2016年12月14日水曜日

サクロモンテの丘

グラナダはアルハンブラ宮殿のある街、
イスラムの宮殿を望むこの街の北の丘がサクロモンテ。
しかし、この丘がロマによるフラメンコの聖地であることは、
映画を見るまで全く知らなかった。
ヨーロッパから迫害され丘の上の洞窟に住んだロマ。
彼らの歌と踊りがイスラムの文化と融合しフラメンコが生まれていく。
複雑なリズムと魂の叫びのような歌、ギターに促される強烈な踊り、
フラメンコはカルメン等オペラの中でしか体験しなかったが、
映画ではその魅力がタップリと表現される。
魅力とはいつもフラメンコとともにある丘の上の生活と生き様。
彼らにとって、大きな転機は1963年の大洪水。
彼らにとって、フラメンコのほか残されたものはなにもない。
映画はその前後をニュース映像も加え詳細に語ってゆく。
ヨーロッパやアメリカ、日本にも渡り成功した踊り子たち。
外の街に馴染めず、洞窟にしがみつき踊りつづけた踊り子たち。
そして今、洞窟の街は蘇り、彼らの文化はすべてを受け入れ、いまも踊り続ける。

2016年12月10日土曜日

タイプとしての建築論

建築デザインをタイプとして捉えるか、スタイルとして検討するか、その違いはとても大きい。

デザインされた建築を通時的に捉え、建築された時代や文化との関係から、その建築の意味を読み取ろうとすることが一般的だが、それは建築様式史、スタイルとしての建築史と言える。一方、建築された時代に関わらず、その建築の形のみに関心を持ち、検討するという方法もある。それはタイプとして読む建築史、共時的に建築を検討することだ。

出版されている建築論の大半は美術史の様式論に連動させ、文化と社会から、つまり建築の外側から建築を探ろうとしているが、Prof.Fの西洋建築史講義はタイプとしての建築を十講に整理し、自立した建築の形態としての意味を読み取いている。しかし、残念ながらこの書はまだ未出版、貴重な大著であり、一日も早い出版が待たれる。

2016年11月16日水曜日

インフェルノ

ドラマは中世末期、黒死病で市民の半数を失ったフィレンツェから始まる。
そこはダンテが生まれ、恋人ベアトリーチェと出会い、別れ、加えて権力争いに敗れ追放された街。
ダンテは若くして他界したベアトリーチェに導かれる神曲を書くが、その地獄巡りの地図を絵画にしたのは15世紀のボッティチェリ。
そして現代、その絵画に仕込まれた暗号とダンテのデスマスクに導かれ、ラグドン先生はヴェネツィアに赴く。
終盤はヴェネツィアのドージェ・ダンドーロの眠るイスタンブール。
ラングドン先生は今回もヨーロッパの歴史的名所を走り回り、謎多きサスペンスにチャレンジする。

ダン・ブラウンの映画化の魅力は都市と建築と絵画、しかし、今回はラングドン先生が神曲のダンテに置き換えられているところが最大のポイント。
彼の地獄巡りの導者となるウェルギリウスは誰なのか。
さらにダンテの恋人ベアトリーチェに例えられる現代版神曲の導き手は誰なのか。
ダンテいやラングドン先生を導くウェルギリウスとベアトリーチェは映画では誰に置き換えられたか。
このあたりが最大の見せ場だが、映画を最後まで丹念に観なければ解らない。
この二人のミステリアスな存在が、前二作を超えインフェルノをこよなく魅力あるものにしている。

2016年10月25日火曜日

電脳術時代の思考

Innovation Nippon2016 セミナーに参加した。
テーマは「米国大統領選挙にみるiTと選挙のイノベーション」。
各論の感想はともかく、その聴衆としての全体的印象は以下のようなもの。
ITメディアによる情報時代の選挙は「共感と感情」が優先される。
メディアにみる電脳術の時代の選挙は従来の様相をことごとく変えて行くに違いない。
しかし、ここでの問題は、メディアとコンテンツの関係、このテーマはもちろん選挙だけに関わることではない。

