2013年3月14日木曜日

古楽コンサート、フィレンツェの春 


アントネッロのコンサートは誘われていたが、いままでタイミングが悪かった。 はじめて文化会館小ホールで聴かせていただいた。 とても楽しい演奏会で 「フィレンツェの春」と題した第9回定期公演です。 今日は15世紀のフィレンツェのロレンツォ・デ・メデォチに関わる音楽ばかり、フロットラ、シャンソン、謝肉祭歌、ラウダという当時の貴族のサロンや都市広場で歌われた世俗曲が大半で、宗教曲はただ一曲ロレンツォ追悼のモテトゥス。 楽師といって良いだろう演奏者はカウンターテナーと二人の歌手を含めて全部9人の演奏者たち。 楽器も日本では少ないというリラ・ダ・ブラッチョを含め12種という豪華版。 ちなみに、リラはレオナルド・ダ・ヴィンチが得意とした楽器という紹介。 そういえば、彼がミラノに行ったのはまずはリラ奏者として招かれたからと書かれた本を思い出した。(音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ) 会場は文化会館小ホール、決して大きくはないがやはり古楽器、どうしてもその音が繊細なだけにこの会場でも聴きにくい。 折角の珍しい楽器、その形状も面白いので、もっと前のシートを確保すべきだったと悔やまれた。 しかし、楽器だけではなく音楽も多彩、世俗曲と言ってもラウダは礼拝堂でも歌われやや敬虔、フロットラは後のマッドリガーレに引き継がれる詩の内容を重視した宮廷での楽曲、謝肉祭歌は文字通り謝肉祭、春を迎える広場でのダンスを興じるリズミカルでにぎやかな楽しい曲。 解説ではメディチ家の御曹司ロレンツォは若い頃からポリツィアーノ(ルネサンス最大の詩人)やフィッツィーノ(後のフィレンツェ・アカデミーの創設者、ネオ・プラトニズム研究者)とは遊び仲間で、いつも彼らとまさに「フィレンツェの春」を謳歌する詩や音楽そしてダンスを楽しんでいたようだ。 有名なロレンツォ自身がシンガーソングライターとして後世に残した「若さとは何と美しいものだろう・・・」と歌う謝肉祭歌「バッカスとアリアドーネの勝利」がまず前半に演奏され、後半には、遊びが過ぎてやや早死にだった彼の追悼歌。 それは詩人として大成したポリツィアーノによるモテトゥス「誰が我がこうべを濡らさんとするか」が紹介された。(作曲はハインリッヒ・イザーク) しかし、今日、ボクの知る作曲家といえばジョスカン・デ・プレのみ。 ルネサンスを代表する作曲家でそのモテトゥスとシャンソンは有名だが、今日は話には聴いていた「コオロギ」がエンディングとして演奏された。 この曲はフィレンツェではなくミラノで作曲されたもの。 フランスのシャンソンとは異なり四声曲だが、当時イタリアで人気になりかけていたホモフォニックなフロットラとして作曲され、その親しみやすさと、コオロギの鳴き声までを模倣しデ・プレが音楽に取りいれた有名な曲。 その演奏はまさに、今でいえばノリノリのクラブ音楽だ。 「コオロギ」には逸話があり、本当は支払いの悪いパトロンであるミラノのアスカニア公にデ・プレがコオロギに託して報酬を催促した曲。 この事実を偶々知っていたので、エンディングを聴いた今日のコンサート、まさに演奏者グループ・アントネッロのユーモア精神までも充分に理解、おおいに楽しませて頂き、拍手喝采して会場を離れた。 次の機会がまたたのしみです。

2013年3月10日日曜日

エル・グレコ展 

上野にある東京都美術館のエル・グレコ展に行く。 
手元の出品リストによれば、今回の展示はなんと51点、高さ3メートルを越す最晩年(1613年)の傑作「無原罪のお宿り」が会場の最後の一室を飾るという、全体はトレドを訪ねただけでは体験できない、まさにエル・グレコの世界を一望する画期的な展覧会。 
平日の朝一番の入場だが、当然の人気だろう30分もすると早、一つの作品に人溜まりが出来るほどの盛況だ。 
展示構成は分かりやすく4つに分かれていた。 
全生涯における肖像画を中心とした第一章、第二章は出身地クレタからヴェネツィアそしてスペインとエル・グレコ自身の画家としての変遷を説明しようとするもの。 
そして、第三章からはトレドでの宗教画作品、とくに第四章ではグレコは祭壇画の画家だけではなく、建築家として教会全体のプロデューサーでもあったことも示される。 
彼のデザインによるアプスを飾る祭壇衝立や教会のインテリアが写真展示で説明され、実物絵画と空間との関係を直接的に理解できるように展示されていた。 

