2017年8月1日火曜日

建築の変容


現代社会はデザインの時代、その言葉は多様だが、デザインの本来の目的は「人間と社会の開発」、その役割は「人間と世界、人間と人間の関係を調整する」ことにある。従って建築は古来からこの問題に関わってきた。では具体的にどのようにデザインしてきたのか、当然ながら時代の変容に応じ、人間と世界の関係は変わっていく。

デザインの変容(建築の持つ意味の変容)とは「関係構造の変化」を問うことになる。現代建築はもはや技術や芸術の統合者ではなくなったが、建築は人々の生活を豊かに心地よく、美しいものにするためのものであることは変わらない。人間と世界の関係構造が変化のなかの建築デザインの変化、その意味の変容を概観する。

文化史は建築術・印刷術・電悩術の歴史と捉えられる、あるいはデザインの変容は、この三つの「術」の歴史でもある。

前3000年以前~狩猟採集期あるいは前文明期、ここでは住処はあっても建築は存在しない。
前3000年~紀元1500年の4500年間が「建築術」の時代、あるいは農業文明期と見なしうる。つまり、建築の誕生期=コスモロジーとしての建築の時代。
1500年~2000年が「印刷術」の時代、あるいは科学文明期、それは近代建築の時代であり、建築はコスモロジーからランドスケープに変容する。
2000年以降が「電悩術」の時代、情報文明期あるいは前代を工業文明時代と呼べば生命または環境文明時代だ。
  
建築術・印刷術・電脳術に置き換えて、建築の役割を整理してみる。

1)建築術の時代
コスモロジーにより人間は世界を把握する。
建築は体験することによってはじめて存在した。
世界認識を得ることは建築体験をすること、すなわち建築(情報・装置)は体験と一致していた。
建築は自然空間に実体化されたもの、建築空間は人間が人間として生きる空間(芸術空間)。
大地から飛翔した人間は建築をメディアとして神(自然)との関係構築をはかった 。
ギリシャからローマそして中世ヨーロッパ社会は農業の時代・建築術の時代だ。
建築は最大のマルチメディア、同時に建築は世界認識の方法を具体化するメッセージでもあった。
建築は世界を認識するメディア=「世界書物」であり、劇場は人間世界を実感する「世界劇場」。
建築は内在化した知を喚起する装置(ディスクドライブ=記憶術)でもある。
建築はいつでも誰でもアクセス可能な記憶装置。
ギリシャの都市は街全体がメディアシステム、情報交換、情報発信装置。
パルテノン神殿は神との情報交換の場、情報センターとしての役割を担った。
世界認識を得ることは建築体験をすること、すなわち建築(情報・装置)は体験と一致していた。
建築は観るものではなく、体験することによってはじめて存在した。
人間は劇場空間を通し、自分自身がいま世界の何処にいるか、広大の宇宙の何処にいるのかを知ろうとした。
あるいは劇場空間を通し人間は、自分自身の拠って立つ場所を意味づけた(言語構築した=概念化した)。
その場所とは世界の中心(聖地)との関連を持った一義的な場所であり、象徴的世界像に意味づけられた場所でもある 。=世界劇場

2)印刷術の時代
コスモロジーの解体、記号化、視覚化、概念化によって世界を把握する。
ルネッサンス=都市の時代であり、印刷術が主なるメディアとなる。
15世紀の印刷術を含むコミュニケーション手段の発達が、建築を諸技術、芸術の統合者の役割から放擲され建築は解体された。
建築は「世界書物」の役割を「書物」に譲る。
建築は実用的な建物、付加的メッセージのためのメディアとなる。
建築体験は世界認識のための所作ではなく、建築と体験は分離する。
分離された建築は建物となり、現世的快楽のための道具、あるいは世俗的価値を象徴するメディアとなる。
キリスト教的世界観が揺らいだルネッサンス期、画家と建築家は透視画法を駆使し賢明に新しい空間(人間が人間として生きる空間)を模索した。
レオナルドの時代、美術空間は人間が生きる空間として明確に存在していた、決して装飾品ではなかった。
象徴論的世界像に代わり記号論的あるいは絵画論的世界像が人間と世界との関係を取り結すび始めた。
この新たな世界像は印刷術の発明というメディア改革を契機として登場する、と同時に透視画法による世界像といえる。
透視画法の持つ記号性、抽象性、視覚性は従来の体験的世界観を解体し、視覚的世界感。
世界観はコスモロジーからランドスケープへの変容する。=風景としての建築
風景化した世界の中での重要な問題は、神(自然)と人間という絶対的関係ではなく、人間と人間の関係、人間社会の秩序化が最も重要な問題となる。
その時代にあって劇場は人間と人間の関係の構築の場であり、人間的社会構造の把握の場であり、人間と人間の社交の場。
印刷術の時代はオペラと劇場の時代でもある。
 