選挙では当然だが、電脳術時代の多くの事柄について、思考停止したコンテンツの氾濫はポピュリズムの風を巻き起こすばかりとなってしまうのだろうか。
ルネサンスの印刷術時代のペーパー情報の役割は文学・哲学・芸術を一般化したことにある。
そして18世紀、市民社会の思考が近代社会を創生した。
聖(宗教)俗(貴族)にある権力者の特権的情報と思考が大衆化され民主主義が生まれたのだ。
しかし現代社会、その基盤である民主主義が形骸化し歪み始めている。
従って、電脳術時代の選挙をテーマとするなら、再度「思考の大衆化」がテーマとなる。
一方、中立を強調する既存のマスメディアではすでに、新時代のメディアの役割を失っている。
今、問われるのは「電脳術時代の思考」と言うことのようだ。

2016年10月5日水曜日

アスファルト

期待以上の素晴らしい映画だったが、館内はガラガラだ。
大都市周辺なら、いまや世界中、ドコででもお目にかかる住宅団地。
壊れかかったコンクリートの箱とゴミの山、昼夜、分かたず疾走トラックの騒音。
そんな世界が舞台だが、作られた映画は静かで柔らかな人間によるファンタジー。
いや、ファンタジーではない、つましく生きる人たちの当たり前の日常だ。
この世界は決して小説や絵画では表現出来ない。
音と映像を巧みに駆使し、作りだしたからこそ描ける世界。
パリ郊外の団地でロケしたフランス映画だが、アラブ人家族やアメリカ人青年も登場する。
三組のカップルが生まれ、ドラマが動いて行くが、年齢差は様々だ。
この映画はとても良くできた恋物語・集、と言って良い。

2016年9月16日金曜日

アルジェの戦い

もう、50年も前となる1967年、 まだ子供だったが、 ヌーベルバーグやイタリア映画は好きでたくさん観ている。しかしこの年、ヴェネツィア映画祭金獅子賞が「アルジェの戦い」であったことは全く知らなかった。「気狂いピエロ」や「欲望」を押さえ受賞したこの映画を映画美学校で、今日はじめて観たが、映画の50年間のギャップはどこにもない。映像も内容もまるで昨日のニュースを観ている体験、まさに今の我々の日常世界が2時間に渡ってリアリスティック展開されている。
独立を求めるアルジェの市民とブランス空挺師団の銃弾と爆弾の応酬。歴史的迷路、都市アルジェのカスバを舞台としてのテロリズムはアラブ人、フランス人、どちらにとっても絶望的悲劇だ。拷問と銃弾とカスバの住居爆破、ネズミと言われアラブ人たちは虫けらのように殺される。一方、カスバの決死の女性たちによって持ち込まれた時限爆弾の犠牲になる、広場の夕涼みの酒とダンスに興じる若いフランス人たち。映画は「犠牲者も死刑執行人もどちらもノン、大切なのは人命の救助のみ」と主張する、1960年代のカミュに近く、テロはどちらにとっても悲惨、意味も救いの無いものとして描かれている。
金獅子賞を受賞後のヴェネツィアではこの映画は反仏映画とみなされ、フランソワ・トリフォーを除き映画祭のフランス代表団の全員が退席したといわれている。この映画の上映の意味はこの辺りにもあるのかもしれない。どのような主義主張がなされるとしても、先ずは人命尊重、双方にとって総てのテロはノン、爆撃と銃撃を直ぐに止めなければならい。このテロと戦争は歴史的には撤退を決意したドゴール大統領のOASによる暗殺未遂事件が記録されてはいるが、植民地支配したフランスがまずは爆破・銃撃を止め、さらにアルジェリア臨時政府を支援し被害者、難民の救済にあたったことで集結した。アルジェリア生まれのフランス人、アルベール・カミュの不条理を理解するなら、双方全てのテロはノンである。このことこそ、この映画のメッセージ。50年前のアルジェリア人とフランス人の悲惨と困難を克服した勇気を、今こそ思い出さなければならない。

