2015年12月14日月曜日

雪の轍

トルコのアナトリア地方、奇岩を住居とするカッパドキアの冬を背景とする人間の物語。
既に観た映画だが、休日、近所の映画館での上映、出かけることにした。
館内は満員、良い映画はやはりだれもが見逃さない。 
この映画が長いのは一人一人の言葉を忠実に話終わるまで、いや疲れるまで、留まることなく、写し取り続けるからだ。
しかし、もう一度見たいと思ったのも、この会話の数々が気になりじっくり聞いてみようと思ったからだ。
 観終わって、前回は書けなかった感想、今は書けるだろうか。
いや、再度、見たからと言って、会話の一部始終を理解したわけではない。
内容も決して、哲学的であったり、眩惑的であったりするわけではない、誰もが問題とする日常的会話だ。
しかし、よくわからない、そして、気が付いた。
この映画は人間の会話、あるいは「言葉」というもの、そのものをテーマとしているのではないか。
全ての登場人物は悉く皆、喋りすぎ。
しかし、そのお喋りからは決して、新たな関係は生まれない。
結局、お喋りは人を傷つけ、喋る自分自身が最も大きな深手を追っていく。 
この映画では、話せば話すほど人は空しくなっていく。
人は話せば話すほど、阻害され、その関係は壊れていく。
人間の関係は決して話し合ったからといって、新たな関係が生まれるものではない。
もちろん、会話や言葉に罪はない。
しかし、言葉は罪かもしれない。
人間の言葉は自分が思っているほど、正直でももちろん嘘でもない。
しかし、話せば理解してもらえるという単純なものではない。
哀しいのはそういう言葉を持ち、言葉にとらわれる人間ということだ。

2015年12月13日日曜日

ヴェルサイユの宮廷庭師

あるがままの世界がまだ、私的・個人的世界であり、社会的秩序としては認められていない時代のお話。 話は単純で新味はないが、物語の背景となる世界はとても興味深い。 17世紀後半はフランス・バロックが一気に開花した時代。 まさに「あるはずの世界」の絶頂期だが、しかし、映画はやがてくる「あるがままの世界」の産声とその秩序観を巧みに描いていく。 こんな感想は個人的すぎるが、未亡人となったマダム・ド・バラが、歴史で有名なル・ノートルとともに全く新しいコンセプトにチャレンジする。 そのコンセプトとは100年後のマリー・アントワネットのトリアノンを先取りするもの。 いや、描かれる恋と自然とヴェルサイユの風はトリアノンのロココを超え、現代社会にこそ反映させたい女性的価値観だ。 本来の宮廷庭園とはコンセプトが異なる、巧みに自然をヴェルサイユウ庭園の宮廷庭園設計者古い価値観に代わり、新しい芸術観が産声をあげる時代映像も物語もとても分かりやすく「あるはずの世界」の解体、いや、やがて訪れる「あるがままの世界」の秩序を描いて、好感を持ち楽しめた。映像そして物語はヴェルサイユの宮殿と庭園を造る時代、庭園のデザイナール・ノートル

2015年12月12日土曜日

放浪の画家ピロスマニ

ゲオルギー・シェンゲラーヤの「若き作曲家の旅」を観たのはいつだったろうか。 
広大なロシアの大地の西端にあり、コーカサスの南、さらにその南にあるトルコとともに黒海を囲むグルジア地方を旅し、その地の古い民謡を採集していく若き音楽家の旅。 
豊かな山河により添い、集い、生活する人々の古い歌声はどれもが哀愁を帯び、優しく家々や大地にこだまする。
 映画は、しかし、採集された歌声の連なりは反権力者たちの集落の連なりと見なされ、押収された作曲者の記録は官憲の手に渡り、歌声の集落は悉く暴力に侵され、破壊されていく。

 岩波ホールでの「放浪の画家ピロスマニ」はこの地に生まれ育った実在の画家(1862~1918)の物語。 
この映画は「音楽家の旅」より15年も前の作品。 
デジタルリマスターされた音と映像は、豊かな山河や集落、祭に集う人々の音楽と彼らが酒を飲み語り合う居酒屋の中の風景を美しく切り取りとっていく。 
その情景はピロスマニが描く絵画の中の世界と全く同じだ。 
実在を描く映画と映画の中のピロスマニの絵画、虚実が重ね合わされたのどかな集落はやがて、その世界から絵画を失い人々の日常も色あせていく。 
その原因は作曲家の旅を蹂躙した官憲力とは異なり、様々な人間が追い求める欲と名声と言えそうだ。
 ゲオルギー・シェンゲラーヤ歴史を超え生き続ける人間世界を、美しい音楽と絵画による風景画として描いている。

2015年12月2日水曜日

パリ3区の遺産相続人

かっては貴族館が立ち並んだパリのマレ地区、セーヌの流れも近いパリの中心だが、いまだ静かなその街並みの一画に中庭を囲む瀟洒なアパルトマンが建つ。住まうのイギリス生まれの老婦人と、もはや若くない、いまだ独身の娘との二人。 アパルトマンは老婦人のかっての恋人であったアメリカ人が所有するもの。しかし、フランスの独特の不動産制度により、その住まいと生活はなん人も侵すことが許されない。そんなアパルトマンに50代半ばのパッとしない独身男がニューヨークからやってくる。男は父の死によりこのアパルトマンを相続した新しい所有者だ。 長い前ふりだが、物語の芯となるものはこのアパルトマンの所有ではない、そこに生活し続けてきた二人の女性の恋のカタチだ。しかし、それを単によくある不倫物語と言ってしまえば、映画は直ちにディエンドとなってしまうだろう。不倫とはなんとも無粋な言葉だが、映画もそんな言葉をえがいているわけではない。物語はもともと舞台劇として成功したもの。その舞台の演出家があえて映画として構成しなおし、現代社会の恋のありようを再び、深遠より描いている。

2015年11月29日日曜日

黄金のアデーレ

「あるはずの世界」という非日常世界と関わってきたヨーロッパの音楽と建築が、その後の「あるがままの世界」つまり日常世界とどう関わり、どんな作品を生み出してきたかは、現在のボクの大きな関心事。20世紀初頭のウィーンのクリムトやシェーンベルクばかりか、トーマスマンやアドルフ・ロースの関連資料がいつもデスクを占領している。 この映画はその初頭に描かれたクリムトの「黄金のアデーレ」を20世紀末、アメリカに住むアデーレの姪のマリアとシェーンベルクの孫ランディが取り戻そうとする物語だ。物語と言っても実話だが、ウィーン・ベルヴェデーレに展示されていた「黄金のアデーレ」はもともとはユダヤ人家族ブロッホ=バウアー家邸宅のサロンを飾っていた肖像画。幸せな家族と家族の象徴を軍靴で汚し奪っていったナチス・オーストリア。奪われ、追われたマリア・アルトマンは、若き弁護士ランドル・シェーンベルクと彼の家族の助けを借り、クリムトの名画を取り戻そうと画策する。 しかし、この映画の見どころはどこまでもクリムトが描いた「黄金のアデーレ」とその絵が掛かるサロンにある。ウィーンエリザベート通りに現存するブロッホ=バウアー家邸宅は19世紀末の文化サロン。画家クリムトをはじめとして、音楽家マーラー、作家シュニッツラー、精神科医フロイト等が集まったところだ。そして、ナチス以前にクリムトが描いたアデーレだが、その表情はどこまでも「悲しい」。その「悲しみ」を取り戻すのは今を生きる、マリアとランディともう一人、この物語の貴重な伏線となっている戦時中のナチス党軍人を父に持つウィーンのジャーナリスト・フルヴェルトゥス。クリムトの「黄金のアデーレ」には後のユダヤ人家族と彼らの「悲しみ」だけが予見され描かれていたのではない、20世紀という新たな世紀、その世界に生きる人間の「悲しみ」が描かれていたのだ。

2015年11月21日土曜日

トニオ・クレーガー トマス・マン

高校時代以来の再読だ。 何処でも読めるkindleに感謝する。 この本は一気に読むほうが判りやすい。 現代の思いあがった芸術家諸氏にはぜひ読んでいただきたい。 市民生活と芸術生活、それは二律背反と考えるのは日本文学史の欠点。 もちろん、ヨーロッパの持つ理性主義と象徴主義の相克をマルクス主義に置き換える日本の知識人、その文学論にも辟易する。 トーマス・マンはもっと読まれるべき作家だ、こんな動物化した人間社会では。

2015年11月15日日曜日

わたしの名前は


ドラマとして何かがあるというわけではないが、 この映画には言葉ではなく、映画でしか表現できない世界がある。 フランス中西部の港町からノルマンディーの北の港町へ、 巨大なコンテナを輸送する孤独なトラック運転手と、 失業中の父親に虐待され家出した少女の物語。 物語と言っても意味深い言葉はない。 名前もない。 あるのは、 冷たい雨に輝く夜間街灯の眩しさや雨上がりの夜明けの暖かい日差し、 小鳥の声に包まれた草の上の昼食。 均質で形のなくなった日常生活の中に、あらたな物語を生み出そうとするかのような演出。 この映画の監督アニエス・トゥルブルはファッション・デザイナーのアニエスベー。 彼女の映像から生まれるその想像世界は言葉のない物語。 現代美術家ダグラス・ゴードンがトラックの運転手、イタリアのアントニオ・ネグリが真夜中の旅人を演じるこの映画は別種のコメントを内包するエッセー集と言えるのかもしれない。