3)電脳術の時代
環境文明による世界の統合化がテーマとなる。
19世紀の情報環境の成立により、人々は世界を知の構成と編集により知り得た。
しかし、情報から得られるその世界は人間が生きる「世界」ではなく、世界のシュミレーションあるいは世界をめぐる複雑さの把握。
 1960年代は情報化社会の始まり=情報時代(地球共生時代・生命文化時代)・電脳術
この時代はニューメディアによる情報がこれまでになく人々の生活に浸透し始める。
広告、量産品、写真、テレビなどのマスメディアのイコンが巷に氾濫し、社会は産業化から情報化へ変換し始めた。
アーキグラムー>インスタントシティー  /ビートルズー>イエローサブマリーン
実体的な建築空間より、可変的なイメージ空間の方がリアリティーを持つのだろうか。
プランニングや建築構造の問題ではなく、エクィップメント(設備)とパフォーマンス(性能)の問題=形より力、パフォーマンスが建築の役割となる。
バロック都市は建築によってインテリア化されたが、現代都市は建物の中、インテリア空間として装置化されている。=風景としての世界観の変化と継続。

2017年7月30日日曜日

都市革命

「特別の空間」とは、あるがままの自然空間の中に人間が生み出した建築空間、人間により構築された想像的世界だ。その始まりは「大地からの飛翔」、広大な荒野に水平な床を設え、垂直な柱を建て、時に天との間に覆いをかけることだった。そこは日常世界を生きる住処とは異なり共に生きる人間のための世界。物理的生存の場というより、別種の人間的世界として作られた。

「都市」の始まりもまた自然との決別にあった。都市建設を支えるものは、集団による効率化にあるのではなく、人間的世界を確保することにある。文明化された人間の象徴として彼らは複雑で入り組んだ構築物による都市を持つことで、日常的な自然とは一線を画したハレの場を確保した。
都市は非日常のハレの場、祭祀が中心となる祝祭空間から始まっている。祝祭はテンポラリーだが神と交流する場。日本での祝祭は神が降臨する場をヒモロギと称し、取り壊し可能の一時的装置によって「特別の空間」を創出している。しかし、ヨーロッパでは恒久的な「建築」を作ることによって、祝祭空間を「都市」として変容していく。

新石器革命、それは人間と自然との基本的な関係の変化を意味する。生活が狩猟のみではなく、定地的な食料生産へと移行していく時、人間的世界の境界を明確に設置し、モニュメントも築き、エンクロージャーを生み出していく。エンクロージャーとしての村落は食料生産を活発化し、交易という組織的合理化や潅漑という技術的効率化を生み、多くの余剰を生みだす役割を果たしてきた。
しかし、それが都市のすべてであるなら都市革命は存在せず、新石器革命のみが洗練され、村落は活発化するが都市は必要とされなかったであろう。人間として生きることを自覚した人間が最も必要としたもの、それは生き抜くための食料ではなく、共に生きる人間だったのだ。

都市革命の本質は「都市」を村落から切り離し、「人間と人間の関係」を意識的に生み出すことにある。共に生きる人間にとって、社交あるいはコミュニケーションの場は不可欠だ。建築と都市は文明が実体化したカタチに他ならない。つまり、自然空間であるあるがままの世界にカタチとして実体化された想像的世界。それは箱でもモノでもなく、情報あるいは言葉のような世界。建築と都市は「人間が人間として生きる世界」というメッセージの形象化にほかならない。

rif:「都市の文化」ルイス・マンフォード・鹿島出版会
都市を村落から分別させるものは何か、あるいは村落の消極的な農業体制を、都市の積極的な制度に変えた原因は何か。
人口規模や経済資源の拡大ばかりでなく、もっと動的な原因は人間どうしのコミュニケションや交歓拡大への要求である狩りから農業への変化による人口増加が都市化を促し、通商路の拡大と職業の多様化がそれを助長した。しかしその要因は経済的視点にのみ求めるべきではない。都市は何よりも集団的人間の生活の現れであり、合目的的な社会的複合体なのだから。

2017年7月28日金曜日

建築は「特別の空間」

人間の歴史は段階的ではあるが、自然から人間をいかに開放するかの闘いであったと考えられる。
人間は自然の脅威から身を守るだけでなく、動物とは異なる「人間としての生き方」も意識していたからだ。
自然と共にある人間が、自然そして動物との訣別を決意し、人間が人間として生きる「特別の空間」を必要とした。
そしてそのとき建築は始まった。

建築とは自然空間のなかに作り出された「特別の空間」を意味している。
その空間を人々が体験するとき、空間は想像力によって読み取られる、メタフジカルな空間だ。
「特別の空間」は個々人のものではなく共同体が必要とする集団的なもの。
建築とは共同体の誰もが体験する、現実世界に作られた虚構的、想像的世界なのだ。

建築の始まりはいつだろうか。「特別の空間」の必要が文明の始まり。
人々は生きるべき現実の世界とは別種に、人間として生きられる安定したコスモス、「あるはずの世界」を想像した。
建築によって生み出されたコスモスのなかで、人間は自然を神に置き換え、自らの生き方を模索した。

