2009年12月30日水曜日

「凍れる音楽」孝

ヨーロッパ中世、教会の中で一体であった音楽と建築は、15世紀イタリアでは、音楽は耳で聴くもの、建築は目で見るもの、つまり、別々の役割を持ち、神の世界の顕現に貢献するものとなっていました。しかし、明確な分離を意識することなく18世紀を迎えたアルプスの北、ドイツでは民族意識の高揚をきっかけとしてゴシック建築の見直しと礼賛が盛んとなります。ルネサンス・バロックというヨーロッパの音楽や建築の主調がまだイタリアに重心がおかれ、当時野蛮な様式と見なされていたゴシック建築を後にドイツ・ロマン派と呼ばれる人々が、この建築こそ我々の精神の崇高な体現として評価したのです。

18世紀中頃、音楽はソナタ形式の隆盛に伴い、イタリア中心のバロック・オペラによる静止画的世界から器楽的・動画的世界へ、不連続な継起的ドラマから連続的体感の世界へと変化していきます。この連続的高揚こそアルプスの北の人々を支える美学。ゴシック建築とソナタ形式の音楽は相和し、美学におけるドイツ・ロマン、後の「凍れる音楽」を体現させる装置となったです。「凍れる音楽」はイタリア・ルネサンスを凌駕するドイツ的意識の広がりを証拠だてる有効な説明言語、その筆頭はフリードリッヒ・シェリングと言われています。芸術は人間の最高の精神的所産かつ生産活動と位置づけ、彼は「彫塑における無機的芸術形式すなわち音楽は、建築である」あるいは建築を「空間における音楽 Musik in Raume」と「芸術哲学」に書いたのです。シェリングの義兄弟でもあり、友人のフリートリッヒ・シュレーゲルは「建築は凍れる音楽 gefrorene Musik なり」と語っています。やがて、「凍れる音楽」はゲーテ、ヘーゲルを始め多くの人々に愛用され、文学・音楽・美術・建築のロマン主義を象徴する言葉となって行くの周知の通りです。

ボクにとって最も興味深いのは「ドイツの建築術について」(1773年)から始まるゲーテの建築論です。この書は若きゲーテがシュトラスブルグ大聖堂について論じたもの。当時ヴィンケルマンの古代美術史によりギリシャ美術に傾倒していたはずのゲーテでしたが、彼は大学生活を通じ身近に体験したゴシックの大聖堂を賛美して止まず、この書を書き上げました。
「大聖堂の眺めはなんという思いがけない感じで私を襲ったことか。これまで私の頭は良き趣味についての通念で埋まっていたのだ。聞き伝えによってマッスの調和とか、形式の純粋とかをあがめ、ゴシック的粉飾の恣意に対する断固たる敵になっていたのだ。辞典の見出し語でも説明するように、ゴシック風という語のもとに、私は不確定、無秩序、不自然、かき集め、つぎはぎ、飾り過ぎ等々、脳裏をかすめたありとあらゆる生半可な同義語を積みあげていたのだ。それは外部の世界をみな野蛮呼ばわりしている民族よりも愚かしく、自分の体系に適合せぬものをすべてゴシックと呼んでいたのだ。・・・・ところがどうだろうこの大伽藍は互いに調和している。無数の細部から成り立っているので味わいを享受することはできるが、けっして認識したり説明したりすることの出来ぬ建物だ。」

ゲーテの熱い感情が手に取れるようです。彼は教室であるいは書物で得ていた古典主義をかなぐり捨て、理知を超えたシュトラスブルグの魅力にうち震えたのです。
そんな、若きゲーテですが、このようなゴシック賛美は「イタリア紀行」と相前後して急に消えてしまいます。
「ドイツの建築術について」から10年あまり後、ワイマール宰相の地位にあった彼は突然、逃げるようにブレンナー峠を越え、檸檬の花咲く、パッラーディオのラ・ロトンダ(ミニョンの館)を訪れています。
紀行は「我もまたアルカディアに」と裏表紙の言葉に示されるようにイタリア古典主義の経験と考察、1786年から1788年の記録が元となった有名な書です。

