2012年4月30日月曜日

シュン・リーと詩人

年々人気が高まるゴールデンウイークのイタリア映画祭(有楽町朝日ホール)、チケットの手配が遅れ、観たいと思ったプログラムはすでに売り切れていた。 まだ間に合い、手に入れた「シュン・リーと詩人」を観る。 とてもおもしろい映画だ。 放映後、舞台に監督アンドレア・セグレ氏が登場した。 作品の印象から、もうちょっと年輩の監督かと思っていたが40代前半だろうか、いままでドキュメント映画を作っていたと言う。 彼はすでにこの作品でいくつかの賞を取っているが、イタリア・アカデミー賞の新人監督賞にもノミネートされている。 主役は中国人女優チャオ・タン、彼女も主演女優賞候補。 セグレ氏はシンプルで奥深い表現が可能な人、ということでシュン・リー役に彼女を選んだと言う。 映画はシュン・リーの物語、まさにシンプルな作品。 しかし、ボクには様々な問題と読み解きを許したとてつもなく奥深い作品に思えた。 セグレ氏は一言、西洋と東洋の出会いを描いた、と言っているが、グローバルな現代社会の叙事詩として作られている。 ヴェネツィアのラグーン、キオッジャの町、パラディーソと言う名の居酒屋が舞台。 年老いたベーピ(ラデ・シェルベッジア=助演男優賞候補)と年金生活者そしてラグーンの漁師仲間のたまり場だ。 パラディーソは最近、中国人がオーナーになった店。 8歳の息子と父親を中国に残し、シュン・リーはイタリアに移民しパラディーソに雇われる。 (セグレ氏はパラディーソは今でも本当にあると言う。キオッジャは彼の母のふるさと、かってその店には中国人女性が働いていたそうだ。) アクアアルタに見舞われるこのラグーンの小さな町もグローバリゼーションの最前線。 シュン・リーは福州の詩人屈原の詩を好む。 ベーピは30年前たった一人、ユーゴからこの町にやってきた異邦人。 詩人ではないが韻を踏んで話すので仲間たちから詩人と言われている。 そんなベーピとシュン・リーが心を通わす。 映画を観ながら、しきりとアントニオ・ネグリの言葉が思い出された。 「グローバリゼーションは古代のローマ帝国に似ている。」 パラディーソは帝国支配の辺境かもしれない。 いや、現代社会どこの町も辺境。 そんな妄想から、ボクにはこの物語が神話的叙事詩に思えてならない。 たどたどしい会話が優しく耳に響く。 日常的で曇天ばかり、観光では観ることがない静かなラグーン映像が目に残る。 その水辺にやがて放たれる赤い炎。 水に流れる屈原の祭りも赤い炎。 映像がフィードバックするとピアノとソプラノリコーダーの歌が始まる。 悲しくもないのに、なぜか涙がにじんだ。 叙事詩はベーピやシュン・リーだけではない、自分自身の物語でもあるからだろう。

2012年4月28日土曜日

三重スパイ

フランス映画未公開傑作選は先週21日からだったようです。 予告で気に入ったので「三重スパイ」を観る、宮益坂。 ある夫婦の人生と世界戦争の前夜が交錯して描かれる、感動的かつ親密な叙事詩。 紹介にはそのように書かれています。 亡命した帝政ロシアの将軍とそのギリシャ人の夫人。 1930年代の政治ドキュメントが物語の背景です。 人民戦線とスペイン戦争、ナチ・ドイツが絡まるパリの政治情勢の中に描かれる夫婦像。 かなり欲張りな映画と同時にいささか歴史的知識が必要なようです。 そう、いままで公開されなかった部分のエリック・ロメールです。 エスピオネージ、スリラー、ヒストリカル、ラブドラマ、なんでもあります。 ボクの関心はドラマの背景となるエクステリア&インテリア。 戦前のパリの街路、ファッションとクルマ、そしてアパルトメントとホテルとパリ近郊の別荘。 さらに旧制ロシア好みの情景画にキュビスム絵画です。 そして画像の全て、計算されたあかりとひかり。 やはり、エリック・ロメールです。