2016年8月29日月曜日

ルル アルバン・ベルク

舞台空間でのオペラではなく、絵画空間の中のオペラという印象。初めて聴くベルクの十二音音楽オペラだが、歌もオーケストラも19世紀の音楽と大きく隔たるものではなく、決して難解でも違和感もない。音列、リズムは新鮮で、ダンスや絵画的映像ともシームレス呼応しとても気持ちが良い。
舞台はベルリンの踊り子ルルがベルリンで殺人の罪で捕まり、脱獄しパリに逃れるが、娼婦になり、切り裂きジャックに殺されるというドラマ。近代都市に投げ込まれ、男性たちに翻弄され生きざるを得ない女性の物語だが、その方法はルルを鏡面とするそのうち外、ベルリンとパリという二つの都市、どちらを真としても良いのだが、その反転の偽も同じ歌手に演じさせ、ルルの享楽を描いているところが面白い。
頽廃と堕落の近代は男性主導の都市イメージ。18世紀のロココ的文化サロン、室内空間によって展開された女性尊重の時代に比べ、19世紀は男性的都市時代の始まりと言って良いのかもしれない。資本主義が徹底され、どこの都市も経済機能主義によって逞しく拡大するがその内実は頽廃と堕落。しかし、オペラにはまだ、汚染されたモダニズムとは異なり、人間都市の持つアンニュイな居心地の良さも表現されていて面白い。
20世紀初め、ドイツのある町。町で出会った少女ルルを連れ帰って育てたシェーン博士は、彼女に惹かれながらも官僚の令嬢と婚約し、ルルは医者のゴル博士に嫁がされる。男という男を魅了するルルは若き画家と浮気をし、その現場をゴル博士に目撃させ、医者はあっけなく悶死する。やがてルルはシェーン博士の妻の座を手に入れるが、相変わらず、男女を問わず奔放な関係を続けるが、逆上したシェーン博士はピストルを突きつける。結果は逆に博士はルルに殺されてしまう。投獄されたルルは同性愛の友、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の手引きで脱獄しパリに逃げるが、この都市ではもはや、ルルと令嬢は体を売るしか生きる道は残されていなかった・・・。

指揮:ローター・ケーニクス 
演出:ウィリアム・ケントリッジ
出演:マルリース・ペーターセン(ルル)、スーザン・グラハム(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、
ヨハン・ロイター(シェーン博士/切り裂きジャック)、
ダニエル・ブレンナ(アルヴァ)、
マルティン・ウィンクラー(力技師)
ポール・グローヴス(画家/黒人)
フランツ・グルントへーバー(シゴルヒ)

2016年8月27日土曜日

ミケランジェロ展

ミケランジェロ建築を中心とした展覧会。
サン・ロレンツォ聖堂のファサードや新聖具室、ラウレンツィアーナ図書館、ファルネーゼ宮殿とサン・ピエトロ大聖堂、さらにサン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーナ聖堂案、ポルタ・ピア等々。ミケランジェロの時代の多くの建築家たちを支えていたのはローマ時代のヴィトルヴィウス建築十書。しかし、絵画・彫刻の制作で忙しいミケランジェロには、この書を読む時間はほとんどなかったと言われている。そのことがかえって良かったのではないだろうか、彼のテーマはギリシャの人文主義による観念ではなく、感情に訴える聖母マリアによる救済。結果から見ると、建築作品は当時の枠組みには捕らわれない自由なロマン主義的な構成と言って良い。

美術家であるミケランジェロの関心は建築ではなく、装飾にあった。数多く残された建築の為のスケッチはそのその悉くが建築装飾としてのかたちの模索かそのディテール図集。絵画や彫刻と同じ様に、ミケランジェロのスケッチでは建築というより、その柱や窓、ペディメントや持ち送りのかたちが入念に素描されている。つまり、彼の関心は現在の建築に似て、建築がどんな世界を生み出すかではなく、その建築はどう見えるかにあった。

建築はいつの時代でも、土台、柱、壁、屋根、開口部という構造的エレメントが生み出す世界、それは物語でもあるのだが、彼の建築は本来の力学にも関わらない、見掛けの柱、装飾の為の壁、視覚に驚きと変化を生み出す特徴を持った窓や持ち送りを生み出している。16世紀半ばのローマ拷略以来、絵画も建築も最早、秩序やメッセージを重んじるルネサンスではなく、個人の感情に関わるマニエリスムの時代へと向かっている。そこでの作品は理念に支えられる人間世界とは異なり、現代に近い、個人的感情世界に関わっている。
従って、ミケランジェロの建築は彼の絵画・彫刻と同様に時代を先取りしていたといえるようだ。しかし、黄昏のルネサンスと言われるこの時代、多くの建築家はまだ柱、壁、屋根という構築的要素を言語として、いかなる世界を生み出すかに拘っていたことにも留意しなければならない。その 一人は遅れて登場したヴィチェンツァのルネサンス人、パッラーディオだ。

ミケランジェロの建築に、当初日本では白樺派の芸術家たちが多くの関心を払っていたことはとても興味深い。何故なら戦前戦後、日本では建築は建設技術と美術建築、二様に分離され取り入れられ研究されてきたからだ。ミケランジェロの建築は西洋のロマン主義、その美術、文学、音楽とともに称揚されてきたのであって、技術としての建築ではない。