やがて人間は神による支配がなくても「人間が人間として生きるべき世界」を「あるべき世界」として構築している。
人間中心主義といわれるルネサンス期、人々はキリスト教とは距離を取り、新たなコスモスを建築化し、「特別の空間」を生み出してきた。

18世紀、人間は新しい哲学に支えられた科学文明により、自然が持つ現実的な脅威だけでなく、そこにある神的な力をも排除し、自然との分離を完成させた。
しかし、この段階になるともはや、人間は「特別な空間」としての建築を必要とすることなく、建築は想像的世界という役割を失っていく。

現在の我々は、人間は自然と一体であったことを痛烈に意識させられている。
自然との分離に成功はしたが「人間が人間として生きるべき世界」を見失い、その機械的環境の殺伐さに圧倒させられているからだ。

建築はもはや「あるはずの世界」でも「あるべき世界」でもない。
我々の建築的世界はメタフジカルな想像的世界とは決別し、現実的世界と一体化した「あるがままの世界」として立ち現われている。

rif:「感性の覚醒」中村雄二郎・岩波書店p108

現在われわれ人間は、自分たちが自然の一部であったことを、あらためて痛切に感じさせられてきている。この痛切さは一度自然から離れてしまったことによるものである。・・・・
すべてが自然であり人間がそのなかに包まれていたとき、人間が人間として明確に自覚されなかったように、自然は自然として人間から区別してとらえられることも、対象化してとらえられることもなかったのであった。・・・・
文明の発達は人間を自然の脅威から次第に解き放って行くとともに、人間を自然から引き離すことになった。そのような自然からの人間の解放は多くの段階を経て行われたが、もっとも決定的な段階を劃したのはやはり近代科学文明の成立であろう。

2017年7月26日水曜日

モダン・デザインの展開 ニコラウス・ペヴスナー

ヘーゲルの歴史主義あるいは弁証法的発展主義を下支えとしてきたモダニズムはミレニアルの建築をみる限り完全に破綻してしまったようだ。

そして、今、19世紀の建築家、著述家が再び注目されている。

記憶、出来事にオブセッションするロッシの建築からベンヤミンのパサージュ論が広く読まれているが、ベンヤミンはフロイトの精神分析やその後のシュールレアリスムとの関わりが強く、近代の理解には欠かせないのだろうが、ここからは前へは進めない。

しかし、建築もまた想像力が生み出す世界なら、今一度、世紀末に立ち戻ることは意味があろうと思い、ここのところ古い本の書棚を漁っている。

そして、引っ張り出したのは、ギーディオンでもバーンハムでもなくペヴスナーだった。

彼の二冊を読みながら実感したことは、建築は思想史にも美術史にも関わらない、建築の有り様にある、ということだ。

そして、彼が感情の魔術師と呼んだラスキンの言葉を載せていた。

建築の質は人間の質を示すもの、「おろかな者はおろかに、かしこい者は感受性豊かに、高潔な者は美しく、そして罪ぶかい者はいやしく、建てる。」

建築とは建物のうえに刻み込まれた「それ以外には何の必要もない、ある種の尊厳あるいは美の性格なのだ」

「われわれが建築とよぶものは、高貴なかたちをしたそれらを伴い、それらを適切な場所に配したものだけなのだ。高貴な芸術の力をもたないすべての建築は・・・単なる建物にすぎない。」

ペヴスナーは「ラスキンとヴィオレ・ル・デュク」の締めのページに書いている。
「19世紀絵画においては、進歩派と伝統派、受け入れらざる者と受け入れられた者との間に断絶があったことはよく知られている。けれど建築においては進歩派や新派はなかった。というのも、受け入れらざる建築というのは、存在しようがないからだ。・・・・・建築家は依頼主を持たなかったら、建築は存在しない。」
当然の事柄だが、ここに関わるペヴスナーもまた、建築は、美術とは全く別事とは考えられなかった。つまり、近代建築は決して、貴族的なルネサンス建築から離れることはなかったのだ。
やはり再び、アルベルティに戻る必要がある。
彼は同時代のマキャベリに似て、全く別種の建築を模索していたのだから。

2017年7月25日火曜日

プラハの墓地 ウンベルト・エーコ


偽文書づくりのシモニーニ(ユダヤ人嫌いの偽造遺言書公証人)とダッラ・ピッコラ神父(イエズス会)は同一人物なのか別人なのか。 
偽書と陰謀は歴史的事実の中に周到に紛れ混み、物語全体は巧みに重層化・多層化された19世紀を舞台にした壮大なサスペンス。
 かってル・カレのエスピオナージに膨大な読書時間を占領されたが、エーコはそれを凌駕する、画期的な知的エンターテイメントを描いてくれた。 
著者であるウンベルト・エーコはこの物語を2010年に発表している。  

ヴィクトル・ユーゴもジュリエット・ラメッシーヌ(後のアダン夫人)のサロンに登場する。
 もう高齢の彼は古代ローマ風の白衣を身にまとい、今や自分自身の記念碑と化している。 
19世紀末が現代の始まりとするならば、それはユダヤ人・フリーメイスン・イエズス会のおぞまし陰謀合戦により生み出されたと言えるようだ。 

