2013年1月25日金曜日

オキュパイ運動と「サティアグラハ」


昨年、東劇でみたオペラ映画「サティアグラハ」がウォール街占拠運動とこんな関係を持っていたことは知らなかった。アメリカの「オキュパイ運動」については日本のメディアも米大統領選時、次世代のオルタナティブとしての保守的な「ティーパーティ運動」と一緒に報道した。アメリカの「怒れるわか者たち、疎外された人々」のオキュパイ運動は今や、ロンドン、スペイン、チリに波及している。 かって、ヴェルディは「ナブッコ」でイタリア・リソルジメントを支援した。「サティアグラハ」は南アフリカとインドでの人種差別に非暴力で抵抗したマハトマ・ガンジーを画いたオペラだが、たしかに、19世紀の「ナブッコ」そして「ウォール街占拠」のオキュパイ運動にに直結するオペラであることは間違いない。 今頃になって「ルモンド・ディプロマティーク」をなぜアップしようと思ったか。 やはり、ずーっと気になっていたんだな。 何故なら、自民党圧勝というより民主党総崩れの選挙だが、結果、時代はまた昭和に逆戻りしているように思えてならないからだ。 >ウォール街占拠運動の中でも、12月1日にニューヨーク・オペラハウス前で行われたデモ行動は芸術と政治、身体パフォーマンスを一体化したものだった。全体集会はこの日、マハトマ・ガンディーの生涯にインスピレーションを受けたフィリップ・グラスのオペラ『サティアグラハ』の公演後に開かれることになっていた。この日の全体集会には運動を支持したオペラの作曲家も出席した。全体集会開催は、オキュパイ運動を手荒く抑圧したニューヨーク市が同時に、非暴力抗議運動を題材にしたオペラを上演するという矛盾を突くものだった。全体集会は警察官の監視下で開催され、遊歩道から一歩でも前へ進んだ者は誰でも連行された。ア全体集会の司会進行は繰り返し全員に発言する権利があるのだと力説した。「われわれの集会には進歩的なルールがあります。最初に話す者が一番力を持っているわけではない。最初に話す人たちは社会から疎外されてきた人々です」厳寒のニューヨークの夜、全体集会は何時間も続けられ、誰もが自分の境遇について語り、ウォール街占拠運動を支持する理由を語った。しかしながら、その夜、オペラハウスの前では、社会から疎外された人々の声を聞くことはほとんどできなかったが、一流の大学を卒業した後、膨大な借金(学資ローン)を抱え途方に暮れている学生や、昇級を上司に認めさせることのできない合唱団員、数百ドルのオペラのチケットが買って『サティアグラハ』を聴くことができない若い音楽愛好者の声を聞くことはできた。 世界に広がる「怒れる者たち」 ラファエル・ケンプ(RaphaelKempf), 特派員 ル・モンド・ディプロマティーク編集部

2013年1月19日土曜日

写真展書棚

書院造りに見るように、西洋も日本も書籍に囲まれた空間が「接客空間」の原点。 事実、近しい友人のお宅に招かれた時の最大の楽しみは書斎での語らい。 あるいは住宅設計の相談はほとんど施主の書斎と言って良い。 思わず目に入る「背表紙」がより深くその人の好ましい人となりを伝えてくれるばかりか、「背表紙」が楽しい会話を生み出してくれるからだ。 最近届いたメルマガだが、この写真展は「達人の博物館」と言えるようだ。 

 「書棚」という写真展(新宿・ペンタックスフォーラム)撮影者は薈田純一

2013年1月15日火曜日

都市とオペラ劇場

(バロック社会の底流、作品を必要とする時代)

十七世紀イタリアはヨーロッパの庭、グランドツアーの目的地。ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマの人気は飛び抜けていて、北からの旅行者たちは古代の建築や美術品ばかりでなく、新しい音楽の新鮮さ、壮大さに魅せられていた。しかし、その庭はスペイン・フランス・神聖ローマ帝国という三大勢力の政治的バランスの調整地。

衰退したとはいえ地中海の交易権をかろうじて保持していたヴェネツィアのみが共和国としての体面を保っていたが、ミラノ、ナポリはもちろんフィレンツェ、フェラーラ、マントゥバ、どこも三大勢力との友好関係の維持に汲々としている。どの公爵家も政略的な結婚とそれに伴う華麗な「宴会」を演出することで外交上の生き残りの道を画策してきた。

加えて前世紀以来日常化し蔓延したペスト、さらにいまだ落ちつくことのない宗教改革派との抗争、イタリア半島はどこもかしこも、精神的危機にみちみちていた。

モンティヴェルディの官能的マドリガーレ「こうして死にたいものだ」やジュリオ・ロマーノのパラッツォ・デル・テとその巨人の間の壁画はそうした危機感とそこから生まれる自棄的法悦的意識を先取っていたと考えられる。その底に流れるものは、明確な論理や客観的な理性以上に主意・主情、厳格な宗教改革を突き抜けた後の快楽的な神への祈りかもしれない。

オペラがもてはやされたのはそんな時代を引き継いでいる。神の支配から離脱した人間が新しい意識によって眺めようとした人間的風景、オペラはその風景を眺めるための装置に他ならない。そのような時代を生きなければならない人々であったからこそ必要とされたもの、それは古典古代への窓口としての教養ではなく、真に新しい意味での際限のない人間追求のドラマ、新しい形での娯楽だった。

時代はもはやルネサンスの絵画、彫刻で見るような、端性・典雅であることより、風変わり・不規則なものを求めていた。とは言え、その時代がただ闇雲に、ルネサンスの秩序ある静かな佇まい、その形式を衰退あるいは退廃化させたと考えるのは一方的過ぎる。同時代を生きる多くの人々や、北からの旅行者たちが関心を持っていたことは、近代的な意味での際限のない人間追求と自然肯定であったことは理解すべきだ。

そこに流れているものは形式的あるいは構成的であることより、流動的・絵画的。人間は変転生成する世界の中での一片の葦に過ぎないが、その存在は神にも伍するものと考えている。バロックとはそんな時代ではなかったのか。

(劇場のデザイン)

演技者や音楽家にとって劇場は必ずしも必要ない。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇や音楽にとって必要なのは舞台であって劇場ではない。身振りと言葉だけで俳優はそこにはない空間や時間を現出すると語る現代の演劇のピーター・ブルックにとって、劇場はおろか舞台すら必要ない。劇場を必要としたのは観客だ。全員参加の古代における祝祭空間が「見る人・見られる人」に分化した時、観客が生まれ、劇場が誕生した。