2016年8月17日水曜日

その姿の消し方 堀江敏幸

古物市で見つけた一枚の絵はがきから始まる、フランスの片田舎の人々との関わり。
堀江さんの端正な文章に乗り、見知らぬ空間と時間をたゆたう、緩やかな読書体験。
「河岸忘日抄」以来、彼の言葉の世界のファンだが、この小説は幾様にも詠み解ける詩文集と言って良いのではないだろうか。

その姿の消し方、そのことばの消し方、ひとの消え方、街の消え方、建物の消え方。
その姿とはもぐらのこと、小説はもぐら探し、そう、消えた世界を探す探偵小説だ。
そんな冗談を言いたくなるほどこの小説、いや、紀行、堀江敏幸ワールドは面白い。
もぐらだけではない鯨もピノキオも出てくる。全く分野は異なるが、ル・カレやポール・オースターの世界に共通するミステリーがある。

しかし、これは堀江敏幸の作品。
舞台はロンドン、ニューヨークではなくパリ、そして、フランス西南部の小さな街。
ボクはいつも堀江さんの作品を、彼女が登場しない恋愛小説だと思って読んでいる。
田舎の、郊外の、都市の、街中の片隅に生きる、繊細で優しい何処にでも居る人々。

2016年8月14日日曜日

オラクル・ナイト ポール・オースター

小説の中で複数の物語が重なりあって展開されるのはオースターの特徴、
さらに物語はみな、時と場所が明快に描かれる。
初期作品、ニューヨーク三部作同様、オラクル・ナイトはニューヨーク、しかし、今回はマンハッタンだけでなく、イーストリバーを渡ったブルックリンも舞台となっている。

物語の重層化は、我々の脳内がいつも錯綜しているのだから、その反映と言えるかもしれない。
現実の出来事はいつも時間・空間はキッチリと枠どられているのだから、
彼の物語に嘘はない。
しかし、その展開は入り組んでいる。
虚実と時系列をしっかり見極めないと、迷路に入り込む。
いや、このドン・キホーテ的蒙昧感がオースター小説の魅力かもしれない。
オラクル・ナイトはいつもよりメインストーリーは骨太であり、「ガラスの街」が伏線となって関わっている。
物語が断ち切れた、かっての赤いノートは青いノートに変わり、
オラクル・ナイトは展開される。

長い病みから退院した主人公シドニー・オアはブルックリン・ハイツに近い自宅から久しぶりの散歩に出掛け、
立ち寄った文房具店でポルトガル製の青いノートを見つける。
仕事部屋に戻った彼は友人ジョン・トラウズと二週間ばかり前に話した、
自分の人生から忽然と姿を消す男をめぐる奇妙な寓話のあらがきを書き始める。
あらがきのはじまりは、青いノートの小説の中の主人公、ニューヨークの出版社の編集者ニック・ボウエンの机に届けられた「オラクル・ナイト」(神託の夜)。
さて、
青いノートの中のニック・ボウエンはどうなるか?
友人ジョン・トラウズは?
トラウズの息子ジェイコブは?
妊娠しているシドニーの妻グレイスは?
青いノートを売ったM.Rチャンは?

2016年8月10日水曜日

ガラスの街 ポール・オースター

真夜中の間違い電話から始まる友人も妻子も持たない探偵作家のニューヨーク彷徨の物語。
中世の多声音楽に似て、様々な旋律が絡まる小説。「エレガントな前衛」と言われたポール・オースターの初期の「ガラスの街」はまさに多旋律であり、モダニズムの持つユートピアが知的透明さを持って崩壊していく。
彼の小説はどれも、一つの小説の中に幾つかの物語が流れるように折り重なっている。ロマネスク音楽はグレゴリオ聖歌がベースとなる多声歌曲だが、「ガラスの街」ではエデンの楽園とバベルの塔が主旋律となり、メタフィジカルなニューヨークが詳細に描かれる。

