2015年12月14日月曜日

雪の轍

トルコのアナトリア地方、奇岩を住居とするカッパドキアの冬を背景とする人間の物語。
既に観た映画だが、休日、近所の映画館での上映、出かけることにした。
館内は満員、良い映画はやはりだれもが見逃さない。 
この映画が長いのは一人一人の言葉を忠実に話終わるまで、いや疲れるまで、留まることなく、写し取り続けるからだ。
しかし、もう一度見たいと思ったのも、この会話の数々が気になりじっくり聞いてみようと思ったからだ。
 観終わって、前回は書けなかった感想、今は書けるだろうか。
いや、再度、見たからと言って、会話の一部始終を理解したわけではない。
内容も決して、哲学的であったり、眩惑的であったりするわけではない、誰もが問題とする日常的会話だ。
しかし、よくわからない、そして、気が付いた。
この映画は人間の会話、あるいは「言葉」というもの、そのものをテーマとしているのではないか。
全ての登場人物は悉く皆、喋りすぎ。
しかし、そのお喋りからは決して、新たな関係は生まれない。
結局、お喋りは人を傷つけ、喋る自分自身が最も大きな深手を追っていく。 
この映画では、話せば話すほど人は空しくなっていく。
人は話せば話すほど、阻害され、その関係は壊れていく。
人間の関係は決して話し合ったからといって、新たな関係が生まれるものではない。
もちろん、会話や言葉に罪はない。
しかし、言葉は罪かもしれない。
人間の言葉は自分が思っているほど、正直でももちろん嘘でもない。
しかし、話せば理解してもらえるという単純なものではない。
哀しいのはそういう言葉を持ち、言葉にとらわれるのが人間だということだ。

2015年12月12日土曜日

放浪の画家ピロスマニ

ゲオルギー・シェンゲラーヤの「若き作曲家の旅」を観たのはいつだったろうか。 
広大なロシアの大地の西端にあり、コーカサスの南、さらにその南にあるトルコとともに黒海を囲むグルジア地方を旅し、その地の古い民謡を採集していく若き音楽家の旅。 
豊かな山河により添い、集い、生活する人々の古い歌声はどれもが哀愁を帯び、優しく家々や大地にこだまする。
 映画は、しかし、採集された歌声の連なりは反権力者たちの集落の連なりと見なされ、押収された作曲者の記録は官憲の手に渡り、歌声の集落は悉く暴力に侵され、破壊されていく。

 岩波ホールでの「放浪の画家ピロスマニ」はこの地に生まれ育った実在の画家(1862~1918)の物語。 
この映画は「音楽家の旅」より15年も前の作品。 
デジタルリマスターされた音と映像は、豊かな山河や集落、祭に集う人々の音楽と彼らが酒を飲み語り合う居酒屋の中の風景を美しく切り取りとっていく。 
その情景はピロスマニが描く絵画の中の世界と全く同じだ。 
実在を描く映画と映画の中のピロスマニの絵画、虚実が重ね合わされたのどかな集落はやがて、その世界から絵画を失い人々の日常も色あせていく。 
その原因は作曲家の旅を蹂躙した官憲力とは異なり、様々な人間が追い求める欲と名声と言えそうだ。
 ゲオルギー・シェンゲラーヤ歴史を超え生き続ける人間世界を、美しい音楽と絵画による風景画として描いている。

2015年11月15日日曜日

わたしの名前は


ドラマとして何かがあるというわけではないが、 この映画には言葉ではなく、映画でしか表現できない世界がある。  
フランス中西部の港町からノルマンディーの北の港町へ、 巨大なコンテナを輸送する孤独なトラック運転手と、 失業中の父親に虐待され家出した少女の物語。 物語と言っても意味深い言葉はない。 
名前もない。 あるのは、 冷たい雨に輝く夜間街灯の眩しさや雨上がりの夜明けの暖かい日差し、 小鳥の声に包まれた草の上の昼食。  

均質で形のなくなった日常生活の中に、あらたな物語を生み出そうとするかのような演出。 
この映画の監督アニエス・トゥルブルはファッション・デザイナーのアニエスベー。 
彼女の映像から生まれるその想像世界は言葉のない物語。
 現代美術家ダグラス・ゴードンがトラックの運転手、イタリアのアントニオ・ネグリが真夜中の旅人を演じるこの映画は別種のコメントを内包するエッセー集と言えるのかもしれない。

2015年11月10日火曜日

ネトレプコの「イル・トロヴァトーレ」

 

 ベリーニ、プッチーニなどオペラの大半は悲劇。ヴェルディ好きにはオテロ、アイーダ、トラヴィアータ、リゴレット、シモン・ボッカネグラ等々切りがないが、今日は珍しくイル・トロヴァトーレを聴いた。メトのライビューイング東劇だ。 

吟遊詩人とルーナ伯爵に愛される15世紀はじめのスペインアラゴン王家の宮廷女官レオノーラの物語。
彼女は愛する詩人の命を救うべく身を捧げるが、その死も報われず詩人と共にこの世を去る。
 身も蓋もないあらすじだが、このオペラの楽しみは全編につらなる悲劇的でドラマチックな歌とオーケストラにある。
どの場面も気が抜けないアリアの連続。歌手の力量が劣っていたらとても聴いていられるものではない。 

アンナ・ネトレプコのレオノーラ、吟遊詩人であるマンリーコはヨンフン・リー。ネトレプコは今や最高のディーバ、幕間に息子と戯れる映像もファンサービスとしては楽しめた。
しかし、リーはくるしい、悪くはないが、堅いし声量も音高も一杯一杯だ。中国の美男子テナー、女性ファンには受けたかもしれない。 
圧巻はやはりドローラ・ザジックのアズチェーナ。メゾフェチは毎度のことだが、彼女のアムネリスとエーボリー公女役は既に何回かブログに書いた。そして今日のジプシーの老婆、彼女の息子への愛と苦しみ、こんな悲しみはオペラだけで沢山だ。

2015年9月17日木曜日

ダニエラ・バルッチェローナの「湖上の美人」 


19世紀初めのロッシーニのオペラはその後のヴェルディーに比べ秩序観が強くバランスの良い音楽と言って良い。 
ベートーヴェン以降のロマン派音楽を聴き慣れている我々は音楽は感情表現、それに比べ、オペラはドラマティックな悲劇であることが多いが、それはヴェルディやプッチニーの世界だ。
ロッシーニの「湖上の美人」は18世紀のモーツァルトに近いがブッハでもセリアでもなく、オペラ・セミリアと言われている。 
ヨーロッパ社会がアンシャンレジームの持つ激情的・反動的な感情に満たされたとき、音楽は一気に古典派からロマン派への道を歩む、つまり、音の交響的世界による連続的感情世界。 

しかし、19世紀のはじめナポレオンの登場に呼応して、イタリアのロッシーニはむしろ前代に近い安定した秩序観を持ったオペラを作っている。 
モーツァルトに近いロッシーニのこの物語もまた王の許しで完結する愛がテーマ、後宮からの逃走によく似た構成でめでたしめでたしで幕を閉じる。 
しかし、スコットランドの王とその王に反旗を翻す高地の人々、夜明けの湖上から始まる愛と革命はウイリアム・テルに似て叙事的でもあり情感も深い、豊かなベルカントのアリアが数多く響く。
 オペラは二人のメゾソプラノと二人のテノールの競演。 
今回のメト・ライビューイングではロッシーニ・オペラには欠かせないダニエラ・バルッチェローナが圧巻だ。 
彼女の低音が効いたリズミカルなコロラットゥーラは主役のディドナートやハイCのフローレスを超え、終幕で愛を勝ち取るマルコムの歌声は気持ちよく、美しく、素晴らしい。