晩年まで改訂に改訂を重ね、文学者ゲーテの原点といわれる「イタリア紀行」は仰ぎ見るゴシックを振り払った北の国の感性が初めて触れるアルカディア、ルネサンスとは異なる、古代ローマを体得した旅行記と言えましょう。(ゲーテはフィレンツェは訪れなかった)そして、この紀行からドイツに戻ったゲーテは1788年、再び「ドイツの建築術について」を書きました。
それはギリシャ建築を主題とし、古典建築研究の成果示す内容です。さらに1895年には「建築術」と題する手記により、イタリアでの体現を総括し、古典主義礼賛の芸術論を上梓します。つまり、若き血が燃えるゴシック礼賛から、理知的古典主義文学者へと変貌した詩人ゲーテの誕生です。しかし、そんなゲーテは晩年、再びゴシックへとその関心は回帰するのです。
人間ゲーテの大きさはその変容の中にこそ見るべきかもしれません。それは「ドイツの建築術について1823年」に記されています。
「私が後にシュトラスブルグやケルン、そしてフライブルグの芸術を見失い、そのうえ、それよりも発達した芸術(古典古代の芸術)に心を惹かれて、それらをまったく捨て去ってしまったことについては、自分を責めぬわけにはゆかぬ」。

ゲーテはゴシック主義と古典主義の両面に挟まれつづけ、ドイツについて、文学について、建築について、芸術について考え続けた人、だからこそ偉大なる詩人と呼べるのです。そして、生み出されたものはドイツ民族のためだけのロマン主義ではなく、全ての人間のためのロマン主義であった、と考えて良いのではないでしょうか。
ゴシックはドイツ・ロマン主義に直結しています。また「凍れる音楽」は「ドイツ・ロマン主義の常套句」と考えて良い事柄です。
しかし、その後、ロマン主義はイギリスに引き継がれ、「ピクチャレスク」にまで応用されるとある種の古典主義と結びついていきます。ゲーテには「凍れる音楽」という直接的言辞はありませんが、この言葉がゲーテの言葉として広まったのは、ゲーテの生涯にわたる建築論がゴシックと古典主義の狭間に立つ、一民族ではなく世界に通低するロマン主義の表明となっていたからに違いありません。

「凍れる音楽」は感覚的に理解しやすい言説ですが、どこまでも反アカデミズムのなせる技であったことは重要です。
建築という分野では、ロマン主義が主流になったことはありません、そしてまた「凍れる音楽」が建築側から語られることもほとんどなかったことです。
そんな観点に立って考えてみると、20世紀に入り、多くの建築家が音楽との関係を語り始めたことは大変興味深いことです。
アールヌーボ以降新しい建築を模索したのは皆、反アカデミズムの人たちです。ヨーロッパ世紀末は反アカデミズム(クリムトやオットー・ワーグナー)の活動が主因となり活動が始まっています。こんな100年前の建築状況を思い出しますと、現在もまた新たな「凍れる音楽」を論じる時代ではないかと考えてしまいます。
それは機械主義・情報主義・環境主義を超克し、新たな人間のエティカ(美学)に通低する新しい建築を必要とする時代だからです。

2009年12月22日火曜日

ロマネスク建築と音楽

ロマネスク期イタリア半島の聖堂は木造小屋組による天井構成とバジリカ式(長方形)平面という単純な形式。 石造のヴォールト天井は古代ローマ時代の技術、当然、イタリア半島の聖堂で普及してしかるべき建築。 しかし、その形式はイタリア半島ではなく、もともと石造建築には不慣れであったアルプスの北の人々が採用している。(ロマネスクはローマ風という意味、イタリア人ではなく、北の人々が石造建築をロマネスクと呼んだようだ) 彼らは 作り慣れた木造ではなく、あえて石造で天井をヴォールトで建設しようとする真意は一体どこのあったのかだろうか。 確かに、火災にも強く、より堅牢な耐久性のある聖堂を求めたことは理解できる。 しかし、それだけが不慣れな石造天井を必要とした理由では無い。 北の人々が新しい聖堂に求めたこと、それは石造であることから生まれる音の反響と残響にあったようだ。 つまり、彼らにとって聖堂は音の空間、音楽重視の聖堂と言って良い。