ギリシャからローマ、ルネサンスから近代とヨーロッパではたくさんの劇場が作られた。しかし、ギリシャのエピダウロス劇場、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコ、これらの劇場はともに演劇低迷期に建設されている。エピダウロスはアイスキュロス、ソポクレースというギリシャ悲劇の作者が活躍した百年も後の建設。テアトロ・オリンピコはヴェネツィアでモンテヴェルディのオペラが人気を博す五十年も前に建てられた。この事実は劇場は必ずしもオペラや演劇の上演ために作られたのではないことを示している。

劇場は世界を知るメディアであり、社交を生み出す装置なのだ。建築デザインの現在は、安全・便利・快適という個々人の生き方に資するもの。しかし、建築は「人と人、人と世界の関係を調整する」という集団的意味を持つメディア。劇場は演劇以前に人間と世界の関係、コスモスを示す役割を担っていた。建築家は劇場を「世界模型」として作ることで、世界の中での人間の在るべき場所を示し、世界と人間との関係を明らかにした。観客は劇場を体験することで世界に立ち、自分自身がいまどこにいるかを実感したのだ。

イタリアに近代劇場が誕生した十六世紀後半、日本でも同時期、能のための常設舞台が西本願寺に完成した。劇場建築をめぐる洋の東西の同時現象は興味深い。絶対的な宗教権力の失墜と下克上が劇場を生み出すきっかけであろうか。劇場を新たに必要とする人々、それはまごうことなく、時代の節目に現れた人間たち。清貧禁欲な宗教的価値観ではなく、現実的、合理的、あるいは多少の快楽が赦される社会に生きる新しい人々だ。

テアトロ・オリンピコという近代劇場の誕生は時代の変局点を示している。この劇場に示されたもう一つの役割。それはコミュニケーションや交歓、「人間と人間の関係を調整する」という社交空間。テアトロ・オリンピコは古代劇場、中世キリスト教会を引き継ぐ「世界劇場」であると同時に、西本願寺の「能舞台」と同様、争いを回避し、文化的資質を生み出す社交空間としてデザインされていた。

劇場を必要としたのは音楽家ではない。演劇関係者でもなく建築家だった。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇に必要なのは舞台であって、劇場ではない。仮設的に作られた野外の演劇の為の空間を劇場という建築の形式に変えたのは建築家であり、建築家に架せられた社会的使命です。建築家は演技によって世界が演じられる以前に、劇場という物理的架構によって世界を表現しなければならなかった。

オペラの誕生の経緯や見ると、むしろオペラの方がすでに存在している劇場の形式にあわせ、その形式を整えていったことが解る。さらにまた、19世紀のワーグナーを除いて、オペラの形式が劇場の形式を決定したということはほとんどなく、むしろオペラが劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えていったと考えられる。17世紀初頭、フィレンツェのメディチ館の広間でのカメラータたちの試みは、透視図法に彩られたバロック劇場を得ることによって、視覚による知的興味と聴覚による感覚的喜びを相い和した画期的な芸術様式として花開くこととなった。

(建築術と印刷術)

建築は「世界を知る」最も有効なメディア。建築が「世界模型」であった時代を「建築術」の時代と呼ぶことがある。一方、ルネサンス以降を「印刷術」の時代と呼ぶ。グーテンベルグ発明の印刷術が新しい「世界を知る」メディアとなったからだ。十五世紀以降、印刷術の発明により、沢山の聖書が印刷された。中世以来、教会の奥深く厳重に管理されていた写本に変り、人々は印刷された聖書を誰もが自由に手にするようになる。

ヴィクトル・ユーゴの「ノートルダム・ド・パリ」のなかで主席助祭が印刷されたばかりの真新しい聖書を手にし「この本があの建物を滅ぼしてしまうだろう」と呟く。ユーゴは十五世紀のグーテンベルグの発明によって、建築はその役割を閉じると、主席助祭に語らせたの。聖書が教会を滅ぼす、ユーゴは何を意味したのか。土地と一体である建築は移動させることは不可能、一方、印刷術から生まれた書物は持ち運びが自由(ポータブル)。グーテンベルグの発明は知識や情報を建築から剥ぎ取り、印刷された書物に綴じ込め、何処でも自由に持ち運ぶことを可能にした。

人々は最早、建築としての教会は必要なくなり、教会は個々人の枕元の聖書に、あるいは日々持ち歩く鞄の中の書物に代わって行く。人々は世界を建築体験ではなく、印刷された書物を読むことで知る。つまり、ユーゴが語らせた主席助祭の呟きはコスモスとしての建築の解体を意味していた。

印刷術が建築術を解体し、枕もとの聖書が教会に変わることで、キリスト教社会は大きく揺らぐ。十五世紀ルネサンスの人々はキリストに変わる新しい神、教会に代わる新しい世界、新しいコスモスを模索している。そして生まれたのが絵画や庭園のなかの理想郷(アルカディア)、あるいは透視画法の中の理想都市。十七世紀、人々はアルカディアや理想都市を背景としたオペラの世界を生み出す。その世界は建築術が解体された後のコスモスであり、人間が神ではなく自分自身の目で眺め、耳で聞く世界だ。

絵画や庭園やオペラの中のアルカディアは実在的ではあるが観念の世界、描かれた画面や印刷されたタブローの中の作品的世界、虚構の世界に他ならない。作品的世界とは神と共存する世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。神々が神殿あるいは教会に実在する世界ではなく、人間自身が想像的に眺める世界、風景の世界なのだ。

風景の世界とは、神が支配するコスモス(秩序世界)ではなく、人間の視覚によって作られたランドスケープ(眺望世界)を意味する。建築術が解体し印刷術に代わることで世界はコスモスからランドスケープへ変容したのだ。

オペラの世界とは、神と共存するコスモスではなく、透視画法に縁取られたプロセニアム・アーチを持つ額縁舞台の中の世界、動く絵画の世界、ランドスケープに他ならない。そしてこの世界を最初に準備したのがテアトロ・オリンピコ。テアトロ・オリンピコは世界がコスモスからランドスケープへ変わる変局点に立っている。それが近代劇場の誕生の真なる所以だ。

(社交空間としての近代祝祭劇場)

古代劇場、ヴィトルヴィウス劇場をモデルとし、透視画法による理想都市でもあったテアトロ・オリンピコはコスモスとランドスケープを相い合わせ持つ劇場。十七世紀に入り劇場はランドスケープとしての劇場へと変容していく。サッビオネータ、ファルネーゼはテアトロ・オリンピコをモデルとしたバロック宮廷劇場。ランドスケープの劇場はヴェネツィア、ローマの公共劇場へ引き継がれ、近代ヨーロッパ文化を象徴する新しい市民のためのオペラ劇場へと変容して行く。コスモスからランドスケープへの変容によりオペラ劇場は観客の為の社交空間としてデザインされていく。

