2016年12月10日土曜日

タイプとしての建築論

建築デザインをタイプとして捉えるか、スタイルとして検討するのか。

デザインされた建築を通時的に捉え、建築された時代や文化との関係から、その建築の意味を読み取ろうとすることが一般的だが、それは美術史に連動した建築様式史。スタイルとしての建築史と言える。

一方、建築をカタチづくるタイプに関心を持ち、建築デザインを建築の内側から共時的に検討するという方法もある。
タイプとしての建築史は美術様式史とは関わらず、建築の内側からそのデザインの意味を読み取ろうとするもの。

Prof.Fの西洋建築史講義はタイプとしての建築の検討。その内容を十講に整理し、自立した建築のカタチの意味を読み取いている。
しかし、残念ながらこの書はまだ未出版、貴重な大著であり、一日も早い出版が待たれる。

2016年10月25日火曜日

電脳術時代の思考

Innovation Nippon2016 セミナーに参加した。
テーマは「米国大統領選挙にみるiTと選挙のイノベーション」。
各論の感想はともかく、その聴衆としての全体的印象は以下のようなもの。
ITメディアによる情報時代の選挙は「共感と感情」が優先される。
メディアにみる電脳術の時代の選挙は従来の様相をことごとく変えて行くに違いない。
しかし、ここでの問題は、メディアとコンテンツの関係、このテーマはもちろん選挙だけに関わることではない。

選挙では当然だが、電脳術時代の多くの事柄について、思考停止したコンテンツの氾濫はポピュリズムの風を巻き起こすばかりとなってしまうのだろうか。
ルネサンスの印刷術時代のペーパー情報の役割は文学・哲学・芸術を一般化したことにある。
そして18世紀、市民社会の思考が近代社会を創生した。
聖(宗教)俗(貴族)にある権力者の特権的情報と思考が大衆化され民主主義が生まれたのだ。
しかし現代社会、その基盤である民主主義が形骸化し歪み始めている。
従って、電脳術時代の選挙をテーマとするなら、再度「思考の大衆化」がテーマとなる。
一方、中立を強調する既存のマスメディアではすでに、新時代のメディアの役割を失っている。
今、問われるのは「電脳術時代の思考」と言うことのようだ。

2016年8月29日月曜日

都市イメージを描く「ルル」

舞台空間でのオペラではなく、絵画空間の中のオペラという印象。初めて聴くベルクの十二音音楽オペラだが、歌もオーケストラも19世紀の音楽と大きく隔たるものではなく、決して難解でも違和感もない。音列、リズムは新鮮で、ダンスや絵画的映像ともシームレス呼応しとても気持ちが良い。

舞台はベルリンの踊り子ルルがベルリンで殺人の罪で捕まり、脱獄しパリに逃れるが、娼婦になり、切り裂きジャックに殺されるというドラマ。
近代都市に投げ込まれ、男性たちに翻弄され生きざるを得ない女性の物語だが、その方法はルルを鏡面とするそのウチと外。ベルリンとパリという二つの都市、どちらを真としても良いのだが、その反転の偽も同じ歌手に演じさせ、ルルの享楽を描いているところが面白い。

頽廃と堕落の近代は男性主導の都市イメージ。18世紀のロココ的文化サロン、室内空間によって展開された女性尊重の時代に比べ、19世紀は男性的都市時代の始まりと言って良いのかもしれない。
資本主義が徹底され、どこの都市も経済機能主義によって逞しく拡大するがその内実は頽廃と堕落。
しかし、オペラにはまだ、汚染されたモダニズムとは異なり、人間都市の持つアンニュイな居心地の良さも表現されていて面白い。