城 カフカ


昔もそうだが、今回もまた苦労して読んだ測量士Kの物語。 しかし、kindleは面白い。
昔は最後まで読み通せ無かったが、電子本だと何故か、途中で放り出せず、今回はなんとか読了した。 城に辿りつかないどころか、雪の中に閉じこめられた儘だった我が読書人生。 
これでようやっと「変身」から我が身に戻った気分だ。

 読み取りは様々だろうが、この物語は王のいない官僚国家。 
意味不明、コミュニケーション不在の小役人がゴロゴロする近代社会として読んでみた。
 いや、測量士という不用な秩序化を役柄とする、K自身が王である逆転した王国の物語かもしれない。 
物語は未完と言うことだが、近代は何処までも未完。 
人間不在のシステムは無用な測量図を永遠に描き続けるのではないだろうか。

2015年9月15日火曜日

バビロンの流れのほとりにて 森有正


「閉鎖した建物の中に自己を開いていくことで共同体を深く発達させたヨーロッパの人々の建築体験。
その体験はいまや光に向かい外界に向かって開かれてはいるが、しかし自己閉鎖している。
自己をめぐりまつわる閉鎖と開放とが、ある秩序を持って関連しているところに不変のヨーロッパがある。」 
有正は「バビロンの流れのほとりにて」にこんなことを書いていた。

 建築批評を見いだせない苛立ち中の学生時代のノートだが、いま読んでみて、自己閉鎖した状況はいまだ変わらず、新たな秩序を見出すこともない建築は、もはや再発見は不可能かもしれない。

 「自己を開くには思想を支える感覚と経験そして生活が必要であり、充実した壁に硬く護られた厳しい生活の観念と結合しての思想が発達したヨーロッパにおいては、自己を本質的動点に維持することは花を愛玩することとは対蹠的である。」 

ロマネスクの教会の中に一輪の花を見つけたところで、彼らの建築が理解できるわけではない。
その壁の中の感覚、経験、生活を体験しなければ、建築(=思想)を見出すことは不可能なのだ。

2015年8月30日日曜日

大衆の反逆 オルテガ・イ・ガセット


1930年代にすでにEUいやヨーロッパ合衆国を予告していたとはおもしろい。
第一次世界大戦中に書かれたショッペングラーの「西洋の没落」は18世紀以降の市民社会の崩壊を書いていた。

しかし、オルテガはヘーゲル的歴史主義、近代主義とは距離を置き、「生の哲学」を模索した。
たしかに、戦争がひとまず終結すると、その時代はアメリカと共産主義ロシアの台頭。
しかし、彼は大衆主義を単にヨーロッパの没落とは考えていない。 

オルテガ・イ・ガセットは生きることは現在の自分の繰り返しであり、自己完成に努力を払おうとしない人々の社会における危険性を「大衆の反逆」と呼んでいるが、近代は自分を完全に掌握していない人々の何を実現していいかがわからぬ時代なのだと考えている。

ヘーゲルの歴史的発展主義やその後の実存主義の誤謬を早々に懸念し、プラトンやデカルトやカントに立ち戻り「生・理性」に支えられる真の市民社会を素描しているのだ。 

アナクロニック、書いたのは哲学ではなくエッセー、それは多様なディレッタント的ノートにすぎないとの批判はヴァレリーに対するものとよく似ているが、60年代に入り、「過保護なお坊ちゃん」が「環境=文明」を空気のような自然と錯覚し始めた時、この多様な視点を持つ「大衆の反逆」は本来的意味を発揮し始めたと言えるのではないだろうか。

2015年8月9日日曜日

あるがままの世界の建築

古代社会において、生活のための集落や民家とは異なる建物(=建築)が登場したとき、それは都市と建築そして文明の誕生。人間が自然とは異なる「人間」を対象化して捉えたとき建築が必要とされた。建築は「大地からの飛翔」を意味していた。
人間はその誕生以来、自然と一体化した、様々な住処あるいは住宅をつくってきた、しかしそれらは建築(アーキテクチャー)とは言わなかった。都市と建築は非日常(ハレの空間=虚構)場であり、住居は日常(ケ=現実)の場にあるものだから。

住居が建築になったのは十六世紀のパッラーディオの時代以降のこと。この時代、田園に作られたヴィッラもまた文化的装置の一つとして認められ建築となった。
パッラーディオは最初の住宅建築家。彼は「田園にあるヴィッラ」を現実的世界(あるがままの世界 )に建つ虚構の空間(あるはずの世界)としてヴェネツィア貴族のために構築した。

近代の工業化社会にあって、「機能的なものは美しい」と宣言され、あらゆる建物(民家・倉庫・工場・車庫)と建築との区別はなくなった。
工業化社会以前、その実用的価値とは異なり、時代のあるいは社会の建築の対象となり得るものが建築であった。
二十世紀になり建築は「機能的なモノは美しい」と認められ、住宅も工場等すべての日常な建物は、機能的であれば建築と見なされた。建築は市民的・道徳的であることが優先され虚構の空間はすべて「あるがままの世界」の中に埋没していく。

2015年8月5日水曜日

風景としての世界、あるがままの世界

国土の3分の2を高地と山に覆われたイタリア半島は、豊かで広大な平地が広がるアルプスの北とはいささか異なる生き方が必要とされている。イタリアの人々は地中海に突き出た地の利を活かし、東方の人々と積極的に交易し、手工業を発達させるという生き方を選択した。
大陸の西、農業社会が安定した食料増産による経済的発展を迎える時、この半島の役割は、ヨーロッパ大陸にない物質資源を調達し流通させること、さらにその為の積極的な人間的交流を計ることにあった。

農業中心社会に於ける生き方では自然に従い、それを掌る神に従順であることが求められる。当然、そこでは清貧禁欲な生活を尊ぶ、キリスト教的価値観が大きな意味を持つ。
しかしイタリア、特にフィレンツェでは商業や手工業の発達を促す別種の価値観が必要とされた。それは現実的、合理的な生き方を賛美し、多少の快楽が許され、自然よりも人間を中心とする考え方。
十五世紀のイタリアでは新しい価値観とキリストに変わる新しい神が求められていたのだ。そんな彼らが新たな「人間と世界、人間と人間」の関係の構築に役立てようと生み出したモノ、それがアルス・ノヴァと透視画法。音楽におけるアルス・ノヴァ、絵画における透視画法、この二つは新しい生き方、新しい神に関わるためのメディアとなった。

そのメディアに期待された役割、それは神の啓示による中世的「あるはずの世界」をルネサンス的現実、人間が眺める「あるがままの世界」に変容すること。超越的な神が君臨する中世キリスト教社会とは異なる、現実的、快楽的、人間的社会を賛美する神を描くことにあった。
透視画法の役割は、神の介入無くしても存在しうる、秩序ある統一世界を生み出すこと。画面の中に描かれる平行線は全て一点(焦点)に集まる。この一点を中心として描かれた世界には秩序ある統一が存在するとみなし、画家たちは、哲学者のイディアや神学者の神に関わることなく「生きるに足る確かな世界」を描く方法を発見した。