「ガラスの街」の主人公は作家であるダニエル・クイン。彼はウィリアム・ウィルソンというペンネームでマックス・ワークを主人公とする探偵小説を書いている。そんなクインの部屋に真夜中、探偵のポール・オースターさんですか、という電話が掛かってくる。間違い電話は毎夜繰り返され、三度目の夜、クインはポール・オースターとなり電話を受ける。
物語はこうして始まるが、その内容は間違い電話を掛けてきたヴァージニア・スティルマンと彼女の夫ピーターの依頼によりピーターの父親、昔コロンビア大学の教授であった、息子と同名のピーター・スティルマンを尾行することにあった。
そして物語の終わりだが、ピーター・スティルマンが消え、神託となっていた話し中の電話トーンに従い依頼者であるスティルマン夫妻をビル街の隙間、裏側の路地から2ヶ月あまり見守り続けるが、彼らの世界であった二人のアパートメントの白い透明なユートピアも消える。空っぽになったユートピアの部屋の真ん中にはクインの尾行記録である赤いノートだけが残された。

物語は神託の導きなのか、言葉によって生きる人間の運命にあるのか、あるいは渡らなければならない橋なのか、ボードレールのいうどこでもいい、この世界の外に出ることなのか。
オースターの物語はいつも虚構と虚構が重層するような構成だが、その内容のすべては正確な場所と時間に枠どられたリアリティある現実世界のなかで展開される。
「ガラスの街」の舞台はニューヨーク、その大半はセントラルパークとコロンビア大学周辺。日時、時間、地名、通り名、建物名はすべて克明に、あるがままの日常として描がかれている。しかし、その世界は形のない、透明なガラスという像のみが浮遊するメタフィジカルな「ガラスの街」。その街はドン・キホーテであるピーター・スティルマンが朝早く彷徨し、鍵のかかった部屋の鍵を探した街。

オースターは現代社会の孤独・寂寥・消滅・空白を描く作家だが、読み終わるといつも「だまされても面白いならだまされても良い。」と彼のドン・キホーテ論の一部分が思い出される。透明で乾いている、抽象的だが、決して難しくはない。
この小説は最も初期、彼を作家として世に出したニューヨーク三部作のひとつ。
まさに、彼の小説を貫くもの、ドン・キホーテはこの初期作品を縁の下からしっかり支えている。

2016年5月3日火曜日

都市はインテリア、インテリアは都市広場。

最近の都市と建築、そのデザインはどこかイタリア・バロックに似て、外部空間の内部化、いや、内部空間の外部化ではないだろうか。

チェーン店が連続する商店街は最近ますますショッピングセンターのモールのような様相を呈ししつつある。その外部空間は色とりどりではあるが、どこの商店街もどことなく画一的な街路。その印象は駅のコンコースや大きなショッピングセンターのモールと変わらずインテリアデザイン化された街路なのだ。

都市を構成する新たな高層建築のデザインもまたしかり。様々なかたちで構成される建築は、デザインコンセプトが不明のまま、薄い石やガラスやパネルで被覆されるばかりでどことなく画一的。一方、単調なショッピングモールに時に、目立ちたがり屋のショップが奇抜なデザインで自己主張するように、新しさなどはどこにもなく、これが建築かと驚かされる奇抜な形態で一体感ある街路の雰囲気を乱している。

外部空間の内部化、内部空間の外部化は本来は手法の良し悪しではなく、方法の問題だ。キリスト教聖堂の内部空間である身廊はミケランジェロによりカンピドリオ広場のデザインコンセプトとなっている。この広場は内部空間が外部化され造られたもの。ベルニーニのサンビエトロ広場もまた屋根のない大聖堂の内陣として作られた。さらに、白と黒で塗り分けられた18世紀のノッリのローマ地図を見ると都市広場も街路も聖堂の内部空間もすべて白抜きで示される。バロック都市ローマは、建築を構成する壁や柱やアーチは内部と外部どちらも同じ形状でデザインされ、すべてが公共空間であることが示される。

最近の都市と建築のデザインは商業主義を勝ち抜くための差別化の手段。そこにはデザインの基盤となるテーマもコンセプトもあるのだろうが、商業主義と人間主義では方法が異なる。巨大モールや都市広場のインテリア化、あるいはインテリア空間の都市化・広場化の評価はまず、享受する我々がそのデザインのコンセプトが何であるかを読み取ることから始まる。デザイナーが何をかたり、何をメッセージしているか、そのコンセプトが示されないデザインは、仮に個人的には好みであったとしても評価の対象とはならない。