20世紀初め、ドイツのある町。町で出会った少女ルルを連れ帰って育てたシェーン博士は、彼女に惹かれながらも官僚の令嬢と婚約し、ルルは医者のゴル博士に嫁がされる。
男という男を魅了するルルは若き画家と浮気をし、その現場をゴル博士に目撃させ、医者はあっけなく悶死する。
やがてルルはシェーン博士の妻の座を手に入れるが、相変わらず、男女を問わず奔放な関係を続ける。逆上したシェーン博士はルルにピストルを突きつける。

結果は逆に博士はルルに殺されてしまう。投獄されたルルは同性愛の友、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の手引きで脱獄しパリに逃げるが、この都市ではもはや、ルルと令嬢は体を売るしか生きる道は残されていなかった・・・。

指揮:ローター・ケーニクス 
演出:ウィリアム・ケントリッジ
出演:マルリース・ペーターセン(ルル)、スーザン・グラハム(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、
ヨハン・ロイター(シェーン博士/切り裂きジャック)、
ダニエル・ブレンナ(アルヴァ)、
マルティン・ウィンクラー(力技師)
ポール・グローヴス(画家/黒人)
フランツ・グルントへーバー(シゴルヒ)

2016年8月27日土曜日

ミケランジェロ展

ミケランジェロ建築を中心とした展覧会。
サン・ロレンツォ聖堂のファサードや新聖具室、ラウレンツィアーナ図書館、ファルネーゼ宮殿とサン・ピエトロ大聖堂、さらにサン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーナ聖堂案、ポルタ・ピア等々。ミケランジェロの時代の多くの建築家たちを支えていたのはローマ時代のヴィトルヴィウス建築十書。しかし、絵画・彫刻の制作で忙しいミケランジェロには、この書を読む時間はほとんどなかったと言われている。そのことがかえって良かったのではないだろうか、彼のテーマはギリシャの人文主義による観念ではなく、感情に訴える聖母マリアによる救済。結果から見ると、建築作品は当時の枠組みには捕らわれない自由なロマン主義的な構成と言って良い。

美術家であるミケランジェロの関心は建築ではなく、装飾にあった。数多く残された建築の為のスケッチはそのその悉くが建築装飾としてのかたちの模索かそのディテール図集。絵画や彫刻と同じ様に、ミケランジェロのスケッチでは建築というより、その柱や窓、ペディメントや持ち送りのかたちが入念に素描されている。つまり、彼の関心は現在の建築に似て、建築がどんな世界を生み出すかではなく、その建築はどう見えるかにあった。

建築はいつの時代でも、土台、柱、壁、屋根、開口部という構造的エレメントが生み出す世界、それは物語でもあるのだが、彼の建築は本来の力学にも関わらない、見掛けの柱、装飾の為の壁、視覚に驚きと変化を生み出す特徴を持った窓や持ち送りを生み出している。16世紀半ばのローマ拷略以来、絵画も建築も最早、秩序やメッセージを重んじるルネサンスではなく、個人の感情に関わるマニエリスムの時代へと向かっている。そこでの作品は理念に支えられる人間世界とは異なり、現代に近い、個人的感情世界に関わっている。
従って、ミケランジェロの建築は彼の絵画・彫刻と同様に時代を先取りしていたといえるようだ。しかし、黄昏のルネサンスと言われるこの時代、多くの建築家はまだ柱、壁、屋根という構築的要素を言語として、いかなる世界を生み出すかに拘っていたことにも留意しなければならない。その 一人は遅れて登場したヴィチェンツァのルネサンス人、パッラーディオだ。

ミケランジェロの建築に、当初日本では白樺派の芸術家たちが多くの関心を払っていたことはとても興味深い。何故なら戦前戦後、日本では建築は建設技術と美術建築、二様に分離され取り入れられ研究されてきたからだ。ミケランジェロの建築は西洋のロマン主義、その美術、文学、音楽とともに称揚されてきたのであって、技術としての建築ではない。