2015年11月10日火曜日

イル・トロヴァトーレ

ベリーニ、プッチーニなどオペラの大半は悲劇。ヴェルディ好きにはオテロ、アイーダ、トラヴィアータ、リゴレット、シモン・ボッカネグラ等々切りがないが、今日は珍しくイル・トロヴァトーレを聴いた。メトのライビューイング東劇だ。 吟遊詩人とルーナ伯爵に愛される15世紀はじめのスペインアラゴン王家の宮廷女官レオノーラの物語。彼女は愛する詩人の命を救うべく身を捧げるが、その死も報われず詩人と共にこの世を去る。 身も蓋もないあらすじだが、このオペラの楽しみは全編につらなる悲劇的でドラマチックな歌とオーケストラにある。どの場面も気が抜けないアリアの連続。歌手の力量が劣っていたらとても聴いていられるものではない。 アンナ・ネトレプコのレオノーラ、吟遊詩人であるマンリーコはヨンフン・リー。ネトレプコは今や最高のディーバ、幕間に息子と戯れる映像もファンサービスとしては楽しめた。しかし、リーはくるしい、悪くはないが、堅いし声量も音高も一杯一杯だ。中国の美男子テナー、女性ファンには受けたかもしれない。 圧巻はやはりドローラ・ザジックのアズチェーナ。メゾフェチは毎度のことだが、彼女のアムネリスとエーボリー公女役は既に何回かブログに書いた。そして今日のジプシーの老婆、彼女の息子への愛と苦しみ、こんな悲しみはオペラだけで沢山だ。

2015年10月1日木曜日

うつろいの季節

アテネ・フランセの映画祭。雪の轍が気に入って見に行った。いい映画だった。トルコのジェイラン監督夫妻が演じる大人の恋。夏のカシュ、秋のイスタンブル、冬の???。この監督は音と映像はもちろん秀逸だが、選ばれたロケ地がドラマ以上に多くを語っている。2006年カンヌ国際批評家連盟賞受賞。

2015年9月30日水曜日

創造と神秘のサグラダ・ファミリア


スペインの北東、地中海の港湾都市バルセロナはローマ時代の植民都市にはじまる。 19世紀の産業革命に、いち早く成功するこの都市はヨーロッパで最初の近代都市計画を実施する。 しかし、その成功がもたらす人心の荒廃と都市汚染は著しく、敬虔なキリスト教徒であるバルセロナ市民は寄付を募り、建築家ガウディに贖罪教会を作らせることになった。 産業革命の成功がもたらしたバルセロナのサッカーチームとサグラダ・ファミリアは世界中の注目の的だが、100年に及ぶ教会の建設は決して順調なものではなく、いまだ完成していない。この映画は贖罪教会の意味とその建設の経緯のみならず、新たな課題や建設の方法まで克明に触れる貴重なものとなっている。 昔、訪れたサグラダ・ファミリアはすでに観光地ではあったが、身廊部分に若干の建設資材が置かれているだけの閑散とした建設現場だった。案内人も工事人も広い現場にちらほらでヘルメットさえ被ればどこでも自由に見学できるのどかな体験だった。 出来たての鐘楼の階段を上り、テラスのような場所に立ち、塔を見あげ碁盤目の直線街路にマンションが連なるバルセロナの新都市を見下ろした。 映画で観るサグラダ・ファミリアは全く別物に変容していた。 完成した誕生の門や受難の門、ステンドグラスからの光が輝く、まるで爽やかな秋の森のような身廊。 ベネディクト16世のミサに集まる世界中の人々の喜びはまさにテーマパークのような賑わい。 バッハのロ短調ミサ曲がこの映画をリードするテーマ曲と言えそうだが、その指揮をする音楽家ジョルディ・サヴィルの言葉。 「ロ短調は完璧な解釈は不可能だ。そこにたどり着いたら終わりだ。分からないからこそ、人は解釈を挑み続ける。サグラダ・ファミリアの建設も終わらない解釈だと思う。」は印象的。 そう、贖罪教会も完成することなく、いつまでも作り続けてもらいたい。 そんな思いを持って試写室を後にした。

2015年9月17日木曜日

湖上の美人 ロッシーニ


19世紀初めのロッシーニのオペラはその後のヴェルディーに比べ秩序観が強くバランスの良い音楽と言って良い。 ベートーヴェン以降のロマン派音楽を聴き慣れている我々は音楽は感情表現、オペラは特にドラマティックな悲劇であることが多いが、それはヴェルディやプッチニーの世界だ。ロッシーニの「湖上の美人」は18世紀のモーツァルトに近いがブッハでもセリアでもなく、オペラ・セミリアと言われている。 ヨーロッパ社会がアンシャンレジームの持つ激情的・反動的な感情に満たされたとき、音楽は一気に古典派からロマン派への道を歩む。 しかし、19世紀のはじめナポレオンの登場に呼応して、イタリアのロッシーニはむしろ前代に近い安定した秩序観を持ったオペラを作っている。 モーツァルトに近いロッシーニのこの物語もまた王の許しで完結する愛がテーマ、後宮からの逃走によく似た構成でめでたしめでたしで幕を閉じる。 しかし、スコットランドの王とその王に反旗を翻す高地の人々、夜明けの湖上から始まる愛と革命はウイリアム・テルに似て叙事的でもあり情感も深い、豊かなベルカントのアリアが数多く響く。 オペラは二人のメゾソプラノと二人のテノールの競演。 今回のメト・ライビューイングではロッシーニ・オペラには欠かせないダニエラ・バルッチェローナが圧巻だ。 彼女の低音が効いたリズミカルなコロラットゥーラは主役のディドナートやハイCのフローレスを超え、終幕で愛を勝ち取るマルコムの歌声は気持ちよく、美しく、素晴らしい。

城 カフカ


昔もそうだが、今回もまた苦労して読んだ測量士Kの物語。 しかし、kindleは面白い。昔は最後まで読み通せ無かったが、電子本だと何故か、途中で放り出せず、今回はなんとか読了した。 城に辿りつかないどころか、雪の中に閉じこめられた儘だった我が読書人生。 これでようやっと「変身」から我が身に戻った気分だ。 読み取りは様々だろうが、この物語は王のいない官僚国家。 意味不明、コミュニケーション不在の小役人がゴロゴロする近代社会として読んでみた。 いや、測量士という不用な秩序化を役柄とする、K自身が王である逆転した王国の物語かもしれない。 物語は未完と言うことだが、近代は何処までも未完。 人間不在のシステムは無用な測量図を永遠に描き続けるのではないだろうか。

2015年9月15日火曜日

バビロンの流れのほとりにて 森有正


「閉鎖した建物の中に自己を開いていくことで共同体を深く発達させたヨーロッパの人々の建築体験。その体験はいまや光に向かい外界に向かって開かれてはいるが、しかし自己閉鎖している。自己をめぐりまつわる閉鎖と開放とが、ある秩序を持って関連しているところに不変のヨーロッパがある。」 有正は「バビロンの流れのほとりにて」にこんなことを書いていた。 建築批評を見いだせない苛立ち中の学生時代のノートだが、いま読んでみて、自己閉鎖した状況はいまだ変わらず、新たな秩序を見出すこともない建築は、もはや再発見は不可能かもしれない。 「自己を開くには思想を支える感覚と経験そして生活が必要であり、充実した壁に硬く護られた厳しい生活の観念と結合しての思想が発達したヨーロッパにおいては、自己を本質的動点に維持することは花を愛玩することとは対蹠的である。」 ロマネスクの教会の中に一輪の花を見つけたところで、彼らの建築が理解できるわけではない。その壁の中の感覚、経験、生活を体験しなければ、建築(=思想)を見出すことは不可能なのだ。

2015年8月30日日曜日

大衆の反逆 オルテガ・イ・ガセット


1930年代にすでにEUいやヨーロッパ合衆国を予告していたとはおもしろい。第一次世界大戦中に書かれたショッペングラーの「西洋の没落」は18世紀以降の市民社会の崩壊を書いていた。しかし、オルテガはヘーゲル的歴史主義、近代主義とは距離を置き、「生の哲学」を模索した。たしかに、戦争がひとまず終結すると、その時代はアメリカと共産主義ロシアの台頭。しかし、彼は大衆主義を単にヨーロッパの没落とは考えていない。 オルテガ・イ・ガセットは生きることは現在の自分の繰り返しであり、自己完成に努力を払おうとしない人々の社会における危険性を「大衆の反逆」と呼んでいるが、近代は自分を完全に掌握していない人々の何を実現していいかがわからぬ時代なのだと考えている。つまり、ヘーゲルの歴史的発展主義やその後の実存主義の誤謬を早々に懸念し、プラトンやデカルトやカントに立ち戻り「生・理性」に支えられる真の市民社会を素描しているのだ。 アナクロニック、書いたのは哲学ではなくエッセー、それは多様なディレッタント的ノートにすぎないとの批判はヴァレリー対するものとよく似ているが、60年代に入り、「過保護なお坊ちゃん」が「環境=文明」を空気のような自然と錯覚し始めた時、この多様な視点を持つ「大衆の反逆」は本来的意味を発揮し始めたと言えるのではないだろうか。

