2013年1月25日金曜日

オキュパイ運動と「サティアグラハ」


昨年、東劇でみたオペラ映画「サティアグラハ」がウォール街占拠運動とこんな関係を持っていたことは知らなかった。アメリカの「オキュパイ運動」については日本のメディアも米大統領選時、次世代のオルタナティブとしての保守的な「ティーパーティ運動」と一緒に報道した。アメリカの「怒れるわか者たち、疎外された人々」のオキュパイ運動は今や、ロンドン、スペイン、チリに波及している。 かって、ヴェルディは「ナブッコ」でイタリア・リソルジメントを支援した。「サティアグラハ」は南アフリカとインドでの人種差別に非暴力で抵抗したマハトマ・ガンジーを画いたオペラだが、たしかに、19世紀の「ナブッコ」そして「ウォール街占拠」のオキュパイ運動にに直結するオペラであることは間違いない。 今頃になって「ルモンド・ディプロマティーク」をなぜアップしようと思ったか。 やはり、ずーっと気になっていたんだな。 何故なら、自民党圧勝というより民主党総崩れの選挙だが、結果、時代はまた昭和に逆戻りしているように思えてならないからだ。 >ウォール街占拠運動の中でも、12月1日にニューヨーク・オペラハウス前で行われたデモ行動は芸術と政治、身体パフォーマンスを一体化したものだった。全体集会はこの日、マハトマ・ガンディーの生涯にインスピレーションを受けたフィリップ・グラスのオペラ『サティアグラハ』の公演後に開かれることになっていた。この日の全体集会には運動を支持したオペラの作曲家も出席した。全体集会開催は、オキュパイ運動を手荒く抑圧したニューヨーク市が同時に、非暴力抗議運動を題材にしたオペラを上演するという矛盾を突くものだった。全体集会は警察官の監視下で開催され、遊歩道から一歩でも前へ進んだ者は誰でも連行された。ア全体集会の司会進行は繰り返し全員に発言する権利があるのだと力説した。「われわれの集会には進歩的なルールがあります。最初に話す者が一番力を持っているわけではない。最初に話す人たちは社会から疎外されてきた人々です」厳寒のニューヨークの夜、全体集会は何時間も続けられ、誰もが自分の境遇について語り、ウォール街占拠運動を支持する理由を語った。しかしながら、その夜、オペラハウスの前では、社会から疎外された人々の声を聞くことはほとんどできなかったが、一流の大学を卒業した後、膨大な借金(学資ローン)を抱え途方に暮れている学生や、昇級を上司に認めさせることのできない合唱団員、数百ドルのオペラのチケットが買って『サティアグラハ』を聴くことができない若い音楽愛好者の声を聞くことはできた。 世界に広がる「怒れる者たち」 ラファエル・ケンプ(RaphaelKempf), 特派員 ル・モンド・ディプロマティーク編集部

2013年1月19日土曜日

写真展書棚

書院造りに見るように、西洋も日本も書籍に囲まれた空間が「接客空間」の原点。 事実、近しい友人のお宅に招かれた時の最大の楽しみは書斎での語らい。 あるいは住宅設計の相談はほとんど施主の書斎と言って良い。 思わず目に入る「背表紙」がより深くその人の好ましい人となりを伝えてくれるばかりか、「背表紙」が楽しい会話を生み出してくれるからだ。 最近届いたメルマガだが、この写真展は「達人の博物館」と言えるようだ。 

 「書棚」という写真展(新宿・ペンタックスフォーラム)撮影者は薈田純一

2013年1月10日木曜日

ナポリのオペラとオペラ・セリア

(ナポリのサン・バルトローメオ劇場歌劇団)

南イタリアの中心ナポリは風光明媚。しかし、自然環境は厳しく石灰岩が多い土地は夏は乾燥、飲み水や食料の確保は決して容易ではなかった。地中海の中央に位置するところから、絶えず外国勢力の脅威にもさらされているナポリは十六世紀末から十七世紀はスペインのハプスブルグ家の支配下にあった。

ナポリの支配者はスペイン国王、ナポリを統治したのはスペインから派遺された副王オニャーテ伯爵 。十七世紀半ば、彼は不安定な宮廷を確かなものにし、多くのナポリ市民から信頼を得るために、当時ヴェネツィアで評判となっていたオペラの上演がもっとも有効と考えた。