透視画法の発見は人間の視野を哲学者の偏見からの解放であったと書いたのはゲーザ・サモシ(時間と空間の誕生:青土社)。彼によれば十四世紀の「アルス・ノヴァ」は概念的ではない音楽観を提示し、音楽の可能性を広げ、一世紀後の「透視画法」はルネサンスの画家が世界を見える「あるはずの世界」ではなく、実際に見られるもの、「あるがままの世界」として描き始める道を開いていった。
ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチの描く世界は美しい絵画である以前にまず「あるがままという理念」として見なければならない。 ルネサンスの人々を魅了した透視画法は神に変わる秩序を人間によって生み出し得ることを可能としたのだ。その世界は神のいる世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。そしてルネサンス以降「音楽と建築」は「神話」や「聖書」に変わる「風景の世界」に関わることで、新たなデザインの道を開いていくことになる。

2015年8月1日土曜日

「あるはずの世界」と「あるがままの世界」


(合理主義)

ヨーロッパでは古代から合理主義への信頼が高い。それは「全ての事柄は理論理性で説明がつく」と硬く信じているからだ。
ギリシャのイディアや中世の神に対する信頼は彼らの理性への信頼が生み出したもの。
合理主義では現実的経験より、理性による思考が重視されている。
逆に、現実的世界への信頼が高い場合はその思考は経験主義となる。
「事柄の理解は全て経験の結果」という考え方であり、理性より経験が先行する我々東洋人は世界の有り様をこのように考えてきた。

人間の五感は不完全なものであり、そこでの経験は信頼できるものではない、と考えるヨーロッパの人々にとって、現実世界はどこまでも不確かなもの。むしろその背後にこそ確かな世界があり、その世界だけが信頼するに足るもの。だからこそ芸術は模倣であり現実とはみなしていない。
つまり、現実にではなく、現実の背後に存在するものへの信頼が、ヨーロッパの人々が考える世界の有り様、それが合理主義。
このような合理主義から見れば、世界は「あるがまま」のモノではなく、このように見える「はず」のモノに他ならない。中世の教会の中の絵画や音楽には、この「はず」の世界が表現されている。中世絵画では現実世界をそのままリアルに描くのではなく、現実の背後の世界を理性的思考あるいは想像の結果として、観念的に描くことが必要だった。

(アルス・ノーヴァ)

「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは透視画法。
透視画法の発見は「人間の視野を哲学者の偏見からの解放」であったと書いたのはゲーザ・サモシ(時間と空間の誕生:青土社)。しかし、今やこの偏見の方が貴重かもしれない。何故なら、あるがままの世界を「あるがまま」見ようとしなかった古代そして中世という時代の音楽と建築、そこにはヨーロッパの本来の合理主義に繋がる計り知れないものが隠されているからだ。

十五世紀のブルネレスキの発明、アルベルティの理論化でルネサンスの画家たちを魅了した透視画法は世界を観念ではなく、実際に見ることが出来るモノとして描く方法を開いてきた。しかし、透視画法の発見以前に「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは 中世音楽における アルス・ノーヴァ。 それは観念や理念先行であった世界を実在の道に導いた音楽運動。アルス・ノーヴァは原則や正当性という理論重視の音楽を、新鮮な響きの世界へと開いていった。

アルスの開発により十三世紀も後半になると、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化し始めたのだ。
1322年頃に音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノーヴァ」(新技法)が登場した。ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと考えられる人。この理論書は、音符の持つ時間の長さを多様化したことが重要です。多様化とは、本来は一対三という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、一対二という不完全分割をも認められるようにしたことにある。つまり、三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。 従来のキリスト教の中の「三位一体」という理念から、許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノーヴァという運動により、論理的に許されることになる。結果、音楽はやがて、現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていく。

2015年7月16日木曜日

村野藤吾建築展 

建築好きの方は必見、目黒美術館の「模型が語る豊穣の世界」は素晴らしかった。
建築家村野藤吾さん作品は模型で見るだけでも感激。
京都工芸繊維大学松隈研究室が制作し、四つのカテゴリー分けられ、彼のほとんど全作品が制作展示されている。
これだけ壮観な模型展、所蔵が京都だけに東京の学生には欠かせないチャンスと言える。
行きの目黒の権太坂では台風余波の激しい雨風に閉じ込められた。
しかし、いまはもう、雨も上がり爽やかな目黒川沿いの散歩道。
真っ白で静かな模型群の見学は、最近の鬱屈していた気分転換には最適な時間となってくれた。

2015年7月15日水曜日

どうだい銃声の音が聞こえるかい?


西洋音楽を聖なる教会から俗なる社会に転撤したのが14世紀、ギョーム・ド・マショーのアルスノーヴァ。 その音楽を市民社会の基盤としたのが16世紀末のオペラの誕生。 そして18世紀、モーツアルトのピアノソナタは近代市民社会を切り開いた。 20世紀、市民社会は大衆社会へ向かう。 イタリア未来派は音楽の大衆化を目論んだ。 もっとも未来派の運動は音楽のみならず建築も美術も文学も一体としての大衆社会への対応ではあったが。 未来派の活動はカテゴライズ化された、あるいはクラスファイした19世紀の文化活動全域へのアンチテーゼと言える。 その活動は、シュールレアリストや構成主義、モダニストに受けつがれるが、21世紀の今日、未来派のコンセプトを超えるものはまだ生み出されてはいない。 20世紀の音楽家サティやケージの活動、彼らの音楽が確実に基盤となって、最近ユニークな環境デザインが注目され始めた。 1960年代後半、米国全体がベトナム戦争に揺れ、不幸な事件が相次ぐ。 ケントステイト大学ではヴェトナム派兵に反対した学生たちが図書館が望めるキャンパスの丘に州兵によって追いつめられ、4人の学生が銃弾によって死亡した。 大学は早速、死亡した学生の追悼モニュメントのコンペを実施する。 その佳作が「どうだい、銃声が聞こえるかい?」という作品。 デザインされたものは4人が死んだキャンパスの丘に至る4本の小道。 大理石の彫刻や構築されたヴィジュアルなモニュメントではない。 4本の小道は事件を抽象化して「かたち」として表すという手法ではなく、モニュメントの体現者に過去の出来事を方法的に「経験してもらう装置」としてデザインされた。 樹林の中の4本の小道は銃火を避けるために逃げまどった学生たちの乱れた足跡を辿っている。 学生たちが追いつめられ最後に見たであろう青空、その青空が広がる小さな三角形の広場まで小道は続いている、垣間見える直線路の前方には大学の象徴である図書館。 そしてデザイナーは「どうだい、銃声が聞こえるかい?」と私たちに呼びかけた。(参考文献:都市環境デザイン/学芸出版) ニューヨーク・マンハッタン高層建築群の一角に12m*70m四方のナラの林がある。 アラン・ゾンフィスト作「タイム・ランドスケープ=時の風景」。 ゾンフィストは空き地にナラを移植することで空間の作品化を試みた。 木を移植した林だけで作品だと言うのはどういうことだろうか。 これは「時間の仕掛け」をデザインした作品。 デザイナーは樹齢数百年の立派な木を植え、完成された公園を作るのではなく、若木がそよぐ昔のまんまの風景を作り出すことによって、体現者に200年前のマンハッタンを経験させている。 ここでもまた彫刻という視覚装置ではなく、林の中の風や小鳥の声、かいま見られる青空によって過去の出来事を「経験してもらう装置」が試みられている。(参考文献:平安京 音の宇宙/平凡社) 騒音を出すことを音楽だと宣い、ピアノを前に座っているだけ、時にはピアノそのものを破壊することこそ音楽だ、という未来派等の活動は何を意味していたのか。 「はず」の世界から「あるがまま」の世界を開いたマショウやモーツアルトの音楽、しかし、その音楽的想像世界は19世紀には額縁(プロセ二アムアーチ)の中の「見せ物」「聞く物」に転化してしまった。 未来派の人々は視覚や聴覚だけでは決して捉えることが出来ない、人間の持つリアリティを再登場させようと試みたのだ。 そして彼らの活動がいま、都市や自然環境が持つ経験的側面を明確に浮かび上がらせるきっかけとなっている。 どの時代もデザインを支える基盤は想像力にある。 テーマパーク化していく都市、商品化していく建築、デザイン時代はかえってデザインを矮小化し、電脳箱の中に閉じ込めていく傾向にある。 未来派の活動そしてサティやケージの音楽について、今、再び検討する必要があるようです。