2012年4月27日金曜日

ユベール・ロベール展  国立西洋美術館

サンギーヌと呼ばれる赤チョークで描かれた古代ローマの廃墟のスケッチから始まるユベール・ロベール展は18世紀がまさに近世と近代の狭間にあることを実感させる。 神話もコスモロジーも失われた同時代、アルカディアは風景に変わり、建築は本来の意味を失い、風景を飾る点景となった。 つまり、ユベール・ロベールの時代の絵画そして建築はもはや集団的意味を担うものではなく、個人的な夢と希望に貢献する古代憧憬。 ゲーテを含めアルプスの北の人々が訪れたアルカディア・イタリア、古代どころか16世紀の建築も廃墟として描いている。(ヴィラ・ジュリアやヴィラ・デステ) ピラネージやフラゴナールを師としたと言われるユベールだが、彼のイタリアでのスケッチは必ずしも忠実に目の前の情景を描いたわけではない。 それはカプリッチョ(奇想画)あるいはヴェドゥーダ(風景画)と言われるもの。 画家がイメージする空想の風景あるいは生活情景として描かれる。 近世と近代の狭間だなと強く意識させるのはこのような作品。 ユベール・ロベールのパトロンであったのは旧体制の貴族であろうが、彼らが必要とするものは権力維持や社会の秩序化を目的としたルネサンス絵画とは異なり、どこまでもパトロン個人あるいはユベール自身の個人的世界に関わっていく。 つまり、それはどんなに多くの賛美や同調を得ようとも、絵画は欲望や憧憬のみに答えるもの、個人主義あるいはロマン主義の先駆けだ。 展示は17世紀のクロード・ロマンから始まり、フランス革命を超え19世紀初めのジャック・ドリールの書「想像力」にまで及んでいる。 面白かったのは西洋美術館が所有するピラネージのエッチングを数多く展示してくれたことと、ヴィンケルマンの古代美術史やルソーの「新エロイーズ」にも出会えてこと。 連休前の会場だが、修学旅行生たちの熱気で館内はかなり賑わっていた。 しかし、ピラネージの「牢獄」を併設展示している地下室まで降りると、そこは展示物同様、閑散として冷ややか。 たまたまだが、ここのところピラネージを読むことが多かったボクにとって、思いがけないプレゼント。 時間が経つのも忘れ、終日コルビジェの建築内を徘徊した。

2012年4月24日火曜日

ドン・ジョヴァンニ オペラパレス 

ドン・ジョヴァンニ、オペラパレスで観る。 4階中央席から観るオペラの舞台は、ほぼ正方形のプロセニアムアーチ(額縁)の中のまるで絵画を見ているような印象。 17世紀のヴェネツィアオペラはスペクタクルな動く絵画として、アルプスの北から訪れるグランドツァー客を魅了していたと言われている。 DVDで見るラ・スカラやメトのヴェルディー・オペラは時々、あれこの舞台、カラヴァッジョの絵画そのものと感じさせることがある。 今日の舞台はまさに絵本の中の世界のようだ。 幕が開いてのドンナ・アンナが誘惑され、騎士長が殺される水辺のシーン、ツェルリーナとマゼットの結婚パーティのシーン、二幕の森の中、そしてドン・ジョヴァンニの館での晩餐シーン、きらびやかに着飾った主役ばかりか、ダンスに興じる村人たち、館の召使いたち、そして晩餐で演奏する楽師たち、みな色鮮やかに18世紀特有のシンメトリーを強調した舞台の中で躍動する。 本公演の舞台はさすがに豪華、視覚的にしっかりと演出されている。 そして、前回のオテロに引き続き今日もまた舞台はヴェネツィア。 17世紀のグランドツァー客と同じように、オペラパレスの舞台はヴェネツィアがピッタリのようです。 そうだ、2008年のこの劇場でのドン.ジョバンニもたしか、ヴェネツィア。 この公演のカヴァー歌手による演奏会形式のオペラの感想はすでにブログにした。 http://leporello.exblog.jp/18078516/ その内容は偏見ばかりのドン・ジョヴァンニ解説だが、今日の舞台はまったくオーソドックス。 まさにドン・ジョヴァンニ(マリウシュ・クヴィエンチェン)とドンナ・アンナ(アガ・ニコライ)が主役のオペラです。 内容は勧善懲悪、誰にでもわかりやすい演出です。 一つ面白かったのは、終幕のアトリビュート。 バラの花束、遊園地のナイトの馬、墓にかかる黒いリボン、そしてコートとカタログ。 大きな女性のマリオネット(カタログの歌の背景でドン・ジョヴァンニが操る)は残りましたが、誰が何を手にし、舞台から消えたか、分りやすいですね。 そして気がつくのは、モーツアルト・オペラすべてに言えること。 二重唱、三重唱、六重唱、どのアンサンブルもみな力強く美しい。 さらに当然、今日はフルのオーケストラ。 緩急のメリハリのあるピットからの響きはやはり本公演ならではの感動でした。 http://www.atre.jp/12giovanni/