一方、イタリア半島は視覚の空間。イタリア人にとっては音以上に、祭壇に向かって集中する視線のパースペクティブこそ聖堂にはもっとも重要なものと考えていた。 北の人々が好んだ音の反響とは後世で言えば和声のこと。 単声歌あるいはユニゾンを音楽とする半島の人々と早くから和声あるいは音の協和に関心を示す北の人々。 イタリアとフランスの音楽の特性はすでにこのロマネスク期の建築に明解に示されていたと考えて良い。 付け加えると、古代ギリシャ人にとっての音の調和は継起的なもの、複数の音が同時に鳴る和声とは全く異なるもの。 何人かの演奏者が同時的に奏でる形態はこのフランスロマネスク以降の中世的発想と言って良い。 そして、さらに中世以降、多声音楽を一般化したフランドルのポリフォニーに対し、ルネサンス以降、イタリアでは多声であるがホモフォニーに拘り、やがてオペラの基となるモノディー(単旋律の歌唱声部を低声部と和音の伴奏で支える独唱歌曲)を生み出す

2009年12月21日月曜日

ロマネスクの建築家は音楽家

聴覚的建築の時代

音楽的典礼のために、重い石のヴォールト天井を構築しなければならなかったロマネスク建築家たち。かれら建築家は斜めの力や全体の力の均衡を考慮しながら柱壁を構築しなければならず、音楽のための空間をつくるために、音楽に似た力の流れを意識しながら、音楽の手法によって建築を構成していった音楽家たちと目される。聴覚的建築時代の建築家とは音楽家のこと、つまり、修道士たちのことだ。

透視画法を体験していたロマネスクの修道士たち

同じ大きさのものも、遠くへ置けば近くでよりは小さく見えるという事実は、ロマネスク教会の列柱で構成された身廊を生活空間とした修道士たちにとっては、あたりまえの世界であっただろう。ルネサンスの建築家の発見と言われる透視画法はロマネスクの修道士にはすでに毎日、体験されていた。

計量化された時間を知っていた音楽家たち

時の流れや刻々と変わる時そのものが、一日毎の同じ時刻、一年毎の同じ時期と周期的に流れていることは大昔から理解されていたが、その流れが一様であり、計測できるものであり、空間と、あるいは他の一切のものとは連動せず、独立して流れているものであると気がついたのは、ロマネスク期の音楽家たちであった。(時間と空間の誕生・ゲーザ・サモシ)

音楽は中世の七つの自由学科の一つ 

ー>数を扱う四科=算術、幾何学、天文学、音楽

ー>数と音の関係、協和音程の数学的関係

ー>数にこだわる作曲、一種の数あわせは17世紀までのバロック時代までの特徴
=バッハにも数多く見られるのは周知のこと

 

 

2009年12月20日日曜日

ル・トロネ修道院

 
 ロマネスク建築の時代(10世紀〜12世紀)、教会堂の設計およびその建設の指揮に関わる人はまたその堂内に響く音楽に携わる人でもあった。建築と音楽の担い手はその教会堂の聖職者であり、修道士という人々です。

音楽と建築は各々別々に専門家がいたわけではない。聖職者たちが宗教的メッセージと儀式(グレゴリアンチャント)を音楽化し建築化することでロマネスク聖堂を生み出してきたと考えて良いのではないだろうか。

シトー会のル・トロネ修道院(フランス・プロバンス)は、コルビジェをはじめ近代の多くの建築家を魅了し、その建築記録が小説「粗い石」としてフェルナン・プイヨンによって顕されている。この修道院こそ音楽が建築化された代表的建築と言える。

何故なら、怪奇幻想ユーモアと様々な表象をもったロマネスク彫刻によって彩られるのが流行であった12世紀初頭というこの建築の建設期にあって、ル・トロネはあえて視覚による一切の象徴表現を退け、光と音による神域表現に終始しているからです。そんな建築が示すシンプルなかたちと素材による表現。それはモダニズムの建築家が探していた形態です。

「ヨーロッパ芸術文化と音楽」の中で原田玲子さんはグレゴリアンチャントをつぎのように説明しています。
「グレゴリアンチャントは和声も楽器の伴奏もない単声音楽として生まれたものである。したがって豊かな旋律の構成と表現のためには、リズムがどうしても集中的な要件となってくる。そして、世俗的なものへの志向をできるだけひきとめる厳粛な静けさ、ただ官能的にのみ走る美しさを抑制しようとする繊細な均衡のある調和、いたずらに情感を沸き立たせることのない気高い旋律、これらの特性は、たしかにロマネスクの建築とも見合っているであろう。」