2015年7月8日水曜日

絵画のなかのアルカディア

http://megurigami.jugem.cc/?month=200911

(マントヴァの天井画)

ラファエロの「アテネの学堂」よりも40年も前、マンティーニャはマントヴァのパラッツォ・ドッカーレの「夫婦の間の天井画」(図版:世界の美術史p229)を完成させた。
従来、建築では主要室の天井はドームで構成される。
建築は外界から人間的世界、特別の空間を聖別する装置であるからだ。
その建築の中でさらに特別な場所にはドームが架けられ、そこはあたかも神のいる天上、あるいは宇宙と同義、神そして宇宙の持つ秩序と調和した一体的の場所と見なされてきた。
具体的にはローマのパンテオン。(図版)そのメッセージは「宇宙」、さらには大聖堂のアプス(内陣)の上のドーム天井、そこは天上に繋がる神の世界と考えればよい。

しかし、マンティーニャの「夫婦の間の天井画」が示している。
透視画法を使うことにより建築は重たいドームを必要とせず特別な空間を聖別できたのだ。
平らな天井に描かれた建築空間では屋根が切り開かれ、雲がたなびき、鳥が舞い、天使や天上の人々が親しげに現実の世界に入り込んで来る。
建築空間を建築することなく、絵画によって生み出すことが可能となり、つまり建築空間に透視画法にとよる絵画を描くことで、建築と絵画を一体化した全く別種の空間を作り出すことができるようになった。

「透視画法が開いた空間」は実なる空間と呼応し、また新たなる虚構の空間をも生み出し得る。
その手法は様々に展開され、応用される、だまし絵ということだが、そこに展開される絵画空間と実なる空間の交歓は、私たちの日常をまた新たな想像の世界へと導いていく。(ヴィラ・バルバロ)
その空間は人間により生み出された虚構の世界には違いないが、その世界を通しての、出たり入ったりという想像上の自由は、自身の持つ現実世界やイメージを舞台上の世界のように客観視し、距離をおいて眺めることを可能とした。
つまり、虚実相交わった建築空間での生活は、日常世界の持つ演劇的側面を強調し、その後のオペラの舞台のように、その幻想的世界をより自由に構成することが出来たのです。


(虚実の空間という新たな虚構の世界)

建築が重たいドームを作らなくとも、透視画法を使うこと特別な空間を生み出すことが可能。平らな天井に描かれた建築空間では屋根が切り開かれ、雲がたなびき、鳥が舞い、天使や天上の人々が親しげに現実の世界に入り込んで来る。実際に建築空間を構築することなく、絵画によって天に繋がる特別な空間を生み出している。

建築空間に透視画法による絵画を描くことで、建築と絵画を一体化した全く別種の空間が生まれる。透視画法が開いた空間は実なる空間と呼応し、また新たなる虚構の空間をも生み出している。

その手法は様々に展開され、応用される。一般にはだまし絵と言われるが、そこに展開される絵画空間と実なる空間の交歓は、私たちの日常をもう一つの世界へと導いていく。その空間は人間により生み出されたもう一つの虚構の世界。その世界を通しての、出たり入ったりという想像上の自由は、自身の持つ現実世界やイメージを舞台上の世界のように客観視し、距離をおいて眺めることを可能としている。つまり、虚実相交わった建築空間は、日常世界の持つ演劇的側面を強調し、その後のオペラの舞台のように、その幻想的世界をより自由に構成することが可能となった。


(マントヴァのマンティーニャ)

パドヴァ、ヴェローナで活躍していたアンドレア・マンティーニャは年、ルドヴィーコ・ゴンザーガから生活費だけでなく住まいと食事も用意され、宮廷画家として招かれた。

その年はマントヴァ公会議の開催の年。前節で触れたコルシニャーノの丘の上で教皇ピウス二世に理想都市の建設を決意させたのは、このマントヴァ公会議出席の為の旅。あるいは、ローマ、ウルビーノと忙しいアルベルティがサン・タンドレア聖堂の建設を急いでいたのもこの公会議の為だった。

この年、招かれた宮廷画家マンティーニャには小国マントヴァの文化政策、その威信の全てが懸けられていた。マンティーニャの作品の題材にはパドヴァ時代の学者たちとの親交の成果、宗教画以上に古典古代の理想郷が数多く取り上げられていた。つまり、この画家は画家であるばかりか古典学者でもあったのだ。

彼は早速、夫婦の間の壁画・天井画の制作に取りかかった。そして、ゴンザーガ家の別荘や宮殿、教会の壁画、さらに額縁画、祭壇画等、次から次へと宮廷からの注文に明け暮れこなしていく。イザベラの肖像画を残したことでも有名なレオナルドがこの宮廷に招かれたのもこの頃のこと。マンティーニャは小都市マントヴァを支えるのみならず、この都市の美術の最盛期を支えた最も重要な画家なのだ。


(ルネサンスのアルカディア)

西のアルプスから東のアドリア海まで、北イタリアを滔々と横断するポー河、その流域は全て肥沃な平野。豊かな農産物に恵まれ、音楽と建築に満たされた都市が連なる。マントヴァはその中央に位置する、古代ローマの最大の詩人ウェルギリウスが生まれたところとしても有名。

ルネサンスの人々をアルカディアに誘った長閑で甘美な牧歌や農耕詩は間違いなく、このマントヴァの風景が生み出したものだ。しかし、もともとの、あるいは現実のギリシャのアルカディアは急峻なパルナッソス山域に囲まれた荒涼地、長閑な田園とはほど遠い所。

アルカディアは古代ローマあるいはルネサンスの人々が生み出した想像上の理想郷。ギリシャの人々にとっての、「人間の生きるための規範のための舞台」としてのアルカディアは、苦難の続くルネサンス・イタリアの人々にとっては長閑な田園地帯、理想郷に変容した。

アルカディアはローマ時代の詩人テオクリストやウェルギリウスによる農耕詩や牧歌の中の世界として描かれる。ホイジンガの「中世の秋」によれば、あまりにも厳しすぎた中世末期の現実が、より美しい生活にあこがれ、理想の愛を追い求めるルネサンスを開いたとある。

凶作がつづき、二度に渡る壊滅的なペストの流行、加えて教会勢力の分裂という多難を体験したイタリアでは、十四世紀に入り、ウェルギリウスが描いたアルカディアはペトラルカ等により良い世界の象徴、理想世界、黄金郷として登場した。