2012年4月22日日曜日

シルビアのいる街で

かってみて何処の街か気になったままだった。 思い出したので調べてみたら、ストラスブールだった。 街の音。 風の音。 ボクの好きな映画。

2012年4月18日水曜日

少年と自転車

映画・少年と自転車を観る。 男の子なら誰でも経験したことがあるだろう。 自分自身の思いと感情がバラバラで、相手が大きかろうが、強かろうが遮二無二ぶつかっていき、取っ組み合いの喧嘩をしたことを。 しかし、殴られようが投げられようが、力の限りに取っ組み合うと、どうにもならない相手の強さに対する畏怖、あるいは不思議なことだが手加減されているなと相手の優しさを感じたりもする。 そんな喧嘩相手だからこそかえって信頼し、やがて親しみも深くなる。 12〜4歳頃の真の友達なんてみんなそうして始まったんだ。 しかし、この映画の少年には真剣に取っ組み合ってくれる人がいない。 失職し妻に逃げられ少年を見放す父親。 保護司という制度だけの施設管理者。 口先と飴で少年を牛耳ろうとする不良。 被害者ずらし理不尽な息子を叱るどころが一緒にごまかそうとする情けない父親。 そんな現代の大方の人間関係のアナロジーの中に、たった一人少年と真剣に取っ組み合うエンンペラーが登場する。 いや、女性だが。 そう、面白いことにこの映画の主役はなんとベートゥヴェンのピアノコンチェルト第五番。 宣伝にある愛そして絆と言う言葉では説明できない真の人間関係。 力任せのペダルの踏み込みに応答するピアノの響きが、この映画が語りたいことの全て、とボクには感じられた。