本書でエーコが挑んだのは、いかにフィクションが危険なものとして在ったのかをフィクションの形式で書くという試みでもあった。 
それはあるはずのものだから、もしこの世に存在しないのであれば、あるようにしなければならない。 
そうした理念によって修正される歴史、そして成立してしまった偽の歴史を否定することの困難さを、まざまざと読者に見せつけてくれる。 

プラハのラビたちは、人文主義、フランス革命、アメリカ独立戦争が、キリスト教原理と諸国王の尊厳を損ない、ユダヤ人の世界征服を準備したことを指摘した。 
もちろんその計画実現のために、ユダヤ人は立派な看板すなわちフリーメイソンを作り上げなければならなかった。しかし!

あるがままの世界にあって、あるはずの世界を視覚化しなければならない近現代の建築家、その苦難は歴史的発展主義の中に消滅していく。

2017年7月23日日曜日

ユーパリノス=建築はだまり、語り、歌う



「建築はだまり、語り、歌う」はヴァレリーの「ユーパリノス」に書かれている言葉です。冥府にいるソクラテスはパイドロスとの対話の中で建築家ユーパリノスのつぎの言葉を聞き、「再び生きるなら建築家として生きたかった」と語っている。
「私の神殿は愛する対象が人を動かすように人を動かさねばならない」。
「町のむらがる建物の中で、あるものは黙し、あるものは語り、あるものは歌うということに気づきはしなかったか?」
「精神と肉体が見事に調和したときには、単に作品が出来上がるだけではなく私自身の建築が出来上がる」。
感覚的世界、形や外界という物質的世界、あるいは地上的美の世界を必要としなかったソクラテスにとってユーパリノスの言葉は大いなる驚きだった。
そこにはソクラテス自身が果たせなかった「観念と行為の応答」を成し得た人がいたからである。
「歌う建築」はヴァレリーが冥府にいる哲学者ソクラテスに生前成すべきことを、「ユーパリノス」を通じて伝えた。
そして、ソクラテスは言う「アンチ・ソクラテス、私の中には、周囲の事情からとうものにならなかった一人の建築家がいたのだ」と。

講義録をまとめるに当たっては「ユーパリノス」のこの言葉を表題にしたいと考えていた。誇大妄想、アナクロニックな試みではあるが、「建築の中の意味の世界」の散策、「建築を科学や芸術とは異なる視点からの面白さ」として講義してみたいと考えていたからだ。
優れた建築は、見る人に感覚的喜びだけではなく、想像的な楽しみを与えてくれる。
建築家の生み出す形態は動的役割や美しさを表現するばかりか、形態に付された表象は建築の体験者に、物語の世界に入り込むような楽しさを与えてくれる。

建築に物語のような意味を与えることはヨーロッパでは当たり前のことだった。
しかし、現在では建築は黙して語らない。
ヴァレリーが「ユーパリノス」を書いたのは1921年、第一次世界大戦直後のこと。
それはまさに西欧の精神の崩壊の時、建築は歌うどころか、科学と芸術の乖離のなか、建築はその集団的意味を失い、一言も発することがなくなった。
ヴァレリーは「ユーパリノス」を大図録「建築」の序文として書いている。
彼は「建築的調和は音楽的調和、建築は精神と肉体の調和から生み出されるもの」とみなし「建築はだまり、語り、歌う」と書いたのだ。

2017年7月21日金曜日

ロマン主義時代の音楽と建築


「ドラマとしてのオペラ」の中でカーマンは重要な指摘をしている。
 「オペラブッファが持つ音楽の連続性が劇的音楽の道を開いた。」
 18世紀の器楽曲が展開したソナタ形式を支えたのは調性だ。 
バロックの説明的展開に対し調性は機能的な展開を切り開き、葛藤・経過・興奮、絶え間ない変化を可能にしている。
 結果、器楽音楽はブッファを発展させ劇的連続性を生み出していく、とカーマンは考えている。 

18世紀まで、形式性の展開においては似たような方法をとってきた音楽と建築がその後、決定的に異なるのはこの連続性にあると考えられる。 
宗教曲からルネサンスそしてバロックへ、音楽は歌曲であり、オペラ誕生以降、その世界は音による絵画世界(視覚世界)だ。
従って、音楽と建築はその表現方法には大きな違いがない。
ロマン派以降、音楽はソナタ形式で調えられた、時間的に連続する器楽世界。
視覚的形式のみで展開せざるを得ない建築は不連続な行間をどう繋ぐかが問題となる。 
しかし、その方法が仮に機能主義・有用主義という倫理だけであったとするなら、近代建築は「失敗したロマン主義」ということになる。

 近代建築を批判し言語論を応用した建築もこの行間を繋ぐ方法とはならずポストモダニズム以降姿を消した。 しかし、まだ方法はあるはずだ。
ロースはラウムプラン、ロッシは記憶・連想をその糸口とし、シザは?スティーブンホールは? 建築のロマン主義を検討する意味 がここにある。 hiroyuki kato/iPhone