イタリアだけでなく、ヨーロッパ中の知られ渡ったヴェネツィア・オペラ、オニャーテ伯爵はその上演のために北イタリア巡業中の歌劇団の歌手を集める。そして、彼らのためには宮殿も提供し、フェビ・アルモーニチという歌劇団まで組織した。しかし、宮殿を提供はするが、それ以上の金銭的援助までは伯爵一人ではなかなか手が回らない。劇団の維持と公演には、ナポリ貴族と上流階層の人々が福王と共に支援している。

オニャーテ伯爵の亡き後、この歌劇団は歌劇団自らが伯爵が持つオペラ上演の為の サン・バルトローメオ劇場の賃貸権も得て積極的にオペラの上演を続けるようになる。この劇場はヴェネツィア同様市民に公開された劇場。

最初の公演は1650年のオペラ・シェーニカ「ディドーネ」、翌年は音楽寓話「エジスト」劇、どちらも 作曲はヴェネツィアのカヴァッリの曲、四十年代の始めにヴェネツィア、テアトロ・サン・カシアーノで初演されたものだった。ほとんどヴェネツィア・オペラに依存したナポリのオペラだが、1655年、ナポリの音楽家によるオペラが誕生する。チェスコ・チリルロ作曲の「エレーナの強奪」がサン・バルトローメオ劇場で初演されている。

(ナポリのスカルラッティ)

ナポリのオペラ環境はその始まりからヴェネツィアにとても良く似ている。市民に開放された公開劇場、サン・バルトローメオ劇場を中心に展開されたナポリのオペラの上演はしかし、劇場や歌劇団のみで可能だったわけではない。ヴェネツィアではサン・マルコ寺院の聖歌隊が必要とされたように、ナポリでは王室礼拝堂聖歌隊の協力が不可決だった。

聖なるキリスト教世界とは一線を画したことから始まったオペラとは言え、宗教改革の時代からはもはや遠く隔たった十七世紀後半のナポリ。この都市はもともと熱狂的信仰と高い宗教心に支えられた土地殻でもあり、バロックの持つ恍惚とした感情が礼拝堂とオペラ劇場、どちらにも流れている必要があった。

1675年スペイン、カルロス二世の即位の祝典がナポリでも行われる。その時の王室礼拝堂ではサン・バルトローメオ劇場の歌劇団が聖歌隊としてミサ典礼に参加する一方、宮殿内の祝典では彼らがチェスティのオペラ「ドーリ」を上演している。

1680年には、副王はヴェネツィアのオペラ作曲家ピエートロ・アンドレア・ジアーニを礼拝堂楽長に任命。その後すぐに、ローマで活躍していたシチリア、パレルモ出身のアンドレア・スカルラッティがサン・バルトローメオ劇場に招かれた。

オニャーテ伯爵を継いだ副王デル・カルピオ侯爵はかって教皇庁のスペイン大使。ローマ赴任時代、スカルラッティの評判を良く知っているばかりか当然面識もあり、カルピオ侯爵は副王になると同時に彼をナポリに招いた。

スカルラッティはオペラ作曲家ジアーニ亡き後、礼拝堂楽長にも就任する。礼拝堂楽長スカルラッティはこれ以降、十八世紀に至るナポリオペラの中心人物として活躍する。

海の都市、ヴェネツィアはその特殊性から、多くの孤児を生み出す社会問題を抱えている。ナポリもまた同じ。ヴェネツィアの十六世紀以来の慈善院が十七世紀には音楽教育が中心となり、多くの音楽家を生み出していく。ナポリにも十七世紀後半、四つの音楽学校があった。ここから沢山の歌手そして音楽家が育っていく。

王室礼拝堂と歌劇団の一体化、音楽学校からの優れた人材の供給、そしてスカルラッティの才能。オペラの為の環境は十七世紀後半のナポリにはすべてが整った。そして十八世紀、ナポリのオペラは後にナポリ派と呼ばれるほどの力量を持ち、ヴェネツィアに代わりヨーロッパ中で活躍するようになる。

(スカルラッティのイタリア風序曲)

十七世紀のナポリのオペラはまだヴェネツィアの延長。モンティヴェルディの後継、ピエル・フランチェスカ・カヴァルリとマルク・アントーニオ・チェスティのオペラがそのままナポリで展開される。