2012年4月17日火曜日

鉄川与助の教会堂建築ー五島列島を訪ねてー展

銀座LIXILギャラリー、鉄川与助の教会堂建築ー五島列島を訪ねてー展を観る。 福江島、久賀島、奈留島、中通島、野崎島と続く長崎の西海に位置するの五島列島はキリスト禁教の時代からの教会堂建築が今なお健在、ボクも5年前この列島を訪れた。 展覧会は上五島の中通島に生まれ、20代から教会堂建築に関わり、天寿を全うする97歳までの頭領としての仕事を紹介するもの。 今日まず驚いたのは写真家白石ちえこ氏が紹介された展示作品の全てをボクもたまたま訪れていたことだ。 五島列島にはたくさんの教会堂建築がある。 しかし、与助への関心、彼女と一致しているようだ。 それを感じたのは彼女の展示作品の最初は久賀島の旧五輪教会堂であったこと。 ボクの見学旅行でも、もっとも印象的だったのは初期のこの建築、そして、いまや無人島となったが野崎島の煉瓦造、中世の城のような外観を持つ旧野首天主堂だった。 白石氏の展示はその流れを明解に示していた。
与助自身は仏教徒だがまずは外国人神父の下で働き、彼としては全く見たこともないヨーロッパの形態を木造建築として作り上げた(明治10年代から30年代)。 その典型が旧五輪、さらに与助自身が全てを設計し施工した最初の仕事、その建築は生誕地に近い奈摩湾の南に建つ冷水教会堂。 二つの教会堂に示される初期の外観は全て典型的な日本の木造民家の形態。 しかし、切り妻本体に玄関とアプス部分を切り妻屋根の妻面に下家だししている。 教会をイメージさせる外観のデザインで最も重要なのは入り口部分をアーチで強調すること。 さらに後部の妻面の下家だしによる二つの切り妻の段差部分に窓を設け、巧みにアプス部分に光を導入している。 つまり、西洋の教会堂はまずは入り口と光とどう取り組む化だ。 そして次になるポイントはインテリア、内部空間とその天井をどう設えるか。 その後の煉瓦造になればますます洗練されてくるのだが、教会堂と言えばコーモリ天井で知られる、与助がもっとも苦心したリブボールトの天井。 本来の石造教会には技術上不可欠ちなるリブボールトだが、彼は終始様々な工夫を重ね、木造ハリボテコーモリ天井を作り続ける。
30年代にはいるとやがて外国人神父に変わり日本人神父の時代、また、初期の木造教会堂の建て替えの時期。 教会堂は与助自身すべて一人でそのデザインに取り組まなければならない。 すでに日本でも知られ始めた煉瓦を用い、独自の教会堂を見よう見まね建てていく。 しかしここで重要なことは煉瓦造といっても構造体はまだ木造だったことにある。 煉瓦はその外側に外壁材として積まれていたに過ぎない。 野首天主堂はそんな煉瓦造。 だからこそ、与助にとって必要なことは煉瓦造に見合う外観をどうデザインするか。 結果として野首では中世の城がモデルだが、彼が得ようとしたヨーロッパ建築のイメージ、それはその後の本格煉瓦造さらにコンクリート造の時代に入っても、彼は新技術もを駆使し賢明に追い続ける。 それを学術的に疑似洋風と笑う人もいるようだが、ボクには、彼のその生涯の建築デザインは既存の技術をいかに未知の形態に適合させるか、あるいは新しい技術をいかに伝統的デザインに落とし込むか、その葛藤の結果として見えてくる。 そんな、5年前のボクの実感を明解に思い出させてくれた今日の展覧会。 一つだけ付け加えさせていただくと、展示スペースの問題だったかもしれないが、五島独自の椿をアレンジしたステンドグラスの数々の展示写真がなかったことがいささか残念。 ヨーロッパ教会のインテリアをイメージさせるには欠かせないもの、その疑似ステンドグラスが五島列島どこの教会堂でもなんとも美しく、涙ぐましく、ほほえましかったから。

2012年4月15日日曜日

マッシモ・リストリ写真展「奥行きへのまなざし」

来月5日までイタリア文化会館で開かれているマッシモ・リストリ写真展「奥行きへのまなざし」。マッシモ・リストリはフィレンツェの人。 世界中の文化財、歴史的建築を大型カメラで詳細に写し取る貴重な写真家です。 今回はヨーロッパの歴史的図書館を中心に多くの宮殿の内部空間を真正面から写し取り「奥行きへのまなざし」と名付け、その成果を全紙の印画紙に表現し展示しています。 その画面はあらゆる二次媒体で様々な画像を見慣れている我々ですが、まさにヨーロッパ文化の神髄、ムネモシュネ(記憶の女神、ムーサの母)の神殿がものの見事に立ち上がってくるかのようです。蛇足ですがアビ・ヴァールブルグがもっとも求めていたコレクションと言えるのではないでしょうか。 b0055976_16443599.jpg