大手町AMAN

新緑の丸の内仲通りは連休だが、いつも通りオープンカフェは賑わっている。この通りを歩いていて思う、ここは街路というよりショッピングモール。しかし、高級店が連なるこの街は道幅のバランスがよく、緑が豊富、クルマのエンジン音も店からの騒音もなく居心地が良い。よくデザインされた都市型散歩道と言えるだろう。 
日比谷のペニンシュラから始まる仲通りは現在、大手町ビルで終わっている。
やがては、さらに延長されると聞くが、永代橋通りを渡った現在の最北端地区に200m級の超高層建築が姿を現した。この辺りは仲通りとどう繋がるかが今後のポイント、超高層の足元は「大手町の森」としてを計画されている。 

14年12月に完成した大手町タワー33階のAMANのラウンジはおすすめだ。ホテルAMANはこのフロアより上層部全体を占め、都市型リゾートホテルを目指している。デザイナーは今や人気のケリーヒル。
彼は事務所をシンガポールに構えるオーストラリア人建築家。 彼のデザインはテーマがわかりやすく表現されていることで有名。
このラウンジは大きな都市広場を高い吹き抜け天井で覆うという形状。そして、テーマは「和」、高い天井から降り注ぐ優しいひかりが決め手となる。壁面は火口岩が黒色に染色され、その感触は木材以上に柔らかく、全体は紙障子からの光に包まれる和座敷という雰囲気。まさに小説で読む谷崎潤一郎的世界が表現されている。
久し振りに意味のあるメッセージを持った豊かな空間に出会った、という印象がこのラウンジをおすすめした理由だ。

2016年4月16日土曜日

スポットライト 世紀のスクープ

事実は小説より奇なり。
最近たびたび読むポリス・ミステリー、そこでは新聞記者の横柄な取材が、事件を真実から遠のかさせる。
しかし、この映画はボストン・グローブの記者たちが、真実を懸命に暴き出していくサスペンス。
事件の真実は教会という伏魔殿、それに加担する弁護士により封印されている。
描かれているのは時間との戦いというサスペンスだが、伏魔殿との戦いという、真の人間による聖戦の面白さだ。

2016年4月14日木曜日

黄金のアフガニスタン

東京で始まったばかりの展覧会「守りぬかれたシルクロードの秘宝」を観る。 
前日(12日)に始まったばかり、まだ空いていて金細工や象牙、小さな展示物をじっくり眺めることができた。 
会場が表慶館というのも面白い。 近代建築以前の1900年、片山東熊が作った旧東宮御所。 
中央にドーム屋根を持つユニークな建築、インテリアも当然、昔のままだ。 
紀元前4世紀、アレクサンダー大王に始まるギリシャやインド・中国の影響を受け、アフガニスタンで産みだされた財宝の展示は、東の果ての上野の山の19世紀末の欧風建築の中で見学出来る。
 展示も会場も古色に富み、静かに歴史を体験する絶好の機会。 
今や悲劇の谷間にあるシルクロードだが、そこは2500年わたり様々な人とモノと情報が行き交う人間の道。 
TVで観る限り、非人間的な悲劇の廃墟だが、展覧会からは歴史を生き抜いてきた人々の、高らかなる息づかいが感じられ和まれる。

 先々月の末、武庫川女子大の講演会「シルクロードの文化と建築」に参加し、アフガニスタンに眠る文化的廃墟の意味と内容に触れた。 
先月はピーター・ホップカープのザ・グレート・ゲームが読み、19世紀の内陸アジアにおける英露のスパイ合戦、いや様々な人々の交流と探検の有り様を垣間見た。 
そんなことから今日のアフガニスタン展は大いなる楽しみ、早々に見学することにしていたのだ。

 展示された黄金の数々、遠い東の果ての街の硝子ケースの中、静かなミニスポットの光に触れ妖しく輝いていたが、特に興味を引かれたのはアイ・ハヌムのギリシャ語刻銘付き石碑台座とヘラクレス立像。
 それともう一つ、ベグラムの魚装飾付き円形盤。 
アイ・ハヌムはギリシャのアレクサンダー大王以降の植民地都市。 
コリント式の柱頭を持つ建築も建造されたようだが、展示されている小さな石碑にはデルフィーの神託の一部が刻まれていた。 
印刷物がない時代、あのアポロ神殿の建築的意味が文字に表され、この遠いアフガニスタンの北東部の都市に伝わっていたのだ。 
ヘラクレスはギリシャ神話の神だが、棍棒を持つその姿は仏教の執金剛神のモデルである、という武庫川女子大講演会での前田耕作先生のお話。
つまり、ギリシャのヘラクラスはこのアフガニスタンを経由して奈良東大寺の法華堂にやってきたのだ。 
最も楽しかったのが魚装飾付き円盤。
ベグラムの地は海からはほど遠い。
そこに生きる人々は海どころか一面の水の世界を想像する事も難しかったに違いない。
この円盤は海を知らない人々が海を想像する装置。
直径7~80センチメートル円盤にはさざ波をイメージさせる金片が無数に糸で結ばれ埋め込まれている。
磐裏には金辺を縫いつけ結んだ糸を束ねた仕掛棒。
その棒を手で引けば、円盤の表側では魚が跳ね、海はさざ波を打つ。
なんとも素晴らしい、人々はこの円盤で遊び、見ることはない遠い海の世界を想像していたのだ。  

