2015年1月30日金曜日

ジャッジ

「ジャッジ」という題名は最近の日本映画にもあるということなので、はじめにおことわりをしておく、このコメントは「ジャッジ 裁かれる判事」を観た感想だ。
題名は難しい。
「ジャッジよりジャスティス」がいい、と思いつつ映画を観ていた。
ジャスティスは大好きな言葉、それほど今日の映画は素晴しい。
この言葉は難しい、趣味趣向の映画の題名としては相応しくない。
しかし、この映画は押しつけではない、ごく日常的な現代人が持つジャスティスを矛盾も加味し、素直に描いている。

アメリカ中西部、インディアナの美しい緑と水に囲まれた小さな田舎の町。
カリフォルニアに住むハンクが20年ぶりにこの町に帰ってくる。
唯一の家族の絆であった母親が亡くなったからだ。
街を離れ一流大学の法科を首席で卒業し、大都市の敏腕弁護士として成功したハンクだが、彼は意見の合わない老判事である父親の殺人を弁護するという最も困難な裁判に関わることになる。

正義感の強い父親と彼の愛する母親に育てられた三人の兄弟たち。
しかし、心豊かな父であり兄弟であっても人間はみな三人三様。
各々には生きたい生き方があり、20年という時間の流れは全く別々、過ちも誤解をも生む残酷なもの。
さらに、各々のもつ正義と心豊かさは決していつも正当に理解され、心を満たしてくれるわけではない。

大人になり振り返ればわかることだが、誰にでも均等に流れる時間、その流れはいつでもどこでも短絡的で残酷。
その残酷さに立ち向かうものは、神ではない現代人であるがゆえになさざるを得ないジャッジなのだろうか。
ジャッジはどこまで正当であっても、それは一つの切断だ。
しかし、各々の人間が持つジャスティスには、それが全くバラバラではあっても、哀しく寂しい残酷な時間を克服し安らぎを継続させる力がある。

2015年1月20日火曜日

博士と彼女のセオリー

「博士と彼女のセオリー」豪華な東和試写室で観た。スティーブン・ホーキング博士の伝記であり、純愛ドラマ。ジェーンの勇気に驚かされる。その勇気はセオリーを越え、素直に拍手したくなる献身的ドラマ。ジェーンを残しアメリカに行くホーキング、彼女に自由に与えようとする彼の優しさも泣けてくる。

2015年1月18日日曜日

チョコレートドーナツ


このドラマはニューヨークのブルックリンでゲイの男性が育児放棄された障害児を育てたという実話がもととなり制作されている。
映画の舞台はカリフォルニア、原題はAny Day Now。
チョコレートドーナツはダウン症の子供マルコの大好物。
マルコは薬物におかされた母親に変わって、ショーダンサーのルディと彼の恋人弁護士のポールといっしょに住むことになる。
チョコレートドーナツはそんな3人の絆の言葉。
しかし、マルコを追いつめるのは偏見と法律だ。

話はエキセントリック、いや、エキセントリックなのはボクのほうだ。
どうしてこの3人が一緒に住むことが出来ないのか。
偏見視された人間のまともさと、偏見視する人間の非人間性。
自然であるはずの人間が人間性を損ない、人間を不幸にするのは人間自身が持つ制度と偏見。
マルコを失ったルディとポールの悲しみ、いや、実話とは異なり、描かれることのないマルコ自身の悲しみがいつまでも重く残って消えない。
チャンスがあったら是非観てください。
蛇足だがアラン・カミングのI Shall Be Releasedもリンクした。
「グッド・ワイフ」で知ったルディ役のアレン・カミング、この映画では歌も演技も絶好調!

2015年1月17日土曜日

ミスティック・リバー

昼間の留守録映画を夜る観る機会が多かった。 1月は観たいと思う作品の放映が毎年多いようだ。 「ミスティック・リバー」、舞台はボストン郊外。 都市と田園が混在した郊外は、いまや世界中どこも、日常世界のトラブルの温床。 長年共に住み着いた三人の仲間の郊外の街、その街はずれで仲間の娘が殺されるというミステリー。 地味な映画だが、子供時代の友人たち各々の25年間がこのドラマの貴重な背景。 各々は今は仕事を持ち、妻に恵まれ、良き父親だ。 言葉、表情、態度に現れる微妙なコミュニケーションが、この映画の見どころかもしれない。 全米ベストセラー、デニス・ルヘインの作品をクリント・イーストウッドが映画化。 主演三人は適役揃い、じっくりとした大人っぽい、いい映画だ。

2015年1月15日木曜日

華氏451

映画 華氏451
ブラッドベリの華氏451はKindle出版されているがまだ読んでいない。
1953年に出版された名作が1966年にトリュフォーによって映画化されたが、2015年正月にボクは初めて渋谷で観た。
二人の図書館狂いが描いたデストピア、なんとも大げさな書きようだが、感想はこれがすべてだ。
まだどう評価すべきかよくわからない。