今回の展示は有り難い、エル・グレコという人間に不案内であったボク自身に、様々な理解と新たな疑問を提示してくれる内容であったからだ。 
エル・グレコは単にマニエリスムを代表する画家と理解していた。 
しかし、時はまさにオペラの揺籃期、北イタリアのどこの宮廷もインテルメッツォが大人気。 
当時はもう教会の仕事より宮廷の方が実入りが良かったはず、クレタからヴェネツィアにやってきたエル・グレコ、生計を立ってるためにはパトロンのための肖像画、そして邸宅の家具ばかりかサロンでの舞台デザインも手がけたのだ。 

一章、二章の肖像画、それは貴族であろうが館の祭壇を飾る聖人であろうが、その絵画はみな額縁舞台(プロセニアムアーチ)の中の演技者のように様々な仕草表情を持ち、いまそこにいるかのように生き生きと画かれている。 
さらに、興味深いのはローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスが書いた「建築十書」を克明に読み込んでいたことだ。 
展覧会で紹介されていた本はエル・グレコの愛用品で、同時代の建築家パラーディオのパトロンであったバルバロが編纂したもの。 
この書は16世紀のイタリアでは古代ローマそして14世紀以来の自然学、建築学、音楽を学ぶ人文主義者には不可欠なもの。 
クレタ出身の画家であるグレコが同時代の宮廷人と直接関わる為には決して手放すことは出来ない本であったろう。 
パラーディオは遅れてきたルネサンス人とボクは考えている。
 彼は建築書に従い懸命に100年前のルネサンス建築を作ったが、エル・グレコはむしろ同書に書き込まれた詞書きをみる限り、すでに古代ローマやルネサンスの秩序観・透視画法にはかなり批判的であった。 
グレコはヴィチェンツァにも居たことが解説されていたので、もしかするとこの街でパラーディオと面識があったかもしれないのだが、彼の生み出す絵画とその町を飾る建築家の仕事とは大きくかけ離れている。 

エル・グレコにとっては幾何学や規範よりミケランジェロに見られるような 、現実的、あるいはドラマティックな描写法のほうが重要だ。 
だからこそ、彼独特の演劇的肖像画や人体が波打つような祭壇画がやがて次々と生み出されたのだ。
さらに面白いのは彼の描く人物像は圧倒的に顔が小さいこと。 
どの絵画も縦長の画面の上部に光を当たるがごとく画かれている。 
画面の下部半分を占める衣類やマントは陰の中だが、見上げる上部はちょうど顔や頭部、そこはどこよりも明るく詳細に画かれ、表情豊かな顔が小さいが故にかえって見る人の視線を強く引きつける。

もう一つ、面白いことに気がついた。 
エル・グレコの祭壇画はほとんどが縦長、その比も1対3から4とかなり極端だ。 
その理由はグレコは現実と非現実を融合することが得意な画家、一般的に人体像は縦長にあるいは細身に描けば画ほど、その全体は非現実的あるいは霊的に表現できる。 
これは中世以来、キリスト教の祭壇画ではよく使われる手法だが、ボクにはもうひとつグレコ特有の大きな理由があると考えられる。 
それは、グレコが建築家であったことにも繋がるのだが、スペインの教会や礼拝堂の建築的特徴にあるのではないだろうか。 
我々がよく知るイタリアの聖堂の大半はロマネスクからルネサンスに引き継がれていて、その内観は上下という縦長より水平の視線が強調されている。
 他方、フランス、ドイツでは12世紀以降のいわゆるゴシック建築、聖堂全体が樹林のような細い柱が林立し、天にも届かせたい高い天井を支えている。 
スペインの聖堂はこのドイツに近いゴシック建築を、この時代になるとプロテスタントに対抗し教会を改装している。 
それはバロック美術の特徴だが、イタリアとスペインの視覚で見るバロックの違いはこの縦長空間にある。 

