2015年2月23日月曜日

はじまりのうた

先週もまた、いい映画に恵まれた。新宿ピカデリーはインターネットでスポット予約ができる。そのときはまだガラガラだったので、空いているかと思いきや、暗くなりかけた場内は満員だった。当然ながら、この映画も若い女性とカップルが主流、しかし、飲んだくれていた音楽プロデューサーの旦那が改めて妻と娘に迎えられるハート・ウォーミング・ドラマでもあるので、ボクを含め、オジサンおばさんも少なくない。 映画は文字通り「はじまりのうた」だ。何が始まるか、それは映画を見るしかない。キーラ・ナイトレインばかりが評判の映画だが、恋人に裏切られ捨てられた美貌と美声の歌手を演じての『BEGIN AGAIN』(原題)だからしかたがない。しかし、やっぱりこの映画はどこまでも素晴らしい。何故かって、詩なんだ。歌はクラシックもポピュラーもすべて詩が生命、というのがボクの持論。ここ言う「詩」とは言葉のかたち、言葉の持つ感情的直接的意味ではなく、かたちが想像させる異種の空間。体感的空間と想像的空間が重なった世界のことだ。 ニューヨークを舞台にした街の歌、それはすべて間違いなく、今の人々が夢見ている「都市の詩」。彼女に出会ったダン・マリガン、彼はすでに酒だけでなく、行く年に身も心も侵されている。そんな彼がもっとも探しているもの、あるいは探し求めているもの、それは「都市の詩」、失意のグレタ、彼女自身の世界なのだ。多分この映画は悲劇でも喜劇でもない恋愛劇、「都市の詩」に恋をしたダンのうた。

2015年2月22日日曜日

オペラ「結婚手形」「なりゆき泥棒」

研修生15期・16期生によるオペラ研修所公演では国立音大卒業の二人のプリ・マドンナ、原璃菜子と清野友香莉を同時に聞けるというので早くから楽しみにしていた。座席も二列目中央と絶好だ。(いや、ちょっと近すぎた!)プログラムを読むとロッシーニの18歳と20歳の時の作曲という。なんとも初々しい、いや聴いていても、その溌剌さを実感する、春のようなオペラだ。演目は「結婚手形」と「なりゆき泥棒」どちらも明るくユーモラス、めでたしめでたしの喜歌劇。
「結婚手形」はロッシニーのデヴュー作とはいえ、そこは天才作曲家、小オペラだが音楽はハイドンのカルテットのようにすっきりと纏っていて終始気持ちが良い。物語はロンドンの商人のもとへカナダの商人が花嫁手形を持って調達にくる。そう、縁談を商談とする父と新大陸の商人とはとんでもない人たちだ。しかし、同時代の産業革命とはこんな形で始まったのかもしれない。かわいいファニーの抵抗が何ともいじらしい、彼女は恋人と機転のきく使用人の助けを借り見事、カナダ商人は追い返す。もっとも手形を不履行にせず、孫という利子までロンドンの商人に残して新大陸に帰えるカナダ人は大時代の人。やはり、時代はこんな風に進みたいものだ。
「なりゆき泥棒」もまたプリマドンナの計らいが功を奏す二組の求婚オペラ。喜劇は嵐を避け小さな小屋に雨宿りした二組の旅人が鞄を取り違えたことから始まる。一組はパルメニーオ(ドン・ジョヴァンニ)とマルティーニ(レポレロ)という主従。そしてもう一組はナポリに住まう許嫁を迎えに行くアルベルト(アルマヴィーヴァ)伯爵。ナポリのベレニーチェは侍女エルネスティーナと役を取り換えて伯爵を迎える。しかし、どちらが本物の伯爵か。鞄の取り違えと役の取り換えが交錯し、ベレニーチェの毅然たるアリアがなりゆきを解決する。そう、このオペラもまた手形と同様、リズミカルな五重唱とプリマドンナのシェーナ・カヴァティーナ・シェーナ・カバレッタが会場の聴衆を沸かし幕を閉じる。

