2012年11月28日水曜日

アルゴとルアーブルの靴磨き

先週、観た二つの映画の話し。 アルゴは実話が生み出すサスペンス、ルアーブルはリアルに作られたファンタジー。 全くタイプの異なるふたつの映画だが、一つの共通点を持っている。 それはどちらも現代社会の英雄の物語と言って良いだろう。 ルアーブルの人々を英雄そしてファンタジーと呼ぶのは語弊があるかもしれない。 しかし、豊かでもなければ、若くもない、なんの力も持たない普通の人々が、たった1人のアフリカの少年を命がけで亡命を助ける、だから英雄。 彼らは皆、言葉は丁寧、礼儀正しく、テーブルセットやベッドメーキング等、日常生活にごまかしがない。そんな生き方がまともに映像化されると、それはもはや現代のファンタジーと感じてしまうのだ。 現代社会に求めるべきもの、それは本来「サスペンス」や「ファンタジー」、「英雄」ということではないだろう。 世界中どこでも、普通の人々が普通に生活できる社会が求められている。 「アルゴとルアーブルの靴磨き」という物語を生み出す「元」となるもの、それは世界の「貧困」と「対立」、そして人間としての当たり前のライフスタイルの「喪失」。 「対立」の強調が生み出すサスペンス、「対立」の縮小を希求するファンタジー。 b0055976_237358.jpg英雄は日常を越えるからこそ英雄であり、ファンタジーは日常とかけ離れているからファンタジー。つまり本来の日常からの「乖離」だけが映画を観る楽しみだろうか。 今回は二つの映画の背後にある「乖離」を生み出し、日常化している「元」のデリートこそが本来のテーマと言えるのかもしれない。 二つの映画が映画にならない時、それがこの二つの映画の本当のテーマなのだ。

2012年11月26日月曜日

ハイドン・シリーズ 芸大奏楽堂

1999年からの芸大ハイドン・シリーズは今年で終わり、11月30日のチェンバーオーケストラのシンフォニー「奇跡」で幕を閉じるようです。毎年楽しませていただいたハイドンファンにとっては寂しいかぎりです。しかし、最終曲がシンフォニー第96番とは面白い。ハイドンは30年も仕えたエステルハージを離れ、初めてのロンドン。そこではこの曲が初演され大喝采。初演時にシャンデリアが落下する事故が起こるが、幸い観客にけが人が出ず、奇跡と名付けられたという逸話まで生まれた。ロンドンで奇跡を演奏したハイドンは再びオーストリアにもどっている。つまり芸大のハイドンも一旦ロンドン・セットで幕を閉じ、再び遠からず復活させるつもりのようだ。

今日は最終回の初日、全曲カルテットのプログラム。芸大卒業生のセノーテ・カルテットとウィーンで学び活躍しているポーランド出身の若手男性アポロン・ミューザゲート・カルテットの競演。なんとも贅沢な演奏会でした。さらに贅沢だったのは、オーストリアの歴史と美学の研究者ハーラルト・ハースルマイア氏のお話が聞けたこと。彼はハイドンによる古典主義の始まりについて簡明に話された。プロテスタント・ドイツと異なるカソリック・ハプスブルグの啓蒙時代にあっていかにハイドンの音楽が重要であったかと言う内容。修辞学から音楽の言語へ、一方的な宇宙の秩序原理から離れ、いかに現実を捉え人間の判断・言葉として世界を切り開くか。意訳すれば韻文の時代から散文の時代への狭間としてのハイドン音楽の役割。それはボクの大学での講義テーマ、16世紀イタリアの建築の役割に共通する内容だった。思い返せば、11月は毎年ハイドンの月。この月だけはオペラやカンタータより、カルテットやシンフォニーのソナタを聞く機会が多かった気がする。原因はこの芸大のハイドン・シリーズにあったのかもしれない。今年も30日と1日は津田ホール、ハイドンはまだまだ続く。