華氏451は書物が自然発火する温度。
込められている意味は秦始皇帝やナチの焚書という神話ではなく、禁書・発禁に近いような気がする。
しかし、禁書・発禁がテーマなら中世の修道院を舞台にして、エーコが「薔薇の名前」を書いているが、これとも違うようだ。
ブラッドベリは未来社会のデストピアを書いたのではないだろうか。

本を焼かれた人々は森の中に逃げ込みブックピープルと化す。
そこには当然、図書館も本もなく、居心地の良さそうな森はピープル一人一人が一冊ずつ丸々暗記する事で生まれた未来の図書館だ。
しかし、その森では各々がブツブツと暗記した字面を口するだけ、一切の会話もなければコミュニケーションもない。

その姿は毎日見かけるメトロの中のスマホ人間のワークスタイルに似ている。
イヤフォーンを耳にかけ、しきりに話しかけ、歩き回る煌びやかな無印都市。
各々は満足そうだが、外見からは一切の想像を拒否し、自己の世界に埋没する2015年のボク自身の日常。
トリュフォーはそんな未来の森を映画にした。
そう、春樹が1Q84で書いたリトルピープルのデストピア。

2015年1月12日月曜日

歴史的建築、思い出ある建築の有効利用と再生

昨年の4月、建築基準法第3条第1項の規定の運用について、国土省住宅局から助言があった。
専門的事柄は避けたいところだが、このブログの書き出しには重要なので触れてみる。
内容は文化財保護法に限定されていた歴史的建造物のみに許されていた建築基準法からの規定除外が文化財以外の建造物でも一定の手続きをとれば運用されるということだ。
この運用助言で、建築基準法でがんじがらめ、阻害されていた一般の古い建築物等の修復再生や有効利用が許された。
規定除外の拡大により、日本全国の文化財以外の歴史的建造物の保存再生利用、あるい既存建築を容易に壊すことなく、良い建築、思い出ある建築を使い続けることが可能となったのだ。
すでに、横浜市や神戸市は建築基準法の規定除外を活用し、積極的に歴史的建造物の有効利用を図ってきたが、昨年末の建築家協会での研究会はこの制度の運用についての討論。
使い続けるための諸制度、ストック社会におけるステークホルダーのありかた等、若手弁護士と建築家による研究会。
小さな会場をいっぱいにしての熱心な意見交換が時間を延長し積極的に行われた。
昭和は、東京あるいは日本の建設時代。
しかし、その時代はまたオリンピック時の首都高建設等の環境破壊や超高層、無謀なマンション建設という再開発が実施された都市破壊の時代でもあった。
東京に生まれ、東京に育ったボクにとっては、小中高大学という思い出ある学び舎をことごとく壊されたのもこの時代。
建築設計を生涯の仕事としながら、いつも不甲斐ない弁明と不満に終始ししてきたのが実情だった。
今日の話のポイントは今後の理念と人材育成、構造リスクと法的賠償責任にかかわる安全性をどう確保するか。
まずは同世代、次世代共々使い続けることの意味と価値その役割の確認が最重要だ。

昨日は東大で「街並み制度成立史研究会2014年活動報告会」。
またまた小さい会場は満席、歴史的景観や建造物に関し、現在、いかに関心が高いか、とてもよくわかる研究会。
会の趣旨は昭和50年代の文化財保護法の改正によって発足した伝統的建造物保存地区の制度と制度策定の経緯、用語の定義と理念に関わるその後の問題意識による討論。
この会もまた参加者は研究者、専門家が中心。
話は反省と理念構築に偏るが、共通して言えることはモノ(文化財)からコト(生活)、コミュニティと環境保全に専門家としてどう関わるか。
一般世論への情宣とマスコミ等媒体による情報の活性化にいかに関わるかが課題。
どちらも議論は研究者中心、終始抽象的だが参加者の半数は平成のジュネレーションでもあり頼もしい。
個人としては、可能な限り様々な街や建築を訪れ、今後もリポートし続けようと意を決し、会場を後にした。

2015年1月5日月曜日

自然権を「強い者」が侵す社会

年末年始のメディアは「イスラム国」で賑わっていた。 31日に読んだ竹下節子氏のブログでは「悪の慣性はフラクタルのように再生する」とある。 21世紀前半の最も厄介な問題はこのあたりだろうか。 年末にkindle版「ピルグリム」を読んでいて、彼女のブログに書かれた懸念との符合に驚いている。 この小説は9.11以降のテロリズム、イスラム国とは無関係。しかし、その恐怖とテーマはものの見事に重なってくる。 「イスラム国」はグローバル/ネットワークが基盤となるシステム。 もはや、かってのアルカイダ・モデルによる上意下脱や組織による組織追跡のノウハウは全く通用しない。 一方、テリー・ヘイズの「ピルグリム」もまた組織もシステムも無関係(国家や国連、秘密保護法も役に立たない)な巡礼者によるテロリズム。 「善く生きることは悪く生きることよりも難しい。」世界における、共により良く生きようとする人間、いや個人(放浪者=ピルグリム)どうしの攻防が続く。