劇場をめぐって音楽家と建築家はいつも争う、「この劇場は使いにくい、音楽のためにならない」と音楽家が言えば、建築家は「劇場は音楽のためにあるのではない、観客のためにあるのだ」と。現代社会ではオペラ劇場はオペラ上演のために建設される。従って建築家は音楽家の批判には十分に対処しなければならない。しかし、現在のミラノのスカラ座やパリのオペラ座に見るように、オペラ劇場の大半は多層の楕円形桟敷席で構成されている。その平面型からくる音響特性は音楽にとって不利であるばかりか、観客は斜めから舞台を見なければならず、決して観劇に向いた作り方とは言えない。

 (fig107)

オペラ劇場はオペラの上演の為に作られたのではない。楕円形の客席は音楽を聞き、舞台を眺める為に生まれたのでもない。劇場は観客が観客を眺めるための形式、社交のための装置としてデザインされている。劇場は貴族の館のサロン同様、十八世紀以降の近代市民にとっても必要不可欠、人間と人間の関係の構築の為の空間としての役割りを頓に強めて行く。

古代劇場は祝祭から生まれたもの。祝祭とは神との交歓の場であるばかりか人間と人間が相和し、共存する場でもある。祝祭から誕生した劇場は演技を見物し、ドラマを楽しむ以上に、人と人とのコミュニケーション、社交の場であることが重要であった。従って、ランドスケープへ変容したオペラ劇場は、観客が舞台を眺めるだけではなく、観客を眺める場でもあった。つまり古代の祝祭から引き継がれたオペラ劇場は、<人間と世界>との関係だけではなく、<人間と人間>との関係の場、ギリシャ・ローマ以来の「祝祭劇場」であったことを忘れるわけにはいかない。

( オペラと劇場 )

音楽とドラマ、どちらもオペラにとって不可欠だ。しかし、演劇の上演にあたって音楽が必要とされたのはオペラだけではない。中世の受難劇も十七世紀のオラトリオも同様。オペラの特質は劇場にある。宗教改革に揺れるイタリア、教会と劇場は反目する。オペラは「教会」とは異なる「劇場」を得たことで、その後に連なる大いなる展開の糸口をつかんでいる。

さらにまた、演劇の形式が劇場の形式を決定したことはほとんどない、むしろ演劇が劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えていったと考えられている。その具体例がオペラだ。十七世紀初頭、ルネッサンスの黄昏期、ギリシャ悲劇の再興もくろんだカメラータの試みが透視画法に彩られたルネッサンス劇場を得ることによって、視覚による知的興味と音楽による感覚的喜びをあい和した画期的な芸術形式として花開いた。

見る・見られると分節された二つの空間、オペラほど舞台と観客の分離が完全な演劇形式は他にはない。にもかかわらず観客と舞台がこれほど同じ感情に満たされる演劇形式は他にはない。オペラは舞台上だけでなく、劇場全体の雰囲気もオペラを体験する上で必要不可欠。誕生当初のバロック宮廷劇場の持つ娯楽性は市民文化の中でも消え去るどころか、ますます盛んになり、豪奢と洗練を深めてゆく。

オペラ劇場はいざ作られてみると、これほど融通の利かない建築は他にはない。舞台と客席、全く形を異にする二つの巨大スペースを必要とし、かつそのどちらにも巨額な設備と装飾が必要とされる。建築としてようやっと完成しても、オペラや演劇の上演以外の使い道は他になく、古くなった後の劇場は転用もままならないばかりか、使われなくなれば壊す以外に方法が無い。

舞台上では様々な機械を駆使したスペクタクルが演じられると同時に、桟敷席でも華々しい社交と宴会、時には賭事や睦みごと、舞台以上のドラマに興じる紳士淑女も現れる。このように多くの人に愛され利用されている最中にあればあるほど、オペラ劇場はちょっとした油断ですぐ火事になる。

合い矛盾するいくつかの課題を抱えたオペラ劇場だが、歴史経過から見る限り、その後、天才建築家を必要としなかった。見る・見られる関係の深化と巨大化以外、その形式に新しいものを要請するものは何も無かったからだ。事実、ヴィチェンツァにテアト・オリンピコが誕生して以来、様々な洗練とバリエーションは繰り返されたが、新たな空間的独創性はどこにも発揮されていない。

深化と巨大化という観点で見るならば十八世紀のオペラ劇場に触れる必要がある。オペラの変質が劇場に大きな変容を与えている。客席と舞台の分節がますます要請されるグルック以後のオペラによって、結果として二つの空間はその親しみやすさを失っていく。

オペラが神話から離れ、人間のドラマへと変質していく時、劇場への要請は祝祭ではなく、機能的・合理的な箱、大小様々な音響がきめ細かく響きわたる場となることが要請された。加えてよりドラマティックなロマン派的音響の増大につれ、装飾は華麗に、階段やロビーは豪華に、宮廷から始まった空間は劇場全体が宮殿のような趣となる必要となった。

(バイロイト祝祭劇場)

 (fig108)

オペラ劇場は近代ヨーロッパの都市に君臨する。しかし、劇場がオペラの為に作られたのは、唯一、十九世紀後半のワーグナーのバイロイト祝祭劇場だけだった。舞台と客席に分節された二つの空間。前者は方形、後者は楕円形、各々は合い異なる形態とボリュウームを持ってはいるが、一つの劇場建築という視覚上の要請から、その調整のため客席の天井高は恐ろしく高く作られた。

ワーグナーはこのアンバランスを次のように指摘している。「伝統的劇場は舞台の高さに客席の天上高を合わせようするあまりプロセニアムの頂部よりも高いところにまで天上桟敷を作ることになり、より貧しい人々はオペラを鳥敢的にしか楽しむことが出来なかった。」(劇場 建築・文化史:早稲田大学出版部 )

結果、 ワーグナー は彼の持つ音楽的情熱が画期的なオペラ劇場、バイロイト祝祭劇場を完成させることになる。バイロイト祝祭劇場は唯一、オペラの為の劇場ではあるが、同時に劇場空間の持つ本来の意味を喪失した劇場でもあるのだ。客席の誰にとっても等しく舞台が見やすい劇場とするため、楕円形の客席を取り止め、舞台を直視できる方形とした。桟敷席が廃止され、社交のためのロビーやホワイエも取り除かれた。さらに、オーケストラピットを沈め、客席を暗くすることにより、観客は舞台に集中し、リアルな視覚世界のみに関わることになった。

