2015年4月30日木曜日

現代音楽の夕べ 藝大奏楽堂

90年代生まれの芸大生2人と彼らの教授的立場にある2人の作曲家、2対2、4人の4曲の現代音楽コンサートはどこまでも新鮮で、素晴らしく楽しい時間だった。
前半の若手2人の曲はもう演奏のための舞台は不要と思ってしまう。
響き渡る音響はどこからということより、会場全体が大きな音空間となっているような拡がりが感じられる。
しかし、実際は指揮者がオーケストラと対峙する舞台の上での従来通りの演奏形式だ。
音源も電子音はということもなく、ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、木管、金管・・・という、いつものと変わらないインストゥルメントによるオーケストレーション。
音楽はもう、メロディーはいらないのかもしれない。
多彩な音響による時間と空間の伸縮と強弱、その空間の振動と重合。 自由なリズムを刻むパッカーションが華々しく、表に出たり、陰に回ったり、あるいは消えていくような空間をいつまでも持続させるようと静かにとどまり続ける。
パンフレットの解説によるとオープニングはMultilubricity。
作曲者自身は、高密度な情報に疲弊した人類が作り出す音楽は「音楽」を放棄し究極の音素材であるインパルスのような音に還元される、と考えている。
ここでいうインパルスとは無限に短い時間と無限に高い音高を持つパルスのこと。
そして、その音響をどう受け止め、どうインテグレートするかは聴き手の自由ということだろう。
作曲者は物理モデリングシンセシスの模倣とピグミーの定旋律を下敷きにし全体をまとめたようだが、解説からは想像できない、全く異種の音空間が生み出されていることは事実だ。
さらに、二曲目の解説は作曲者によるとチェロが表現する音響そのもののミメーシス(隠蔽擬態)。
生物環境の中の微細な変容を音空間化しているようだが、そのイメージは音響が鳴り響く会場全体を微細な森の中の小さな葉と土塊の世界に変容していくように感じられた。
休憩後は野平氏と南氏のまさに20世紀の音楽だ。
それは従来の音楽的世界が解体されていく中、十二音技法という純粋で無記名な音の操作により新たな音楽的世界を生み出そうとされている。
しかし、そのイメージはまさに現代都市における建築デザインに似て、カタチがあるのかないのか、紡ぎだされるメロディーは、何かを語っているのだろうが、ナニモノも視覚化されなれない。
南氏のピアノ協奏曲は極めて興味深かった。
ナニモノも視覚化されないイメージの中、ピアノ音だけが終始、空間のどこかで響き渡り、消えていくのか、大きく踊り上がるのか、その息詰まるような音の持続は会場を後にしてもいつまでも鳴りやまない。

2015年4月29日水曜日

セッション

連休前に見ておきたいと思った映画「セッション」。 今月のキネマ旬報の批評欄、珍しく3人とも満票、10個つけたいというコメントまであり、昨日いそぎ日比谷に出かけた。 予約なしでも空いているだろう、安易にシネマズに行ってみると、切符売り場は大勢の人だかり。 おかしいなと思いつつ、よく見ると客は老人ばかり、 平日の昼間の上映だからあたり前かもしれない。 しかし、人気は併映の「寄生獣」と見込んだが、なんと行列は「セッション」だった。 映画は音楽大学でジャズ・ドラムスを学ぶ学生とJ・K・シモンズ演じる熱血教師の話。 話は単純で、ただただバイオレンスな暴力教師が新入生をしごきまくる映画だ。 評者の一人は「ドラムスで映画が成立することに感服。」と書いていたが、納得するのはこのコメントのみ、ひどい映画だ。 チャーリ・パーカがまだ新人のころ、セッション仲間のドラマーにシンバルを投げつけられたという逸話を下敷きに、シモンズ先生(だめだ役名も忘れた)が徹底した暴力でアンドリュウー(しごかれたドラマー、シモンズと対照的なやさしい顔立ち)と関わる。 批評家の満票に背き、ひどい映画だと言いきる素人がネタバレを書き散らすのは礼儀を失するので控えるが、根性を鍛えるのは大学の仕事ではない。 学識にしろ技術にしろ、教師に可能なのは学生の納得や得心に関わることだけ。 答えは一つではないのだから、叩き込めば理解されると考えるのは教師のうぬぼれ。 教師に可能なのは、どこまでも学生個々人が持つ想像力に関わることだ。 頭ごなしの、パーカーやマルサリスの逸話を傘にしたバイオレンスだけで何が可能なのだろうか。 学生が血塗れになってバチをふるうのは運動能力のためではなく、自分自身の想像力の問題だ。 もっとも、この映画、若い人には必要なことなのかもしれない。 人生のはじめの頃、何も考えず、何もあてにせず、ただただ遮二無二ドラムを叩きまくったという経験は、ボクにはないだけに、何か貴重な体験がテーマとなっているような気がする。 しかし、その体験を共有させたいという企みだけなら、老人はともかく若者は引く、いや引いて当たり前だ。 まして「ラストシーンに舌をまいた」のは批評諸子だが、ボクは嘘だろうと仰け反った。 これでは安っぽい予定調和の押し付けだ、どこにドラマ(ドラマーではない)があるのだ。 今の時代、自分自身を見つめることは難しい、どうしても、まわりばかりが気になり、羨んだり、蔑んだりしてしまう。 確かに情報社会は生きにくい、しかし、バイオレンスだけでは何も生まれない。