2016年8月17日水曜日

その姿の消し方 堀江敏幸

古物市で見つけた一枚の絵はがきから始まる、フランスの片田舎の人々との関わり。
堀江さんの端正な文章に乗り、見知らぬ空間と時間をたゆたう、緩やかな読書体験。
「河岸忘日抄」以来、彼の言葉の世界のファンだが、この小説は幾様にも詠み解ける詩文集と言って良いのではないだろうか。

その姿の消し方、そのことばの消し方、ひとの消え方、街の消え方、建物の消え方。
その姿とはもぐらのこと、小説はもぐら探し、そう、消えた世界を探す探偵小説だ。
そんな冗談を言いたくなるほどこの小説、いや、紀行、堀江敏幸ワールドは面白い。
もぐらだけではない鯨もピノキオも出てくる。
全く分野は異なるが、ル・カレやポール・オースターの世界に共通するミステリーがある。

しかし、これは堀江敏幸の作品。
舞台はロンドン、ニューヨークではなくパリ、そして、フランス西南部の小さな街。
ボクはいつも堀江さんの作品を、彼女が登場しない恋愛小説だと思って読んでいる。
田舎の、郊外の、都市の、街中の片隅に生きる、繊細で優しい何処にでも居る人々。

2016年8月14日日曜日

オラクル・ナイト ポール・オースター

小説の中で複数の物語が重なりあって展開されるのはオースターの特徴、
さらに物語はみな、時と場所が明快に描かれる。
初期作品、ニューヨーク三部作同様、オラクル・ナイトはニューヨーク、しかし、今回はマンハッタンだけでなく、イーストリバーを渡ったブルックリンも舞台となっている。

物語の重層化は、我々の脳内がいつも錯綜しているのだから、その反映と言えるかもしれない。
現実の出来事はいつも時間・空間はキッチリと枠どられているのだから、
彼の物語に嘘はない。
しかし、その展開は入り組んでいる。
虚実と時系列をしっかり見極めないと、迷路に入り込む。
いや、このドン・キホーテ的蒙昧感がオースター小説の魅力かもしれない。
オラクル・ナイトはいつもよりメインストーリーは骨太であり、「ガラスの街」が伏線となって関わっている。
物語が断ち切れた、かっての赤いノートは青いノートに変わり、
オラクル・ナイトは展開される。

長い病みから退院した主人公シドニー・オアはブルックリン・ハイツに近い自宅から久しぶりの散歩に出掛け、
立ち寄った文房具店でポルトガル製の青いノートを見つける。
仕事部屋に戻った彼は友人ジョン・トラウズと二週間ばかり前に話した、
自分の人生から忽然と姿を消す男をめぐる奇妙な寓話のあらがきを書き始める。
あらがきのはじまりは、青いノートの小説の中の主人公、ニューヨークの出版社の編集者ニック・ボウエンの机に届けられた「オラクル・ナイト」(神託の夜)。
さて、
青いノートの中のニック・ボウエンはどうなるか?
友人ジョン・トラウズは?
トラウズの息子ジェイコブは?
妊娠しているシドニーの妻グレイスは?
青いノートを売ったM.Rチャンは?

2016年8月10日水曜日

ガラスの街 ポール・オースター

真夜中の間違い電話から始まる友人も妻子も持たない探偵作家のニューヨーク彷徨の物語。
中世の多声音楽に似て、様々な旋律が絡まる小説。「エレガントな前衛」と言われたポール・オースターの初期の「ガラスの街」はまさに多旋律であり、モダニズムの持つユートピアが知的透明さを持って崩壊していく。
彼の小説はどれも、一つの小説の中に幾つかの物語が流れるように折り重なっている。ロマネスク音楽はグレゴリオ聖歌がベースとなる多声歌曲だが、「ガラスの街」ではエデンの楽園とバベルの塔が主旋律となり、メタフィジカルなニューヨークが詳細に描かれる。