2012年4月14日土曜日

四谷・荒木町


小雨振る週末の午後、四谷荒木町を歩く会に参加した、主催は建築家協会新宿地域会。 市ヶ谷に住んで30年余り、知ってはいたが荒木町という花のある町を歩くことはほとんどなかった。 幸い、家協会の友人たちが誘ってくれたので、飲み会もかね、まずは歴史と文化そしてその独特の地形から生まれる町並みを体験する、ということで参加した。 山の手・下町と二分される東京の地形は、その凸凹に特徴があるが、江戸から発する主街道のすべては凸部分、つまり尾根に位置している。 当然、谷筋が街道防備の重要な役割を担うが、ここには御三家とその配下の大名が配された。 甲府は万が一の時の徳川家退避の場、甲府に通じる甲州街道の第一宿(内藤)新宿までの谷筋は東海道の大木戸以上の要衝の地。 従って、そこには尾張屋敷(今の防衛庁かっての陸軍省)と紀伊屋敷(迎賓館)が配され、その背後の四谷荒木谷には尾張一族の松平摂津の守(津の守交差点の由来)が街道を防備した。 摂津の守は土塁を築き水を満々と溜め万が一に備えたが、その名残が現在の「策が池」。 小雨に濡れる名物早咲きの「高遠の桜」はすでに葉ばかりだが、都心の池は今も健在。 マンションに囲まれた水たまりのような池だがそこにはコイが泳ぐ。 「江戸防備の役割を終え、やがて荒木町を都心の花柳界へと栄えさせた源の水」とコイが語っていた。(嘘) かっての「策が池」は景勝の地、その水際には茶屋に待合、料理やに芸妓(置屋)が集まり花街として栄え、さらに温泉まで作られ多くの東京市民、陸軍省の兵隊さんたちの遊興の地となった。 案内役は建築仲間だけではない、東京スリバチ学会の皆川さん、とんかつ鈴新の親方さらに新宿区の議員さん方が引き受けて下さり、なんと総勢70人を超える大集団。 グループに分けてとはいうが、案内役の方々のご苦労には感謝しなければいけない。 まだお店の明かりがない路地から路地を、小さな階段から階段を、まるで鰻の行列のように歩き回り、けっして風情を楽しむと言うものではないが、おかげさま、地形が生み出す町並み景観の面白さは充分に理解することができた。 皆川氏によるとここは東京の一級スリバチ、ということだそうだが、たしかに、最近のマンションの林立で、神楽坂のような和風の風情は消えてしまったが、その歴史と地形はけっして破壊はされていない。 小割りの家並は前後左右と上下様々に折り重なり、色もカタチもバラバラの建物の連続が醸すその景観は小道の変化とも相和し、いままで経験したことがない独特のもの。 スペインやポルトガル、イタリアとも異なる荒木町の多層迷路はたしか一級スリバチと言って良いのかもしれない。 路地に明かりがともる頃は残った仲間といつものように飲み会。 光楽亭をご用意いただき、花街の面影残す小間の座敷を楽む。 したがって、小雨とあかりの街歩きは今日はおわずけ。 戦後の建物開発で大半を失った東京の景観、しかし、歴史と文化と地形は健在、ほろ酔いながら、そんな実感がとてもうれしい。 とんかつやの鈴木さんとも仲良くなったし、遠からず通うことになるだろう。