2015年8月27日木曜日

ボヴァリー夫人とパン屋

19世紀のフランス小説、フロベールの「ボヴァリー夫人」の上にレヤーを被せ映像化し、21世紀の不倫劇を描いたなんとも凝った映画だ。 映画はやはり小説を読んでからでを観たほうが楽しい。この映画はドラマでもなければ、「ボヴァリー夫人」を描いているわけではない。 19世紀の田舎を抜け出したがる小市民と現代の都会から田舎をあこがれる小市民を対比させている。さらに従来からあるフランス人とイギリス人の違いをユーモアを持って明確にかき分けている。 しかし、この手の映画は日本では流行らない、特に男性陣は苦手だろう。何故なら、フランス人が持つ独特の女性観、その好色的なくすぐりを距離間を持って楽しむことは結構難しいからだ。
人のいい中年おじさんの持つお節介に、我々日本男児、どこに共感を見つけたらよいのだろうか。そもそも、フロベールの「ボヴァリー夫人」を今の時代、面白いと思う人が何人いるだろうか。 この映画は凝っていると言いたかったのは、実はもう一つ背景となる映像にある。映像化されたルーアン大聖堂やその周辺の中世以来の小さな街の住宅とインテリア。そこはまさにフロベールが描きたかったノルマンディーの自然環境と建築の美しさそのものなのだろう。といってもボク自身この場所を一度でも訪れた訳ではないのだからすべてが想像。しかし、映画は19世紀のリアリズム小説の風景はこんな世界だったのかと思わせてくれる。

2015年8月16日日曜日

スクラップ・アンド・ビルド 羽田圭介

「火花」と同時の芥川賞受賞作。 この作家の方が又吉直樹より次作は早く、かつ、多くを書くであろう、との選評が気になり読んでみた。 被介護老人とその父を介護する娘、主役は老人の孫、失業中の身ゆえ二人と同居せざるを得ない健斗君。 祖父を寝たきりにさせず、かつ、自分自身の体力と精力の維持に励む健斗が語り手となるマッスル小説だ。 老人の呆け防止も、20代のセックス呆けもボクの好みではない。 しかし、選評にあるようにこの小説のテーマは身体問題ではない。 もちろん内面問題でもなく、人間関係だ。 それもよくある「風」の読みあい、馴れ違いをテーマとする、わけしり小説ではなく、家族だが年は隔たり、生きる世界が全く異なる3人の関係。 確かに、今回の呆けは好みではないが、内容の割にサバサバと書いた人間関係はフィクションとしては面白い。 現代はまさにダイバーシティ時代、彼には沢山のモティーフがあるのかもしれない。

2015年8月12日水曜日

火花 又吉直樹

残念ながらピート又吉の漫才はまだ見たことはない、ほかのTV番組ではときどき見ていた。トウモロコシみたいな風貌はまさしく人気漫才師。沖縄人佐藤優が又吉直樹は沖縄人だ、とどこかで書いていたが、まさにザワワザワワ(?)のトウモロコシ畑をイメージさせるナイーブな青年と言って良い。TVで見る、物事に対しての独特の受け取り方と感想にはもともと関心を持っていた彼が芥川賞作家になったことを知り、やはりなぁーという驚きと、あるだろうなぁという納得が入り混じっていた。 早速、kindleからの「破天荒」をDL、その時予約しておいた文芸春秋電子版の「火花」を今、読み終え、書ける人は書くんだなと改めて感心している。こんな、言い方は失礼かもしれない、書ける人が芥川賞を取ったのであって、人気漫才師が取ったわけではない。しかし、読み急いだボクにとっては漫才師の芥川賞という関心があったのは事実だ。 ネット時代、どの分野でも人気者は大はやり。だからこそ、みんなTVから離れられず、SNSの「いいね」に嬉々とする。しかし、そんなフラットな電脳的日常生活であればあるほど、かえって、自分の好む、あるいは本当に「いいね」という出会いが難しくなったように思えてならない。 そんなことを言っても凡人は凡人、早々に、まずは「破天荒」をDLし、文芸春秋9月号を予約した。必ずしも毎回、芥川賞を読んでいるわけでもなければ、読んだからと言っていつも「いいね」と思ったわけではないのだが。 今回の「破天荒」と「火花」を続けて読んだ感想としては面白いものは面白いと素直に拍手したい。実父を描いた「破天荒」な父、「火花」のような生き方をする神谷さん、筆者である徳永君の繊細なもの言いと関わり方に何でもない日常がことこまかにビビッドに見える彼の小説はつくづく「いいね」と思ってしまった。 「破天荒」(又吉一樹)は予想を超えた面白さだ。「火花」の神谷さんに通じる父の振る舞いには破天荒というより、人間味あふれる可笑しさと哀しみと、とてもまねのできない生きるうえでの本音が描かれている。その父を見つめるまなざしがまたすばらしい。「火花」の徳永君も同じだが、彼の受け取り方は安易な理解や同情ではなく、繊細な関わりからくる強い言葉の正直さ。漫才師作家だが決して軽くはない、どーんとした人間の生きざまをしっかりと描いていく。 「火花」を支えているのは最近の小説に多い「個人的な内面の世界」ではない。様々な人と様々な場所との関わりが虚構として見事に計算され、人と場所と時間が細かく組み合わされている。井之頭公園、その脇の階段上の珈琲店(この店はぼくもよく知っている、まだあるんだ)から吉祥寺のハーモニカ横丁、そこから延々と歩く上石神井までの山茶花の道。池尻大橋の丸正から三宿、三茶、駒澤大学を抜け、二子玉川までのから揚げの道。どちらも男二人だけのとぼとぼした深夜の散歩。小説全体は熱海の花火に始まり、熱海の花火に終わる10年間の神谷さんと徳永君。そこに描かれるものは火花のような非日常的な日常。花火と花火の間の「火花」とはなんともうまい書きっぷりだ。計算されたみごとな虚構と言いたかったのはこのあたり、一瞬の200万部は決してだてではない。

2015年7月29日水曜日

美しき五月

クリス・マルケルが亡くなって、2年を経過し、パリはシャルリー・エブド襲撃事件を経験した。 50年前はともかく、彼の映画は現在一般市民の間で大評判と聞く。 100年前の第一次大戦で近代戦の恐ろしさを実感したパリは、 その後、ヒトラーの侵略には全面戦争で対峙することはなく、 全国土はナチに蹂躙された。 今日の映画は「美しき五月」お茶の水のアテネフランセ。 この映画は50年前に作られたアルジェリア戦争後のパリをドクメントしている。 イブモンタンの声とルグランの音楽。 ボク自身はまだ学生服、しかし、他者に対して著しく関心を持ちだした頃のこと。 フランソワ・トリュフォーのヌーベルバーグに魅せられていた。 「美しき五月」から思い出したのは場面はローマだが、アランドロンとモニカ・ビッティの「太陽はひとりぼっち」。 50年前のパリ市民たちが語る平和は、 第二次大戦やアルジェリア独立戦争を政治的終結させたことを意味するのか、 いや、シャルリー・エブド襲撃前のパリの平和のことなのだろう。 映画に登場するパリとパリ市民、それは現在の日本、そして大都市東京に酷似している。 シャルリー・エブドのテロを体験したのは現在のパリ、 しかし、東京は幸いまだテロにはまみれていない。 今日のアテネ・フランセでこの映画を共に見る若い人たちに、 何事もなかれといのるばかりだ。

2015年7月16日木曜日

村野藤吾建築展 目黒美術館

建築好きの方は必見、目黒美術館の「模型が語る豊穣の世界」は素晴らしかった。建築家村野藤吾さん作品は模型で見るだけでも感激。京都工芸繊維大学松隈研究室が制作し、四つのカテゴリー分けられ、彼のほとんど全作品が制作展示されている。これだけ壮観な模型展、所蔵が京都だけに東京の学生には欠かせないチャンスと言える。失望会見の後、気分が和まないまま目黒の権太坂では台風余波の激しい雨風に閉じ込められた。しかし、雨も上がり爽やかな目黒川沿いの散歩道と真っ白で静かな模型群は気分転換には最適だった。

2015年7月4日土曜日

靴職人と魔法のミシン

題名通り、全く分かり易い、裏も表も無いファンタジー。 とは言え、決して子供向けではなく、 デモも殺人もあるニューヨーク下町の物語。 昼下がりの雨の有楽町を散歩していると、 シネマ・シャンテではジャスト・オンタイム、 思わず傘を畳んで飛び込んだ。 真っ暗な客席、ひと息つくと本編が始まる。 画面はロワーイーストの古い街並み。 銀座裏通りのような低層ビルの商店が軒を連ね、 歩道には沢山の人が行きつ戻りつしている。 そう、決して煌びやかでは無いが、 どこか暖かみが感じられる日常的な都市風景。 加えて、ショコラ風のアコースティックなギター音楽がまったりとして気持ち良い。 なる程、この映画がロングランになったのはよく判る。 我々の知る街はどこもコンビニスタイルかシャッター通り、 しかし、ここニューヨークの下町は、 いまもなお、人も風景も音楽もどこか洒落ていて居心地が良い。