「ガラスの街」の主人公は作家であるダニエル・クイン。彼はウィリアム・ウィルソンというペンネームでマックス・ワークを主人公とする探偵小説を書いている。そんなクインの部屋に真夜中、探偵のポール・オースターさんですか、という電話が掛かってくる。間違い電話は毎夜繰り返され、三度目の夜、クインはポール・オースターとなり電話を受ける。
物語はこうして始まるが、その内容は間違い電話を掛けてきたヴァージニア・スティルマンと彼女の夫ピーターの依頼によりピーターの父親、昔コロンビア大学の教授であった、息子と同名のピーター・スティルマンを尾行することにあった。
そして物語の終わりだが、ピーター・スティルマンが消え、神託となっていた話し中の電話トーンに従い依頼者であるスティルマン夫妻をビル街の隙間、裏側の路地から2ヶ月あまり見守り続けるが、彼らの世界であった二人のアパートメントの白い透明なユートピアも消える。空っぽになったユートピアの部屋の真ん中にはクインの尾行記録である赤いノートだけが残された。

物語は神託の導きなのか、言葉によって生きる人間の運命にあるのか、あるいは渡らなければならない橋なのか、ボードレールのいうどこでもいい、この世界の外に出ることなのか。
オースターの物語はいつも虚構と虚構が重層するような構成だが、その内容のすべては正確な場所と時間に枠どられたリアリティある現実世界のなかで展開される。
「ガラスの街」の舞台はニューヨーク、その大半はセントラルパークとコロンビア大学周辺。日時、時間、地名、通り名、建物名はすべて克明に、あるがままの日常として描がかれている。しかし、その世界は形のない、透明なガラスという像のみが浮遊するメタフィジカルな「ガラスの街」。その街はドン・キホーテであるピーター・スティルマンが朝早く彷徨し、鍵のかかった部屋の鍵を探した街。

オースターは現代社会の孤独・寂寥・消滅・空白を描く作家だが、読み終わるといつも「だまされても面白いならだまされても良い。」と彼のドン・キホーテ論の一部分が思い出される。透明で乾いている、抽象的だが、決して難しくはない。
この小説は最も初期、彼を作家として世に出したニューヨーク三部作のひとつ。
まさに、彼の小説を貫くもの、ドン・キホーテはこの初期作品を縁の下からしっかり支えている。

2016年6月15日水曜日

虚構としての建築

建築は虚構を物語る言葉を持っている。かっては絵画彫刻音楽は建築のなかに統合されていた。建築は決して技術・工学的世界にのみにあったわけではなく、また、個人的な趣味としての美的世界や感性世界に留まるものでもなかった。建築は諸芸術をインテグレーし集団的知性に関わる人間的成果でもあったのです。

参考・中心の喪失・ゼドルマイヤー
建築のもとに統合化された芸術は中心となる目標の為に貢献した。

中心となる目標とはなんだろう。この書は美学だけをテーマとしてはいるわけではない。安易だがここでは「建築は人間が人間として生きる特別な空間」と捉えてみたい。かって、自然とは一体であった人間が、自然の脅威から身を守るだけではなく、動物とは異なる生き方を意識した時、人間は「特別な空間」を必要とした。人々は建築することで人間的エンクロージャーを生み出す必要があった。

想像し計画することから生まれる建築は音楽あるいは美術と同じように「虚構の世界」を生み出すことが可能。建築が生み出す虚構の世界、それは「特別な空間」、建築を構成する構築要素、建築のカタチは生きるべき世界を形象していた。

建築はまた「人間と世界」、「人間と人間」との関係を調整する役割も持っている。古代の神々や中世の神との関係、人間中心主義のコスモス(宇宙あるいは秩序)、啓蒙主義の自然や哲学的世界観との関係を物語り、人間と人間が交流する社交の空間をも生み出してきた。