ここにいたり劇場はコスモスでもランドスケープでもなく、観る・聴くためだけの箱に変容。グルック以来の市民オペラはこの劇場の誕生をもって全てが完成したのだ。しかし、同時にオペラ劇場はもはや劇場自身が言葉を発することのないニュートラルな建築。

バイロイト祝祭劇場は集団的意味としての作品的世界、オルフェオの持つデザイン・コンセプトを尽く喪失した劇場になってしまった。真っ暗な客席は、隣席に人がいてもいなくとも変わらない、全くの個人的な世界。オペラ劇場は集団ではなく、個人が「見る・聴く」ためだけの装置。個人がイヤホーンで聴くウォークマンやガジェットのようなオペラ劇場。もはや集団を支える社交空間でもなければ祝祭の場ではない。バイロイト祝祭劇場はオルフェオの終焉の象徴、唯一、名前だけの「祝祭劇場」なのです。

 (fig109)

(貴族の都市そして作品的世界)

作品的世界を開いたもの、それは印刷術に支えられた楽譜であり透視画法の中の理想都市やアルカディア。音楽における作品の誕生はその創り手である作曲家の誕生でもあった。記譜することで明確になった作品はその創り手自身の存在を意識づけたのだから。さらにまた、作品の誕生はその鑑賞者の姿も明確にした。作品を必要としたのは絶対君主の宮廷や貴族的市民の社交界。力を持ちだした王侯貴族が音楽作品を楽譜という形で盛んにコレクションし、作曲家を保護するようになる。

それは社会における文化受容の変化を意味する。教会の中で神の顕現、神の国の創出に関わってきた音楽・絵画・彫刻、それらを近世の王侯貴族たちは権威の象徴として、自らの都市あるいは自らの生活を彩る文化装置としてコレクションした。

印刷術に支えられ、多くの作品と作家を生み出したルネサンスは諸芸術の誕生の時代。ヴィクトル・ユーゴが指摘した印刷術による建築術の解体は芸術家の時代の到来を意味し、その鑑賞者あるいは利用者、パトロンの誕生の時代でもあったのだ。

歴史的に芸術のパトロンであった貴族たちの最大の関心は都市にある。都市は作品でもあるが、都市はまた作品を必要としている。フィレンツェ、ヴェネツィア、マントヴァ、フェラーラ、そしてローマにナポリ。どの都市も華麗な音楽と建築を生み出している。そこに生きる君主や貴族たちがその地位と威光を誇るため競って音楽と建築を必要としたからに他ならない。

外見のはでな装飾や見栄えの良さをすべて虚栄の範疇でとらえるのは容易だ。しかし、そこには貴顕の身たるものの生活様式の一つとして、あるいは当然の責務としても、作品が位置づけられていたことも見逃してはならない。

バルダッサーレ・カスティリオ-ネが優雅なルネサンスの宮廷ウルビーノで「宮廷人」を書いている。この書は宮廷での礼儀や美徳についての入門書ではあるが、人間として生きることを自覚した人間の生き方の指南書でもある。そこでは貴顕の人間としての持つべき気品、あるいは作法として位置づけられる、作品の果たす意味と役割も論じられている。貴族並びに上層市民として生きる人間にとって、戦争時においてこそ、戦うばかりではなく、詩を吟じ、楽器を演奏し、社交の場では優雅に舞踊を舞うのは必要不可欠な作法であったのだ。

(コレクションとしての作品的世界)

印刷術の時代を迎え、かっては神殿や教会のなかで一体となり神の国を現出させ、神の言葉を伝えていた音楽・絵画・彫刻は各々別々の芸術作品として自立する。さらに、作品の一つ一つはその所属ジャンルまで明確にし、区分けされる。区分けされた作品は印刷物と同じ様にバラバラとなり教会を離れる。教会をはなれた芸術作品の各々はやがて新たな場所にコレクションされる。自立した芸術作品は「コスモスとしての建築」を解体し、「風景の世界」の作品的世界を開いていく。

自立し、バラバラとなった作品は君主や貴族たちによって、祝典や外交上の貢ぎ物として利用される。さらに、作品の一つ一つは都市や庭園、宮廷や館という世俗の空間の隅々に散りばめられていくのだ。

「音楽と建築」はコスモスとしてのメディアであることからランドスケープとしての作品に変容する。作品の各々は社会的意味、集団的役割を変え、貴族の権威の象徴、彼らの館の個人的コレクションに転化して行く。貴族館の祝典の催しものの一つであったオペラもまた権威の象徴、外交上の貢ぎ物の一つに他ならない。

バロック時代、コスモスがランドウスケープに変容し、作品が教会から離れていきつつある中、「都市」はまだ「音楽と建築」を一体し、そのパトロンであった君主や教皇あるいは有力な貴族たちに保護されている。しかし、十八世紀以降の近代市民社会に入りパトロンたちは力を失う。崩壊する貴族に代わり、わずかに貴顕の身たる責務を持った実業家たちがその役割を引き受ける。

しかし十九世紀、都市もまた芸術の場としての役割を終焉していく。ロマン主義により人間の趣味・趣向・生き方が集団を離れ個人の趣向品に姿を変える。芸術がその本来の社会的、集団的意味を失って行く時、都市自体もまた芸術である必要がなくなり、そこは「小さな物語」、趣味や娯楽の集積場に転化して行くのだ。

(ミュージアムとコンサートホール)

十八世紀、オペラが専用のオペラ劇場で市民に公開されたように、貴族のコレクションであった作品も、やがて、編集・整理され市民に展示公開されるようになる。市民社会のコンサートホールやミュージアム(美術館・博物館)の誕生だ。都市が芸術の場として役割を失いつつある中、オペラ劇場とコンサートホールそしてミュージアムは啓蒙社会、近代自由市民社会のライフスタイルと都市を象徴する建物となって多くの人々に歓迎される。

オペラ劇場やコンサートホールで音楽を聴き、美術館や博物館で美術品や古代的遺物を鑑賞することは、自立した市民にとって不可決なスタイル。個々人が持つ趣味と見識によって作品を楽しむという新しいライフスタイルの誕生だ。しかし、「建築」はますます重大な局面を迎えてしまう。コスモスのみならずランドスケープとしての「建築」の解体でもあったからだ。

個々に様々なコンテクストを持つ作品たちではあるが、コンサートホールや美術館・博物館に展示される作品の各々は、その作品の持つ意味を的確に鑑賞者に把握してもらわければならない。しかも、作品各々が持つコンテクストどうしが、お互いぶつかったり干渉したり、邪魔することのない状況を作らなければならない。作品たち一つ一つはあたかも、百科辞典の中に配列された事柄のように、各々が行儀よく整理され、展示される必要があるからだ。