(via YouTube by mollro4 : the Cistercian Abbey of Le Thorone )

2009年12月19日土曜日

クリュニー修道院

中世キリスト教社会をリードしたのは、必ずしもカソリックの総本山ローマではなく、ヨーロッパ全域に広がった修道院でありました。
事実、ローマでかたち作られたと言われるグレゴリアチャント(聖歌)は、今日私たちが耳にするものとは異なり、もっと素朴な旋律を持っていたといわれています。
現在のグレゴリアチャントはアルプス以北のクリュニー支配下の地域で歌われていたもので、それが私たちの手元に譜面となって残されたと考えられているのです。

聖歌はクリュニーの典礼改革の大きな柱となっていました。
このクリュニーはスイスに花開いたザンクト・ガレンのユートピア(初期キリスト教社会の修道院)とは異なり典礼を重視していた修道会です。
遁世思想に裏付けら、勤労に奉仕し清貧に生きることが重要だったのではなく、不安な時代、貧民救済と典礼を重視し、多くの人の心をキリスト教世界に結びつけることが必要であったのです。
このような礼拝重視のクリュニーにとって最も重要であったことは祈りのための音楽と建築であったということはご理解いただけるかと思います。

クリュニー修道院付属教堂を作ったのはグンゾ、かれはもともと典礼音楽に関わる聖職者として良く知られた人です。
中世において音楽に意をつくすことは、建築を重視することでもありました。音楽家グンゾが建築の設計者であることは不思議なことではありません。
音楽と建築を支えるものはギリシャ以来、数による秩序です。ピタゴラス音階による完全8度、完全5度、完全4度の音の協和は1対2、2対3、3対4という比例関係を持っています。
つまり、近世以前、音楽は数学でもあったのです。
中世のアウグスティヌスは、この比例原理は建築を含め視覚芸術すべてに当てはまるものであり、この音楽から導かれた数が宇宙の秩序、そしてすべての安定の根源であるとみなしました。
フランス革命によって壊滅したクリュニー修道院ですが、ケネス・コナントは忠実な復元図を作成しました。
そして彼は建築のみならず、彫刻さえもその構造と構成において音楽に導かれた幾何学によって作られていたことを証明しました。
クリュニーの修道士がいかに楽音に関心を寄せていたか、その証が旧修道院の内陣の柱頭彫刻に記されています。
彼らはグレゴリアンチャントの8つの楽音を重要な柱の柱頭飾に用いたのです。
それもアーモンド型のメダイヨンの中という、ロマネスク彫刻のセオリーから離れた特殊な空間の中にです。

リュートを弾き、シンバルや鈴を鳴らす人々とともにあるこの内陣は、彼らにとって天国そのものに置き換えられていたと考えて良いと思います。
幸い、その柱頭彫刻の幾つかはフランス革命による壊滅を免れ、オシエ美術館に残されています。
この美術館にはキリスト教にとって最も重要な第三音、「プサルテリウムを弾く男」が保存されているのです。
第3音はキリストを受難へと押しやり、復活をなすことの象徴であり、まさに人類の救済のテーマにほかなりません。




gregorian chant
This is part of the Responsory Benedicamus Patrem, for the feast of the Holy Trinity. As sung from late fifteenth century Antiphonary B-Gu15.
This is from the cd 'Etienne de Liège - In festo sanctissimae Trinitatis' RIC 249. Buy the cd at www.ricercar.be - other discs available as well. Check it out!
Chant group Psallentes was founded and is directed by Hendrik Vanden Abeele. The group particularly focuses on late medieval chant.
www.psallentes.be
(via YouTube by quijote347)

2009年12月18日金曜日

音楽から始まったキリスト教建築

偶像が拒否されていた初期キリスト教時代、礼拝に参加することが許されたのは、建築や絵画・彫刻ではなく音楽です。
当初の教会は雨風をしのぐ粗末な小屋や、ありきたりの民家さえあれば充分でした。
そこで必要だったものは音楽、ミサ典礼という音楽によってのみ、キリスト教が示す神の国を現出していたのです。
キリスト教典礼は徐々に初期中世の人々(ゲルマン人)の日常生活にしっかりと組み込まれて行きます。
そして、人々はミサのための恒久施設を必要とするようになり、教会堂建設が始まりました。

