2015年8月30日日曜日

大衆の反逆 オルテガ・イ・ガセット


1930年代にすでにEUいやヨーロッパ合衆国を予告していたとはおもしろい。第一次世界大戦中に書かれたショッペングラーの「西洋の没落」は18世紀以降の市民社会の崩壊を書いていた。しかし、オルテガはヘーゲル的歴史主義、近代主義とは距離を置き、「生の哲学」を模索した。たしかに、戦争がひとまず終結すると、その時代はアメリカと共産主義ロシアの台頭。しかし、彼は大衆主義を単にヨーロッパの没落とは考えていない。 オルテガ・イ・ガセットは生きることは現在の自分の繰り返しであり、自己完成に努力を払おうとしない人々の社会における危険性を「大衆の反逆」と呼んでいるが、近代は自分を完全に掌握していない人々の何を実現していいかがわからぬ時代なのだと考えている。つまり、ヘーゲルの歴史的発展主義やその後の実存主義の誤謬を早々に懸念し、プラトンやデカルトやカントに立ち戻り「生・理性」に支えられる真の市民社会を素描しているのだ。 アナクロニック、書いたのは哲学ではなくエッセー、それは多様なディレッタント的ノートにすぎないとの批判はヴァレリー対するものとよく似ているが、60年代に入り、「過保護なお坊ちゃん」が「環境=文明」を空気のような自然と錯覚し始めた時、この多様な視点を持つ「大衆の反逆」は本来的意味を発揮し始めたと言えるのではないだろうか。

2015年8月27日木曜日

ボヴァリー夫人とパン屋

19世紀のフランス小説、フロベールの「ボヴァリー夫人」の上にレヤーを被せ映像化し、21世紀の不倫劇を描いたなんとも凝った映画だ。 映画はやはり小説を読んでからでを観たほうが楽しい。この映画はドラマでもなければ、「ボヴァリー夫人」を描いているわけではない。 19世紀の田舎を抜け出したがる小市民と現代の都会から田舎をあこがれる小市民を対比させている。さらに従来からあるフランス人とイギリス人の違いをユーモアを持って明確にかき分けている。 しかし、この手の映画は日本では流行らない、特に男性陣は苦手だろう。何故なら、フランス人が持つ独特の女性観、その好色的なくすぐりを距離間を持って楽しむことは結構難しいからだ。
人のいい中年おじさんの持つお節介に、我々日本男児、どこに共感を見つけたらよいのだろうか。そもそも、フロベールの「ボヴァリー夫人」を今の時代、面白いと思う人が何人いるだろうか。 この映画は凝っていると言いたかったのは、実はもう一つ背景となる映像にある。映像化されたルーアン大聖堂やその周辺の中世以来の小さな街の住宅とインテリア。そこはまさにフロベールが描きたかったノルマンディーの自然環境と建築の美しさそのものなのだろう。といってもボク自身この場所を一度でも訪れた訳ではないのだからすべてが想像。しかし、映画は19世紀のリアリズム小説の風景はこんな世界だったのかと思わせてくれる。

2015年8月16日日曜日

スクラップ・アンド・ビルド 羽田圭介

「火花」と同時の芥川賞受賞作。 この作家の方が又吉直樹より次作は早く、かつ、多くを書くであろう、との選評が気になり読んでみた。 被介護老人とその父を介護する娘、主役は老人の孫、失業中の身ゆえ二人と同居せざるを得ない健斗君。 祖父を寝たきりにさせず、かつ、自分自身の体力と精力の維持に励む健斗が語り手となるマッスル小説だ。 老人の呆け防止も、20代のセックス呆けもボクの好みではない。 しかし、選評にあるようにこの小説のテーマは身体問題ではない。 もちろん内面問題でもなく、人間関係だ。 それもよくある「風」の読みあい、馴れ違いをテーマとする、わけしり小説ではなく、家族だが年は隔たり、生きる世界が全く異なる3人の関係。 確かに、今回の呆けは好みではないが、内容の割にサバサバと書いた人間関係はフィクションとしては面白い。 現代はまさにダイバーシティ時代、彼には沢山のモティーフがあるのかもしれない。

2015年8月12日水曜日

火花 又吉直樹

残念ながらピート又吉の漫才はまだ見たことはない、ほかのTV番組ではときどき見ていた。トウモロコシみたいな風貌はまさしく人気漫才師。沖縄人佐藤優が又吉直樹は沖縄人だ、とどこかで書いていたが、まさにザワワザワワ(?)のトウモロコシ畑をイメージさせるナイーブな青年と言って良い。TVで見る、物事に対しての独特の受け取り方と感想にはもともと関心を持っていた彼が芥川賞作家になったことを知り、やはりなぁーという驚きと、あるだろうなぁという納得が入り混じっていた。 早速、kindleからの「破天荒」をDL、その時予約しておいた文芸春秋電子版の「火花」を今、読み終え、書ける人は書くんだなと改めて感心している。こんな、言い方は失礼かもしれない、書ける人が芥川賞を取ったのであって、人気漫才師が取ったわけではない。しかし、読み急いだボクにとっては漫才師の芥川賞という関心があったのは事実だ。 ネット時代、どの分野でも人気者は大はやり。だからこそ、みんなTVから離れられず、SNSの「いいね」に嬉々とする。しかし、そんなフラットな電脳的日常生活であればあるほど、かえって、自分の好む、あるいは本当に「いいね」という出会いが難しくなったように思えてならない。 そんなことを言っても凡人は凡人、早々に、まずは「破天荒」をDLし、文芸春秋9月号を予約した。必ずしも毎回、芥川賞を読んでいるわけでもなければ、読んだからと言っていつも「いいね」と思ったわけではないのだが。 今回の「破天荒」と「火花」を続けて読んだ感想としては面白いものは面白いと素直に拍手したい。実父を描いた「破天荒」な父、「火花」のような生き方をする神谷さん、筆者である徳永君の繊細なもの言いと関わり方に何でもない日常がことこまかにビビッドに見える彼の小説はつくづく「いいね」と思ってしまった。 「破天荒」(又吉一樹)は予想を超えた面白さだ。「火花」の神谷さんに通じる父の振る舞いには破天荒というより、人間味あふれる可笑しさと哀しみと、とてもまねのできない生きるうえでの本音が描かれている。その父を見つめるまなざしがまたすばらしい。「火花」の徳永君も同じだが、彼の受け取り方は安易な理解や同情ではなく、繊細な関わりからくる強い言葉の正直さ。漫才師作家だが決して軽くはない、どーんとした人間の生きざまをしっかりと描いていく。 「火花」を支えているのは最近の小説に多い「個人的な内面の世界」ではない。様々な人と様々な場所との関わりが虚構として見事に計算され、人と場所と時間が細かく組み合わされている。井之頭公園、その脇の階段上の珈琲店(この店はぼくもよく知っている、まだあるんだ)から吉祥寺のハーモニカ横丁、そこから延々と歩く上石神井までの山茶花の道。池尻大橋の丸正から三宿、三茶、駒澤大学を抜け、二子玉川までのから揚げの道。どちらも男二人だけのとぼとぼした深夜の散歩。小説全体は熱海の花火に始まり、熱海の花火に終わる10年間の神谷さんと徳永君。そこに描かれるものは火花のような非日常的な日常。花火と花火の間の「火花」とはなんともうまい書きっぷりだ。計算されたみごとな虚構と言いたかったのはこのあたり、一瞬の200万部は決してだてではない。