その為に準備される建築空間は建築自体がメッセージを発することのない、ニュートラル(ノンコンテクスト)な場となければならない。建築は饒舌であってはならず、無言、無音であることが求められる。無言の建築の中であるからこそ、饒舌な作品はその一つ一つが個々の意味を明解にメッセージすることが可能となるのだ。その饒舌もお互いが孤立した額縁(プロセニアム・アーチ)の中だけの物語。やがて、作品を取り巻く建築空間、都市もオペラ劇場もコンサートホールも美術館も博物館も、すべては祝祭性を消去した機能的な箱であることが要請された。

かっての教会は構築物と光と音によって構成された物語的世界、その「建築」の意味を増幅することが絵画や音楽、芸術の持つ役割だった。教会から飛び立ち、都市や貴族館の祝祭に関わって誕生したオペラの世界もまた、見て聴いて楽しむだけの孤立した世界へと変容する。たとえそこがどんなに華美な装飾で装わられたとしても、意味を持たないニュートラルで機能的な箱に転化するのだ。集団に支えられ、社会的意味を伝達するメディアとしての「音楽と建築」はその役割を終え、個々人の持つ感情への関わりを重視した嗜好品、装飾品への道を歩むことになる。

 (fig110)

(都市の変容)

十九世紀に入って、唯一、オペラ劇場だけがかろうじて集団的意味を保ち続けていた。オペラ劇場はニュートラルな箱以前に、社交空間、古代からの祝祭の場を敷衍した空間で在り続けていたからだ。ベルリン、ウィ-ン、パリ、ヨーロッパはどの都市もその近代化にあたってはオペラ劇場がもっとも重要な役割を果たした。中世に発達したヨーロッパの都市、その建設の時代は教会あるいは大聖堂が中心であった。十九世紀という新都市改革の時代はオペラ劇場が都市の核なのだ。都市とオペラ劇場は「風景の世界」にあっても古代からの「祝祭空間」を継続している。ヨーロッパの「都市」と「劇場」はもともと祝祭がその起源。「都市」は「劇場」であり「劇場」は「都市」なのだ。

すでに触れたことだが、都市を必要としたのは人間。人間生活を集団化し、より効率化することだけが目的なら、集落がありさえすれば良い。人間は人間として生きる為に都市を必要とした。人間が生きる残る上での利便や必要の為に集まるのであるならば、集落は拡大されるが都市は必要ない。集落とは異なる都市を必要とした本来の理由。それは、「人間が人間として生きる」ためには、人間どうしのコミュニケションや交歓拡大への要求に応える場が不可欠だったからだ。「人間が人間として生きる」ために最も必要とするもの、それは生きていくための食べ物ではなく、共に生きていく人間。この考え方が西洋の「都市」を支えてきた基盤となっていた。

現在、「都市」は終焉しつつある。それはワーグナーの祝祭劇場が示していることでもあるのだが、オペラと劇場は音楽のため、眺めて聴くためだけの世界に変容しつつあるからだ。祝祭性を失ったオペラと劇場は「都市」から離れ、集団的意味と役割を放棄する。同時に、「都市」もまた集団的、社交的使命を終え、個々人が求める利便にのみ供され集落化する。集団的意味を失った都市とオペラは「風景の世界」「作品的世界」からも乖離する。

文化的資質を失いつつある近代都市に対しトマス・マンは次のような警告をした。 それは彼自身の誕生の地リュウベック市の都市創立記念祭の式場でのこと。「都市は言葉と共に、今でも最も偉大な芸術作品である。都市が美術と秩序の象徴であることをやめたとき、都市は否定的な仕方で行動し、いわば解体の事実の蔓延を表現し、さらにそれを助長する。都市の密集地区では、邪悪が急速にひろがり、都市の石だたみには、そうした反社会的事実が深く刻みつけられるようになる。」(都市の文化:鹿島出版会)この警告は「オルフェオの終焉」から二百年、二十世紀の二度の大戦直後だった。

2013年1月10日木曜日

ナポリのバロック・オペラ

(ナポリのサン・バルトローメオ劇場歌劇団)

南イタリアの中心ナポリは風光明媚。しかし、自然環境は厳しく石灰岩が多い土地は夏は乾燥、飲み水や食料の確保は決して容易ではなかった。地中海の中央に位置するところから、絶えず外国勢力の脅威にもさらされているナポリは十六世紀末から十七世紀はスペインのハプスブルグ家の支配下にあった。

ナポリの支配者はスペイン国王、ナポリを統治したのはスペインから派遺された副王オニャーテ伯爵 。十七世紀半ば、彼は不安定な宮廷を確かなものにし、多くのナポリ市民から信頼を得るために、当時ヴェネツィアで評判となっていたオペラの上演がもっとも有効と考えた。

イタリアだけでなく、ヨーロッパ中の知られ渡ったヴェネツィア・オペラ、オニャーテ伯爵はその上演のために北イタリア巡業中の歌劇団の歌手を集める。そして、彼らのためには宮殿も提供し、フェビ・アルモーニチという歌劇団まで組織した。しかし、宮殿を提供はするが、それ以上の金銭的援助までは伯爵一人ではなかなか手が回らない。劇団の維持と公演には、ナポリ貴族と上流階層の人々が福王と共に支援している。

オニャーテ伯爵の亡き後、この歌劇団は歌劇団自らが伯爵が持つオペラ上演の為の サン・バルトローメオ劇場の賃貸権も得て積極的にオペラの上演を続けるようになる。この劇場はヴェネツィア同様市民に公開された劇場。

最初の公演は1650年のオペラ・シェーニカ「ディドーネ」、翌年は音楽寓話「エジスト」劇、どちらも 作曲はヴェネツィアのカヴァッリの曲、四十年代の始めにヴェネツィア、テアトロ・サン・カシアーノで初演されたものだった。ほとんどヴェネツィア・オペラに依存したナポリのオペラだが、1655年、ナポリの音楽家によるオペラが誕生する。チェスコ・チリルロ作曲の「エレーナの強奪」がサン・バルトローメオ劇場で初演されている。

(ナポリのスカルラッティ)

ナポリのオペラ環境はその始まりからヴェネツィアにとても良く似ている。市民に開放された公開劇場、サン・バルトローメオ劇場を中心に展開されたナポリのオペラの上演はしかし、劇場や歌劇団のみで可能だったわけではない。ヴェネツィアではサン・マルコ寺院の聖歌隊が必要とされたように、ナポリでは王室礼拝堂聖歌隊の協力が不可決だった。