2012年11月14日水曜日

白夜

恋に恋する男の話など、オペラにはつきものと思われるだろうが、そんなことはない。しかし、最近の小説や映画には多いのかもしれない。 70年代に70台のロベール・ブレッソンが作った「白夜」をユーロスペイスで上映中と知り、観てきた。 館内は若い男性が多いようだ。 評判どおり良くできた映画だ。 ぼくの好みでいうと音と音楽が良い。 ブレッソンが描く大都市パリを象徴するものは、煌々とした光ではなく音なのだ。 この映画では靴音、クルマの疾走音と水音、セーヌを渡る水上ボートからの、あるいは河岸で演奏されるギターとパーカッションと女性の唄が画面をリードする。 しかし、物語はいただけない。 そう、原作はドストエフスキー、ボクは彼の小説が好きではない。 殺してはいけないと自覚しながら何故、老婆を殺すか、戦争でもないのに。 そんな「罪と罰」に高校時代、辟易した。 だから、当然、原作は読んでいない。 ジャックと称する主人公、彼はきっと恋に傷つくことはないだろう。 いや、恋されることもないかもしれない。 彼にとって女性はうつくしく、かわいらしく、はかなげではあるかもしれないが、リアリティある実態ではなく、言葉に過ぎない。 テープレコードの中の音としてのみの存在感なのだ。 「白夜」という題名は当たっている。 ブレッソンがこの映画で意味するもの、それは恋ではなく、スクリーン、男がよく見る幻像だ。 美しくさえあれば誰女でもよい。 ジャックは決して不誠実ではないが、恋する事は決してない。 きっと恋されることも無いだろう。

2012年11月12日月曜日

「アイロンと朝の詩人・堀江敏幸」の中の藤村記念堂


「雪あかり日記」と「せせらぎ日記」を書いた建築家谷口吉郎の建築作品、馬籠の「藤村記念堂」のことを作家堀江敏幸が「ほの明るさの記」と題したアンソロジーにまとめ「アイロンと朝の詩人」に載せている。 建築は戦後まもない頃の貧しい寒村、その地の出身者のために、この地に住まう村人の手で、まるで中世の僧院を建てるがごとく建設されている。 美濃と木曾の境にある馬籠は藤村の誕生の地、美濃に生まれた堀江はこどもの頃、なに知ることなくこの建築に触れている。そしてその時の印象を以下のように書いている。 「四角い敷地の一片だけに伸びた、かろうじて通路とは呼ぶことができてもそれ以上はどのような用途があるのかまことに曖昧な、小屋でも家でもないその空間が、ほんのちょっと怖かったのだ。気味が悪かった、と言ってもいい。どこへ通じているのか、わくわくすると同時に、足をすくませるなにかがそこにはあった。庭と呼びうる内側はあるのに、その表がない。閉じる装置はあるのに、まんなかがぼっこりと口を開けていてほの明るく、ほんとうの闇が降ってこない。それでいながら、なぜか本質的な暗さが偏在し、同時にその暗さを砕く明るさもあるといったぐあいなのだ。」「ほの明るさの記」からの引用。 実は先々月の末、40年ぶりにこの建築を訪ねたので、その建築経験を一文の感想としてブログにしたいと思っていた。 しかし、どうしてもこの「ほの明るさの記」が頭をよぎる。 当たり前といえば当たり前、若くして数々の文学賞を取っている名文家の力。 しかし、建築の持つ面白さ、美しさはこのような想像力を掻き立てる文章でいつも読んでみたい思っている。 さらにまた引用だが、堀江氏はこの建築について、いや建築の持つ本来の意味について以下のように書いている。 「多くの評者が指摘するとおり、なにもなくなった地点から空間をたちあげて、建物ではなく「場」の形成をもくろむ試みとも解釈しうるものだった。」

2012年11月11日日曜日

メインストリーム


「メインストリーム」が面白そうだ。 文化とメディアの世界戦争を副題とするフランス人フレデリック・マルテル氏の本の紹介記事、東京新聞「読む人」欄。 アメリカ大統領選の直前のTVニュースウオッチ9をみて実感した事は、アメリカの草の根は今回のオバマ・ロムニーの選挙より、次の時代のリーダーへの関心に話題が集中していたこと。 この紹介記事が面白いと思ったのも全く同じ。 「産業の重心が文化にシフトし、物品よりも”コンテンツ”が主要商品になる”スマートパワー”時代には、いういわばグローカルなメインストリームの生産をめざすのでなければ、”世界文化戦争”に勝てない」。 このことはジャック・アタリの「ノイズ」を読み、ボクなりに気になっていたテーマ。 指摘の方法はアタリとマルテルは90度異なるが、同じフランスから次世代文化のテーマ提起、明らかに「メインストリーム」はチェンジした。 評者・粉川哲夫氏の指摘通り「メディア産業と観客・視聴者との関係は流動的、既存のメディアや経済回路とは別の、インデペンデントなDYI文化を創造する環境が生まれた。」 この冬、回線料は急激にダウンするに違いない。 加えて今朝の三面では一万円以下の電子書籍、「最王手上陸 期待と不安」の記事。 誰の不安か、コンテンツを重視しない我々の問題かもしれない。