カヴァルリはまず序曲の形式を変えてゆく。モンテヴェルディの「オルフェオ」の幕開けはトッカータと呼ばれる数小節だけの器楽曲だが観客の注意を促す役割しか持っていない。カヴァルリのオペラ「ジャゾーネ」では、序曲には「プロローグ前のシンフォニア」という題がつき、緩やかで荘重な導入部と、オペラのテーマを引き出し発展させるかのような急速な部分の二部によって構成されている。

急速な部分が付け加えられた序曲はもはや、単に始まりの合図を示すだけではない。十八世紀、スカルラッティはこれを急緩急の三つの部分へと発展させ、楽器編成も弦楽器にオーボエやホルンも加えたオーケストラで演奏する。このスカルラッティの序曲はイタリア風序曲と呼ばれる。当時すでに広まっていたもう一つの序曲、ジャン・バティスト・リュリによって形式化されたフランス風序曲と好対照となっている。

一般に当時のオペラの序曲はシンフォニアと呼ばれ後のシンフォニーの原形となっている。フランス風序曲はポリフォニーで書かれた貴族好みの形式、優雅な緩急緩のオーケストラ曲であった。スカルラッティの序曲は誰にでも判りやすいホモフォニックなスタイル。軽快に始まるオーケストラはやがてロココの華麗な様式を生み、古典主義音楽へ向かうもの。スカルラッティの序曲は十八世紀後半の交響曲の先駆けとなるもの。モーツアルトのシンフォニーまではもはや、そう遠くはないのだ。

(バロックの華・アリア)

カヴァルリの「ジャゾーネ」は沢山のアリアを持っているオペラだ。アリアはもともとレチタティーボが高潮した時の表現力豊かなアリオーソが発展したもの。従って、オペラそのものの流れからは、本来、切り離すことが出来なかった。

しかし、カヴァルリを継ぐヴェネツィア・オペラ最大の作曲家チェスティはアリアをレチタティーボとは明確に分離し、オペラの流れを制止させるかのような、独自の時間を生み出すようになる。そして、音楽的興味がより強く聴衆の趣味をそそり、求めに応じる抒情的な歌に向かっていく。

オーストリア皇帝レオポルト一世とスペインのマルゲリータ皇女の結婚式が1667年ウィーンで挙行された。その時上演されたオペラはチェスティの「金の林檎」。このオペラは競争相手ヴェルサイユのルイ十四世に対抗して、ハプスブルグ家が示すことができる、華美の限りを尽くしたもの。それはまさに、ヴェネツィア・オペラの集大成と言えるものだった。

プロローグから五幕六十六景、場面の転換は二十四回、その中には精巧な機械仕掛けも持ち込まれている。各幕にはバレェとコーラスも挿入され、オーケストラの構成も大掛かり、楽器総数は三十を超えていた。こんな大掛かりで長大なオペラでは、アリアは一層明確な輪郭を持ったものでなければならない。その輪郭とは歌手の持つ声の技術によって生まれるもの。アリアは後々の「歌手のオペラ」の道を指し示していた。

百年前のフィレンツェのカメラータたちの考えは、音楽を犠牲にしても、詩的価値を重んじようするもの。モンテヴェルディは音楽とテキストを同列に扱い、両者の平衡と統一を保っていくが、十七世紀半ば過ぎ、チェスティのオペラは劇的な表現よりも、大掛かりな視覚的世界を統一する新しい楽曲の形式に向かっていく。そして、作曲家はリブレット作家の上に立ち、名歌手が劇場全体を支配する時代となる。

しかし、アリアの隆盛はフィレンツェ・オペラの当然の帰結であったのかもしれない。それはルネサンスからバロックへという、人間のが生む必然の流れ。アリアはギリシャ語のアエロ(空気)に由来し、様相、風態、形相を意味する。つまり、典型的なまたは個性的な相貌を持つ旋律にこの言葉が用いられた。従って、バッハのG線上のアリアのように、歌曲以外にも使われることもある。

元来、レチタティーヴォと一体であり、その中で劇的なシチュエーションが急速に展開し、一定の情感が押さえがたく高まった時、そのシチュエーションの音楽的捌け口がアリア。オペラの中のアリアは際立った感情表現のために用意されたものと言える。

人間の理性の表現がルネサンスのテーマでありバロックはその変奏であるとするならば、同じテーマを感情領域で展開する芸術形式こそオペラの役割。この観点に立てばオペラこそバロックの典型であり、その中のアリアはまさにバロックの華と言えよう。