2015年4月28日火曜日

スイス、バーゼルのヴィッラのつづき

スイス、バーゼルに事務所を構える、クリスト・アンド・ガンテンバイン(70年代前半の生まれ)。
彼らの設計意図はコンテクストに真摯に向き合うことで建築を作り出すということのようだ。
つまり、周辺が中世のヴィッラやパラッツォであるならばそのコンテクストに、周辺がありふれた産業建築であるならば、その周辺から何を読みとり何を語るか。
彼らの世界観は灰色、グローバル・ローカルあるいは前衛や土着という二項対立ではなく普遍性を見出すことにある。
そこにはロシアの思想家ミハイル・バフチンのいう「クロノトープ」が見えてくる。
すなわち、時間はもはや一直線には進まない、一つの空間に二つの時間が併置される。
建築の歴史性は根拠を失った、いかに、従来の建築に対抗し迎合するかだ。
したがって、過去の建築をレファレンスとして設計、しかし、歴史の賞賛としてではなく、普遍的な問題をいかに取り出すかがテーマとなる現実社会の需要とどう向き合うか。
建築とは要求された需要をすべて受動的に実行するのではなく、また設計者独自のアイディアを過激に主張して生まれるものではない。 現実的な力を意識すること、しかし、ただただフラットに関わるのではなく、向き合っていく。
その道徳的とでもいえる態度はモダニズムをも勤勉に引き継いでいると言って良い。
アーレスハイムの住宅増築
掲載写真を見る限り上の言説との若干のずれを感じる。
既存の建築に増設された建築だが、そのスタイリッシュな現状に対し、あたかも、逆らうかのように不正形な平面系と波形の外壁で構成している。
どうやら不正形な平面系はいくつものボリュームが捩れたままの括れとして接続されていて、その形態は図形として選ばれるのではなく、敷地形態や高低という外部的要請に答えたもののようだ。
様式の規範は教わったが、コンセプトを絶対視するほどコンセプチュアリストでもない。
フォルムを吟味する余裕はなかった、経済的にも時間的にもと彼らは言う。
だったら普遍的な五角形にしようと悩まずに決まった。
五角形は正方形のように完成されておらず、非対称。
不合理な判断だが、やがて設計のテーマになっていったとのこと。
プロジェクトの決定的な瞬間というものは決して目に見えるものではない。
建築はそうした闇から生まれる。
現実のフォルムがどうであれ、 フォルムのおかげで建築家の自律性もいくらか回復できる。
フォルムの問題に触れずに政治的なレトリックを弄したり、ボトムアップの方策を講じたりするのは懐疑的。
フォルムを語らずして一体何を語るのか。
つまり、彼らには建築である以上フォルムこそ重要なのだ。

スイス、バーゼルのヴィッラ

安くて便利なコンビニ建築とチェーン店モールのインテリアばかりと思っていた最近の建築雑誌だが、よく見ると決してそんなことはない。 a+u534の表紙はスイス・バーゼルの要塞のような住宅だ。 矩系の壁面を縦長で縁なしのガラス窓が完璧な対称形に穿っていく。 対称が面白いのではなく、まるで古典主義建築のような重々しい外観を生み出しているのがなんとも奇妙だ。 四面の外壁面とその壁面にはめ込まれた縦長両開き扉の板戸は屋根材に使う砂付きルーフィングで覆われている。 この奇妙な住宅の平面図は完璧な古典主義建築の対称形で構成されている。 その単純矩形は大と大の間に二つの小が重ね合わされる四つのスペース。 しかし、よく見れば平面形も外装も現代の住宅の流行そのまま、まるでプアで簡素という他はない。 だが、写真で見る限りインテリアはリッチだ。 光沢のある透明なオリーヴ・グリーンで塗られた重厚で厚みが感じられる木板の壁面と同材の床面を手製の刺繍カーペットが覆い、その空間は昔のヴィッラの趣といって良い。 事実ガラス窓を壁面に引き込み、内部扉がキッチンとバスを覆えば、全体はかっての貴族のサロンに変身する。 人々が着飾り、集い、談笑し、音楽を聴き、ダンスを踊る。 それが住宅とはいえ往時のヴィラやパラッツォのスタイル。 紹介記事ではパヴィリオンと記されているが、この建築は貴族時代のオマージュとして作られている。 立地は30年代のヴィラが広々とした緑豊かな庭園に立ち並ぶかってのブルジョワ階級の住宅地。 こんな場所であるからこそ、奇妙でプアな外観とリッチな内観が多くを語り、黙することなく、本来のヨーロッパ建築の役割を再確認しようとしているかのようだ。 つまり、「建築」はどこまでも想像的世界、非日常的空間であるということ。

2015年4月26日日曜日

歩みゆくミラノ

イタリア文化館でのイベント、舞台女優パトリッツィア・ザッパ・ムラスによる「音と映像とモノローグ」。ミラノは建築・美術・音楽・文学と様々な文化資産を持つ羨ましいイタリアの歴史的大都市。 その都市に生きるパトリッツィアがロンダニーニのピエタから始まり最後の晩餐、騎馬像、スフォルツェスコ城、ヴィスコンティ館、大聖堂、スカラ座、運河網とミラノの過去と現在・未来を語ってゆく。 真っ暗な舞台上にスポットライトを浴び、たった一人立つ彼女のしぐさがすでに一つの美術品のように思えてしまう、知的で、静かで、優雅な70分だった。