聖なるキリスト教世界とは一線を画したことから始まったオペラとは言え、宗教改革の時代からはもはや遠く隔たった十七世紀後半のナポリ。この都市はもともと熱狂的信仰と高い宗教心に支えられた土地殻でもあり、バロックの持つ恍惚とした感情が礼拝堂とオペラ劇場、どちらにも流れている必要があった。

1675年スペイン、カルロス二世の即位の祝典がナポリでも行われる。その時の王室礼拝堂ではサン・バルトローメオ劇場の歌劇団が聖歌隊としてミサ典礼に参加する一方、宮殿内の祝典では彼らがチェスティのオペラ「ドーリ」を上演している。

1680年には、副王はヴェネツィアのオペラ作曲家ピエートロ・アンドレア・ジアーニを礼拝堂楽長に任命。その後すぐに、ローマで活躍していたシチリア、パレルモ出身のアンドレア・スカルラッティがサン・バルトローメオ劇場に招かれた。

オニャーテ伯爵を継いだ副王デル・カルピオ侯爵はかって教皇庁のスペイン大使。ローマ赴任時代、スカルラッティの評判を良く知っているばかりか当然面識もあり、カルピオ侯爵は副王になると同時に彼をナポリに招いた。

スカルラッティはオペラ作曲家ジアーニ亡き後、礼拝堂楽長にも就任する。礼拝堂楽長スカルラッティはこれ以降、十八世紀に至るナポリオペラの中心人物として活躍する。

海の都市、ヴェネツィアはその特殊性から、多くの孤児を生み出す社会問題を抱えている。ナポリもまた同じ。ヴェネツィアの十六世紀以来の慈善院が十七世紀には音楽教育が中心となり、多くの音楽家を生み出していく。ナポリにも十七世紀後半、四つの音楽学校があった。ここから沢山の歌手そして音楽家が育っていく。

王室礼拝堂と歌劇団の一体化、音楽学校からの優れた人材の供給、そしてスカルラッティの才能。オペラの為の環境は十七世紀後半のナポリにはすべてが整った。そして十八世紀、ナポリのオペラは後にナポリ派と呼ばれるほどの力量を持ち、ヴェネツィアに代わりヨーロッパ中で活躍するようになる。

(スカルラッティのイタリア風序曲)

十七世紀のナポリのオペラはまだヴェネツィアの延長。モンティヴェルディの後継、ピエル・フランチェスカ・カヴァルリとマルク・アントーニオ・チェスティのオペラがそのままナポリで展開される。

カヴァルリはまず序曲の形式を変えてゆく。モンテヴェルディの「オルフェオ」の幕開けはトッカータと呼ばれる数小節だけの器楽曲だが観客の注意を促す役割しか持っていない。カヴァルリのオペラ「ジャゾーネ」では、序曲には「プロローグ前のシンフォニア」という題がつき、緩やかで荘重な導入部と、オペラのテーマを引き出し発展させるかのような急速な部分の二部によって構成されている。

急速な部分が付け加えられた序曲はもはや、単に始まりの合図を示すだけではない。十八世紀、スカルラッティはこれを急緩急の三つの部分へと発展させ、楽器編成も弦楽器にオーボエやホルンも加えたオーケストラで演奏する。このスカルラッティの序曲はイタリア風序曲と呼ばれる。当時すでに広まっていたもう一つの序曲、ジャン・バティスト・リュリによって形式化されたフランス風序曲と好対照となっている。

一般に当時のオペラの序曲はシンフォニアと呼ばれ後のシンフォニーの原形となっている。フランス風序曲はポリフォニーで書かれた貴族好みの形式、優雅な緩急緩のオーケストラ曲であった。スカルラッティの序曲は誰にでも判りやすいホモフォニックなスタイル。軽快に始まるオーケストラはやがてロココの華麗な様式を生み、古典主義音楽へ向かうもの。スカルラッティの序曲は十八世紀後半の交響曲の先駆けとなるもの。モーツアルトのシンフォニーまではもはや、そう遠くはないのだ。

(バロックの華・アリア)

カヴァルリの「ジャゾーネ」は沢山のアリアを持っているオペラだ。アリアはもともとレチタティーボが高潮した時の表現力豊かなアリオーソが発展したもの。従って、オペラそのものの流れからは、本来、切り離すことが出来なかった。

しかし、カヴァルリを継ぐヴェネツィア・オペラ最大の作曲家チェスティはアリアをレチタティーボとは明確に分離し、オペラの流れを制止させるかのような、独自の時間を生み出すようになる。そして、音楽的興味がより強く聴衆の趣味をそそり、求めに応じる抒情的な歌に向かっていく。

オーストリア皇帝レオポルト一世とスペインのマルゲリータ皇女の結婚式が1667年ウィーンで挙行された。その時上演されたオペラはチェスティの「金の林檎」。このオペラは競争相手ヴェルサイユのルイ十四世に対抗して、ハプスブルグ家が示すことができる、華美の限りを尽くしたもの。それはまさに、ヴェネツィア・オペラの集大成と言えるものだった。

プロローグから五幕六十六景、場面の転換は二十四回、その中には精巧な機械仕掛けも持ち込まれている。各幕にはバレェとコーラスも挿入され、オーケストラの構成も大掛かり、楽器総数は三十を超えていた。こんな大掛かりで長大なオペラでは、アリアは一層明確な輪郭を持ったものでなければならない。その輪郭とは歌手の持つ声の技術によって生まれるもの。アリアは後々の「歌手のオペラ」の道を指し示していた。

百年前のフィレンツェのカメラータたちの考えは、音楽を犠牲にしても、詩的価値を重んじようするもの。モンテヴェルディは音楽とテキストを同列に扱い、両者の平衡と統一を保っていくが、十七世紀半ば過ぎ、チェスティのオペラは劇的な表現よりも、大掛かりな視覚的世界を統一する新しい楽曲の形式に向かっていく。そして、作曲家はリブレット作家の上に立ち、名歌手が劇場全体を支配する時代となる。

しかし、アリアの隆盛はフィレンツェ・オペラの当然の帰結であったのかもしれない。それはルネサンスからバロックへという、人間のが生む必然の流れ。アリアはギリシャ語のアエロ(空気)に由来し、様相、風態、形相を意味する。つまり、典型的なまたは個性的な相貌を持つ旋律にこの言葉が用いられた。従って、バッハのG線上のアリアのように、歌曲以外にも使われることもある。

元来、レチタティーヴォと一体であり、その中で劇的なシチュエーションが急速に展開し、一定の情感が押さえがたく高まった時、そのシチュエーションの音楽的捌け口がアリア。オペラの中のアリアは際立った感情表現のために用意されたものと言える。