2015年6月21日日曜日

ウォッチメーカー ジェフリー・ディーヴァ

ジェフリー・ディーヴァは現代アメリカのベストセラー作家だが、このミステリーが初めてだ。 amazoneのプロモーションに乗りpaperwhiteにDLした。 さすがにベストセラー。 ニューヨーク、ロワーマンハッタンのチェルシー埠頭に残されたクラシックな置き時計がドラマの始まり。 死体はハドソン川だろうか、残された置き時計だけがチクタクと時を刻む。 しかし、ドラマの魅力は、よくあるサスペンスの刻々と動く針音ではない。 時計というメカニカルな装置の持つ徹底したコンプリケーションがテーマとなっている。 時を刻みドキドキさせるのは時間ではなく、自分自身の身体がこのドラマの中に引き込まれ、登場する多くの刑事たちと一緒に謎解きに参加しているという感覚。 この楽しみは映画では味わえない。 映画ではどこまでも自分自身はドラマの外側にいて、刑事たちの動き回る街や状況を文字通り動画として眺めているに過ぎない。 しかし、ウォッチメーカーではドラマの中、読んでいると言うより参加しているのだ。 この人気作家の作品の映画化が少ないのがよく判る。 彼は小説は映像では描けないドラマの臨場感を文章にしている。 そんな小説を日本語にしてくれている訳者も素晴らしい。 ボクにとってはニューヨークはたった二度しか無い体験だが、 彼の小説は その空間と時間体験をまざまざと蘇らせてくれる、驚くべき魅力だ。 追加コメント 「ウォッチメーカー」投稿後の昨晩、ディーヴァの「ボーン・コレクター」をレンタルビデオをで観た。 デンゼル・ワシントンのライムとアンジェリーナ・ジェリーのサックス。 好きな二人の共演、見逃せないと思い早速借りてみた。しかし、成功しているとは思えない。 小説にある知的な部分がエキセントリックで残酷なイメージの連続となってしまっている。マンハッタンも夜のシーンばかりで、小説にあるマンハッタンのの喧騒が描かれていない。 ディーヴァの作品は映像化するより、電子ブックの中の想像世界として楽しむのが良さそうだ。 作者が映像化したくないの良くわかる。彼の小説は映画の素材として地味すぎ映像化しにくい。映像の押し付けではなく、文章のイメージをいかに描くかがミステリーやサスペンスの映画化の役割と言える。

2015年5月26日火曜日

イマジン

「窓際のスパイ」は漫然とスマホばかりに囚われていると自分自身もフラットになると忠告しているかのようだ。<遅い馬>たち、スマホを捨てると俄然元気になり陰謀を暴いていく。 「イマジン」は視覚障害者はいかにビビッドに都市を体験はているかを描いている。つまりこのヒリヒリするような情報は発信者が生み出すのではなく受信者のイマジンということかもしれない。 リスボンはヨーロッパ中で最も西にある、唯一大西洋岸に面する歴史ある首都。映画は視覚障害者がこの大都市を白い杖を使わずに反響定位という方法で歩き回り自分自身の居場所を確定する。 リスボンはボクにとっても大好きな街、しかし、その都市体験は映画のなかの恋人たちのようにビビッドであったわけではない。 映画をみながら、自分自身の都市体験がいかにフラットであったかを感じさせられた。 映像はクラシックな佇まいを持つ美しい港街リスボン。一方、音響だけから街を眺めると、クルマに路面電車に鳥や風、波にモーターボートのエンジン音に、大型船に反響する教会の鐘音などなど。それは健常者の都市とはまったく別世界と言って良い。なぜなら、ボクの知る大都市は車の音のみ、しかし、映画の中の世界は靴音、つまり、共に住む人々のたくましい足音ばかりだ。 画面を飾る恋人同士は都市をどうイメージし、人々をどう眺めているのだろうか。 手にした解説には、ポーランドの新しい才能、アンジャイ・ヤキモフスキは美しい都市のシンフォニーを生み出している、と書かれていた。

2015年5月23日土曜日

パプーシャの黒い瞳

馬車を連ね、花吹雪の森や雪が舞う街を遍歴し生活するジプシー。彼らにとって言葉を文字にすることは、悲しみを記憶し、禍を招くことでありタブーであった。しかし、パプーシャは文字に惹かれ、匿った青年に惹かれ、四季折々の世界と仲間たちの喜びと悲しみを小さな紙切れに書き残して行く。20世紀初頭から始まるパプーシャたちの終わりのない旅が、微細な光の陰と輝きの風景として記録されている。哀愁深い音楽 に合わせ、シンプルなモノクロ映像をきめ細かに描いていくこの映画は、60年間に渡るポーランド・ジプシーの書くことが許されない叙事詩だ。

2015年5月20日水曜日

窓際のスパイ  ミック・ヘロン

電子書籍「笑う警官」は40年前の作品の新訳、今日の「窓際のスパイ」は3年前の作品、紙媒体と同時出版。前者はストックホルムを舞台とした警察捜査員の活躍だが、後者は現代のロンドンが舞台となるMI5(内務省保安局)の<遅い馬>と呼ばれる冴えないスパイたちの話。彼らは陰謀から逃れるためスマホをゴミ箱に捨て頭脳を結集し、テロリストに仕立てられたパキスタン人を救う。 都市の華やかさとは程遠いロンドンの片隅の街ミルドバンクの<泥沼の家>が彼らのオフィス。リージェント・パークから追い出された「窓際のスパイ」たちのアジトだ。しかし、<泥沼の家>の <遅い馬>は決して無能ではない、一度はリージェント・パーク( MI5) に雇われた彼ら・彼女たち、頭脳、体力、度胸に遜色ない。そんな彼らの活躍はスパイというより我々の日常とはどこか等距離、親近感がある。 イギリスのスパイと言えばMI6(海外情報の防諜組織)のル・カレのスマイリーかフレミングのボンドだが、 <遅い馬>たちの物語はストックホルムのマルティン・ベックたちの活躍に近い日常感覚。雰囲気は何処と無く平々凡々なスマホやノートパソコンを抱えての情報生活。なる程、情報時代とはどこまでもフラットな毎日であることがスタイルのようだ。

2015年5月16日土曜日

マルティン・ベック シリーズの新訳

マルティン・ベック シリーズの新訳がキンドルにアップされていた。 翻訳ミステリーやハードボイルドはボクの好みだが、電子出版はまだまだ少ない。 40年前のマルティン・ベック主任捜査官は当時大人気の007とは大違いだが、社会性に富むミステリーとして何冊か読んだ記憶がある何とも地味なミステリーだ。 ボンドが美女と愛を交わし世界中の都市や名所を駆け巡っている頃、たまに家に帰るベック捜査官は夫婦仲の冷めたカミサンの鼾に悩まされ、風邪で咳き込みながら、降りしきる冷たい雨の中の薄暗い北欧の街を這いずり廻っている。 格好いいボンドからは読みとれない、捜査上に現れる複雑な人間模様ときめ細かな北欧の街々の風景。 映像と写真からは見えてこない大都市の持つリアルな面白さがこのシリーズの人気の秘密かもしれない。 マイ・シューヴァルとペール・ヴァール(二人は今で言う事実婚)はストックホルムの地味な警察官たちの日常を黙々と書き続けたのだろうが、日本ではかって何冊ぐらい翻訳されたのだろうか。 今回の新訳企画はこのシリーズで最も有名な「笑う警官」と第一作と言われる「ロセアンナ」の二冊からスタートした。そして、早々にキンドルで読み終わったので、その感想をブログに残すことにした。 前書は水の街ストックホルムの観光船の中で殺され、全裸のまま閘門に放り出されたアメリカ人女性の話。 後書は日常の市内バスの中で起こった乗客9人が全員銃殺される事件。 現代社会ならテロと勘違いする大事件だが、アメリカのベトナム侵攻に反対する当時のストックホルムの日常が舞台となっていて、まさに40年前のアメリカ嫌いのスェーデン社会がそのまま描かれる。 読みながら、興味を持ったのはやはり現代と異なるこの街の印象かもしれない。 社会福祉と洒落たインテリアデザインが今のイメージだが、退廃したフリーセックスと麻薬と自殺、そしてデモと移民の街というのが当時のストックホルム。やがては東京も、という先取り的陰鬱観がかってのボクの関心、今回、再読して、その奇妙な関心を呼び覚まされると同時に、本当の都市の魅力とはいったい何だろうということを改めて考えさせられた。 新訳企画は「ミレニアム」人気がきっかけとあとがきにあったが、確かに、その陰鬱さと重いリアル感は共通している。しかし、マルティン・ベックが面白いのはなんといっても都市と人間の絡まりにある。