(スカルラッティのカンタータ)

スカルラッティのローマ時代のアリアはまだ通奏低音だけの伴奏だった。アリアの前後にリトルネッロと呼ばれる数小節のオーケストラが入るだけにすぎない。アリア全体が切れ目なくオーケストラによって伴奏されるようになるのは十八世紀のナポリからのこと。

1707年、スカルラッティはヴェネツィアの劇場のために「ミトリダーテ・エウパトーレ」をナポリで作曲する。そこでは、アリアはオーケストラと結びつき雄大な表現を見せるようになった。

ナポリ・オペラを作り上げ、十八世紀イタリア音楽を切り開いた人として知られるスカルラッティだが、彼はむしろカンタータのスタイルを確立した人としても重要。レチタティーヴォとアリオーソ、アリアからなり、独唱、重唱、合唱によるカンタータはオペラと並ぶバロック時代の重要な楽曲の一つ。宮廷や貴族館のサロンで演奏されることの多いカンタータは華やかな名人芸により洗練された細やかな表現力が必要とされた。

カンタータは音楽的教養を持つ貴族的ディレッタントに好まれたもので、スカルラッティは八百にも及ぶ作品を仕えていた諸侯のために作曲している。カンタータにおけるアリアの特徴は各々の曲の規模は小さいが、和声は複雑で微妙な色彩を持っていることにある。

貴族的な優雅さを持ち、決して過度に陥ることなく、独唱者の技量によってドラマティックに歌われることがこの音楽形式では必要であった。蛇足かも知れないが、カンタータの器楽曲版がソナタ。ここでもまた、モーツアルトの時代はすぐ間近なのだ。

( リブレット作家、ピエートロ・メタスタージオ )

ナポリ最大の作曲家をスカルラッティとするならば、最大のリブレット作家はピエートロ・メタスタージオだ。メタスタージオは十七世紀流行の荒唐無稽な神々の話とは異なり、歴史的実在の中の理想的人間をオペラにしている。そのようなオペラをオペラ・セリアと呼んでいる。そこには機械仕掛けの神々の出現もなければ、大げさな感情表現もない。フィレンツェのオルフェオに戻るかのような台本改革だった。

メタスタージオのオペラでは主役となる歌手の表現がポイントとなる。明確な性格を持った人物が場面に相応しい情緒を示し、聴衆に向かって朗々と自身の持つ思想を伝えなければならない。そのようなことが可能なのはアリアのみ。メタスタージオのオペラではアリアこそオペラの中心。つまり、オペラ・セリアという形式は十八世紀のアリアが最も効果的に使われたスタイルと言って良いだろう。

メタスタジオの傑作の一つが1740年の「毅然たるアッティリョ」。カルタゴの捕虜となった主人公アッティリョはローマに戻り、カルタゴの利益のためローマの元老院を説く約束で自由の身となる。しかし、ローマでの説得は効を奏さず、家族、友人の願いも振り切り、決然と捕虜の運命に戻るべく船出する、という物語。

(オペラ・セリアと様々なアリア)

アリアは単に劇的でありさえすれば良いのではなく、高度な技術を用いて、様々な表情を持った感情表現を行なわなければならない。その微妙な感情の機微を的確に表現するために、十八世紀オペラでは八種類ものアリアのタイプが用意された。優しい情緒を歌いあげるアリア・カンタービレや、威厳と品位の表現に適すアリア・ポルタメント等はその典型。

1740年フランス人シャルル・ド・ブロッセは次のように書いている。「イタリア人たちは、非常に活気のある、かがやかしい音と和声にみちた、はなばなしい声のためのアリアをもっている。その他にも、快いひびきと魅惑的な旋律をもつ、デリケートなやわらかい声のためのアリアがあり、もっと別の種類には、熱情的で思わず人の胸をうち、感動の自然な発露の抑揚をそのままに、深い感情にみちていて、舞台効果を高めたり、俳優の長所を最大限に発揮させるアリアがある。いきいきしたアリアは、さまざまな出来事を絵画的にえがき、嵐、台風、激流、狩人に追われて逃げまどう獅子、トランペットの音に耳をそばだてる馬、夜のしじまの恐怖など、すべて音楽にとってふさわしい音や姿をえがくのに用いられるが、悲劇的場面には用いられない。この種類の大がかりな効果をめざすアリアには、たいがいオーボエ、トランペット、ホルンなどの管楽器が助奏につき、とくに海上の嵐をあらわすアリアの場合などには、なかなかいい効果を持っている。」(グラウトのオペラ史:音楽之友社)