人間の理性の表現がルネサンスのテーマでありバロックはその変奏であるとするならば、同じテーマを感情領域で展開する芸術形式こそオペラの役割。この観点に立てばオペラこそバロックの典型であり、その中のアリアはまさにバロックの華と言えよう。

(スカルラッティのカンタータ)

スカルラッティのローマ時代のアリアはまだ通奏低音だけの伴奏だった。アリアの前後にリトルネッロと呼ばれる数小節のオーケストラが入るだけにすぎない。アリア全体が切れ目なくオーケストラによって伴奏されるようになるのは十八世紀のナポリからのこと。

1707年、スカルラッティはヴェネツィアの劇場のために「ミトリダーテ・エウパトーレ」をナポリで作曲する。そこでは、アリアはオーケストラと結びつき雄大な表現を見せるようになった。

ナポリ・オペラを作り上げ、十八世紀イタリア音楽を切り開いた人として知られるスカルラッティだが、彼はむしろカンタータのスタイルを確立した人としても重要。レチタティーヴォとアリオーソ、アリアからなり、独唱、重唱、合唱によるカンタータはオペラと並ぶバロック時代の重要な楽曲の一つ。宮廷や貴族館のサロンで演奏されることの多いカンタータは華やかな名人芸により洗練された細やかな表現力が必要とされた。

カンタータは音楽的教養を持つ貴族的ディレッタントに好まれたもので、スカルラッティは八百にも及ぶ作品を仕えていた諸侯のために作曲している。カンタータにおけるアリアの特徴は各々の曲の規模は小さいが、和声は複雑で微妙な色彩を持っていることにある。

貴族的な優雅さを持ち、決して過度に陥ることなく、独唱者の技量によってドラマティックに歌われることがこの音楽形式では必要であった。蛇足かも知れないが、カンタータの器楽曲版がソナタ。ここでもまた、モーツアルトの時代はすぐ間近なのだ。

( リブレット作家、ピエートロ・メタスタージオ )

ナポリ最大の作曲家をスカルラッティとするならば、最大のリブレット作家はピエートロ・メタスタージオだ。メタスタージオは十七世紀流行の荒唐無稽な神々の話とは異なり、歴史的実在の中の理想的人間をオペラにしている。そのようなオペラをオペラ・セリアと呼んでいる。そこには機械仕掛けの神々の出現もなければ、大げさな感情表現もない。フィレンツェのオルフェオに戻るかのような台本改革だった。

メタスタージオのオペラでは主役となる歌手の表現がポイントとなる。明確な性格を持った人物が場面に相応しい情緒を示し、聴衆に向かって朗々と自身の持つ思想を伝えなければならない。そのようなことが可能なのはアリアのみ。メタスタージオのオペラではアリアこそオペラの中心。つまり、オペラ・セリアという形式は十八世紀のアリアが最も効果的に使われたスタイルと言って良いだろう。

メタスタジオの傑作の一つが1740年の「毅然たるアッティリョ」。カルタゴの捕虜となった主人公アッティリョはローマに戻り、カルタゴの利益のためローマの元老院を説く約束で自由の身となる。しかし、ローマでの説得は効を奏さず、家族、友人の願いも振り切り、決然と捕虜の運命に戻るべく船出する、という物語。

(オペラ・セリアと様々なアリア)

アリアは単に劇的でありさえすれば良いのではなく、高度な技術を用いて、様々な表情を持った感情表現を行なわなければならない。その微妙な感情の機微を的確に表現するために、十八世紀オペラでは八種類ものアリアのタイプが用意された。優しい情緒を歌いあげるアリア・カンタービレや、威厳と品位の表現に適すアリア・ポルタメント等はその典型。

1740年フランス人シャルル・ド・ブロッセは次のように書いている。「イタリア人たちは、非常に活気のある、かがやかしい音と和声にみちた、はなばなしい声のためのアリアをもっている。その他にも、快いひびきと魅惑的な旋律をもつ、デリケートなやわらかい声のためのアリアがあり、もっと別の種類には、熱情的で思わず人の胸をうち、感動の自然な発露の抑揚をそのままに、深い感情にみちていて、舞台効果を高めたり、俳優の長所を最大限に発揮させるアリアがある。いきいきしたアリアは、さまざまな出来事を絵画的にえがき、嵐、台風、激流、狩人に追われて逃げまどう獅子、トランペットの音に耳をそばだてる馬、夜のしじまの恐怖など、すべて音楽にとってふさわしい音や姿をえがくのに用いられるが、悲劇的場面には用いられない。この種類の大がかりな効果をめざすアリアには、たいがいオーボエ、トランペット、ホルンなどの管楽器が助奏につき、とくに海上の嵐をあらわすアリアの場合などには、なかなかいい効果を持っている。」(グラウトのオペラ史:音楽之友社)

(楽譜を残さないオペラの作曲)

多種多様、高度に体系化されたアリアを持つ十八世紀のナポリのオペラ、その作品量は膨大だが、現在の我々はそのほとんどを耳にすることが出来ない。

ナポリのオペラの特徴は貴族的というより民衆好み、単純で分かりやすいことにある。さらに、音の組み合わせが軽快で伸びやかな旋律と装飾音に恵まれている。しかし、近代の批評家たちはナポリのオペラを一様に非難している。その矢面に立たされているのがメタスタージオ。

彼のドラマはマンネリで技巧的、優美ではあるが、力が乏しいと見なしている。「彼の描く人物は古代のローマ人よりもむしろ十八世紀の宮廷人に近く、感傷的な愛情はあらゆる場面にみちみちていて、寛仁大度な潜主というタイプも、またかという感じがする」(オペラ史 :音楽之友社 )と書くグラウトだが、彼は「もしわれわれが当時の劇の一般的な習慣を受け入れるつもりになれば、メタスタージオの作品は今日でも十分に楽しめる。」 とも書いている。

グラウトの言う当時の劇の一般的慣習とは、それは十八世紀のオペラは今日に見るような真面目な劇作品というより、気楽な娯楽であったことを意味する。それは劇場はオペラを観るためだけの場所ではなく、社交の場でもあったからだ。

この時代のオペラの上演は夜八時か九時に始まり真夜中までであるのが一般的。地位や財産のある人は桟敷を買い占め、友達同士が集まる社交の場として利用している。そこではオペラを楽しむ以前に桟敷にいることが大事であり、始めの二度三度は通しで聴くこともあるだろうが、その後はお気に入りの歌手のアリアに耳を傾けるだけのオペラ鑑賞。