2016年5月3日火曜日

都市とインテリア

最近の都市と建築、そのデザインはどこかイタリア・バロックに似て、外部空間の内部化、いや、内部空間の外部化ではないだろうか。

チェーン店が連続する商店街は最近ますますショッピングセンターのモールのような様相を呈ししつつある。その外部空間は色とりどりではあるが、どこの商店街もどことなく画一的な街路。その印象は駅のコンコースや大きなショッピングセンターのモールと変わらずインテリアデザイン化された街路なのだ。

都市を構成する新たな高層建築のデザインもまたしかり。様々なかたちで構成される建築は、デザインコンセプトが不明のまま、薄い石やガラスやパネルで被覆されるばかりでどことなく画一的。一方、単調なショッピングモールに時に、目立ちたがり屋のショップが奇抜なデザインで自己主張するように、新しさなどはどこにもなく、これが建築かと驚かされる奇抜な形態で一体感ある街路の雰囲気を乱している。

外部空間の内部化、内部空間の外部化は本来は手法の良し悪しではなく、方法の問題だ。キリスト教聖堂の内部空間である身廊はミケランジェロによりカンピドリオ広場のデザインコンセプトとなっている。この広場は内部空間が外部化され造られたもの。ベルニーニのサンビエトロ広場もまた屋根のない大聖堂の内陣として作られた。さらに、白と黒で塗り分けられた18世紀のノッリのローマ地図を見ると都市広場も街路も聖堂の内部空間もすべて白抜きで示される。バロック都市ローマは、建築を構成する壁や柱やアーチは内部と外部どちらも同じ形状でデザインされ、すべてが公共空間であることが示される。

最近の都市と建築のデザインは商業主義を勝ち抜くための差別化の手段。そこにはデザインの基盤となるテーマもコンセプトもあるのだろうが、商業主義と人間主義では方法が異なる。巨大モールや都市広場のインテリア化、あるいはインテリア空間の都市化・広場化の評価はまず、享受する我々がそのデザインのコンセプトが何であるかを読み取ることから始まる。デザイナーが何をかたり、何をメッセージしているか、そのコンセプトが示されないデザインは、仮に個人的には好みであったとしても評価の対象とはならない。

2016年3月12日土曜日

ハロルドが笑う その日まで

安物の家で安物の家具に囲まれ生活する、ポンコツ家族たちの物語り。
高級家具店の経営者ハロルドは低俗家具店IKEAの創業者を誘拐する、リアリティある喜劇的ファンタジー。
ボケた妻を失い自殺を企てる老夫、だめ夫を一人残し、子供を引き連れ実家に逃げるだめ母親、夢を追い男を連れ込むだめママから逃げ出す、ハートを胸ではなく腕に持つだめ娘。しかし、だめ人間たちはみな、心優しいどこにでもいる人々。そしてこの物語は、ユーモラスな批判精神を持った数少ない優れた映画だ。

2016年2月19日金曜日

バンクシー・ダズ・ニューヨーク

ドキュメント映画「バンクシー ・ダズ・ニューヨーク」は面白い。 
2013年10月という僅か一ヶ月間のニューヨークの出来事。
 後に謎のストリートアーティストと言われるバンクシーの活躍だ。 
彼は毎日一カ所づつ、倦怠と非活性、弛緩した街のあちこち、 夜間のうちに、誰に視られることなくスプレー画を描き続ける。 
バンクシーはその行為が罪であることは自覚している。 
しかし、ツィッターでは大評判。 
朝になり、発見された落書きは、スマホでキャプチャーされ、ネットで盛り上がり、やがて多くの人が集まりコミュニケーションする。 
その場所まさにリアルな祝祭の場に変容する。 
音楽や美術に支えられる古代ギリシャの祝祭は都市の活性化がその目的と見なされている。
 街をキャンバスにしたバンクーシーの行為はメッセージを持ち街を占拠する、まさに神の来訪と言って良いのかもしれない。
 しかし、マネーとセキュリティーが支配する現代都市に神は住めない。 
バンクシーは今、何処にいるのだろうか。