(楽譜を残さないオペラの作曲)

多種多様、高度に体系化されたアリアを持つ十八世紀のナポリのオペラ、その作品量は膨大だが、現在の我々はそのほとんどを耳にすることが出来ない。

ナポリのオペラの特徴は貴族的というより民衆好み、単純で分かりやすいことにある。さらに、音の組み合わせが軽快で伸びやかな旋律と装飾音に恵まれている。しかし、近代の批評家たちはナポリのオペラを一様に非難している。その矢面に立たされているのがメタスタージオ。

彼のドラマはマンネリで技巧的、優美ではあるが、力が乏しいと見なしている。「彼の描く人物は古代のローマ人よりもむしろ十八世紀の宮廷人に近く、感傷的な愛情はあらゆる場面にみちみちていて、寛仁大度な潜主というタイプも、またかという感じがする」(オペラ史 :音楽之友社 )と書くグラウトだが、彼は「もしわれわれが当時の劇の一般的な習慣を受け入れるつもりになれば、メタスタージオの作品は今日でも十分に楽しめる。」 とも書いている。

グラウトの言う当時の劇の一般的慣習とは、それは十八世紀のオペラは今日に見るような真面目な劇作品というより、気楽な娯楽であったことを意味する。それは劇場はオペラを観るためだけの場所ではなく、社交の場でもあったからだ。

この時代のオペラの上演は夜八時か九時に始まり真夜中までであるのが一般的。地位や財産のある人は桟敷を買い占め、友達同士が集まる社交の場として利用している。そこではオペラを楽しむ以前に桟敷にいることが大事であり、始めの二度三度は通しで聴くこともあるだろうが、その後はお気に入りの歌手のアリアに耳を傾けるだけのオペラ鑑賞。

居心地の良い家具をしつらえられ、自宅のサロンのような桟敷席はカード遊びやチェスを楽しむ場となっていたのだ。

桟敷席の意味が変わると、上演作品はなじみ深いリブレットが何度も繰り返されることほうが好まれた。もっとも音楽を楽しみたいという観客は当然、シーズン毎に新しいオペラであることも望んでいるのだが。

一方、当時の演奏は即興的な色彩が強く、楽譜は今日の楽譜とは異なり、作曲者のメモ程度の役割にすぎなかった。音楽を完全に仕上げるのは演奏者の仕事なのだ。さらに、著作権のない時代、人気のあるアリアとは言え大半は写本、楽譜が印刷されることはほとんどなかった。模倣も多く、出版すれば作曲者の収入はそれだけで終わってしまうからだ。

つまり、現代から見ると印刷されたオペラは少なく、写本の大半も失われていて、当時のオペラを上演したくとも、事実上不可能な状況。従って、十八世紀前半のオペラはスカルラッティやベルゴジーレ、チマローザにパイジェロという僅かの音楽家のオペラの全曲を現在、ようやっと耳にする程度となっている。