2015年2月7日土曜日

トラッシュ!この街が輝くまで

先週の「ジミー」は満点の面白さだったが、今週の「トラッシュ」もまた星5つをあげたい傑作だ。リオデジャネイロのゴミの山で生きる3人の少年たちのサスペンス活劇。ゴミとスラム街を舞台に走り回るハラハラドキドキの120分。しかし、彼らの知恵と正義感あふれる行動とチームワークはエンディング前からもう拍手喝采だ。 話は社会の不正を暴こうとする弁護士が警官たちに追われ殺されるところから始まる。しかし、その不正の証拠が隠された弁護士の財布は幸い、ゴミの山からラファエロが拾い出す。たちまち警官にその財布の拾主として追われた彼を助けるのがガルボとラット。彼ら3人は財布の中身のお金はともかく、中に隠された秘密の重大さを悟り、追いかける警官たちから逃げ回りつつ、知恵を働かしその秘密を暴いていく。 エンディング近く、子供達の父親役でもあるスラムの教会のアメリカ人神父はエクソダス!と語る。三人の悪童は不正な為政者からスラムはおろか多くの人々を救う、モーゼとなった子供たちのことだろう。

2015年2月5日木曜日

「語る建築」から「会話する建築」の時代へ

ニューヨークのワン・ タイムズ・スクエア・ビルが全面巨大電光掲示板に覆われたのが1996年。その30年前、ちょうどビートルズの「イエローサブマリン」がイギリスのリヴァプールから東京にやってきた頃、ロンドン・エクスプレスは気球に運ばれるビルボードと共に田園を旅する「インスタント・シティ」を特集した。
そして去年の11月、都市の建物が多方向コミュニケーション・ツールに変わっていく状況をa+u530がリポートしている。
建物が情報メディアであることは古代エジプト以来の建築史の常識。その変容は建築術、印刷術、電脳術として読み取れると書いたのはボクのCOMMEDIAkindle版「音楽と建築」。しかし、この特集号はもはや建物は都市サイボーグを形成しつつあると書いている。「建築家にはパフォーマティブな不可視な要素を通じて、意味を自在に表現し、演出する能力が求められる。」と書かれると、ただただオイ!オイ!と思ってしまう。
18世紀の「語る建築」やポスト・モダニズムの「建築言語」を遠にやり過ごし、いまや「語る建築から会話する建築の時代」になったことは事実だろう。

2015年2月1日日曜日

ジミー、野を駆ける伝説

20世紀初頭のアイルランドだが、そこは昔からの教会や地主の力が強く、古い秩序に固執する意識が高いところのようだ。歴史にあるアイルランドの独立、その後のIRA活動とその変遷が背景となるこの映画、見終わってみると、今もっとも気になっている、「イスラムのテロを生み出すものは何か」に繋がる重要なテーマを秘めているように感じられてならない。
しかし、映画はそんなに難しいものではない。

ジミーは仲間たちとスポーツや美術、音楽、ダンスを楽しめる集会所を作った事から村を追い出されてしまう。そんな彼が10年ぶりに緑の草原の故郷、リートリムに戻るところから映画は始まる。そろそろ白髪も散らばるジミーだが、待っていたのは年老いた母と恋人、そして昔の仲間たち。彼は仲間たちの強い希望に促され、再び集会所を開く。しかし、古い秩序を主張する人々の暴力は止まらない。遂に、集会所は焼かれ、彼はまた故郷を追い出され、アメリカに送られていく。

今朝、恐ろしいイスラムのテロの犠牲となったなんとも悲しい日本人の死を知った。しかし、この映画は伝えているのはどちらが正しいかではない、追い詰めているものは何かだ。恐怖も貧困もない、秩序ある世界を生み出すものは、暴力や権力ではなく、どこにでもある、日々安らかな「スポーツや美術、音楽、ダンス」ということなのではないだろうか。