2015年5月1日金曜日

アラヤシキの住人たち

自由学園の宮島真一郎先生が始められた共同学舎はもう40年も経過していた。
ボク自身も一度は訪れてみたいと思いつつ、その世界を体験する事もなく、時は過ぎ去っていた。
しかし今回、本橋さんの映画のおかげでその実体に少し触れることができた。
残念ながら、先生は完成を待たずして亡くなられてしまったのだが。
2年ほど前の6月、写真家本橋成一の「上野駅」の再版を機会とした個展を見に行った。
久しぶりにお会いした彼もまたすっかり白髪。
しかし、話は終始撮影中のアラヤシキの話ばかり。
彼が夢中になる世界は、映画を観た今はとてもよく判る。
今回もまたナージャやアレクセイを引き継ぐ、彼自身による映画製作、モトハシ・ワールドだ。
彼の話す真木の面白さは、映画が始まり、すぐ気がついた。
この世界は決してドラマではない。
ドキュメンタリーでも記録映画でもない。
出産はあるが死はない、夜明けのラジオ体操はあるが就寝はない。
何事も決して声高に語ることなく、ただただ真木の里の時間が流れる。
六本木で会ったのだが、彼はそのとき、すっかりアラヤシキの住人だったのだ。
「いま撮影中だから見においでよ、しばらくあそこにいると、もうぜんぜん時間が違うんだよね」。
いろんな人がいろんなことをつぶやき、いろんなことに夢中になる。
決して、各々は理解し、つながっているわけではない。
人と人とのコミュニケーションとは必ずしも言葉のことではない。
人々は、自分を人に伝え、人を知るため、ともに食べ、ともに働く。
強制するものは何もなく、あるのはただただ流れる時間、住人たちはその時間に身を任せ共に生きている。
そう、この世界はまさに桃源郷、いや違うな、それは「音楽の世界」と言って良いのかもしれない。
熊よけのカウベルを鳴らしながら山道を1時間半、人里から離れた小さな窪地では犬が吠え、山羊が鳴き、風が流れ、アラヤシキが建つ。
白馬連邦の山並みに囲まれた小さな集落。
かっての小谷村真木の住人たちは今は里に下り、共同学舎にその地を委ねた。
現在、この真木の外、全国5カ所に拠点を持つ学舎は、知的障害や精神的障害を持つ人々を含め、農事に関心を持ち働ける人を誰をも受け入れ、共同で生活している。
誤解されては困る、ここはコミューンでもサティアンでもない。
「競争社会ではなく、協力社会を」宮島先生の呼びかけに応じて参加した人たちは、あるひとときを米や野菜をつくり、山羊を飼い、チーズやソーセージ、菓子やパンをつくり、そしていつか山を下りていく。
真木は音楽のような世界と感じたのは、描かれた時間の流れにリズムがあり、メロディーがあるからだ。
ひとりひとりがいて、ともにある世界、さまざまな声、さまざまな音、さまざまな思いがさまざまに錯綜するが、雨と風と雪の世界に響く、食事を知らせる板木の音だけが生々しく、毎日、その世界を秩序づけている。
音楽の世界とは人間がいきる秩序だった世界のことだ。
宮島先生は「あなたという人は地球始まって以来、絶対にいなかったはず、あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはず」と語っている。
バラバラで各々個性を持つ一音一音は決して誰からも強制されることなく、しかし、ともにあるためのハーモニー(秩序)を持ちリズムを刻む。
そんな世界がモトハシ・ワールド、雪を戴くアルカディアの山懐に住むミューズたちの「音楽の世界」。


2015年4月30日木曜日

現代音楽の夕べ 藝大奏楽堂

90年代生まれの芸大生2人と彼らの教授的立場にある2人の作曲家、2対2、4人の4曲の現代音楽コンサートはどこまでも新鮮で、素晴らしく楽しい時間だった。
前半の若手2人の曲はもう演奏のための舞台は不要と思ってしまう。
響き渡る音響はどこからということより、会場全体が大きな音空間となっているような拡がりが感じられる。
しかし、実際は指揮者がオーケストラと対峙する舞台の上での従来通りの演奏形式だ。
音源も電子音はということもなく、ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、木管、金管・・・という、いつものと変わらないインストゥルメントによるオーケストレーション。
音楽はもう、メロディーはいらないのかもしれない。
多彩な音響による時間と空間の伸縮と強弱、その空間の振動と重合。 自由なリズムを刻むパッカーションが華々しく、表に出たり、陰に回ったり、あるいは消えていくような空間をいつまでも持続させるようと静かにとどまり続ける。
パンフレットの解説によるとオープニングはMultilubricity。
作曲者自身は、高密度な情報に疲弊した人類が作り出す音楽は「音楽」を放棄し究極の音素材であるインパルスのような音に還元される、と考えている。
ここでいうインパルスとは無限に短い時間と無限に高い音高を持つパルスのこと。
そして、その音響をどう受け止め、どうインテグレートするかは聴き手の自由ということだろう。
作曲者は物理モデリングシンセシスの模倣とピグミーの定旋律を下敷きにし全体をまとめたようだが、解説からは想像できない、全く異種の音空間が生み出されていることは事実だ。
さらに、二曲目の解説は作曲者によるとチェロが表現する音響そのもののミメーシス(隠蔽擬態)。
生物環境の中の微細な変容を音空間化しているようだが、そのイメージは音響が鳴り響く会場全体を微細な森の中の小さな葉と土塊の世界に変容していくように感じられた。
休憩後は野平氏と南氏のまさに20世紀の音楽だ。
それは従来の音楽的世界が解体されていく中、十二音技法という純粋で無記名な音の操作により新たな音楽的世界を生み出そうとされている。
しかし、そのイメージはまさに現代都市における建築デザインに似て、カタチがあるのかないのか、紡ぎだされるメロディーは、何かを語っているのだろうが、ナニモノも視覚化されなれない。
南氏のピアノ協奏曲は極めて興味深かった。
ナニモノも視覚化されないイメージの中、ピアノ音だけが終始、空間のどこかで響き渡り、消えていくのか、大きく踊り上がるのか、その息詰まるような音の持続は会場を後にしてもいつまでも鳴りやまない。

2015年4月29日水曜日

セッション

連休前に見ておきたいと思った映画「セッション」。 今月のキネマ旬報の批評欄、珍しく3人とも満票、10個つけたいというコメントまであり、昨日いそぎ日比谷に出かけた。 予約なしでも空いているだろう、安易にシネマズに行ってみると、切符売り場は大勢の人だかり。 おかしいなと思いつつ、よく見ると客は老人ばかり、 平日の昼間の上映だからあたり前かもしれない。 しかし、人気は併映の「寄生獣」と見込んだが、なんと行列は「セッション」だった。 映画は音楽大学でジャズ・ドラムスを学ぶ学生とJ・K・シモンズ演じる熱血教師の話。 話は単純で、ただただバイオレンスな暴力教師が新入生をしごきまくる映画だ。 評者の一人は「ドラムスで映画が成立することに感服。」と書いていたが、納得するのはこのコメントのみ、ひどい映画だ。 チャーリ・パーカがまだ新人のころ、セッション仲間のドラマーにシンバルを投げつけられたという逸話を下敷きに、シモンズ先生(だめだ役名も忘れた)が徹底した暴力でアンドリュウー(しごかれたドラマー、シモンズと対照的なやさしい顔立ち)と関わる。 批評家の満票に背き、ひどい映画だと言いきる素人がネタバレを書き散らすのは礼儀を失するので控えるが、根性を鍛えるのは大学の仕事ではない。 学識にしろ技術にしろ、教師に可能なのは学生の納得や得心に関わることだけ。 答えは一つではないのだから、叩き込めば理解されると考えるのは教師のうぬぼれ。 教師に可能なのは、どこまでも学生個々人が持つ想像力に関わることだ。 頭ごなしの、パーカーやマルサリスの逸話を傘にしたバイオレンスだけで何が可能なのだろうか。 学生が血塗れになってバチをふるうのは運動能力のためではなく、自分自身の想像力の問題だ。 もっとも、この映画、若い人には必要なことなのかもしれない。 人生のはじめの頃、何も考えず、何もあてにせず、ただただ遮二無二ドラムを叩きまくったという経験は、ボクにはないだけに、何か貴重な体験がテーマとなっているような気がする。 しかし、その体験を共有させたいという企みだけなら、老人はともかく若者は引く、いや引いて当たり前だ。 まして「ラストシーンに舌をまいた」のは批評諸子だが、ボクは嘘だろうと仰け反った。 これでは安っぽい予定調和の押し付けだ、どこにドラマ(ドラマーではない)があるのだ。 今の時代、自分自身を見つめることは難しい、どうしても、まわりばかりが気になり、羨んだり、蔑んだりしてしまう。 確かに情報社会は生きにくい、しかし、バイオレンスだけでは何も生まれない。