2012年4月10日火曜日

オテロ オペラパレス

オペラ・オテロを観た、オペラパレス。 ヴェルディのオテロはボクのお気に入り、なんと言っても音楽が素晴らしい。 台詞部分も含め全てが音楽として作られたこのオペラ、ワーグナーとは異なるメリハリのあるメロディーがシェークスピアの言葉を紡いで行く。 様々なオペラをDVDで見るが、CDだけで楽しむことがあるのはこのオペラだけ。 ボクにとってオテロは耳だけでも良い、唯一のオペラです。 理由は簡単、オペラはいつも「言葉の意味と音楽の感情」を一致させて作られている訳ではないと気がついた時、ドラマの進行を音楽だけで追ってみようと思いついた。 シュークスピアのオテロはもともと速射砲のような台詞劇、言葉の意味を細々と追うドラマではない。 言葉が気になるなら、英語劇を観るのが正解だ。 物語を簡言すれば「劣等感を持った男が劣等感を持った男にだまされる悲劇」。 そもそもストーリーに大きな意味があるとは思えない。 オペラなんだから、愛し合う二人がただただ無惨に死んで行く哀しみを音楽で体験しよう。 だからこそヴェルディーは完璧な音楽をこのオペラにしこんだ。 オペラ通の誰もが指摘されることだが、第一幕の冒頭のデスデモーナとオテロの重唱は何とも哀しい音楽。 ドラマは戦地から無事戻り再会の喜びに浸るシーンのはずの音楽がどうしてそんなに哀しいのか。 まぁ、冒頭ゆえ、ドラマ全体を暗示したシーンだからあのような音楽、と言うのが大方の説明。 確かに、舞台脇に表示される言葉の意味と音楽の流れはブレブレだ。 しかし、そのメロディーにはうっとりさせられる。 好きなのは第二幕のイアーゴの一人芝居。 何とも憎々しい言葉の連続だが、しかし、ここの音楽もまた聴く耳を離させない。 短調の調べに載るイヤーゴの歌声はいつも言葉の内容にかかわらず聴き入ってしまうが、この二幕は彼の独壇場の音楽シーン。 そしてクライマックスの第四幕、「柳のうた」は大好きです。 確かに詩の意味はデスデモーナの心情を十分に語るもの、しかし、ドラマの流れとは無関係な挿入歌。 つまり、無関係であるからこそ、中国的イメージを含め最も美しい音楽をヴェルディは紡いでいる。 付け加えればロッシーニの「柳のうた」もまた聴き逃せない、大好きです。 Montserrat Caballé - Gioachino Rossini - Otello - Assisa a' piè d'un salice... と、まぁ、また余計なことを書きつらねたが、今晩のオペラも大満足。 舞台はキプロスのはずが何故かヴェネツィア。 しかし、水の上に渡し板を組み合わせたそのイメージはデスデモーナとオテロの孤立した悲劇を語るには十分すぎる設え。 歌い手の足下は不安定だが、歌そのものは水面の揺らぎや輝きとも重なって、素晴らしい音楽(感情)となり客席に響かせます。 もっとも喜ばせてくれたのはデスデモーナ役のマリア・ルイジア・ボルシ。 彼女、急遽の代役でしたが、素晴らしかった、歌も雰囲気も仕草も演技も。 弱音部分の中高音、ボクの席は例によって4階の最前列、オペラグラス片手の鑑賞ですが、その歌声は哀しくもしみじみと深く浸透してきました。 さらに好きなのはイアーゴ役のミカエル・ババジャニアン。 彼の首を傾げて歌うその内容は憎々しさを100%表現、しかし、歌そのものは言葉の意味を超え、終始そのメロディーの変化で酔わせてくれます。 そうか、演出はマリオ・マルトーネだったのですね。東フィルのオケもよく響き、子どもたちの合唱も完璧、素晴らしい一夜です。http://youtu.be/cJtma6zU-2k