2017年7月14日金曜日

日生劇場の「オペラ・ノルマ」

日生劇場のオープニング(1963年10月)はベルリンオペラ・フィデリオだった。
客席から見上げると、天井は深い海の底から仰ぎ見る水面のよう。
太陽のひかりが差し込み、さざなみに揺れ、キラキラと輝いている。
初めて聴くベルリンの音楽と歌はどこまでも力強く、美しく、そこは水底か天上界での響き。
想像したこともない、架空いや虚構の世界に入り込んでしまった、という遠い思い出。
オペラと劇場はその日初めて知る、全くの異種の世界。
高校時代の日生劇場とフィデリオは、そんな劇場体験を残していた。
そして50年、その日からボクのオペラと建築がはじまり、今がある。

久し振りの日生劇場はオペラ・ノルマ。
まさか、東京でノルマの上演?
この3月、偶々、通りかかった日生劇場のピロティで見たボードはデヴイーアが歌うノルマ。
驚き、半信半疑、窓口で確かめると、マリエッラ・デヴイーアが7月の始め、この劇場でノルマを歌う。
東京でノルマを聴くなんて有り得ない。
ノルマを歌えるのは、いま世界で何人だろう。
YouTubeにはカラスのCasta divaはあるが、さすがに映像はない。
1974年、オランジュの古代ローマ劇場での伝説的公演はモンセラート・カバリエ。
その後、カラスやカバリエに並ぶ、「清らかな女神」のクリップは残念ながら見当たらない。
そしてこの日、あのデヴイーアがここ日比谷でノルマを歌う。

客席は2階の4列、全舞台が見渡せ、グラスも要らない。
1300席余りの日生劇場は日本で最も贅沢、最高のオペラ劇場と言って良い。
(オペラ・パレス=1800、サントリーホール=2000、東京文化会館=3000)
オペラは定時の午後2時、東京フィルを指揮するフランチェスコ・ランツィッロッタがオーケストラ・ピットに登場、真っ暗の場内に序曲が響き始まった。

舞台は粟国淳の演出によるドルイドの聖なる森の中のイルミンスルの大樹、そこはまるで円形の木造壁に囲まれた古代神殿の趣。
物語はこの地に駐屯するローマの将軍ポリオーネとイルミンスルの神託を聴く巫女、神官の娘であるノルマとの恋。
いやすでに、ポリオーネの恋人は若き見習い巫女、アダルジーザに移っていた。
ノルマはポリオーネとの間に二人の子どもまでもうけていたが、まだ何も知らない。
そして、駐屯するローマ軍の悪行に復讐しようとする父神官とガリア人の合唱。
やがて、ノルマが登場。
彼女はお猛る合唱を押さえ、イルミンスルの神託は、「戦ってはいけない、やがてローマは自ら滅ぶから」と歌い、「清らかな女神=Casta Dive」のアリアへと続く。

筋書きはもういいだろう。
デヴィーアは決して大柄なソプラノではないが、美しく力のある歌声を聖なる森に響かせる。
ポリオーネを歌う笛田博昭は素晴らしかった。
彼の力強いバリトンはオランジュのヴィッカーズに劣らず、終始朗々と響き渡る。
そして、このオペラの聴かせどころは二幕と三幕のアダルジーザとの二重唱。
メゾ・ソプラノを歌うラウラ・ポルヴェレッリは初めてだが、彼女もまたシエナ出身のイタリア人。
その声の柔らかさと大らかさは、インペリア出身のデヴィーアとすっかり馴染み、イタリア・ベルカントの素晴らしさを存分に響かせていた。

ベリーニのこのオペラ、やはりテーマは女性。
神託の巫女であり、母であり、禁断の恋をも辞さない、そして掟の定めに身を捧ぐノルマ。
女性の持つ、清らかさ、美しさ、母性愛、友情、そして恋。
オペラ大流行の19世紀に、ベリーニは何処までも美しい女性を追い続けたのではなかろうか。
それは男にとっては、憧れであれ、未触の世界、この劇場が表現する虚構世界に通底している。

PS.

『フィデリオ』
カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
クリスタ・ルートヴィヒ
ジェームズ・キング、ヨゼフ・グラインドル
グスタフ・ナイトリンガー

2017年7月6日木曜日

フーコーの振り子 ウンベルト・エーコ

陰謀(猟奇魔)に捕らわれることなく、カバラ(神秘主義)世界の歴史書を完成させようとするのはミラノ・ガラモン社の三人、ベルボ、ディオレッタレーヴィ、ガゾボン。
テンプル騎士団の研究者ガゾボンが語る物語は、編集部長ベルボがワードプロセッサ、アブラフィアに記録した多時間・多空間的世界と交錯し、多彩な想像的世界として展開される。