2016年2月5日金曜日

蜃気楼の舟

寡黙、引きずり歩く足音、 静かな鎮魂歌を聴いているよう時間の流れ。 
何かがあり、何かが起こり、何かを求め、どこかに行く、という映画ではない。 
無名な風景の中、無名な老人と若者が、何することもなく、ただ揺蕩っている。 
しかし、この映画は決して退屈ではない。
 丁寧に選び取られた幾つかの風景や廃墟のような建物が舞台となり、 静かなフィクションがあるがままの世界の上に浮かび上がってくる。 
この映画はまたオペラなのかもしれない。 
メロディーとしてカタチに成ることを拒む音の世界、 ここでもまた、何もなく、何も起こらず、何も求めず、 バイオリンの音だけがただただ揺蕩っている。 

 最近、映画をよく見るようになった。
 映画は現実世界の上に描かれる一つの虚構の世界だが、その世界の上に描かれる<フィクション=世界>はもはや、制作者のモノではない。 
映画は受信し想像する観客一人一人のモノだ。 
この映画を観ながら、ボクは今どこにいるのかを想像していた。 
渋谷の街の映画館の中だが、そこは映画の中の囲い屋とどこが異なるのだろうか。 
この街に集まる沢山のバラバラな人々。 
映画を観るボク自身もまた、映画の中の老人や若者の一人なのだ。 
そんな想像の中からあるイメージが浮かび、音楽が聞こえた。
ボクにしか見えず、ボクにしか聞こえない世界(フィクション=虚構の世界)だが、そこにはどこかホッとさせるモノがあった。

2016年1月30日土曜日

感性デザイン

生産消費という枠組みで示される産業経済の繁栄こそが個人の豊かさを実現する、という価値観をもつ社会パラダイムからの転換が問題となっている今日、物材そのものの価値より、物材に内在する情報価値の方が重視されつつある。

モノや環境は意味情報の為の容れ物である、という観点がデザインするという行為にとって重要。 生活者としての私たちは「物材や環境の充足」は必ずしも「豊かさ」にはつながらないことを知らされ、受動的にモノやサービスや情報を得るだけでは飽きたらないという情況を幾たびか体験している。  
本当にほしいモノは自分の外部にはないのであって、自分自身の内部から産み出し、表現しなければならない、という実感である。

 従ってデザインは物材の選択肢を多様化するのではなく、個々人の固有性、特異性に基づいた価値観をいかに保証するかがテーマとなってくる。 そこでの主要な価値観は「生産性」「合理性」「効率」ではなく、主体の持つ多様な「感性」。
 個々人が自らの感性を覚醒し、開発していく「感性経験」を様々の面からサポートし、個々人の側から主体的、自律的に自由に参加できるような情況や環境をデザインすること、このことこそ感性時代のデザインテーマと言えよう。  
リアリティは内部ー>感動は作品側にあるのではなく、自己の解釈にあるのだ。

2016年1月16日土曜日

もしも建物が話せたら

映画を観ながら学生時代の「建築を愛しなさい」を思い出していた。 イタリアの建築家ジオ・ポンティが書いた名著だ。 建築は決して視覚的遊戯の産物ではない。 それは風景や歴史、ライフスタイルやパフォーマンスとともにある多彩なアートであるということ。 今日の映画はそんな建築の世界を6人の映画監督がそれぞれ一つずつ、20世紀の建築をリポートしている。 特に面白かったのは「オスロ・オペラハウス」。 建築は単にオペラの為の場ではなく、歌手に、ダンサー、観客や劇場支配人、掃除人等々、オペラハウスに関わる様々な人々のパフォーマンスの舞台となっている。 映画を観る我々は街中の対岸から、湾岸に建つオペラハウスを真っ白な雪の中、夜空に輝く夢のような世界として体験する。 つまり映画監督マルグレート・オリンは、建築家スノベッタは「オスロの都市全体」を一つのオペラ劇場(世界劇場)としてデザインした、と語っているのだ。