2012年11月7日水曜日

愛の妙薬 

愛の妙薬 オペラ映画
底抜けに楽しいイタリア・オペラは何かと聞かれたら、ボクはドニゼッティの「愛の妙薬」と答えるだろう。
イタリアに行けばオペラは限りなくさまざま。
しかし、オペラ通ならともかく、ボクにとって「楽しいオペラ」と言えばロッシーニとドニゼッティ、ヴェルディの「ファルスタッフ」、それと昨年聴いたゴルドー二の戯曲をフェラーリがオペラ化した「イル・カンピエッロ」くらいしか見あたらない。
そういえば、オペラを楽しむならドニゼッティかロッシーニ、そしてベルーニでしょうと教えてくれた人がいた。
今日はそんな、ドニゼッティーの「愛の妙薬」を堪能した。

恋に落ちた男は100パーセントみな、このオペラのネモリーノと同様、喜劇的だ。
しかし、ここで笑ってはいけない、男の愛とはいつもこのように一途で可愛いもの。
そんな普遍的?な男の話しだが、このオペラのように相愛を得ることが出来る男はそんなに多くはない。
そして、また新たな恋へ、涙を拭い、男は喜劇的にさまよいつづける。
結果的に悲しいのが、いつも男の恋だが、このオペラは悲劇ではない。
なんとも羨ましいではないか、オペラのネモリーノは最愛のアディーナの愛を得ることに成功する。
男たるものこのオペラが歌い上げるネモリーノの愛を見習わなければならない。
題名は「愛の妙薬」。
しかし、それは決していかさま薬売りリドゥルカマーラが売る惚れグスリのことではない。
「妙薬」は神話にあるクピドと同じ。
射抜かれてくだけるのではなく、真なる恋人アディーナを射抜く「強さ」を持たなければならない。
いや、強さではないな、なんだろう。
とまぁ、バカなことを言っているが、このオペラは傑作だ。
ボクにとってはシモンとは両端にある、大好きなオペラだ。

今日、大画面でこのオペラを楽しんだ。
メディアは2009年グライドボーン音楽祭。
キャストは以下。
【作曲】ドニゼッティ Gaetano Donizetti/【指揮者】マウリツィオ・ベニーニ Maurizio Benini/【演出】アナベル・アーデン Annabel Arden/【出演者】エカテリーナ・シューリナ Ekaterina Siurina,/ピーター・オーティ Peter Auty

このキャストリスト、ボクには初めての歌手ばかり。
そもそもグライドボーンの作品を見ることが少ないからだ。
しかし、この音楽祭の評判は良く知っている。
ただ、いつもモーツアルトかドイツものと思っていたが、今回は抜群に楽しいイタリアのベルカントの華「愛の妙薬」。
主役脇役のすべての歌手たち、みな素晴らしかったが、気がついてみると、イタリア人は一人もいなかった。
舞台の雰囲気は原作のスペインでもなければイギリスでもない、どこかイタリアのイル・カンピエッロだろうが舞台は不思議な雰囲気。
客席に平行ではなく45度に振った広場と建物、その構成は大胆で不思議を通り越し、不安定な愛のドラマとしては多いに成功している。
沢山の登場人物が出たり入ったり、そして明かりがついたり消えたり、まさにイタリアの小広場が生き生きと浮かび上がっていた。
さらに褒めるならば、字幕の対訳も楽しめた。
このオペラの楽しみはイタリア語と音楽の関係に違いない。
イタリア語がわからないボクには致しかたないことだが、わかれば言葉と音楽のハーモニー、もっともっと楽しめたはずだ。
しかし、対訳は緻密に音楽を追っている、また訳からも言葉と音楽は重なって聴こえる。
これはとても大事なこと、入念にこの映像を日本語化してくれているのが良くわかる。
そして最も楽しかったのが、まさにこのオペラの華クピド役?、薬売りリカドゥルマーラ役の歌手の歌と演技だ。
まだ調べきっていないのでこの歌手の名前は書けないが、彼の歌と演技にはただただ圧倒され、楽しまされた。
ここのところオペラ三昧の毎日。
映画でもいい、こんなに楽しめるのならば。

2012年2月21日
by Quovadis

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