物語の始まりと終わりは、パリの国立工芸院(サン・マルタン・デ・シャン修道院)のフーコーの振り子にあるのだが、その全体は虚構を真実とし、真実を虚構化する壮大なミステリーと言って良いだろう。
テンプル騎士団、薔薇十字、フリーメーソン、聖杯伝説、ドルイド教、ケルト神話、さらに旧約聖書からキリスト教、ユダヤ教、イスラム教とヨーロッパのすべての精神世界が舞台となりミステリーは謎に謎が重なり迷宮へと入り込む。

唯心論が否定され、全ての思考あるいは想像を理性的唯物論にのみ帰結させなければならない近代にあっては、神話やオカルトはもはや感情の表出、ファンタジックなエンターテイメントとしてしか見なされていない。
しかし、近代社会の脆弱性、歴史認識の薄氷性が気になり始めたポストモダンの現代にあって、ヨーロッパの知性はかっての、あるいは別角度からの人間の思考・想像世界に大きく目を開こうとしている。

日常、全く触れることのないカバラ世界、前回は読み通す事が出来なかったが、今回はヨーロッパ最大の知性と言われるエーコが残してくれた、近現代への貴重な批評の書として読み続けせていただいた。

2017年6月21日水曜日

宇宙の謎を探る、LHCからILCへ

138億光年前のビッグバンにより宇宙が誕生した。しかし、宇宙望遠鏡を駆使してもその膨大な宇宙を観ることが出来るのはたった38万光年までと言われている。
その先の世界を観るためには、我々はビッグバンの爆発によって宇宙空間に飛び交った、様々な素粒子を掴まえなければならない。
超高エネルギー状態で無秩序に飛び交った様々な素粒子は、やがて宇宙が膨張し温度が下がると、まとまり始め物質を構成する。そして誕生したのが夜空の銀河であり、その一つの太陽系であり、 我々が住まう地球であり、地球上の全ての原子。我々人間自身もまた原子の塊に過ぎないのだから、人間もまたビッグバンに始まる素粒子の塊であり、星屑の一つに過ぎない。

宇宙のはじまりを知るビッグバン直後の高エネルギー状況を実験室に作り出す装置が「高エネルギー加速器=リトルバンを生み出す実験装置=LHC」。1980年代以降、LHCにより数多くの素粒子を発見された。その測定から宇宙の成り立ちや、素粒子の運動を支配する原理がわかりつつあるが、原理の理解は「標準理論」として纏められている。
しかし、理論で存在が予測されているが、なかなか発見されなかった粒子がある、ヒッグス粒子だ。この粒子の発見は2012年、この時からいよいよ、宇宙の解明が加速されたが、しかし、標準理論で説明出来るのはわずか5%に過ぎない。全宇宙の大半は見ることが出来ない謎の物質「ダークマター」と謎のエネルギー「ダークエネルギー」によってその大半は構成されているのだ。

そしていよいよヒッグス粒子や暗黒物質、暗黒エネルギーを捕まえる「国際リニアコライダー計画=ILC」が始まった。この実験装置を北上山中に作ろうというアインシュタインもコペルニクスもビックリするような計画。
ILCは全長50キロメートルの直線型加速器、可能な限りのエネルギーで電子と陽子を衝突させビッグバンを再現しようとする実験装置。
138億年前のビッグバンは物質の解明のみならず新たな「次元」、素粒子とは異なる複合粒子という新しい「階層」、あるいは単独宇宙に関わる我々だが、スカイウォーカーやダークベーダーが活躍する「複数宇宙」の存在が見えてくるかもしれない。どちらにしろ、人類史最大なワクワク計画といってよいだろう。

今日の早稲田大学井深大記念ホールでの講演は村山斉氏と鳥居祥二氏のお二人。どちらも超優秀な頭脳、話の内容は素人の私には難解だが、しかし、優秀なのは頭脳だけはない。話は各々一時間足らずだが、そのわかりやすさは驚くばかり、気持ちの良い、午後の時間を楽しませていただいた。
前者のお話は今やTVでもお馴染み、ユーモラスな解説で今日も巧みに我々を宇宙に引き込んでいく。ポイントは宇宙が冷え、結果、様々な物質・星・人間が生まれるのだが、その原理はエネルギーだけの問題ではなく、超特殊なヒッグス粒子により、熱い無秩序な宇宙がやがて秩序を持つところにもあるようだ。(聞き間違っていないかな、責任は村山氏ではなく、当然このわたし)
後者のお話はNASAの国際ステーション(ISS)での宇宙線観測するカロリメータ型宇宙電子線望遠鏡(CALET)とその観測データ。宇宙の高エネルギー現象の理解には宇宙線が最も重要。来月の国際会議には観測されたデータから重要な発見が発表されるかもしれない。