列強との狭間で苦難に揺れる十五世紀末イタリア、フェラーラからマントヴァに嫁いだイザベラ・デステの同時代。アルカディアはナポリの詩人ヤコーポ・サンナローザの田園詩「アルカディア」によって、あるいはフィレンツェの詩人アンジェロ・ポリッツィアーノの牧歌劇「オルフェオ」によって再登場する。

やがて「アルカディア」は誕生期のオペラにも引き継がれる。そして十八世紀、その世界は台頭した市民社会の器楽演奏、交響曲や室内楽に取り込まれ、ヨーロッパ音楽の主要テーマとして展開されていく。


(マンティーニャのパルナッソス)

マンティーニャはこのアルカディアのようなマントヴァで十五世紀末、興味深い絵画を完成させた。「パルナッソス」、現在ルーブル美術館に展示されている。マンティーニャの「パルナッソス」は古代ギリシャのアルカディアの聖山、詩と音楽の神アポロンと九人のミューズの住むところとして描かれる。

この絵は后妃イザベラの注文により制作され、長らく彼女の書斎を飾っていた。ルドビーコ公亡き後、マントヴァ国家元首となった彼女は自分自身のための瞑想の場を必要とした。この絵はその為の主要な装置。イザベラの死後、五枚のカンバス画が書斎に残されたが、「パルナッソス」はその中の一つ。しかし、十七世紀にはルイ十四世の所有となり、以降、ルーブル美術館に保管される。


 (fig48)

この頃すでにフィレンツェでは新プラトン主義者たちの思想を反映したボッティチェリの「プリマベーラ」や「ヴィーナスの誕生」が完成していた。人文主義的教養も深いイザベラ、フィレンツェへの対抗心を充分に秘め、この部屋の構想を練ったに違いない。

ルネサンスの作品は、どの分野でも、個性の表出が目的となることはない。作品が作家の個性に結びつけられ解釈されたのは十九世紀以降のことだ。この時代の作品は全て、使用目的に合わせ、あるいは集団的要請に従い制作された。題材は画家が自由に選ぶのではなく注文主が決める。画家は題材に従い作品の持つ意味を的確に表現することが求められた。

イザベラはマンティーニャの「パルナッソス」に何を要求していたのだろうか。美術史家によれば、この絵は様々な解釈があるようだ。以下は長いが、当時の人々の「アルカディア」が垣間見えとても面白いので引用する。

「踊っている女性たちがミューズの神々であることは、その数が九人であることや、画面左上に崩れ落ちる山が描かれていることから、確かである。というのは伝承によれば、芸術の創造における霊感の女神たちの歌は火山の噴火や天変地異を引き起こし、ペガサスがひづめで大地をふみならしてこれらの天災を終わらせるからである。実際画面右手には宝石で飾られた有翼の馬がいて、神意によってしきりに地面をひずめで何度も掻いている。そのそばにメリクリウスがいるのは、彼がウェヌススヴィーナスとマルスの愛人関係に介入し、画面左端のアポロとともに不義のウェヌススをかばうことになっているからである。二人の愛人はベッドに置かれたパルナッソスの山頂から見下ろすように立っている。左に裏切られた夫、ウェウカヌスが仕事場である鍛冶場の洞穴から出て、不貞を働いた二人ヴィーナスとマルスに向かって怒鳴っている。彼の背後にかかっているブドウはたぶん力と不節制の象徴であろう。アポロはその下の方に座り、手にリラ竪琴を持っている。年に作成されたマントヴァのパラッツォ・ドゥカーレの財産目録では、このアポロがオルフェウスと記されており、またアポロは普通ミューズたちの間に交じっているものなのだが、これをオルフェウスと見なしたところで、その絵の内容をいたずらに混乱させてしまうだけだろう。・・・連作全体が教訓を目的としたものであったことは疑いないことである。それゆえ、パルナッソスにはマルスとウェヌススの不貞な結びつきに対するミューズたちの強い非難をはっきりと読みとることができるのである。とはいうもののマントヴァ宮廷の知識人たちがその裏切りを非難したとは思われない。」マンティーニャ東京書籍


(ラファエロのパルナッソス)

マンティーニャの「パルナッソス」に比べればラファエロの「パルナッソス」は判りやすい。「アテネの学堂」と同じ、バチカン宮殿の署名の間の壁画だ。山上の月桂樹の下に座り九人のミューズに囲まれ、リラ・ダ・ブラッチョを弾くアポロン。

画面は左から右へと壁画の円弧に合わせるように流れ詩人たちが配列される。ここでも描かれた人々はまるで舞台を飾る俳優たちのようだ。「アテネの学堂」と同じように登場人物は寓意ではなく実在の人たち、すべてギリシャ・ローマそして同時代に活躍した詩人たちが舞台を飾る。

彼らは桂冠をかぶりアポロンに敬意を表すためにパルナッソスに集まった。左下で巻物を持ち座っている女性がギリシャの抒情詩人サッフォー、その前に立つ三人目の詩人がペトラルカ。山上で詩を吟じる盲目のホメロスとその左手に座り耳を傾けメモを取るラテン詩の父エンニウス。ホメロスの背後ではダンテとウェルギリウスが「神曲」の場面のように視線を交わし話し合っている。右下でサッフォーに対応するかのように腰掛けているのがウェルギリウスと同時代の抒情詩人ホラティウス。その他アリオスト、ボッカチオ、サンナローザに変身物語を書いたオウディウスという詩人たちが舞台を飾る。


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アルカディアの情景のなかで芸術の擬人化であるミューズに囲まれた古今の詩人たち。この絵画のテーマは古今の「詩学」、あるいは「美」の象徴であることがよく解る。興味深いのはアポロンの持つ楽器、彼がいつも持つアトリビュート象徴的持ち物の竪琴を隣に座る青衣のミューズが持ち、アポロンはルネサンス時代のリラ・ダ・ブラッチョを持っている。ラファエロは詩を永遠の価値のシンボルとして、あえてルネサンス時代の楽器をアポロンに持たせたのだと言われている。ラファエロらしいユーモアだ。


(ユリウス二世のメッセージ)

ラファエロの絵画の読み取りは面白いが、「パルナッソス」と「アテネの学堂」を壁画とした「署名の間」全体の意味付けもまたとても興味深い。ユリウス二世はミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画・天井画を任せ、聖なる空間の創出を計った。

ミケランジェロの聖に対し、ラファエロには俗。「署名の間」は教皇の俗権の行使の場に見合うもの、つまり聖を象徴するシスティーナ礼拝堂に対し「署名の間」は世俗の人々のためのより調和ある世界の象徴として位置づけた。

教皇はミケランジェロとラファエロの力を借り、全世界に対する権力を与えられ、聖と俗、どちらの権威をも仲介する教会そのものの役割を強調しようとしているのだ。

「署名の間」は従って、当時の人文主義とキリスト教を統合した装飾計画により俗権の強調がテーマとなるが、具体的には啓示による真理としての神、そして理性による真理としての真・善・美、つまり、神学・哲学・詩学・法学という四つの徳と精神活動を壁画と天井画によって表現している。

そして「アテネの学堂」は哲学であり真、「パルナッソス」は詩学であり美がテーマ。すでに触れたように、ラファエロは寓意ではなく、実在の人物によって、それも舞台構成のような堂々とした建築や自然空間のなかに表現していく。その構成は大変解りやすく、完成されるや否やローマ中を熱狂させ、あらゆる人たちがその壮大さの前に立ち尽くし賛同したと言われている。