2013年1月5日土曜日

筑波山麓の長屋門

土浦を訪れ、古地図マップを手に街を歩くと、100年前、江戸やヴェネツィアと同じ「水の街」であったことが想像されてくる。 同行した友人の話では25年前は現在の川越のような見せ蔵が立ち並んでいたということだ。 水の街を陸の街に変えたのが鉄道。 かっての運河の名残とおぼしき小さな川の脇に筑波鉄道のプラットフォーム、高さ60cm幅1m長さ6mほどの石列が残されていた。 明治末期に開設された舟運に変わる鉄道だが、昭和70年代、この街の見世蔵とともに列島改造に沸くバブルの中に沈んでしまった。 友人に誘われ、この鉄道に沿い、筑波山麓の街を走ることとした。 土浦から北条、神郡、東山、上大島。 長閑な春の陽の中のドライブは快適。 訪れた街々はどこも大きな長屋門の家々が、まだ健在であることを知り大いに驚く。 長屋門は武家屋敷には欠かせないもの。 しかし、苗字帯刀を許された富裕農家、さらに明治期には富農の家屋敷はどこでも長屋門を作った。 日本の集落に見る長屋門は、一面ではこの国のかっての繁栄の証と言って良い。 震災で訪れた東北の集落でも、半壊した長屋門の幾つかを見かけることがあったが、100年余り前の関東平野の農家がいかに裕福であったか、改めて教えられた。 横浜の瀬谷には長屋門公園が整備されているので、訪れた人も多いだろうが、ここ、筑波山麓の街々もまた沢山の門と屋敷、どこも原形を崩すことなく残されていて、かっての繁栄を固持しようとする意思のようなものが感じられ、教えられるばかりか深く考えさせられた。
話しは変わるが、高校時代、音楽部に誘われ、文化祭で「真間の手古奈」の畦彦を歌った。 万葉集を題材にしたオペラだが、その中で真間の村人が常陸の国から都へ向かう畦彦の噂をし、「常陸というのはどこ」という手古奈の問いに「筑波の山のあるところ、水のきれいなところだとよ」と応える歌がある。 今日、走った、豊かな平地がまさに万葉集にある常陸の国。 北条から神郡に向かう途中に「平沢官衛遺跡」が整備されていた。 この遺跡は畦彦の時代のもの、ゆるやかな草丘に平城時代の高床の官舎3棟が建つ。 クルマの中からの見学だが、まさに手古奈の畦彦を恋う歌が聞こえるような風景だ。 ほどなく走った街なかで、今度は手古奈の世代の女の子のグループに出会った。 大正の建設だろうか、小さな木造洋風建築、檜の床がピカピカな喫茶店。 スコーンとアールグレーを所望し、しばし、彼女たちのボーイフレンド談義に聞き耳を立てる。 彼女たちのかしましい笑い声。 今の世の常陸の国にはまだ沢山の畦彦がいて、 彼らはこの街に恋人を残し、ほどなく都へ旅立つようだ。

2013年1月4日金曜日

旅芸人の記録 テオ・アンゲロプロス

旅芸人の記録 テオ・アンゲロプロス
暮れに観るつもりが、今日になったテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」、キネカ大森。
1975年カンヌで大賞受賞というからもう40年も前の映画。
しかし、いいものはいい。
音質は硬いが、カラー画面は覚悟していた以上には痛んでいない。
終始アコーディオンのメロディーが物語をリードする現代のギリシャ悲劇。
アンゲロプロス・ファンとしては一度は観ておきたい貴重な作品。
ストーリーはウィキペディアが詳しいので、ここでは感想だけ。
アンゲロプロスが使う音楽は罪深い、いや罪は音楽ではない。
音楽を必要とするのは人間、人間はいつでもどこでも罪深い。
罪深い人間による悲劇は古代そして現代へと引き継がれる。
音楽は感情、感情は人間を鼓舞し類を固める、しかし時に対立をも強調する。
音楽が強調する対立はやがて武器による悲劇へと引きつがれる。
ウィキにあるように「旅芸人の記録」はギリシャ神話の「アトレウス王家のアガメムノン」が引用されている。
物語はファシズム・イタリア、ナチズム・ドイツの侵略を受ける20世紀のギリシャ、その小国ギリシャが戦後、米ソの対立に巻き込まれる現代史の悲劇。
現代ギリシャの悲劇はアガメムノンを座長とする旅芸人一族に象徴され、旅から旅の一族は音楽を奏で、ダンスを踊り、小舟のように翻弄される。
限りなく引き継がれるギリシャの悲劇、しかしアンゲロプロスはこの映画でギリシャを救う。
神話ではオレステスはエレクトラに救われミュケナイの王となる。
しかし「旅芸人の記録」のオレストスは密通するクリュスタイメストラとアイギストスを射殺するが、新政府に帰順しないパルチザン捕虜として殺されてしまう。
クリュソテミスの息子は母と米兵との結婚式の際、重要な無言の抵抗をする。
祝宴のテーブルクロスを引き剥がすという抵抗だが、アンゲロプロスはそのシーンを夕焼け空のもとの美しい海岸での小さな響きとして表現する。
砂の上の真っ白なテーブルクロスの中の食器が奏でる小さな響き。
それは列強に抵抗する小国ギリシャの再生を象徴する音楽だ。
バラバラとなった一座を再興するのはエレクトラ。
死んだオレストスが演じていたタソスを演じるのはクリュソテミスの息子。
メーキャップを手伝うエレクトラは思わず彼をオレストスと呼んでしまう。

2013年1月4日
by Quovadis

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