2017年6月16日金曜日

永遠のファシズム ウンベルト・エーコ

昨年の2月に亡くなったエーコを読み続けている。薔薇の名前は読みやすかったが、フーコーの振り子や前日島は途中で挫折していた。
最近になって、プラハの墓地が面白く、岩波がバウドリーノを文庫化していたので、今は虜になっている。
長らく気がつかなかったが、彼の本の面白さは人間の間のミステリーではなく、個人の中に巣くう陰謀にあるのかもしれない。
そして一昨日、共謀罪を強行裁決する国会を眼にし、「永遠のファシズム」の真実味をまのあたりにした。
何時の時代、何処にでも生きる、人間が持つファシズムの原形を永遠のファシズムとエーコは捉え、その形を次のように原ファシズムとして列記している。

1ー>伝統崇拝=知の発展はありえない、私たちのできることは解釈し続けることだけ。
2ー>伝統主義はモダニズムの拒絶を意味のうちに含む。
原ファシズムは非合理主義。
3ー>文化は批判的態度と同一視されるいかがわしいものとされる。
知的世界に対する猜疑心は、原ファシズムの兆候。
4ー>原ファシズムにとって、意見の対立は裏切り行為。
5ー>原ファシズムは人種差別主義。
6ー>原ファシズムは個人もしくは社会の欲求不満から発生する。
7ー>原ファシズムはその心性の根源に陰謀の妄想力を抱え込んでいる。
8ー>敵の力を客観的に把握する能力の欠如。
9ー>生のための闘争は存在せず、あるのは闘争の為の生。
平和主義は悪であって、敵とのなれ合いと見なされる。
10ー>原ファシズムは大衆エリート主義を標榜する。
11ー>原ファシズムは死(英雄)にあこがれ、死に急ぐ。
12ー>原ファシズムはマチズモの起源、英雄視は武器と戯れる。
13ー>原ファシズムは質的ポピュリスムに根ざしたもの。
個人は個人としての権利を持たない。
人間存在は量としては共通意志を持つことなどありえないのだが、原ファシズムは個人的意志を認めない。
14ー>原ファシズムは虚構を話す。

2017年6月12日月曜日

バウドリーノ ウンベルト・エーコ

自分は嘘つきだ、という男が話す12世紀の歴史物語。
歴史は現実なのか、見たものなのか、人の話しなのか。

聴き手は十字軍の巡礼者に蹂躙された都市、コンスタンチノープルの高官ニキタウス。
語り手はイタリア中部、ロンバルデイアに生まれたバウドリーノ。

彼は13歳で街を出て、ケルン、パリで学び、コンスタンチノープルからアルメニア、キリキアへ、そして聖地エルサレムではなく、今では空爆が絶えることのない砂漠を越える。

12人の旅の仲間とともにたどり着いたのは不可思議な言葉と体型を持つキリスト教者の地でもあり、一角獣とヒュパティアの住まう古代ギリシャ。

しかし、バウドリーノの旅は終わらない。
ロック鳥に救われ一度はコンスタンチノープルに戻るが、今度はたったひとりヒュパティアの地を目指す。

信じるべきは、歴史かもしれない!

学ぶべきは、宗教かもしれない!

夢みるものは、旅かもしれない!

2017年6月11日日曜日

カーセンの「ばらの騎士」

ロバート・カーセン演出の「ばらの騎士」を東劇で観た。
この5月のメトロポリタン劇場の映画版。
彼が演出するオペラは物語の解釈や舞台構成に独特の工夫があり、いつも興味深い。
かって見たバスティーユ版 「ホフマン物語」の面白さはブログにアップした。
(http://sadohara.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html)

今回メトで見たばらの騎士は最初、ザルツブルグで公開されたという。
物語を第一次大戦前のウィーンに設定し評判となり、昨年末はロンドンのロイヤルオペラハウス、そして今年、ニューヨークのメトロポリタンで上演された。
歌手は劇場ごとに異なるが、全て人気のある公演となっている。
カーセン演出のばらの騎士は物語を第一次大戦前に置き換えたところが大きなポイントで、このオペラはまさにその時代、1911年にリヒャルト・シュトラウスによって作曲されている。
つまり物語だけではなく、カーセンはこのオペラが生み出された時代そのものも演出上のテーマとしているのだ。

18世紀の頭の禿げた田舎貴族とウイーンの成り上がり市民の若き美しい娘の結婚を取り持つ「銀のばら」を元帥夫人が恋人、オクタヴィアンに持たせるオペラは(http://sadohara.blogspot.jp/2010/02/blog-post_70.html)
今日のカーセン版は20世紀の大戦前の軍人と武器商人の娘に置き換えられたドタバタ喜劇。
オペラは19世紀市民のエンターテイメントであることは間違いないが、その物語を20世紀の始めに置き換えたことにより、カーセンはこのオペラにある種の真実性を帯びさせたと言って良いのかもしれない。
シュトラウスがこのオペラの生み出した第一次大戦前はまさに近代の始まり、それは芸術の崩壊、いや「文明の没落=ショッペングラー」、あるいは「中心の喪失=ゼードルマイヤー」が書かれたようにヨーロッパ文明の危機が騒がれていた時代だ。
シュトラウス自身もワーグナー的芸術オペラを作るが、モーツァルトやロッシーニの持つ喜劇的エンターテイメント・オペラにも関心を持っていたのだ。

