくして敗れた。この先、アメリカは世界はどこへ向かうか、オースターの書くフォリーズは、今後も留まるところは無いのかもしれない。

歴史的なブルックリンの建築であるブラウンストーン造りのアパートメントを住処としたネイサン・グラス、彼はプロスペクト公園に近いファーストストリートに住むことになる。かってネイサンが住んだ60年代後半のブルックリンのこの界隈はまだ生き延びるに必死の移民やブルーカラーの家族が住む、むさ苦しいくたびれた町だった。しかし、今は、「ブルックリンに落ち着くという選択に完全に満足しているのだ。長年郊外で暮らしたものの、都会暮らしが性に合っていることを感じるし、近所にも愛着が湧いてきた。白、茶、黒のまざりあいが刻々変化し、外国訛りが何層ものコーラスを奏で、子供たちがいて、木々があって、懸命に働く中流階級の家庭があって、レズビアンのカップルがいて、韓国系の食料品店があって、白い衣に身を包んだ長いあごひげのインド人聖者が道ですれ違うたび一礼してくれて、小人がいて障害者がいて、老いた年金受給者がゆっくり歩いていて、教会の鐘が鳴って犬が一万匹いて、孤独で家のないくず拾い人たちがショッピングカートを押して並木道を歩き空壜を探してゴミ箱を漁っている街。」(p190)

7番街の古本屋で偶然出くわしたトム。トムの雇い主である本屋の店主は同性愛者のハリー、同じ通りの馴染みの昼食の店はコズミック・ダイナー、そこにはネイサンのお気に入り、素敵なプエルトリコ系の娘マリーナがいる。トムはネイサンの妹の息子、コーネル大学で博士論文までチャレンジしたが、挫折し行方知らずとなり、タクシードライバーとなり糊口しのいでいた。トムを拾った同性愛者ハリーは様々な幸運と不運に見舞われるが、審美眼も商才もある優しい人間。キャロル・ストリートのブラッド・ストーン造りの家に住まうナンシー・マズッケリー。彼女はトム同世代であり、彼の憧れのブルックリンの女王、しかし、彼は北部バーモントに住まう教師のハニーと結婚する。変わりにうまくやるのがネイサン・グラス。彼はハニーの母と老いらくの恋を実らせ、ファースト・ストリートとキャロル・ストリートのブラッド・ストーン造りの家を行ったり来たりする事になる。
・・・
ちょっと、書きすぎだ、切りがない。次のポール・オースターを楽しみに、おやすみなさい。
20170208 at Ichigaya

2017年2月4日土曜日

「そら」があっても「ま」がない話

吉田篤弘さんの「モナリザの背中」を読んでいた。

東京生まれ60年あまり、この街に住み続けた我が身にとって納得のコメントだ。
右肩上がりで、懸命に変わってきたこの街は便利で美しくなったが、失ったものもたくさんある。

新宿も渋谷も若くて便利で、とても可愛い。
しかし、いつも騒がしく、どこか単調。

視覚も味覚も驚きはなく、驚かされるのは時たま全開となる聴覚、ただただ疲れるだけの時と場所にすぎない。
とは言え、漸く掴んだ自由な空間と時間、いまさら趣味人を気取って、田舎巡りや、海釣り、野鳥探しを興ずる気がない我が身、結局、いつも銀座うらか、有楽町界隈を徘徊している。

「地下鉄を日比谷駅で下車して地上にでないまま有楽町の方へあてどなく歩く。
名も知らぬ古ビルへ迷い込んで、そのまま地下街を歩き回る時間。
都心の地下にこうした快い空疎な時間がひんやり残されている。
方角も分からず、ただ漠然と地下通路をさまよう。
灰色の壁ばかりが続く無愛想な地下通路に紛れ込み、もしや、このまま地上に出られなくなるのでは、とおびやかされる。
名付けたいのは空間ではなく時間。
・・・
年をとると時間とか空間とか、過去とか未来とかそんなものなくなってくる。失われる。
時はある、まだ、そこにある。時計が回っているから。空だって見上げればそこにある。だが、時やら空やらが持っていた「間」がない。間とは何かはともかく、時間は時になり、空間は空になった。」(モナリザの背中)

渋谷の街に出て気がつくことは、そこで展開されている風景はテレビで観るコマーシャルや情報と同じであって、人の営みではない、事件は時々見るが出来事が見えてこない。 

都市が消えた、見えない、カタチがない、文化としての人間的営みがどこにもない。 

空間がないと言うことは、人間としての営みが見えないと言うことだ。

これは大変なこと、そこでは誰も生きてはいないという事なんだ。 

建築とは意味のないところに意味を生み出す装置を作ることにある。

建築から生み出される都市空間もまた同じ。 

生きている現実的風景から何ら意味する人間の営みを読み取ることができないとするならば、それは人間的風景の喪失。

「そら」はあるが「ま」は無い、空間がない。

 ここで言う空間とは意味のないところに、意味を与えられた場を意味している。 

大昔から建築は空間を生み出す装置として造られてきた。

2017/02/04 12:08


2017年2月3日金曜日

風景としての都市

ヨーロッパ社会はイディアやコスモロジーを具現化した都市にささえられていた。人々は都市を生み出す「建築」を詩や文学と見立て、人間としての生き方(ライフスタイル)のあるべき舞台としてかたちにしている。それが西欧の歴史文化の総体と言って良い。

19世紀という産業市民社会においては、観念としての理想都市は日常生活の場として風景化されていく。しかし、風景としての都市もまた沢山の市民文学を生み出した。韻文、散文に関わらず、市民社会のライフスタイルは視覚化されていく。そんな19世紀の都市の姿をベンヤミンはパサージュ論の中に収集した。ここでいう風景とは写生された自然ではなく、人間の風景。祝祭の持つ共同体・集団性とは異なる個人的世界の集合、人間の持つ夢想と欲望の弁証法によって形づくられた都市。

21世紀はさらに細分化した個人主義。グローバリズムの世界にあって、表象としての都市は可能だろうか?都市はどのようかたちづくられるのだろうか。見えない都市が今、いろいろのところで取り沙汰されている。