ローマ時代が誇った数々の建築群は敬虔なキリスト教徒にとっては異教であり、不必要な存在です。
従って、ゲルマンの人々は当初、自分たちの持っている技術、木造で教会堂を作り始めます。
しかし、堅固で永遠の神の館、神の国を視覚化するには、木造より耐久性の優れた石の建築が必要です。
堅固な建築なら天井は木材でも良かったのですが、教会堂は石の天井。
ローマの建築にある重い石のトンネルヴォールトや交差ヴォールトの建築にする必要は何処にあったのでしょうか。

彼らが必要としたのは堅固で恒久的という強度的理由だけではありません。
ゲルマンの人々の石へのこだわりは音響効果です。
ドームはその形状によって天空を象徴してはおりますが、そのドームが石造で作られたことから生れた反響と残響こそが不可欠だったのです。
石の天井の反響によって、教会堂の内部空間に響く単旋律の歌声は悪戯に情感を高めることがなく、厳粛な静けさと繊細な均衡を持った気高い旋律に変化し、その歌声が持続的な音に満たされた神の国を現出し始めていきます。

カロリング期に入り、様々な地域は見よう見まねで、石造の教会堂をつくり、建築史の中では最も多様な様式を持つロマネスク時代を迎えます。
音楽からはじまったキリスト教的芸術感は当然、建築にも反映されました。
つまり、異教ローマ建築をそのまま引き継ぐのではなく、グレゴリアンチャントの視覚化が教会堂の使命です。

教会堂の内部空間を体験してみましょう。
身廊のアーケード(アーチの連続)がゆったりとしたリズムを刻みます。
その上のトリフォリウムはアーケードの倍音を構成します。
トリフォリウムのアーチから静かに差し込まれた光は身廊の床に反響し柱の旋律に絡まります。
重力と空間全体を支える質量を持った石の厚み、その厚みが織り成す柱のリズム、
それらはすべて聞く人の内面に響くグレゴリアンチャントの体験とまったく同質であると理解されるでしょう。

音楽と建築とのあまりにもぴったりとした照応、この時代はまた音楽において、
モノフォニーからポリフォニーへの展開の時期でもあったのですが、
その音楽の展開に誘導されるようにロマネスクの空間もまた多種多様な展開を遂げてゆきます。
つまりロマネスクは芸術史上唯一、建築と音楽の融合の時代であったと言えるのです。



(Gregorian Chant (Advocatam) Llibre Vermell de Montserrat from quijote347 on YouTube)

ザンクト・ガレン修道院の理想平面

 

 中世ヨーロッパの人々が現実的世界から目を背けることなく、真摯に俗世と関われるようになったのは、修道院が各地に誕生したからだということのようです。
人々は聖なるをものを求める道を修道院にまかせ、俗人は俗世に生きるという道を徹底することが可能となったから、との説明です。
物理的のみならず精神的にも人が生きると言うことは、確かに、自分以外の自分をいつも持っていなければ落ち着かない、わかるような気がします。経験的に神を信じたことはありませんが。

7世紀のはじめ、アイルランドの聖ガルスがスイスの東北シャルナッハの渓谷に住み着き、多くの人々の祈りを集めて行きました。
やがて、そこは人々の心の安息所であるばかりかザンクト・ガレン修道院と呼ばれ、様々な中世文化の花を咲かせることとなります。
修道院は決して俗世と無縁であったわけではありません。
聖職者たちもまた土地所有者となり農民を抱え、国王とも交渉し政治にも関わります。
中世社会における修道院は祈祷の場であるばかりでなく、大学であり研究所、病院であり、農業開発センター、そして裁判所という役割を担っていました。

加えて重要なことなのですがザンクト・ガレンは9世紀以降の貴重な書物の図書館でもあったことです。多くの僧侶たちが写本の筆写に訪れた所、筆写に訪れるということはまた沢山の写本が集まる所でもあるからです。
そんなザンクトガレンであったから、理想都市としての修道院の平面図が残されています。
修道院は聖と俗がせめぎあう場でもあったのですから、人間の理念と現実はいつも明解である必要があります。