2016年3月17日木曜日

レジェンド 狂喜の美学

60年代のロンドン、ギャングの兄弟のお話し。実話だそうだがシチュエーションが面白く、最後までフィクションのつもりで観てしまった。統合失調症の弟ロニーを助ける好感度高い兄のレジー、彼には一途に彼を愛し続ける恋人フランシスがいる。ギャング映画でなければ、ドラマは純愛と兄弟愛といって良いかもしれない。各々は誰でもそうであろうが、みんなユートピアを探している。しかし、ロニーは知っている、ユートピアとはどこにもない場所を意味することを。 一方、この映画はプロ向きなのかもしれない。これも後で知ったが、なんとロニーとレジーを演じるのは、名優トム・ハーディただ一人。言われて初めて気がつき、なるほどなるほどと思ったが、では、あの血みどろの喧嘩はどう撮影したのだろうか。高得点の評価はこのあたりだろうか、ボクは最期までレジーの恋物語として観てしまった。

2016年3月12日土曜日

ハロルドが笑う その日まで

安物の家で安物の家具に囲まれ生活する、ポンコツ家族たちの物語り。
高級家具店の経営者ハロルドは低俗家具店IKEAの創業者を誘拐する、リアリティある喜劇的ファンタジー。
ボケた妻を失い自殺を企てる老夫、だめ夫を一人残し、子供を引き連れ実家に逃げるだめ母親、夢を追い男を連れ込むだめママから逃げ出す、ハートを胸ではなく腕に持つだめ娘。しかし、だめ人間たちはみな、心優しいどこにでもいる人々。そしてこの物語は、ユーモラスな批判精神を持った数少ない優れた映画だ。

2016年3月9日水曜日

マネー・ショート 華麗なる大逆転

この映画ではサブプライム・ローンでリーマン等の銀行が破綻するまでが、実話に基づきドラマチックに映画化されている。
しかし、問題はショック後にもあり、国庫金による銀行救済等にもいくつか問題があった。
こちらはすでにドキュメント映画として上映されていて、社会問題として大きな反響を呼んでいる。
今回の映画づくりはその前半だけのエンターテイメントで、個人的には満足できない。

2016年2月19日金曜日

バンクシー・ダズ・ニューヨーク

ドキュメント映画「バンクシー ・ダズ・ニューヨーク」は面白い。 
2013年10月という僅か一ヶ月間のニューヨークの出来事。
 後に謎のストリートアーティストと言われるバンクシーの活躍だ。 
彼は毎日一カ所づつ、倦怠と非活性、弛緩した街のあちこち、 夜間のうちに、誰に視られることなくスプレー画を描き続ける。 
バンクシーはその行為が罪であることは自覚している。 
しかし、ツィッターでは大評判。 
朝になり、発見された落書きは、スマホでキャプチャーされ、ネットで盛り上がり、やがて多くの人が集まりコミュニケーションする。 
その場所まさにリアルな祝祭の場に変容する。 
音楽や美術に支えられる古代ギリシャの祝祭は都市の活性化がその目的と見なされている。
 街をキャンバスにしたバンクーシーの行為はメッセージを持ち街を占拠する、まさに神の来訪と言って良いのかもしれない。
 しかし、マネーとセキュリティーが支配する現代都市に神は住めない。 
バンクシーは今、何処にいるのだろうか。