世紀末は建築デザインにとっても大きな過渡期だが、音楽の世界では、 時代を超える新しい音楽を作ろうとする作曲家はシェーンベルクを筆頭とし、調性原理を放棄し、三和音によって秩序づけられた音楽とは異なる、複雑で独創的な音楽を追求し始めている。

振り返れば、18世紀以前、音楽は娯楽であり芸術。音楽は教会や宮廷にあり上流階級の独占物、 民衆が自然発生的に関わる民族音楽とは異なっていた。
さらに、フランス革命以降、宮廷オペラは勃興した中産階級に急速に普及していく。
娘にピアノを習わせることが新興上級市民たちのステータス・シンボルともなっていく時代だ。
そして、19世紀には様々な音楽が大量に作られ、サロン音楽や沢山のオペラ、いわゆるクラシックだけでなく、現在のポピュラー音楽の原型も生み出される。
ロッシーニのオペラに敵意を示したワーグナー、彼のオペラ(楽劇)は通俗性を嫌い難解なエリート性を強調する。しかし、全ての市民がみなワーグナーに傾倒したわけでもなければ、ベルリオーズやブラームス、シューマンだけが芸術家であったわけではない。
サロメ、エレクトラ、ばらの騎士を作曲したシュトラウス、彼はまさにオペラが娯楽か芸術かばかりでなく、新たな音楽を如何に生み出すかに立たされていたのだ。

ワーグナーの楽劇に示される、歌とオーケストラが連続し交響楽風に奏でられるオペラの隆盛はモーツァルトやロッシーニ、ヴェルディが作曲したアリア、レスタティーボで繰り返される絵画的オペラとは大きく異なる。
加えて、リストの交響詩やシェーンベルクの無調音楽も作られ始めた1911年、オペラや建築デザインは20世紀に何が可能かを問われていた。

この曲はサロメ、エレクトラから数年の間をおき、満を持し作曲されている。
前二作はどちらかと言うとワーグナー風であり娯楽性は乏しい。
シュトラウスはどうしても、芸術であり娯楽であるオペラを生み出さなければならなかった。
前作と同じ脚本家ホフマンスタールと喧々囂々のすえ、ばらの騎士は完成する。そして当時の新聞には、このオペラは前作を超え、観劇のために専用列車が仕立てられるほどの大評判になったと書かれている。

カーセンの演出はこの辺りの状況を丸ごとばらの騎士の演出に込めている。その方法は先に、このオペラにある種の真実性をおびさせたと書いたが、その真実性とは、オペラはいつも額縁の中の虚構であるところに作られてきた、そして、シュトラウスはその方法を舞台形式だけでなく、作曲にも取り入れていた。
ばらの騎士は前二作とは異なり、幕ごとに大きく音楽的色彩を変えて作曲されたところが、シュトラウスの成功の理由だが、カーセンはその音楽的色彩による枠組みに拘り、わかりやすく演出した。

ばらの騎士は幕が開く始まり部分と、三幕の終わりに再登場する元帥夫人の場面の音楽だけが連続した交響詩風の構成として作曲されている。
それがまさに音楽による額縁であり、その額縁の中はモーツァルトのフィガロ風の喜劇、田舎貴族と新興商人のドタバタ仮面劇として作られている。
つまり、カーセンはシュトラウスとホフマンスタールが呻吟した、枠の内外という、新しいオペラの事実をものの見事に強調し、このオペラの演出したのだ。

三幕のドタバタの真っ只の中に何故、突然、元帥夫人が現れたかはよくわからない。
しかし、登場した彼女はドタバタを終わらせ、オックス男爵に貴族的品位を持ってお帰りなさいと窘める。
さらに、状況が掴めない男爵に女中のマリアンデルは、実はばらの騎士オクタヴィアン、ロフラーノ伯爵であると明かし、「ウィーン風の 仮面劇 ただ それだけのこと」と歌う。
やがて、オックス男爵も得心し、彼も上出来の 仮面劇 と認め、「いまはもう終わり!」と退出する

終幕の元帥夫人とオクタヴィアンとゾフィーの三重奏はいつも美しい。
その歌は伯爵であるオクタヴィアンと商人の娘ゾフィーの恋の歌だが、華やかな元帥夫人の恋の終わりの歌でもある。
あるいは、三重唱はまさに20世紀の始まりの歌。

この公演の主役の男爵、ゾフィーはドタバタの中に時代の狭間をも感じさせる演技と歌唱で感心したが、特に素晴らしく、印象的でありビックリさせられたのは元帥夫人のルネ・フレミングとオクタヴィアン(ロフラーノ伯爵)のエリーナ・ガランチャ。
彼女たちはこのカーセンの「ばら」を、共々の当たり役の終わりの出演と決めていたと幕間に明かした。
芸術の終焉か新しい近代の始まりかの狭間を明快に演出したカーセン・オペラを二人の名歌手は、新たな始まりのための最後のオペラと決めていたのだ。