2015年4月28日火曜日

スイス、バーゼルのヴィッラのつづき

スイス、バーゼルに事務所を構える、クリスト・アンド・ガンテンバイン(70年代前半の生まれ)。
彼らの設計意図はコンテクストに真摯に向き合うことで建築を作り出すということのようだ。
つまり、周辺が中世のヴィッラやパラッツォであるならばそのコンテクストに、周辺がありふれた産業建築であるならば、その周辺から何を読みとり何を語るか。
彼らの世界観は灰色、グローバル・ローカルあるいは前衛や土着という二項対立ではなく普遍性を見出すことにある。
そこにはロシアの思想家ミハイル・バフチンのいう「クロノトープ」が見えてくる。
すなわち、時間はもはや一直線には進まない、一つの空間に二つの時間が併置される。
建築の歴史性は根拠を失った、いかに、従来の建築に対抗し迎合するかだ。
したがって、過去の建築をレファレンスとして設計、しかし、歴史の賞賛としてではなく、普遍的な問題をいかに取り出すかがテーマとなる現実社会の需要とどう向き合うか。
建築とは要求された需要をすべて受動的に実行するのではなく、また設計者独自のアイディアを過激に主張して生まれるものではない。 現実的な力を意識すること、しかし、ただただフラットに関わるのではなく、向き合っていく。
その道徳的とでもいえる態度はモダニズムをも勤勉に引き継いでいると言って良い。
アーレスハイムの住宅増築
掲載写真を見る限り上の言説との若干のずれを感じる。
既存の建築に増設された建築だが、そのスタイリッシュな現状に対し、あたかも、逆らうかのように不正形な平面系と波形の外壁で構成している。
どうやら不正形な平面系はいくつものボリュームが捩れたままの括れとして接続されていて、その形態は図形として選ばれるのではなく、敷地形態や高低という外部的要請に答えたもののようだ。
様式の規範は教わったが、コンセプトを絶対視するほどコンセプチュアリストでもない。
フォルムを吟味する余裕はなかった、経済的にも時間的にもと彼らは言う。
だったら普遍的な五角形にしようと悩まずに決まった。
五角形は正方形のように完成されておらず、非対称。
不合理な判断だが、やがて設計のテーマになっていったとのこと。
プロジェクトの決定的な瞬間というものは決して目に見えるものではない。
建築はそうした闇から生まれる。
現実のフォルムがどうであれ、 フォルムのおかげで建築家の自律性もいくらか回復できる。
フォルムの問題に触れずに政治的なレトリックを弄したり、ボトムアップの方策を講じたりするのは懐疑的。
フォルムを語らずして一体何を語るのか。
つまり、彼らには建築である以上フォルムこそ重要なのだ。

スイス、バーゼルのヴィッラ

安くて便利なコンビニ建築とチェーン店モールのインテリアばかりと思っていた最近の建築雑誌だが、よく見ると決してそんなことはない。 a+u534の表紙はスイス・バーゼルの要塞のような住宅だ。 矩系の壁面を縦長で縁なしのガラス窓が完璧な対称形に穿っていく。 対称が面白いのではなく、まるで古典主義建築のような重々しい外観を生み出しているのがなんとも奇妙だ。 四面の外壁面とその壁面にはめ込まれた縦長両開き扉の板戸は屋根材に使う砂付きルーフィングで覆われている。 この奇妙な住宅の平面図は完璧な古典主義建築の対称形で構成されている。 その単純矩形は大と大の間に二つの小が重ね合わされる四つのスペース。 しかし、よく見れば平面形も外装も現代の住宅の流行そのまま、まるでプアで簡素という他はない。 だが、写真で見る限りインテリアはリッチだ。 光沢のある透明なオリーヴ・グリーンで塗られた重厚で厚みが感じられる木板の壁面と同材の床面を手製の刺繍カーペットが覆い、その空間は昔のヴィッラの趣といって良い。 事実ガラス窓を壁面に引き込み、内部扉がキッチンとバスを覆えば、全体はかっての貴族のサロンに変身する。 人々が着飾り、集い、談笑し、音楽を聴き、ダンスを踊る。 それが住宅とはいえ往時のヴィラやパラッツォのスタイル。 紹介記事ではパヴィリオンと記されているが、この建築は貴族時代のオマージュとして作られている。 立地は30年代のヴィラが広々とした緑豊かな庭園に立ち並ぶかってのブルジョワ階級の住宅地。 こんな場所であるからこそ、奇妙でプアな外観とリッチな内観が多くを語り、黙することなく、本来のヨーロッパ建築の役割を再確認しようとしているかのようだ。 つまり、「建築」はどこまでも想像的世界、非日常的空間であるということ。

2015年4月26日日曜日

歩みゆくミラノ

イタリア文化館でのイベント、舞台女優パトリッツィア・ザッパ・ムラスによる「音と映像とモノローグ」。ミラノは建築・美術・音楽・文学と様々な文化資産を持つ羨ましいイタリアの歴史的大都市。 その都市に生きるパトリッツィアがロンダニーニのピエタから始まり最後の晩餐、騎馬像、スフォルツェスコ城、ヴィスコンティ館、大聖堂、スカラ座、運河網とミラノの過去と現在・未来を語ってゆく。 真っ暗な舞台上にスポットライトを浴び、たった一人立つ彼女のしぐさがすでに一つの美術品のように思えてしまう、知的で、静かで、優雅な70分だった。

2015年3月20日金曜日

イミテーション・ゲーム

ヒットラーのドイツに戦争を布告した1939年のイギリス。政府にとっていやイギリス国民にとって、戦争の終結には難攻不落と言われる暗号エニグマの解読が不可欠だった。 ケンブリッジ大学で「イミテーション・ゲーム」の開発を続けている天才数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)にこの暗号の解読が託される。天才にとって難攻不落とはいえエニグマもまたゲームなのだろうか 、いや次々とUボートに沈められ、空爆にさらされるイギリスを救うものはチューリング・チームよる暗号の解読が頼みの綱。しかし、ミッションの過酷さと常軌と異なる天才の行動と言動から生まれるチーム不和は絶えることがない。 1940年を迎えるが解読は一向に進まず、チューリングはますます自身の論理からの電気機械の製作に没頭する。そんなチームと多大な製作費にMI6(政府情報部)は業をにやし解散を言い渡す。チューリングはこのミッションの本当のトップは誰かと問い、チャーチル首相に製作とチームの継続を直訴する手紙を書く。チューリングより早くクロスワードパズルを解く能力を持つ女性、ジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)に支えられ、チームはついに難攻不落のエニグマ暗号の解読に成功する。エニグマの解読とそのメンバー、とくに不運のチューリングの存在はその後50年間も封印されていた事実からわかる通り、映画はどの場面もみなドラマチック・サスペンス。
「イミテーション・ゲーム」は早くから楽しみにしていたが、ボクにとってその楽しみはドラマチック・サスペンスを超えてもう一つある。それは題名となったが暗号解読以前の「イミテーション・ゲーム」が持っていた本来の意味に関わること。映画のテーマはもちろんエニグマの解読にあるのだが、解読以前にチューリングが提起し、その後のコンピューターの開発に大きく貢献する、いや現在最も注目されているチューリング・マシンのコンセプトこそ「イミテーション・ゲーム」の本来の意味だ。チューリングの生涯のテーマは「知能を持った機械」の開発にある。「イミテーションゲーム」とはコンピューターの思考能力を評価するゲームのことだ。いまや、人工知能(AI)開発が大はやりだが、チューリングは機械と人間に同じ質問をして、どちらが機械の回答であるかを判定させることで機械の優秀さを測る目標を定めたのだ。つまり、イミテーションゲームはゲームには違いないが現在も生きているとんでもないゲームだ。 映画「スター・トレック」のコンピューターはその能力においてこのゲームの勝者となったが、それはあくまで映画の中のおはなし。ゲームを作ったチューリングは2000年までにはチューリングテストに合格するコンピューターが出現するだろうと予言したが、2015年の現在、まだそのテストに合格するコンピューターは出現していない。ほとんどのゲームのチャレンジャーは何百万という無数の質問をコード化して、一つの質問に信頼できるひとつの回答が与えられるように設計しようとしてきた。しかし、これではチューリングテストには合格しない。唯一ザ・サーチを書いたジョン・バッテルが「考える検索エンジン」にグーグルが成功したら、このゲームは完了するだろうと言っている。つまり、今後のコンピューターの可能性は情報のコード化ではなく、「いかに情報を提供し、その情報を役に立つ情報にインテグレートするかにある」つまり、情報を提供し役立つと判断する人間の役割がポイントとなるのだ。現在のグーグルの検索エンジンのコンセプトもそこにあった。多くの人に引用され、人々の支持された情報がもっとも検索される情報。コンピューターはどこまでも機械だ、機械であるからこそ人間との協働ではじめて機械も知能を持つことが可能ということなのだ。 「イミテーション・ゲーム」はナチス・ドイツに苦しめられようやっと難攻不落のエニグマ暗号を解くという物語だが、それはどこまでも人間による人間のドラマなのだ。そのドラマを大好きなベネディクト・カンバーバッチとキーラ・ナイトレイが演じているのだから、封切り早々見に行きたくなるのは当然のこと。しかし、最も重要なことはネタバレとなるので触れられないが、見終わってみて、調べてはじめて気がついたチューリングの死の秘密。それは白雪姫の毒リンゴだった。この話は間違いなくジョブスが産み出したアップルのロゴ、あの齧られたアップルマークにつながっている。