2015年7月7日火曜日

音楽のなかのアルカディア

フェラーラのラテン喜劇

北部イタリアをアルプスからアドリア海まで東西に流れるポー河流域、フィレンツェとヴェネツィアに挟まれた肥沃な平野に位置するフェラーラ、そこはいつも政治的には微妙な状況に立たされている。もともとは自治都市だが、十三世紀にはエステ家一族の支配下に置かれた。

エステ家は近親間の血なまぐさい惨劇を繰り返したこともあるが、学芸を愛好し、多くの芸術家を積極的に保護した家柄でもある。音楽への傾倒は特に強く十六世紀初めエルコーレ一世がフランドルの音楽家ジョスカン・デ・プレを宮廷礼拝堂楽長として招いたのは有名な出来事だ。

エンコーレ一世の長女は後のマントヴァ后妃イザベラ・デステ。デ・プレの役割はエンコーレ一世の為に宗教曲を書くことだったかもしれないが、イザベラと弟たちアルフォンソとイッポリットが求めていたのは世俗音楽だ。やがてマントヴァに嫁つぐイザベラの求めに応じ、デ・プレはフェラーラ宮廷で沢山の世俗音楽を書いた。

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しかし、エンコーレ一世が最も力を入れていたのはラテン喜劇の上演。ラテン喜劇とはプラトゥスやテレンティウスというローマ時代の詩人によって書かれたラテン語のドラマを言う。

十五世紀後半からのエステ家宮廷では沢山のラテン喜劇が上演され、その度毎に上演内容は克明に記録され出版されている。当時、記録を残すことは上演することと同様とても大事なことだった。上演とその記録の出版はともにエステ家の名声を高める役割を担っていたからだ。

上演が仮に他愛ないお遊びに終わったとしても、それはエステ家が提供しえる重要な文化活動の一つとなっていたのだ。テアトロ・オリンピコを作ったヴィチェンツァのアカデミア同様、同時代の貴族が社会に対し果たさなければならない重要な責務の一つであり、その責務の履行が小都市の生き残りの為の戦略の要。

残されたいくつかの記録の中で特に有名なラテン喜劇が年、宮殿の中庭の一辺に舞台まで設けられ上演された。プラトゥスの「メナエクムス兄弟」。舞台奥の壁面には中世風の都市住宅や城壁、塔などが描かれていて、仮設とは言え、この中庭はおそらくイタリア半島最初の近代劇場と言って良い。

それは、ヴィチェンツァにテアトロ・オリンピコが誕生する百年も前の出来事。題材において中世的宗教劇とは異なるプラトゥスやテレンティウスの上演は古典文化と接触しうるまたとない機会。ラテン喜劇の上演は新しいライフスタイル、非キリスト教的生活の規範となる古典的会話文体や立ち居振る舞いを身近な形で学びうる格好の場。フェラーラ宮廷のラテン語の悲劇や喜劇の上演は当時の人々にとってのカルチャーセンターとなっていた。

その教養主義的な文学的関心から上演のために専用の劇場まで必要とされるようになったとことは、宮廷の人々の関心がもはや文学だけに留まるものではなく、演劇そのものへと移行しつつあったことをも示している。当初の少数で行われる朗読会は多くの人が集う公演へと転換し始めた。

少数の朗読会が多くの人のための公演と形を変えることで、演じられる場も一定ではなく、演じられる内容も変わって行く。「メナエクム兄弟」は中庭に舞台をしつらえての上演だが、その三年後の公演は宮殿内の大広間に移されている。そして、舞台の前面に舞踏のための広いスペースまで確保され、そのスペースを三方から囲うような階段状の観客席が設えられたという記録が残されている。

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マントヴァのフロットラ

マントヴァはイタリア半島の付け根、豊かに広がる平野の中央に位置する小都市。北のガルダ湖からの流れがポー河へ合流するミンチョ川、その川が生み出す湖に囲まれた水の都でもあり、ウェリギリウスが生まれたところ、イタリア人にとっての古来からのアルカディアだ。

十五世紀末、この都市の侯爵フランチェスコ・ゴンザーガのもとへフェラーラのエンコーレ一世の長女、イザベラ・デステが嫁ぐ。時代はイタリア半島が最も混乱し波乱に富んでいた頃のこと。

マントヴァはフェラーラ同様、北イタリアの小都市、どちらもミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリという周辺大都市の覇権争いに翻弄されていた。波乱は小都市ばかりではない、その四大都市でさえ周辺のドイツ、フランス、スペインという列強の驚異のなかで浮沈を重ね、公国や共和国の持つ自立そのものが損なわれかねない状況が続いていた。

新興著しいトルコが東ローマ帝国を滅ぼしたのもこの時代。地中海、アドリア海に君臨していたヴェネツィア共和国の権益も狭められ、スペインやポルトガルによる地理上の発見、あるいはコロンブスによるアメリカ発見により、イタリア半島の諸都市は最早、中央ではなく、世界の片隅のひとつに過ぎないことを自覚せねばならない時代だ。

こんな時代であるからこそ、その精神風土の底流に、強い民族主義的傾向が現れてくるのは当然のこと。ヴェネツィアやフェラーラ、マントヴァという北イタリアの小都市ではフロットラという世俗の音楽が流行する。フロットラとはラテン語ではなくイタリア語による歌曲のこと。

追い詰められていたイタリアはイタリア人によるイタリアの音楽を必要としていたのだ。当時主流であった音楽はフランドル楽派による複雑な対位法の音楽だが、ホモフォニックなフロットラはフランドル楽派の楽曲に比べ親しみやすく気軽でもあった。

四声の中の下声部がすべて楽器で奏されることもあり、世俗的な詩や恋の喜びや悲しみをより気楽に官能的に歌うことができ、フロットラはイタリア人にとって初めての、自分たちの心情を最も有効に表現できる楽曲となっていた。

アンドレア・マンティーニャやレオルド・ダ・ヴィンチを招き、多くの作品を描かせたイザベラ・デステだが、彼女は画家だけでなく、たくさんのイタリア人の音楽家と詩人を宮廷に招いている

彼女がまだフェラーラの宮廷で生活していたころ、そこにはフランス王ルイ十二世のもとで、数多くの世俗多声シャンソンの名曲を書いたフランドルのジョスカン・デ・プレが宮廷礼拝堂聖歌楽長として滞在していたことはすでに触れたが、彼女はフェラーラの宮廷で庶民の生活が生き生きと表現されたデ・プレの歌曲を沢山聞いている。

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そんなイザベラだからこそ、マントヴァでフロットラに夢中になるのは容易に理解できる。現在の管楽器のひとつトロンボンに名を残すバルトロメオ・トロンボンチーノという音楽家がイザベラのもとにいた。彼はマントヴァで沢山のフロットラを書いた。トロンボンチーノは当時もっとも重要な作曲家、サン・マルコ寺院のガブリエリに匹敵するイタリア人の音楽家として今日に名を残し、管楽器トロンボーンの発明者としても有名だ。

少女時代から歌と鍵盤楽器を勉強し続けたイザベラはフェラーラ宮廷からマントヴァ・ゴンザーガ家に嫁いでますます詩や音楽に熱中する。しかし、ダ・ヴィンチを含め多くの人文主義者・芸術家と交流し庇護はするが、君主でもない女性の身であったイザベラは、さすがに自分自身の聖歌隊を持つことまでははばかれた。