多くの写本を制作したザンクト・ガレンは絵画史の幕開けの場所でもあります。
そしてもっとも重要なことは、ヨーロッパ音楽の原点ともいえる記譜法成立の中心地、グレゴリオ聖歌に多声音(ポリフォニー)を持ち込む試みがなされたところです。
ポリフォニックな音の広がりはヨーロッパ独自のオーケストラの原点ですが、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化するのは、ここザンクト・ガレンにおいてです。

修道士たちは毎日毎日、夜明けから深夜に至るまで一日八回の聖務日課(定時化された勤行)とミサ典礼(最後の晩餐を再現した典礼)を行いました。
その内容は聖書朗読と祈り、そして聖歌ですが、歌を伴わない祈りはあり得ません、福音書朗読さえも、ある特定の音の高さを持って歌われるのです。
典礼のための福音書や聖歌集、それは聖具として神に捧げられたものですが、9世紀の写本の中に朗読する為の記号が書きこまれました。
ネウマという音符の登場です。
口頭伝承から楽譜記載による伝承へ、聖歌を統一化しようという動きが伝承形態を変化させ、やがて音楽そのものを大きく変える道を開くのです。

写本であっても聖具であることには変わりありません。
聖具に人為が関わることは許されないことですが、しかし記号の書き込みが許された聖歌集には、新たな歌詞や旋律の挿入も許されました。
トロープスと呼ばれる装飾部分です。
この挿入部分は作曲することの契機です。
神からの授かりものであった音楽が人間的行為の結果としての音楽となる経緯となるのがトロープスです。

ザンクト・ガレンの写本の中に記されたネウマとトロープス、それは楽譜の成立と作曲の誕生を促すものです。
ネウマとトロープスは単旋律の音の流れを幾条もの重なりをもった複雑な音楽に変えるばかりか、時間の経過とともに消えてしまう音楽では果たすことができなかった、全体を見渡し思考するという場をも音楽に与えたのです。
つまり音楽はここザンクト・ガレンで建築と同様、空間性を獲得したことにより、作曲という行為が認められ、後に数多くの音楽家・作曲家が誕生することとなるのです。




(Convent of St. Gall from UNESCOVideos on YouTube)

2009年12月7日月曜日

ドローラ・サジックの「アムネリス」

「明日はあなたかもしれない!」アイーダは間違いなく悲劇だ。大半のオペラはタイトロールの死によってドラマが終わる。しかし、悲しい、涙を誘う劇が全て悲劇というわけではない。ドン・ジョバンニは喜劇なのだから。「人事だけでは、如何ともし難い、人間の有り様、運命を画くのが悲劇」、と読んだ事がある。シェークスピア以降、近代劇では特定の人間が画かれるが、古代劇では類型としての人間が問題であって、ギリシャ悲劇は「人間とは何か」が画かれていると言うのだ。つまり、「ロミオとジュリエット」はロミオとジュリエットの悲劇であって、あなたの悲劇ではない。しかし、「アイーダ」は社会に生きる人間(エチオビアの王女)の悲劇であって、アイーダだけの悲劇ではない。社会に生きる人間であるがゆえに、誰もが陥るであろう悲劇、これが古代劇の悲劇であり、あなたの悲劇。それが冒頭の歌、「明日はあなたかもしれない!」に表れている。
しかし、オペラは第三幕からガラッと変わる。ここからは「アイーダ」ではなく、「アムネリス」が主役、彼女の悲劇であり、オペラなのだ。ラダメスを恋い焦がれるが、彼に愛されることもなく、身悶えし乍ら彼の生を嘆願する。その歌声はオペラの中でも最も美しく、どこまでも哀しい。しかし、この悲劇はいつの時代の誰もが体験し、理解出来るものだが、この恋、そして悲劇は個人アムネリスのものであって、あなたのものではない。
今日のオペラはそんなアムネリスが圧巻だ。もともと、メゾ・フェチに近いボクにとって、ドローラ・サジックの歌には泣かされた。前ニ幕のスペクタクルな舞台は今や、メトでしか味わえない楽しみだが、三幕のアムネリスの報われぬ恋と恋人を失う悲劇はザジックだけが表現可能な世界かもしれない。愛する娘を失ったヴェルディは、その娘への父親である自分自身の想いをバリトンに託し、幾つかのオペラで歌わせているが、最後のオペラに近い「アイーダ」では、娘自身の悲しみをアムネリスに歌わせたに違いない。