2012年4月6日金曜日

ニーチェの馬

「ニーチェの馬」を観る。恐ろしくミニマルな映画だ。作ったのは「倫敦から来た男」の監督、ハンガリーのタラ・ベーラ、会場も一昨年と同じ宮益坂だった。(http://leporello.exblog.jp/12747085/) 作品は今回もモノクロ、この監督はなんと言っても映像がいい。 2時間余りをわずか30カット、長回しのカメラ映像は観客をしっかりと引きつけ続ける。 音楽はたった一つのメロディだけ、一切の変奏もなく弦二つとオルガンが物憂げに時たま挿入される。 音の大半は例によって環境音。 この映画の主役は嵐のような風だが、ほとんど全編にわたり鳴り響く。 映画には言葉はいらない、映画は映像がすべて、それがこの監督の映画のようだ。 5部に分節されているがいつものようにドラマが進行するわけではない。 観客は映像を見つめるだけ。 しかし、不思議だ気がついてみると、ボクは勝手に様々なことを想像している。 なるほどわかった、これが監督の作戦、彼はすべてをそぎ落とし、観客をただただ映像の中に引き込むことが目的、後はなんでも勝手に想像させようとしているのだ。 題名のニーチェは意味深だが、その辺の詮索は一切意味がない。 そろそろ終わりかなと思う頃、映像に変化が生まれる。 馬は何も食べなくなり、井戸から水が消え、ランプも消え、火種も無くなり、風が消え、そして映像が消え館内が明るくなる。 でも、不思議だ映像に引き込まれながら、必死にいろんなことを考え続けていた自分だけが取り残された。 この映画、自宅のカウチポテト鑑賞なら10分で飽きていたかもしれない。 丁度、読みなれない小説の最初の10頁を何回も再読させられ、一向に先に進まないように。しかし、今日は真っ暗な映画館。 縛り付けられているわけではないが、席を離れることはない。 そして、監督の作戦通り、ただただ映像を眺めているうちに、いろいろなことを考えていた。 「人間ってどこから始まるんだろう?」。 それは、物理的・現実的あるいは生物的意味での人間ではなく、観念としての人間だが、そんなことを考えているうちに、全てが「終わった」。 青山通りに出ると今日もまた風がやけに強かった。