従って、彼女は教会音楽ではなく、世俗の楽曲に力を注ぐのは当然のなりゆき。イザベラはイタリア語の世俗音楽フロットラに熱中し、詩や曲まで制作し演奏する。弱小国マントヴァにとって音楽家を雇い、自分自身だけでなく家臣にも楽器を与え、作品を筆写させることは宮廷の権威を高めると同時に、公国の持つ文化的力を誇示することでもある。世俗音楽とはいえ、マントヴァのフロットラは当時の危うい宮廷の政治的存在感のためには不可欠な戦略の一つでもあった。

マドリガーレ

イザベラはほどなくフロットラの詩の持つ平凡さに不満を抱く。その不満は彼女ばかりではない。フロットラが親しみやすく気楽でもある分、いささか浅薄でもあり、やがて人気は薄れていった

そして、イタリア人の文学的趣味の向上にあわせ、フロットラに代わりにペトラルカのソネット、というような文学的価値のある品格を持った詩を歌詞とした多声の声楽曲が作られるようになる。これがマドリガーレ。イザベラ・デステはトロンボンチーノにペトラルカの詩への作曲を要請する。つまり、イザベルのいるマントヴァはマドリガーレの養育の場所でもあった。

ホモフォニックでリズミカルで庶民的なフロットラはやがて高尚で貴族趣味的な多声歌曲、複雑な対位法を駆使したマドリガーレへと変貌していった。その過程では、ローマをはじめ北イタリア各地の宮廷での音楽活動の中心となっていたフランドル人音楽家の功績は大きい。マドリガーレは歌詞と音楽との間にきわめて緊密な関係を生み出して行き、歌詞の情感を繊細に表現する楽曲となる。やがて、北イタリア発のマドリガーレはイタリアばかりでなく、ヨーロッパ中に知られ、歌われる楽曲となって花開いて行く。

マドリガーレはイタリア語。一般的にはマドリガルと呼ばれ、古くは詩の形態を意味する。十四世紀にあったマドリガルはマドリガルという詩に音楽をつけた楽曲のこと、十六世紀のマドリガーレはマドリガルの発展型ではなく、十五世紀末のフロットラがマドリガーレを生み出した。そして、この大流行の世俗の多声歌曲である十六世紀のマドリガーレがオペラへの道を切り開らく。

対位法的な多声というマドリガーレでは果せない「劇の進行、真に劇を生み出す音楽」のための基礎はフィレンツェで作られたが、その後のオペラを育てたのもまたマントヴァだった。

民族主義的な風潮を底流としてマントヴァは十五世紀末のフロットラからマドリガーレを生み出すが、十六世紀末のフィレンツェのモノディ様式はマントヴァ宮廷にいた一人の天才によって言葉そのものが音楽となる画期的な芸術形式としてて確立された。その音楽家こそ、マントヴァ宮廷楽長モンテヴェルディ、まだサン・マルコ寺院の聖歌隊楽長になる前のこと。

マドリガーレの名手であった彼はフィレンツェのモノディ様式の理念とマドリガーレのスタイルを結びつけ、理論にこだわることなく、自由に力強く豊かな表現力を「オルフェオ」に注いだ。知的で理論的なフィレンツェの様式はこのマントヴァの音楽家の持つ自由な表現力により、今日にいたるオペラへの道が開く。マントヴァのマドリガーレはオペラを生み出すことはできなかったが、生まれたばかりのオペラの道を確実に切り開らいていく役割りを果たしていく。

マドリガル・コメディ

オペラ誕生以前、十六世紀にすでにマドリガーレで劇を構成しようという動きは始まっていた。今日マドリガル・コメディと呼ばれるもので、十六世紀末に出版された「ラムフィ・パルナッソ」は特に有名。「音楽のなかのアルカディア」はマンティーニャの絵画と同じように、ここマントヴァから広がっていく。

パルナッソスはギリシャ神話のアルカディアの霊山、アポロンやミューズが住むところであり、古代の詩人たちが神聖視した。ラムフィ・パルナッソはパルナス山の麓の周辺という程度の意味で、気楽な外界、世俗世界を題材にした音楽劇。当時流行のコメディ・デラルテの形式に基づいて五声、四声、三声のアンサンブルとコーラスによって構成されているが、全体はあくまで一連の曲集であって、演技するようには作られてはいない。

モノローグでは五声部全部が同時に歌い、ダイアローグでは上の三声と下の三声が対比を生みだし、人物の違いを表現するというような構成となっている。そして、上演にあたっては歌手と演奏者は演技者ではなく舞台の背後にいるだけ。舞台上で俳優が歌うまねをし演技をする。マドリガル・コメディは音楽劇というより、あまり生気なく人気薄の牧歌劇をより生き生きとさせるための音楽にすぎなかった。つまり、滑稽劇と音楽を結びつけたもの、この音楽には劇を生み出す要素はなく、オペラの誕生にはフィレンツェでのギリシャ劇への拘りを待たなければならない。

インテルメディオ

古典劇の持つ教養主義的な演劇の場では音楽的役割は決して大きなものではない。しかし無視されていたわけではなく、劇のプロローグや幕間の部分では、独唱や二重唱、コーラスまでも演奏された。音楽が積極的に展開される場は、ドラマ全体の中では挿入部であるがゆえにインテルメディオ幕間劇と呼ばれている。

インテルメディオの題材はネウマやトロープスに似て、劇本体に対するある種の比喩的関係を持ったもの。しかし、あくまでも本体とは別種なもの、本体とは全く異なる独立した物語が挿入されていた。

教養主義的なラテン喜劇の上演に際し音楽劇を導入することは、上演をより娯楽的色彩の濃いものに変化させたことは間違いない。ここで重要なことは、古典劇への関心の大小に関わらず、インテルメディオという音楽の導入により、多くの観客がますますドラマの世界に引き込まれて行くようになったことだ。

演じられる場はもはや朗読会という内輪な世界ではなく、演劇的公演にふさわしい劇場的世界が必要とされた。インテルメディオに声楽曲、器楽曲を付け、視覚的スペクタクルとして発展させたのは十五世紀初めのメディチ宮廷だった。その上演はオペラの誕生をも促すもの。ではどのような演目がどのように演じられたか、その詳細は「フィレンツェの祝祭」に譲ることにする。

劇を進行させる音楽

オペラ誕生の為の音楽上の準備は十六世紀半ばすでに完了していたと言って良い。舞踏曲、アリア、マドリガル、コーラス、シャンソン、カンツォネッタ、そしてインテルメディオ幕間劇。しかし、インテルメディオにおける音楽の役割は劇的進行ではなく雰囲気づくり。演じられてはいるが情景が静止した絵画のようなものだ。その世界は詩と音楽によるスケッチ画にすぎない。

ドラマを動かし、そこに感情を吹き込むのは詩やセリフの役割だ。インテルメディオの音楽はドラマを動かすものではなく、ドラマ全体を包み込む空間、あるいは雰囲気を作り出す役割に過ぎなかった。

オペラの誕生には、音楽そのものがドラマにならなければならない。ドラマに挿入される音楽ではなく、音楽によってドラマが進行する。そこには一貫して流れる音楽にふさわしい劇が必要となる。読んで面白いドラマティックな詩の流れ、舞台で見て楽しい変幻自在な情景、そのような劇の登場が待たれていた。

マドリガーレは歌詞の情感を繊細に表現することは出来たが多声であるがために、あくまでイメージや全体の雰囲気を表現するもの。つまり、マドリガーレは情感あふれる音楽だが、劇を生み出し進行する手法は持ってはいない音楽。