対抗宗教時代のトレドもまたローマと同様一般的な人々のカソリック的宗教心をいかに教会に引きつけて置くかに呻吟した。 
従って同時代の宗教絵画や音楽、建築は全てそのための道具と言って良いと思うが、その後のカラヴァッジョ同様、エル・グレコも誰にも分かりやすく、共感を引くドラマチックな絵画を画かなければならなかった。 
そして、その共感もスペインの人々は特に現実的救済をマリア様に委ねた、従って、今日、上野で体験した素晴らしい絵画はすべて表情豊かな美しいマリア様が圧倒的に多かった。

例によって日曜日の由なし事ゆえ、見学の付け足しとして、多少の悪口は許してもらおう。 
それはこの素晴らしい展覧会のことではない、好きではないこの美術館建築のことだ。
東京都美術館はかって大階段の上に大きな石の円柱が連なるギリシャ神殿風の建築だった。 
その美術館は小学生時代の校外社会科見学の格好の場所。 
自分自身の夏休みの課題の展示をや小学生にはいささか不向きな日展や院展という展覧会も先生に連れられ、子供時代の記憶としては何度も訪れた。 
神殿のような大階段に到着すると先生に怒られるのは覚悟の上、かならず仲間とみんなで思いっきり駆け上がった。 
それは小学生の眼にはヨーロッパを直接イメージさせる、まさに非日常的な晴れがましい体験だったから。 
そんな思い出が壊され、改築された現在の東京都美術館、実は完成後一度しか内覧していない。
建築を学び人並みの眼でこの建築を体験したとき、余りにもガッカリさせられたからだ。 
この美術館はどうにも息苦しい、それは思い出を壊されたからではなく、建築自体が不可解な迷路で作られた倉庫のよう 。 
しかし、今日のエル・グレコは見たかった。 
トレドもマドリッドも経験がなく、実際に見たグレコは大原美術館の 「受胎告知」 だけだったのだから。

2013年3月6日水曜日

桜の実の熟する時 島崎藤村

岸本捨吉が恋する勝子を想い歩いた道。 なんとそこはボク自身のいつもの散歩道だった。 最近、九段の図書館に通うことが多い。 ボクは新見附から一口坂を登るが、120年前の藤村は牛込見附を登り、市ヶ谷壕の土手の松の樹陰を楽しんでいた。 相変わらず藤村を読み続けている。 そして今は「桜の実の熟する時」。 この小説では「新生」に至るまでの藤村の東京での書生生活が描かれている。 前半は白金の明治学院の寄宿舎と書生住まいの人形町の「田辺の家」。 後半は麹町の明治女学校での教師時代。 藤村は明治26年(22才)に勤めていた明治女学校を突然やめ、世話になった吉村家をも辞し、関西への旅に出る。 理由は教え子佐藤輔子を愛し苦しんだことにあるようだ。 と同時に、この頃の藤村はもっとも重要な彼自身の文学修行時代。 最も多感な時でもあった。 小説の「勝子」とは実在の佐藤輔子のことだろう。 居候していた浜町の「田辺の家」(吉村家)を出て、麹町に近い牛込に下宿する「捨吉」。 彼は毎日、牛込から現在の日テレ前にあった明治女学校に通っていた。 手元にあるのは島崎藤村全集ー5/筑摩書房、その p86に以下の文章がある。 「牛込の下宿から麹町の学校までは、歩いて通うには丁度好いほどの距離にあった。崩壊された見附の跡らしい古い石垣に沿うて、濠の土手に上に登ると、芝草の間に長く続いた小径が見出される。その小径は捨吉の好きな通路であった。そこには楽しい松の樹陰が多かった。小高い位置にある城郭の名残から濠を越して向こうに見える樹木の多い市谷の地勢の眺望は一層その通路を楽しくした。あわただしい春のあゆみは早や花より若葉へと急ぎつつある時だった。捨吉は眼前に望み見る若葉の世界をやがて自分の心の景色として眺めながら歩いて行くことも出来るような気がした。」 藤村の東京は面白い。 江戸から東京への変遷は「夜明け前に」に詳しく、「新生」「桜の実の熟する時」「柳橋スケッチ」等、短編も探せばまだまだ沢山ある。 読むたびに新しい発見ばかり。 そして。今日のように今現在の身近な都市風景に出くわすことになる。 当分、藤村の世界からは抜け出せない。