2016年2月5日金曜日

蜃気楼の舟

寡黙、引きずり歩く足音、 静かな鎮魂歌を聴いているよう時間の流れ。 
何かがあり、何かが起こり、何かを求め、どこかに行く、という映画ではない。 
無名な風景の中、無名な老人と若者が、何することもなく、ただ揺蕩っている。 
しかし、この映画は決して退屈ではない。
 丁寧に選び取られた幾つかの風景や廃墟のような建物が舞台となり、 静かなフィクションがあるがままの世界の上に浮かび上がってくる。 
この映画はまたオペラなのかもしれない。 
メロディーとしてカタチに成ることを拒む音の世界、 ここでもまた、何もなく、何も起こらず、何も求めず、 バイオリンの音だけがただただ揺蕩っている。 

 最近、映画をよく見るようになった。
 映画は現実世界の上に描かれる一つの虚構の世界だが、その世界の上に描かれる<フィクション=世界>はもはや、制作者のモノではない。 
映画は受信し想像する観客一人一人のモノだ。 
この映画を観ながら、ボクは今どこにいるのかを想像していた。 
渋谷の街の映画館の中だが、そこは映画の中の囲い屋とどこが異なるのだろうか。 
この街に集まる沢山のバラバラな人々。 
映画を観るボク自身もまた、映画の中の老人や若者の一人なのだ。 
そんな想像の中からあるイメージが浮かび、音楽が聞こえた。
ボクにしか見えず、ボクにしか聞こえない世界(フィクション=虚構の世界)だが、そこにはどこかホッとさせるモノがあった。

2016年1月22日金曜日

ヴィオレット

40年代のフランスの実在の女性作家の話し。私生児として生まれたヴィオレットは混乱の大戦の時代、作家である夫、モーリス・サックスと闇商売で生き抜く。戦後、夫と別れパリに出るが、なにもない彼女にとって、ただモノを書くことだけが、生きて行く全て。 初めての作品「窒息」は作品というより、たった一人、生きなければならない、若い女性の赤裸々な生活を綴ったもの。幸い、その作品はボーヴォワールに認められる。「第二の性」を執筆中のボーヴォワール、彼女のことは何も知らなかったヴィオレットだが、偶々、ブックショップで立ち読みし、書き上がったばかりの「窒息」を抱え、彼女のアパルトメントを押しかける。 若い女性が都市に生きること、いや、パリしか彼女には生きていく場所がなかったのだ。ジャン・ジュネやカミュ、コクトーやサルトル、更に有数なフランス文学の出版社であるガリマールや香水会社ゲランの社長ジャックが登場し一見、華やかな生活。しかし、彼女にあるのは大都会の片隅の粗末な部屋のベッドと机とランプと小さな窓。 映画ではこの小さな窓が象徴的。ヴィオレットの「窒息」を開くのはプロバンスの陽光溢れる大きな窓。パリの厚い石の壁の世界から、一気に抜け出すヴィオレットの世界。それは「あるがままの世界」しか生きる術を知らない我々現代人が、唯一見つけることが出来る「あるはずの世界」、芸術を知る赤裸々な体験なのだ。それこそ、ボーヴォワールが言う「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という瞬間なのかもしれない。

2016年1月17日日曜日

ブリッジ・オブ・スパイ

スパイ映画には違いないが、アクションはない。
サスペンスはあるが、それは地味な政治的交渉。
ベルリンの壁はもはや歴史の一編になりつつあるが、その壁の中には埋れさせたくない2人の人間の良心が潜んでいた。
フィクションではなく実話であったことで鑑賞は益々意義深いものになった。

2016年1月16日土曜日

もしも建物が話せたら

映画を観ながら学生時代の「建築を愛しなさい」を思い出していた。 イタリアの建築家ジオ・ポンティが書いた名著だ。 建築は決して視覚的遊戯の産物ではない。 それは風景や歴史、ライフスタイルやパフォーマンスとともにある多彩なアートであるということ。 今日の映画はそんな建築の世界を6人の映画監督がそれぞれ一つずつ、20世紀の建築をリポートしている。 特に面白かったのは「オスロ・オペラハウス」。 建築は単にオペラの為の場ではなく、歌手に、ダンサー、観客や劇場支配人、掃除人等々、オペラハウスに関わる様々な人々のパフォーマンスの舞台となっている。 映画を観る我々は街中の対岸から、湾岸に建つオペラハウスを真っ白な雪の中、夜空に輝く夢のような世界として体験する。 つまり映画監督マルグレート・オリンは、建築家スノベッタは「オスロの都市全体」を一つのオペラ劇場(世界劇場)としてデザインした、と語っているのだ。