従って、ここでもまた「音楽により劇が進行する」というオペラの誕生は後のフィレンツェまで待たなければならない。

「リュートやヴィオールを伴奏にして小曲を歌うのがなぜ快いかという最大の理由は、それが言葉に驚くべき優美さを与えるからである」と「宮廷人」にカスティリオーネは書いている。「宮廷人」の出版は年、楽器伴奏をともなったソロの歌はフィレンツェのカメラータがモノディ様式を生み出す前からすでに人気となり流行していたのだ。

フロットラや対位法的に書かれたマドリガーレにも下の四声部を全部楽器にゆだね、一番上のパートのみを人が歌うという楽曲はすでに存在していた。しかし、「劇を進行させる音楽」にとって大事なことは、旋律が絵画のような情景を描くことではなく、人が話をするのと同じ様に自然の抑揚を持って歌われるものでなくてはならない。

その為には舞踏風の規則正しい拍子やテキストを繰り返しを助成したり、対位法的な音の進行に縛られることのない、一音節に一音譜が載るホモフォニックな和声を音楽として認める必要がある。

ソロの歌の流行は音の綾織りのような対位法的楽曲より主要な旋律が際立って聞こえるホモフォニックな和声への好みが増していることを示すもの。民族主義的底流の中、イタリア人は対位法好みのフランスとは全く異なる音楽を求めていた。

イタリアでは元来、複雑で曖昧であることより論理的、明解であることが大事にされている。歌曲においても、一つの旋律に対する優れた感覚と言葉の抑揚にみあった、的確なりズムに対する関心が強かった。そして、このような好みと関心がフィレンツェのカメラータたちのギリシャ劇へのこだわりと結びつき、その後のオペラ誕生のきっかけとなる「劇を進行させることの出来る音楽」の形式を生み出した。

つまり、テキストはできるだけはっきりと理解できるように、言葉は人が話す時と同じように自然の抑揚を持って歌われること、旋律は人が語る高められた感動に備わった抑揚やアクセントを模倣し強調するものであること、という原則が理論化されフィレンツェのモノディ様式、オペラが誕生する。

牧歌劇アミンタ

年フェラーラ宮廷におけるタッソの牧歌劇「アミンタ」 愛神の戯れ岩波文庫 の上演は大好評を博した。インテルメディオの題材に過ぎなかった牧歌を悲劇でも喜劇でもない第三の劇として登場させたのが「アミンタ」の上演。

ここでは第三の劇であることが極めて重要で、「アミンタ」の上演はイタリア中に大評判となる。「アミンタ」はギリシャ悲劇やラテン喜劇でもない、古典を超え新時代を表現する、全く新しい確かな劇形式であるとイタリア中の貴族、人文主義者から賞賛されたのだ。

牧歌はルネサンスの人々にとってはなじみ深いもの。ギリシャの詩人テオクリトスは紀元前三世紀、抒情的な田園の牧人の詩を歌い、紀元前七十年にはヴェルギリウスが豊かな自然に育まれた愛詩 と のアルカディア理想郷を表した。

ローマ時代のヴェルギリウスの牧歌「アエネーイス」はギリシャの英雄叙事詩をラテン語に移植したものだが、しかし、それはその後のヨーロッパ文学の出発点として位置づけられている。ダンテ、ペトラルカという大詩人たちは「アエネーイス」を大自然という背景に立ち、地上の愛を唱い、個としての人間の価値とキリストという神とを相対化したルネサンス精神そのものとして再評価している。

この評価と憧憬は、前述の「絵画や建築のなかのアルカディア」と全く同相にある。その始まりはダンテ、ペトラルカの文学にあったと言って良い。 しかし、古来より悲劇と喜劇こそが古典文学の中心であり、牧歌はその傍らに置かれるものにすぎなかった。

田園の牧人の愛をテーマとした登場人物の少ない簡単な対話劇は格好の幕間劇インテルメディオの題材ではあったが、都市化した宮廷の人々にとっては文学ではあるが、ある種の娯楽、気楽な慰みものに過ぎなかったのだ。

その古典的牧歌を悲劇・喜劇に変わる第三の劇として再登場させたのが「アミンタ」の上演。ルネサンス精神が形骸化し、硬直化しつつあった十六世紀半ばではあったが、牧歌の持つ精神に豊かな想像力を吹き込み、悲劇と喜劇を同時に取り込んだ牧歌劇の登場は文学上の大革新となった。

黄昏期であるが故に主知のみではない、理性と享楽を相合わせ持った第三の劇の誕生、それが「アミンタ」。牧歌劇「アミンタ」では悲劇的様相と喜劇的雰囲気が交錯し、人間の感情が生に歌われている。そして、牧歌劇は単なる娯楽ではなく、古典文学に列するものと認められたのだ。

悲劇・ 喜劇 ・牧歌劇

音節の韻律は時には明るく、時には暗く、時には荘重、時には軽い、ドラマはある種の音調と陰影を持って進行する。牧歌劇「アミンタ」の物語は宮廷人と牧人、ともに平等に高貴な愛神の僕しもべであると歌っている。

悲劇は貴人のもの、喜劇は野人とみなす階級的差異による硬直化が一般化していた宮廷社会に対し、タッソは「アミンタ」によって、詩人が本来持っている精神の自由を主張する。そのことが、牧歌劇が古典に列する新たな文学として認められた所以となる。

タッソによる第三の劇、牧歌劇の登場は同時代のパラーディオの建築同様、ある種の前衛的実験かもしれない。と同時にタッソとパラーディオは間違いなくオペラへの道を開いた人。

彼ら二人に見る限り、ルネサンスの黄昏期、それは一般的にはマニエリス期と呼ばれるが、その時代は形式の衰退化、退廃化の時代では決してなく、近代的な意味での際限のない人間追求の時代、その為の自由闊達な作品制作の時代であったと考えなければならない。

諸外国そして近隣からの絶え間ない侵略と神の支配からの離脱、このような精神風土のなか、逼迫した人間が新しい意識によって眺めようとした人間的風景、その風景がテアトロ・オリンピコでありアミンタだ。オペラとはそのような「風景を眺めるための装置」として、登場する。

アミンタからオルフェオへ

牧歌劇は物語の進行ばかりではなく、情景や気分にもポイントがあり、音楽によるドラマの進行には適していた。十一音節と七音節のリズムと音調による全編の流れは、すでに音楽の楽曲そのものと言える。劇の中の美しい情景、穏やかな愛と冒険は音楽むきであるばかりか、絵画的でもあった。

アミンタの中にはルネサンスの絵画に描かれた光景が数多く登場する。野原や森、美しい田園的な情景を背景として「ダフニスとクロエ」のような男女の羊飼いに森の神々などの物語。それらは単純な愛の冒険や田園を背景としたいくつかの事件に彩られ、そして大半はめでたしめでたしで終わるものばかりだ。

現存する最古のオペラ、千六百年、フィレンツェ、ピッティ宮殿での「エウリディーチェ」はカメラータの一人リヌッチーニの牧歌劇に曲をつけたもの。七年後のモンテヴェルディの「オルフェオ」はマントヴァの宮廷書記ストリッジョが書いた牧歌劇の台本がもとになっている。

どちらも同じオルフェオ神話であることは前述した。十六世紀末、牧歌劇アミンタとオルフェオ神話との間にはどのような意味の変容があったのか、この変容とは牧歌劇から音楽劇へ、それはオペラ誕生の鍵と呼べるものに他ならない。