2015年3月9日月曜日

リトリートとエクスペリメント


形のない時代の建築とはアノニマスでインディヴィジュアル、つまり現代建築のことだ。 今の社会における最もフィットする建築デザインは「個々人の生き方が反映された隠れ家」といってよいのではないか。 建築雑誌a+uでリトリートが特集されていた。個々人が日常から離れフィクショナルな世界(もう一つの世界)を体験する貴重な空間だ。そこでは現代建築の主要関心である技術や機能が問題となるのではなく、住まい手のライフスタイルがテーマとなる。都市インフラが不整備な自然環境、広漠とした風景の中、リトリートは様々な可能性を開いていく。 a+u526特集号にはしかし、特記すべく建築は見つからない。建築雑誌とネットに注目し、意味ある建築をよりよく探す必要があるようだ。
a+u531のテーマはエクスペリメント。従来の建築デザインがもはや社会的意味を持たないならば、これからの若い建築家は今後いかに社会とコミットメントするのか。特集は世界中の若い建築家たちの様々な試みをリポートしている。 1-ボスはいない集団で関わり都市環境を変えていく。 2-環境に関わる情報をデータ化し問題解決のアクティヴィストを目指す。 3-生物学バイオ等と協働し新たな素材や工法を生み出す。

2015年2月23日月曜日

はじまりのうた

先週もまた、いい映画に恵まれた。新宿ピカデリーはインターネットでスポット予約ができる。そのときはまだガラガラだったので、空いているかと思いきや、暗くなりかけた場内は満員だった。当然ながら、この映画も若い女性とカップルが主流、しかし、飲んだくれていた音楽プロデューサーの旦那が改めて妻と娘に迎えられるハート・ウォーミング・ドラマでもあるので、ボクを含め、オジサンおばさんも少なくない。 映画は文字通り「はじまりのうた」だ。何が始まるか、それは映画を見るしかない。キーラ・ナイトレインばかりが評判の映画だが、恋人に裏切られ捨てられた美貌と美声の歌手を演じての『BEGIN AGAIN』(原題)だからしかたがない。しかし、やっぱりこの映画はどこまでも素晴らしい。何故かって、詩なんだ。歌はクラシックもポピュラーもすべて詩が生命、というのがボクの持論。ここ言う「詩」とは言葉のかたち、言葉の持つ感情的直接的意味ではなく、かたちが想像させる異種の空間。体感的空間と想像的空間が重なった世界のことだ。 ニューヨークを舞台にした街の歌、それはすべて間違いなく、今の人々が夢見ている「都市の詩」。彼女に出会ったダン・マリガン、彼はすでに酒だけでなく、行く年に身も心も侵されている。そんな彼がもっとも探しているもの、あるいは探し求めているもの、それは「都市の詩」、失意のグレタ、彼女自身の世界なのだ。多分この映画は悲劇でも喜劇でもない恋愛劇、「都市の詩」に恋をしたダンのうた。

2015年2月22日日曜日

オペラ「結婚手形」「なりゆき泥棒」

研修生15期・16期生によるオペラ研修所公演では国立音大卒業の二人のプリ・マドンナ、原璃菜子と清野友香莉を同時に聞けるというので早くから楽しみにしていた。座席も二列目中央と絶好だ。(いや、ちょっと近すぎた!)プログラムを読むとロッシーニの18歳と20歳の時の作曲という。なんとも初々しい、いや聴いていても、その溌剌さを実感する、春のようなオペラだ。演目は「結婚手形」と「なりゆき泥棒」どちらも明るくユーモラス、めでたしめでたしの喜歌劇。
「結婚手形」はロッシニーのデヴュー作とはいえ、そこは天才作曲家、小オペラだが音楽はハイドンのカルテットのようにすっきりと纏っていて終始気持ちが良い。物語はロンドンの商人のもとへカナダの商人が花嫁手形を持って調達にくる。そう、縁談を商談とする父と新大陸の商人とはとんでもない人たちだ。しかし、同時代の産業革命とはこんな形で始まったのかもしれない。かわいいファニーの抵抗が何ともいじらしい、彼女は恋人と機転のきく使用人の助けを借り見事、カナダ商人は追い返す。もっとも手形を不履行にせず、孫という利子までロンドンの商人に残して新大陸に帰えるカナダ人は大時代の人。やはり、時代はこんな風に進みたいものだ。
「なりゆき泥棒」もまたプリマドンナの計らいが功を奏す二組の求婚オペラ。喜劇は嵐を避け小さな小屋に雨宿りした二組の旅人が鞄を取り違えたことから始まる。一組はパルメニーオ(ドン・ジョヴァンニ)とマルティーニ(レポレロ)という主従。そしてもう一組はナポリに住まう許嫁を迎えに行くアルベルト(アルマヴィーヴァ)伯爵。ナポリのベレニーチェは侍女エルネスティーナと役を取り換えて伯爵を迎える。しかし、どちらが本物の伯爵か。鞄の取り違えと役の取り換えが交錯し、ベレニーチェの毅然たるアリアがなりゆきを解決する。そう、このオペラもまた手形と同様、リズミカルな五重唱とプリマドンナのシェーナ・カヴァティーナ・シェーナ・カバレッタが会場の聴衆を沸かし幕を閉じる。

2015年2月7日土曜日

トラッシュ!この街が輝くまで

先週の「ジミー」は満点の面白さだったが、今週の「トラッシュ」もまた星5つをあげたい傑作だ。リオデジャネイロのゴミの山で生きる3人の少年たちのサスペンス活劇。ゴミとスラム街を舞台に走り回るハラハラドキドキの120分。しかし、彼らの知恵と正義感あふれる行動とチームワークはエンディング前からもう拍手喝采だ。 話は社会の不正を暴こうとする弁護士が警官たちに追われ殺されるところから始まる。しかし、その不正の証拠が隠された弁護士の財布は幸い、ゴミの山からラファエロが拾い出す。たちまち警官にその財布の拾主として追われた彼を助けるのがガルボとラット。彼ら3人は財布の中身のお金はともかく、中に隠された秘密の重大さを悟り、追いかける警官たちから逃げ回りつつ、知恵を働かしその秘密を暴いていく。 エンディング近く、子供達の父親役でもあるスラムの教会のアメリカ人神父はエクソダス!と語る。三人の悪童は不正な為政者からスラムはおろか多くの人々を救う、モーゼとなった子供たちのことだろう。

2015年2月5日木曜日

「語る建築」から「会話する建築」の時代へ

ニューヨークのワン・ タイムズ・スクエア・ビルが全面巨大電光掲示板に覆われたのが1996年。その30年前、ちょうどビートルズの「イエローサブマリン」がイギリスのリヴァプールから東京にやってきた頃、ロンドン・エクスプレスは気球に運ばれるビルボードと共に田園を旅する「インスタント・シティ」を特集した。
そして去年の11月、都市の建物が多方向コミュニケーション・ツールに変わっていく状況をa+u530がリポートしている。
建物が情報メディアであることは古代エジプト以来の建築史の常識。その変容は建築術、印刷術、電脳術として読み取れると書いたのはボクのCOMMEDIAkindle版「音楽と建築」。しかし、この特集号はもはや建物は都市サイボーグを形成しつつあると書いている。「建築家にはパフォーマティブな不可視な要素を通じて、意味を自在に表現し、演出する能力が求められる。」と書かれると、ただただオイ!オイ!と思ってしまう。
18世紀の「語る建築」やポスト・モダニズムの「建築言語」を遠にやり過ごし、いまや「語る建築から会話する建築の時代」になったことは事実だろう。

2015年2月1日日曜日

ジミー、野を駆ける伝説

20世紀初頭のアイルランドだが、そこは昔からの教会や地主の力が強く、古い秩序に固執する意識が高いところのようだ。歴史にあるアイルランドの独立、その後のIRA活動とその変遷が背景となるこの映画、見終わってみると、今もっとも気になっている、「イスラムのテロを生み出すものは何か」に繋がる重要なテーマを秘めているように感じられてならない。
しかし、映画はそんなに難しいものではない。

ジミーは仲間たちとスポーツや美術、音楽、ダンスを楽しめる集会所を作った事から村を追い出されてしまう。そんな彼が10年ぶりに緑の草原の故郷、リートリムに戻るところから映画は始まる。そろそろ白髪も散らばるジミーだが、待っていたのは年老いた母と恋人、そして昔の仲間たち。彼は仲間たちの強い希望に促され、再び集会所を開く。しかし、古い秩序を主張する人々の暴力は止まらない。遂に、集会所は焼かれ、彼はまた故郷を追い出され、アメリカに送られていく。

今朝、恐ろしいイスラムのテロの犠牲となったなんとも悲しい日本人の死を知った。しかし、この映画は伝えているのはどちらが正しいかではない、追い詰めているものは何かだ。恐怖も貧困もない、秩序ある世界を生み出すものは、暴力や権力ではなく、どこにでもある、日々安らかな「スポーツや美術、音楽、ダンス」ということなのではないだろうか。

2015年1月30日金曜日

ジャッジ

「ジャッジ」という題名は最近の日本映画にもあるということなので、はじめにおことわりをしておく、このコメントは「ジャッジ 裁かれる判事」を観た感想だ。
題名は難しい。
「ジャッジよりジャスティス」がいい、と思いつつ映画を観ていた。
ジャスティスは大好きな言葉、それほど今日の映画は素晴しい。
この言葉は難しい、趣味趣向の映画の題名としては相応しくない。
しかし、この映画は押しつけではない、ごく日常的な現代人が持つジャスティスを矛盾も加味し、素直に描いている。