居心地の良い家具をしつらえられ、自宅のサロンのような桟敷席はカード遊びやチェスを楽しむ場となっていたのだ。

桟敷席の意味が変わると、上演作品はなじみ深いリブレットが何度も繰り返されることほうが好まれた。もっとも音楽を楽しみたいという観客は当然、シーズン毎に新しいオペラであることも望んでいるのだが。

一方、当時の演奏は即興的な色彩が強く、楽譜は今日の楽譜とは異なり、作曲者のメモ程度の役割にすぎなかった。音楽を完全に仕上げるのは演奏者の仕事なのだ。さらに、著作権のない時代、人気のあるアリアとは言え大半は写本、楽譜が印刷されることはほとんどなかった。模倣も多く、出版すれば作曲者の収入はそれだけで終わってしまうからだ。

つまり、現代から見ると印刷されたオペラは少なく、写本の大半も失われていて、当時のオペラを上演したくとも、事実上不可能な状況。従って、十八世紀前半のオペラはスカルラッティやベルゴジーレ、チマローザにパイジェロという僅かの音楽家のオペラの全曲を現在、ようやっと耳にする程度となっている。

2013年1月5日土曜日

筑波山麓の長屋門

土浦を訪れ、古地図マップを手に街を歩くと、100年前、江戸やヴェネツィアと同じ「水の街」であったことが想像されてくる。
同行した友人の話では25年前は現在の川越のような見せ蔵が立ち並んでいたということだ。
水の街を陸の街に変えたのが鉄道。
かっての運河の名残とおぼしき小さな川の脇に筑波鉄道のプラットフォーム、高さ60cm幅1m長さ6mほどの石列が残されていた。
明治末期に開設された舟運に変わる鉄道だが、昭和70年代、この街の見世蔵とともに列島改造に沸くバブルの中に沈んでしまった。
友人に誘われ、この鉄道に沿い、筑波山麓の街を走ることとした。
土浦から北条、神郡、東山、上大島。
長閑な春の陽の中のドライブは快適。
訪れた街々はどこも大きな長屋門の家々が、まだ健在であることを知り大いに驚く。
長屋門は武家屋敷には欠かせないもの。
しかし、苗字帯刀を許された富裕農家、さらに明治期には富農の家屋敷はどこでも長屋門を作った。
日本の集落に見る長屋門は、一面ではこの国のかっての繁栄の証と言って良い。
震災で訪れた東北の集落でも、半壊した長屋門の幾つかを見かけることがあったが、100年余り前の関東平野の農家がいかに裕福であったか、改めて教えられた。
横浜の瀬谷には長屋門公園が整備されているので、訪れた人も多いだろうが、ここ、筑波山麓の街々もまた沢山の門と屋敷、どこも原形を崩すことなく残されていて、かっての繁栄を固持しようとする意思のようなものが感じられ、教えられるばかりか深く考えさせられた。

話しは変わるが、高校時代、音楽部に誘われ、文化祭で「真間の手古奈」の畦彦を歌った。
万葉集を題材にしたオペラだが、その中で真間の村人が常陸の国から都へ向かう畦彦の噂をし、「常陸というのはどこ」という手古奈の問いに「筑波の山のあるところ、水のきれいなところだとよ」と応える歌がある。
今日、走った、豊かな平地がまさに万葉集にある常陸の国。
北条から神郡に向かう途中に「平沢官衛遺跡」が整備されていた。
この遺跡は畦彦の時代のもの、ゆるやかな草丘に平城時代の高床の官舎3棟が建つ。
クルマの中からの見学だが、まさに手古奈の畦彦を恋う歌が聞こえるような風景だ。
ほどなく走った街なかで、今度は手古奈の世代の女の子のグループに出会った。
大正の建設だろうか、小さな木造洋風建築、檜の床がピカピカな喫茶店。
スコーンとアールグレーを所望し、しばし、彼女たちのボーイフレンド談義に聞き耳を立てる。
彼女たちのかしましい笑い声。
今の世の常陸の国にはまだ沢山の畦彦がいて、
彼らはこの街に恋人を残し、ほどなく都へ旅立つようだ。

2013年1月4日金曜日

旅芸人の記録 テオ・アンゲロプロス

旅芸人の記録 テオ・アンゲロプロス
暮れに観るつもりが、今日になったテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」、キネカ大森。
1975年カンヌで大賞受賞というからもう40年も前の映画。
しかし、いいものはいい。
音質は硬いが、カラー画面は覚悟していた以上には痛んでいない。
終始アコーディオンのメロディーが物語をリードする現代のギリシャ悲劇。
アンゲロプロス・ファンとしては一度は観ておきたい貴重な作品。
ストーリーはウィキペディアが詳しいので、ここでは感想だけ。
アンゲロプロスが使う音楽は罪深い、いや罪は音楽ではない。
音楽を必要とするのは人間、人間はいつでもどこでも罪深い。
罪深い人間による悲劇は古代そして現代へと引き継がれる。
音楽は感情、感情は人間を鼓舞し類を固める、しかし時に対立をも強調する。
音楽が強調する対立はやがて武器による悲劇へと引きつがれる。
ウィキにあるように「旅芸人の記録」はギリシャ神話の「アトレウス王家のアガメムノン」が引用されている。
物語はファシズム・イタリア、ナチズム・ドイツの侵略を受ける20世紀のギリシャ、その小国ギリシャが戦後、米ソの対立に巻き込まれる現代史の悲劇。
現代ギリシャの悲劇はアガメムノンを座長とする旅芸人一族に象徴され、旅から旅の一族は音楽を奏で、ダンスを踊り、小舟のように翻弄される。
限りなく引き継がれるギリシャの悲劇、しかしアンゲロプロスはこの映画でギリシャを救う。
神話ではオレステスはエレクトラに救われミュケナイの王となる。
しかし「旅芸人の記録」のオレストスは密通するクリュスタイメストラとアイギストスを射殺するが、新政府に帰順しないパルチザン捕虜として殺されてしまう。
クリュソテミスの息子は母と米兵との結婚式の際、重要な無言の抵抗をする。
祝宴のテーブルクロスを引き剥がすという抵抗だが、アンゲロプロスはそのシーンを夕焼け空のもとの美しい海岸での小さな響きとして表現する。
砂の上の真っ白なテーブルクロスの中の食器が奏でる小さな響き。
それは列強に抵抗する小国ギリシャの再生を象徴する音楽だ。
バラバラとなった一座を再興するのはエレクトラ。
死んだオレストスが演じていたタソスを演じるのはクリュソテミスの息子。
メーキャップを手伝うエレクトラは思わず彼をオレストスと呼んでしまう。

2013年1月4日
by Quovadis

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