2013年3月2日土曜日

ホフマンの「カルディヤック」

オペラパレス中劇場「カルディヤック」を見る、今年の研修所公演も画期的。 昨年の「スペインの時」「フィレンツェの悲劇」に引き続き、ヒンデミットの「カルディヤック」。 今年もまた全くなじみのないオペラだったがその内容と出来映えには大満足している。

「カルディヤック」は今回が日本初演、しかし、今年が作曲者ヒンデミットの没後50年ということだけが公演選曲の理由ではないようだ。 昨年の 「スペインの時」「フィレンツェの悲劇」 も同じ、「公演は研修生のためのもの」と言うことにある。 「よく知られている曲では既成の歌手のコピーに陥りがち、研修生が初見の楽譜を読み、未知のオペラにどう挑戦するか」、それが「カルディヤック」公演の目的。 理由はともかく、結果は全くなじみのないボク自身をも大いに楽しませた素晴らしい舞台。 その出来映えだけでなく、なかみもまた限り無く興味深い内容を持っていた。

それは前回の「ピーター・グライムズ」の感想と似ている。 どちらも現代オペラ、観なれていないだけで現代オペラは健在であり、聴けば聴くほど面白いものと実感した。 ピーター・グライムズは1945年、カルディヤックは1926年に作曲されたもの。 この1920年代というところが今日のオペラの面白さのポイントだろう。

このオペラもまた合唱に始まり合唱に終わる。 その合唱はピーター・グライムズとおなじ、ギリシャ悲劇のコロスをイメージさせる。 さらに、その内容は明解に現代の無名・匿名の大衆を表現している。 そして、オペラはその大衆の持つ不気味さ、不安をテーマとし、現代社会の病理の中に主人公カルディヤックを放っていく。

1920年代は第一次世界大戦と第二次の中間の時代。 その時代の建築と音楽は恐ろしく酷似していて、もはや理想的な市民社会(19世紀ロマン派)の夢は消え、新たなカタチを探さざるを得なかった時代。 カタチを失った時代に音楽家や建築家は何をどう表現するのか。 それは新即物主義と言われる時代 、人間そして世界の有り様を前々代の規範(カノン)や前代の主観で捉えるのではなく、無機・無名、あるがままに機械的、即物的、機能的に表現することを標榜した。

ヒンデミットはシェーンベルグとは異なり無調音楽家ではない、中心音を決めその音をキーとして様々な音(楽器・声)の重なりをリズムと和声で紡いでいく。 しかし、その重なりは当然、主観やロマンではない、バッハの対位法に近いということだが、ボクにはまさにタウトやミースの建築に似て、決して機械的ではないが、無機・無臭、匿名性を帯びたテンタティブなカタチの重なりに見える。 1920年代はまたナチ台頭を助成する時代でもあった。 主人公カルディヤックはユダヤ人だ、金細工師でありよき父親、そして殺人鬼、アンビバレンツな彼の存在が大衆の合唱の中に沈んでいくオペラの終幕は強く1920年代を意識させる。

オペラでは彼だけが名前を持ち、他の登場人物は全てが役割(機能的)のみで無記名。 娘は貴婦人であり、騎士は士官、一幕の登場人物が二幕では声も人も機能も変わるが、本当はどこの何が異なるのか。 そして得体の知れない金商人は利益を得たのか失ったのか、さらに面白いのはオペラなのに全く歌を歌わない3人の登場人物、それは王であったり、警官であったり、記者であったり、娼婦であったり、全く同じ姿のまま、大事な場面ではいつも登場し、観るものの想像をかき回していく。 こんな不可解なオペラだが、なぜか、眼と耳は終始舞台に釘付けられる。 この当たりはたぶん原作者ホフマンのなせる技だろう。

あの「ホフマン物語」のホフマンだが、彼はこのオペラの原作「スキュデリ嬢」を18世紀に書いている。 しかも、その原作のモデルはなんと17世紀を舞台にした黒ミサの毒殺事件ということだ。 こうなると、ますます混乱のままの推測と想像だが、ホフマンの世界はこのような不可解なイメージが先に立つ「幻想世界」、だからカルディヤックの元はホフマンだということだけは容易に理解できる。 さらに身勝手な幻想を膨らませれば、カルディヤックはリゴレット。 ともに身近な世界からみれば異形な父親、決して手放すことが出来ない大事な可愛い娘を持つ父親の悲劇。 あの不可解なカルディヤックの娘はまさに裏返しに画かれたリゴレットの「ジルダ」に他ならない。