2012年4月3日火曜日

演奏会形式のドン・ジョヴァンニ 新国立中劇場

震災に見舞われ 本公演が中止になり、練習の努力も報われなかったカヴァー歌手による演奏会「コジ・フアン・トッテ」を昨年5月鑑賞した。「凄い!」と感じさせる演奏を聴かせいただいたので、今年も特別企画「ドン・ジョヴァンニ」も大いなる楽しみ、早々にチケットを手にしておいたので今日、中劇場に出かけた。 演奏会形式による「ドン・ジョヴァンニ」は難しいと考えていた。 モーツアルトのこのオペラ、人気演目であるからアリアの大半は全ての聴衆よくご存知。 その良く知られたアリアの数々をただただ独唱会のように聴かされたのではオペラ鑑賞とはほど遠いものとなってしまう。 いやぁ、余計な危惧だった、今年もまた大満足。今月下旬の本公演の歌手たちもこのできばえにはそうとう煽られるに違いない。 危惧の理由は「ドン・ジョヴァンニ」の面白さは登場人物個々の自己表現にあるからだ。 振りと衣装を着けた本公演なら、歌による「意味と感情」が表現不足でも、このオペラのポイント、登場人物個々のキャラクターは十分に理解できる。 しかし、演奏会形式ではそうはいかない。歌手はみなキャラクターを的確に表現し、ドラマの内実に与えられた人間的役回りを面白く演じなければならない。 「ドン・ジョヴァンニ」は喜劇的悲劇、いやそんなことはどうでも良い。 このオペラの面白さは「中世と近世」の狭間の人間模様にある。 ボクはこの中のドンナ・エルヴィーラが好き。 彼女は古い世界に生きながら近代人ドン・ジョヴァンニに恋をし、その恋から逃れられない狭間に生きる美しくも悲しい女性。 それをひ弱ではなく凛と描く演出が好きだ。 今日はややノーマルだが佐藤康子のエルヴィーラを堪能した。 ドン・ジョヴァンニにはカソリック的道徳感は全くない。 騎士でありながら中世的ストイックな恋をせせら笑い、広くあまねく性愛(18世紀的な意味で)を求める。 しかし、いまやどこにでもいる近代人。 だからこそ彼は地獄に堕ちる、そう、彼は近代人第一号、われわれには天国はない。 ボク独自の偏見だが、ドン・ジョヴァンニは実はレポレロでもある。(これも演出の問題、今日はボクの好み、毅然とした北川辰彦のレポレロには満足している) つまり、二人で一人の近代人、あなたも思い当たるでしょう、自分の中にドン・ジョヴァンニとレポレロの二人が生きていることを。 地獄に堕ちるのが怖いならレポレロのように生きれば良い。 事実、近代人の大半はレポレロだ、そう地獄に落ちることはない。 ダ・ポンテとモーツアルトは何でも知っていた。 ここまで書けばもう説明はいらない。 ドンナ・アンナとドン・オッターヴィアのお二人、モーツアルトが書いた歌を聴けば、彼らがどんなに窮屈な貴族的中世人かが良く判る。 ダ・ポンテは相当の貴族嫌い、甘い口先だけで復讐どころか、喧嘩も出来ない騎士か貴族、ドン・オッターヴィアは18世紀の鼻つまみもの典型として書いている。 しかし、モーツアルトはしたたかだ、彼ら二人にもっとも長時間、浪々と宗教曲に似た美しいアリアを歌わせている。 そして、ツェルリーナとマゼット、彼らの恋と歌は近代そのもの。 ツェルリーナのしたたかな歌と魅力があれば世界中の男、全てがだまされる。 レポレロようにひとりで旅をつづける人生より、ツェルリーナのような可愛い恋人を早く見つけ、浮気と痴話げんかに明け暮れる毎日の方が幸せだ。 最初に触れたこのオペラの面白さであり難しさ、「意味と感情」のズレに触れておこう。 オペラはエンターテイメント、詩と音楽が相和し恋の喜びと悲しみを存分に語ってくれる。 しかし、それだけでは400年も続かない。 そこには隠された神には敵わない人間として悲劇、あるいは個々人の生き方の主張だけでは解決しない集団の中の人としての悲しみが描かれる。 そしてオペラを観る楽しみだが、それは音楽と演出の問題、言葉としての意味と音楽としての感情がいつも一致しているとは限らないところにあるからだ。 言葉は強く逞しいが音楽(感情)がやけに悲しい、あるいは状況に連続する音楽は楽しいが、結構言葉は切羽詰まっている。 そんなズレを楽しむのが最近のボクのオペラ観。 その典型はヴェルディの「オテロ」にあると思うが、その話はまた別の機会として「ドン・ジョヴァンニ」にもその奔りが沢山ある。 このオペラでボクが最も好きなアリアはドン・ジョヴァンニが歌う「窓辺においで」。 二幕の初めに唐突に挿入される、このオペラで最も美しいアリア。 主役なのに彼のアリアは短い3曲のみ。 その貴重なアリアもドンナ・エルヴィーラの小間使いを口説くマンドリンによるセレナーデ。 しかし、何とも諧謔と韜晦そのもののシーンであり音楽だ。 ドン・ジョヴァンニのドンナ・エルヴィーラに対するレトリカルなデリカシー、それは案外スペイン人ドン・ジョヴァンニではなく、ヴェネツィア人カサノヴァのものかもしれない。 この辺りはモーツアルトではなくダ・ポンテに聞くしかないが。 このアリアがこのオペラでは最も重要。 まさに中世のトロヴァトーレ(吟遊詩人)そのものではないか。 そう、ドン・ジョヴァンニはヨーロッパ中を旅し恋を歌った中世の遍歴の騎士。 その騎士が近代の語り部として詩を歌い、その心を引き継いで行く。 このアリアは当然イタリア語、しかし、よく聴いてみて下さい、ボクの耳にはその後のシューベルトのドイツリートとして聴こえてきます。 今日の演奏会形式の「ドン・ジョヴァンニ」はまさにボクの注文通りの演出、それも嬉しいことに国音の卒業生がレポレロ、ツェルリーナ、マゼットを歌ってくれました。 4月下旬は本公演、ますます楽しみです。