2015年9月30日水曜日

創造と神秘のサグラダ・ファミリア


スペインの北東、地中海の港湾都市バルセロナはローマ時代の植民都市にはじまる。 19世紀の産業革命に、いち早く成功するこの都市はヨーロッパで最初の近代都市計画を実施する。 しかし、その成功がもたらす人心の荒廃と都市汚染は著しく、敬虔なキリスト教徒であるバルセロナ市民は寄付を募り、建築家ガウディに贖罪教会を作らせることになった。 産業革命の成功がもたらしたバルセロナのサッカーチームとサグラダ・ファミリアは世界中の注目の的だが、100年に及ぶ教会の建設は決して順調なものではなく、いまだ完成していない。この映画は贖罪教会の意味とその建設の経緯のみならず、新たな課題や建設の方法まで克明に触れる貴重なものとなっている。 昔、訪れたサグラダ・ファミリアはすでに観光地ではあったが、身廊部分に若干の建設資材が置かれているだけの閑散とした建設現場だった。案内人も工事人も広い現場にちらほらでヘルメットさえ被ればどこでも自由に見学できるのどかな体験だった。 出来たての鐘楼の階段を上り、テラスのような場所に立ち、塔を見あげ碁盤目の直線街路にマンションが連なるバルセロナの新都市を見下ろした。 映画で観るサグラダ・ファミリアは全く別物に変容していた。 完成した誕生の門や受難の門、ステンドグラスからの光が輝く、まるで爽やかな秋の森のような身廊。 ベネディクト16世のミサに集まる世界中の人々の喜びはまさにテーマパークのような賑わい。 バッハのロ短調ミサ曲がこの映画をリードするテーマ曲と言えそうだが、その指揮をする音楽家ジョルディ・サヴィルの言葉。 「ロ短調は完璧な解釈は不可能だ。そこにたどり着いたら終わりだ。分からないからこそ、人は解釈を挑み続ける。サグラダ・ファミリアの建設も終わらない解釈だと思う。」は印象的。 そう、贖罪教会も完成することなく、いつまでも作り続けてもらいたい。 そんな思いを持って試写室を後にした。

2015年9月17日木曜日

湖上の美人 ロッシーニ


19世紀初めのロッシーニのオペラはその後のヴェルディーに比べ秩序観が強くバランスの良い音楽と言って良い。 ベートーヴェン以降のロマン派音楽を聴き慣れている我々は音楽は感情表現、オペラは特にドラマティックな悲劇であることが多いが、それはヴェルディやプッチニーの世界だ。ロッシーニの「湖上の美人」は18世紀のモーツァルトに近いがブッハでもセリアでもなく、オペラ・セミリアと言われている。 ヨーロッパ社会がアンシャンレジームの持つ激情的・反動的な感情に満たされたとき、音楽は一気に古典派からロマン派への道を歩む。 しかし、19世紀のはじめナポレオンの登場に呼応して、イタリアのロッシーニはむしろ前代に近い安定した秩序観を持ったオペラを作っている。 モーツァルトに近いロッシーニのこの物語もまた王の許しで完結する愛がテーマ、後宮からの逃走によく似た構成でめでたしめでたしで幕を閉じる。 しかし、スコットランドの王とその王に反旗を翻す高地の人々、夜明けの湖上から始まる愛と革命はウイリアム・テルに似て叙事的でもあり情感も深い、豊かなベルカントのアリアが数多く響く。 オペラは二人のメゾソプラノと二人のテノールの競演。 今回のメト・ライビューイングではロッシーニ・オペラには欠かせないダニエラ・バルッチェローナが圧巻だ。 彼女の低音が効いたリズミカルなコロラットゥーラは主役のディドナートやハイCのフローレスを超え、終幕で愛を勝ち取るマルコムの歌声は気持ちよく、美しく、素晴らしい。

城 カフカ


昔もそうだが、今回もまた苦労して読んだ測量士Kの物語。 しかし、kindleは面白い。昔は最後まで読み通せ無かったが、電子本だと何故か、途中で放り出せず、今回はなんとか読了した。 城に辿りつかないどころか、雪の中に閉じこめられた儘だった我が読書人生。 これでようやっと「変身」から我が身に戻った気分だ。 読み取りは様々だろうが、この物語は王のいない官僚国家。 意味不明、コミュニケーション不在の小役人がゴロゴロする近代社会として読んでみた。 いや、測量士という不用な秩序化を役柄とする、K自身が王である逆転した王国の物語かもしれない。 物語は未完と言うことだが、近代は何処までも未完。 人間不在のシステムは無用な測量図を永遠に描き続けるのではないだろうか。

2015年9月15日火曜日

バビロンの流れのほとりにて 森有正


「閉鎖した建物の中に自己を開いていくことで共同体を深く発達させたヨーロッパの人々の建築体験。その体験はいまや光に向かい外界に向かって開かれてはいるが、しかし自己閉鎖している。自己をめぐりまつわる閉鎖と開放とが、ある秩序を持って関連しているところに不変のヨーロッパがある。」 有正は「バビロンの流れのほとりにて」にこんなことを書いていた。 建築批評を見いだせない苛立ち中の学生時代のノートだが、いま読んでみて、自己閉鎖した状況はいまだ変わらず、新たな秩序を見出すこともない建築は、もはや再発見は不可能かもしれない。 「自己を開くには思想を支える感覚と経験そして生活が必要であり、充実した壁に硬く護られた厳しい生活の観念と結合しての思想が発達したヨーロッパにおいては、自己を本質的動点に維持することは花を愛玩することとは対蹠的である。」 ロマネスクの教会の中に一輪の花を見つけたところで、彼らの建築が理解できるわけではない。その壁の中の感覚、経験、生活を体験しなければ、建築(=思想)を見出すことは不可能なのだ。