アメリカ中西部、インディアナの美しい緑と水に囲まれた小さな田舎の町。
カリフォルニアに住むハンクが20年ぶりにこの町に帰ってくる。
唯一の家族の絆であった母親が亡くなったからだ。
街を離れ一流大学の法科を首席で卒業し、大都市の敏腕弁護士として成功したハンクだが、彼は意見の合わない老判事である父親の殺人を弁護するという最も困難な裁判に関わることになる。

正義感の強い父親と彼の愛する母親に育てられた三人の兄弟たち。
しかし、心豊かな父であり兄弟であっても人間はみな三人三様。
各々には生きたい生き方があり、20年という時間の流れは全く別々、過ちも誤解をも生む残酷なもの。
さらに、各々のもつ正義と心豊かさは決していつも正当に理解され、心を満たしてくれるわけではない。

大人になり振り返ればわかることだが、誰にでも均等に流れる時間、その流れはいつでもどこでも短絡的で残酷。
その残酷さに立ち向かうものは、神ではない現代人であるがゆえになさざるを得ないジャッジなのだろうか。
ジャッジはどこまで正当であっても、それは一つの切断だ。
しかし、各々の人間が持つジャスティスには、それが全くバラバラではあっても、哀しく寂しい残酷な時間を克服し安らぎを継続させる力がある。

2015年1月20日火曜日

博士と彼女のセオリー

「博士と彼女のセオリー」豪華な東和試写室で観た。スティーブン・ホーキング博士の伝記であり、純愛ドラマ。ジェーンの勇気に驚かされる。その勇気はセオリーを越え、素直に拍手したくなる献身的ドラマ。ジェーンを残しアメリカに行くホーキング、彼女に自由に与えようとする彼の優しさも泣けてくる。

2015年1月18日日曜日

チョコレートドーナツ


このドラマはニューヨークのブルックリンでゲイの男性が育児放棄された障害児を育てたという実話がもととなり制作されている。
映画の舞台はカリフォルニア、原題はAny Day Now。
チョコレートドーナツはダウン症の子供マルコの大好物。
マルコは薬物におかされた母親に変わって、ショーダンサーのルディと彼の恋人弁護士のポールといっしょに住むことになる。
チョコレートドーナツはそんな3人の絆の言葉。
しかし、マルコを追いつめるのは偏見と法律だ。

話はエキセントリック、いや、エキセントリックなのはボクのほうだ。
どうしてこの3人が一緒に住むことが出来ないのか。
偏見視された人間のまともさと、偏見視する人間の非人間性。
自然であるはずの人間が人間性を損ない、人間を不幸にするのは人間自身が持つ制度と偏見。
マルコを失ったルディとポールの悲しみ、いや、実話とは異なり、描かれることのないマルコ自身の悲しみがいつまでも重く残って消えない。
チャンスがあったら是非観てください。
蛇足だがアラン・カミングのI Shall Be Releasedもリンクした。
「グッド・ワイフ」で知ったルディ役のアレン・カミング、この映画では歌も演技も絶好調!

2015年1月17日土曜日

ミスティック・リバー

昼間の留守録映画を夜る観る機会が多かった。 1月は観たいと思う作品の放映が毎年多いようだ。 「ミスティック・リバー」、舞台はボストン郊外。 都市と田園が混在した郊外は、いまや世界中どこも、日常世界のトラブルの温床。 長年共に住み着いた三人の仲間の郊外の街、その街はずれで仲間の娘が殺されるというミステリー。 地味な映画だが、子供時代の友人たち各々の25年間がこのドラマの貴重な背景。 各々は今は仕事を持ち、妻に恵まれ、良き父親だ。 言葉、表情、態度に現れる微妙なコミュニケーションが、この映画の見どころかもしれない。 全米ベストセラー、デニス・ルヘインの作品をクリント・イーストウッドが映画化。 主演三人は適役揃い、じっくりとした大人っぽい、いい映画だ。

2015年1月15日木曜日

華氏451

映画 華氏451
ブラッドベリの華氏451はKindle出版されているがまだ読んでいない。
1953年に出版された名作が1966年にトリュフォーによって映画化されたが、2015年正月にボクは初めて渋谷で観た。
二人の図書館狂いが描いたデストピア、なんとも大げさな書きようだが、感想はこれがすべてだ。
まだどう評価すべきかよくわからない。

華氏451は書物が自然発火する温度。
込められている意味は秦始皇帝やナチの焚書という神話ではなく、禁書・発禁に近いような気がする。
しかし、禁書・発禁がテーマなら中世の修道院を舞台にして、エーコが「薔薇の名前」を書いているが、これとも違うようだ。
ブラッドベリは未来社会のデストピアを書いたのではないだろうか。

本を焼かれた人々は森の中に逃げ込みブックピープルと化す。
そこには当然、図書館も本もなく、居心地の良さそうな森はピープル一人一人が一冊ずつ丸々暗記する事で生まれた未来の図書館だ。
しかし、その森では各々がブツブツと暗記した字面を口するだけ、一切の会話もなければコミュニケーションもない。

その姿は毎日見かけるメトロの中のスマホ人間のワークスタイルに似ている。
イヤフォーンを耳にかけ、しきりに話しかけ、歩き回る煌びやかな無印都市。
各々は満足そうだが、外見からは一切の想像を拒否し、自己の世界に埋没する2015年のボク自身の日常。
トリュフォーはそんな未来の森を映画にした。
そう、春樹が1Q84で書いたリトルピープルのデストピア。

2015年1月12日月曜日

歴史的建築、思い出ある建築の有効利用と再生

昨年の4月、建築基準法第3条第1項の規定の運用について、国土省住宅局から助言があった。
専門的事柄は避けたいところだが、このブログの書き出しには重要なので触れてみる。
内容は文化財保護法に限定されていた歴史的建造物のみに許されていた建築基準法からの規定除外が文化財以外の建造物でも一定の手続きをとれば運用されるということだ。
この運用助言で、建築基準法でがんじがらめ、阻害されていた一般の古い建築物等の修復再生や有効利用が許された。
規定除外の拡大により、日本全国の文化財以外の歴史的建造物の保存再生利用、あるい既存建築を容易に壊すことなく、良い建築、思い出ある建築を使い続けることが可能となったのだ。
すでに、横浜市や神戸市は建築基準法の規定除外を活用し、積極的に歴史的建造物の有効利用を図ってきたが、昨年末の建築家協会での研究会はこの制度の運用についての討論。
使い続けるための諸制度、ストック社会におけるステークホルダーのありかた等、若手弁護士と建築家による研究会。
小さな会場をいっぱいにしての熱心な意見交換が時間を延長し積極的に行われた。
昭和は、東京あるいは日本の建設時代。
しかし、その時代はまたオリンピック時の首都高建設等の環境破壊や超高層、無謀なマンション建設という再開発が実施された都市破壊の時代でもあった。
東京に生まれ、東京に育ったボクにとっては、小中高大学という思い出ある学び舎をことごとく壊されたのもこの時代。
建築設計を生涯の仕事としながら、いつも不甲斐ない弁明と不満に終始ししてきたのが実情だった。
今日の話のポイントは今後の理念と人材育成、構造リスクと法的賠償責任にかかわる安全性をどう確保するか。
まずは同世代、次世代共々使い続けることの意味と価値その役割の確認が最重要だ。

昨日は東大で「街並み制度成立史研究会2014年活動報告会」。
またまた小さい会場は満席、歴史的景観や建造物に関し、現在、いかに関心が高いか、とてもよくわかる研究会。
会の趣旨は昭和50年代の文化財保護法の改正によって発足した伝統的建造物保存地区の制度と制度策定の経緯、用語の定義と理念に関わるその後の問題意識による討論。
この会もまた参加者は研究者、専門家が中心。
話は反省と理念構築に偏るが、共通して言えることはモノ(文化財)からコト(生活)、コミュニティと環境保全に専門家としてどう関わるか。
一般世論への情宣とマスコミ等媒体による情報の活性化にいかに関わるかが課題。
どちらも議論は研究者中心、終始抽象的だが参加者の半数は平成のジュネレーションでもあり頼もしい。
個人としては、可能な限り様々な街や建築を訪れ、今後もリポートし続けようと意を決し、会場を後にした。

2015年1月5日月曜日

自然権を「強い者」が侵す社会

年末年始のメディアは「イスラム国」で賑わっていた。 31日に読んだ竹下節子氏のブログでは「悪の慣性はフラクタルのように再生する」とある。 21世紀前半の最も厄介な問題はこのあたりだろうか。 年末にkindle版「ピルグリム」を読んでいて、彼女のブログに書かれた懸念との符合に驚いている。 この小説は9.11以降のテロリズム、イスラム国とは無関係。しかし、その恐怖とテーマはものの見事に重なってくる。 「イスラム国」はグローバル/ネットワークが基盤となるシステム。 もはや、かってのアルカイダ・モデルによる上意下脱や組織による組織追跡のノウハウは全く通用しない。 一方、テリー・ヘイズの「ピルグリム」もまた組織もシステムも無関係(国家や国連、秘密保護法も役に立たない)な巡礼者によるテロリズム。 「善く生きることは悪く生きることよりも難しい。」世界における、共により良く生きようとする人間、いや個人(放浪者=ピルグリム)どうしの攻防が続く。