2011年1月31日月曜日

音楽と建築によるローマの再建/©


(ニコラウス五世のローマ)

ディレッタント建築家であったアルベルティ、彼のユニークな聖堂のその後の直接的影響を見つけ出すことは難しい。建築家であるというより文学者に近いアルベルティは数多くの計画案は作ったが、実際の建築の指揮を執ることが少なかったことが関係している。アルベルティは実際の建築より彼自身の「建築論」によって後世に大きな影響を与えた人なのだ。

ここからは理想都市に関わる二人教皇について話を進める。「建築論」に従い、現実の都市の再建を実施した十五世紀のローマ教皇。 アルベルティのパドヴァの学生時代の友人トマソ・パレントウチェリがローマ教皇になった、ニコラウス五世だ。


 (fig33)

彼は最初の人文主義の教皇と呼ばれている。ヴァティカン図書館を創設した教皇でもあり、書籍や建築の持つ社会的意味を良く知っていたこの教皇にとっては、動揺を重ね弱体化した教皇庁の権威を再び確固たるものにするために、ローマの都市整備を行い、秩序を取り戻すことが使命であった。

十四世紀初めのアビニオンの幽囚以来、百年に渡る長きの間、教皇が不在であったローマは荒廃に荒廃を重ね、猫と盗賊の町となっていた。

「年輪を重ねた威厳を備えてはいるが、灰色の髪を振り乱し、引き裂かれた服を身に着けた婦人がいる。その顔は蒼白で、苦渋に満ちている」 (建築全史:アムリタ書房) と、荒廃した十五世紀の都市ローマは老婦人に見立てられ、ペトラルカによって歌われている。

ニコラウス五世のローマ再建にはアルベルティの協力が不可決だった。1452年にニコラウス五世に献呈された「建築論」は理想都市ローマの建設の手引きともなるもの。二人はすでに多くの人が目を向けはじめていた古代ローマのモニュメントと教会を結びつけ、文化の最先端を示すローマ、理想的な神の都の計画に取り組んだ。

その計画には三つの局面がある。一つは古い教会の増改築とローマ全体の要塞化。二つめは図書館や古代風劇場、さらにフィレンツェで始められた整形の庭園を設置すること。三つ目はサン・ピエトロ大聖堂とローマ時代のハドリアヌスの廟墓を要塞化し、その周辺のボルゴ地区と呼ばれる中世以来の集落を教皇庁のお膝もとに相応しい地区として再開発することにあった。

やがて、廟墓は城塞化されサンタンジェロ城に、パンテオンは教会に、カンピドリオは支庁舎に変わっていくが、ニコラウス五世時代の教皇庁は政治力も経済力もまだまだ不十分。ルネサンス最初の理想都市ローマはその計画をほとんど実施することなくこの教皇の死によって中座してしまった。

しかし、二人による基本案が、その後のローマ都市改造に関わる多くの教皇と建築家たちに、大きな影響を及ぼしたことは事実。ニコラウス五世から二百年、ローマは着々と整備され、やがて十七世紀半ば、バロック都市ローマとして完成する。

さらに二百年、その後バロック都市ローマに様々な歴史と文化が重層され、現在この都市は世界に比類ない世界都市として多くの人々に愛されている。その全ての原点は、この教皇とアルベルティの建築論にあったと言って過言ではない。

ブルネレスキにブラマンテにミケランジェロ、彫刻家兼建築家としてルネサンスを飾る有名建築家の数は限りないが、アルベルティのように現在にまで、その影響を及ぼし続けた建築家は少ない。ディレタント建築家であり実作の少ないアルベルティ、現在ではなじみ薄の存在となってしまったが、しかし、彼の果たした意義と役割の大きさを省みると、ルネサンスという特定の時代のみが必要とした建築家では決してない。カスティリオーネが「宮廷人」に描いたような、貴紳ある宮廷人としての素養に溢れ、優れた論理とイメージを持ち続けた建築家はアルベルティの他にはいなかった、と言っておきたい。


(ピウス二世のピエンツァ)

アルベルティ同様ニコラウス五世の学生時代の友人アエネアス・シルヴィウス・ピッコロミーニは1458年にローマ教皇に選出される。ピウス二世を名乗る彼は、ウェルギリウスの「ピウス・アエネアス(敬虔なるアエネアス)を思い起こさせるように詩人であり、人文主義者を任じていた。ニコラウス五世の亡き後、教皇カリストス三世が引き継ぐが、この教皇も僅か一年、結局ピウス二世がその後の教皇となる。


  (fig34)

即位したピウス二世は翌年の春、トルコ軍を追い払うための会議に出席するためマントヴァに向かう。その途中、彼の生まれ故郷コルシニャーノの町 に立ち寄るが、町はすっかりと寂れきり、その荒廃を深く悲しむ。

ピウス二世のコルシニャーノ帰還にはアルベルティも同行していた。ローマとフィレンツェの中央に位置するこの町は、気候も良く見晴らしもすばらしい。この時の二人にとって、ここはまさに古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスが描く、都市建設の理想の地そのものと思えたであろう。ピウス二世は即刻、この郷里を建て直し、都市的な記念碑として再建することを決意する。

シエナの裕福な商家の長男として生まれたピウス二世は商業人としてではなく、神学者、人文主義者としての道を歩む。シエナで神学をパドヴァで法律をフィレンツェでギリシャ文学を学んだ彼、フィレンツェではさらに多くの人文学者とも交わっている。


 (fig35)

当代一流の人文主義者でもあるこの教皇、しかし、商家の後裔でもある彼は、自身が為すべき事業の実現に対しニコラウス五世に比べ、より現実的であったのかもしれない。ピウス二世の関心は金のかかりすぎる理想都市ローマの建設ではなく、もっと具体的、現実的な夢の実現、理想都市ピエンツァの建設にあったのだ。

ピウスの目論見に対しその後、アルベルティが助力しなかったのは不可解とされている。彼こそ都市問題に経験が深い唯一の建築家であるからだ。すでにローマ元老院に雇われてしまったアルベルティ、ピウスのパートナーを勤める時間が無かったと考えられる。あるいはピウス自らが自分自身のモニュメントを実現したかったのか。

結果からみると、アルベルティがピエンツァの建設に直接関わらなかったのは幸いしている。何故なら、もし二人が同時にピエンツァに関わったら、多分、大喧嘩を繰り返さざる得なかったに違いないのだから。


(ベルナルド・ロッセリーノ)

各地の王侯貴族とのつき合いも多く、ローマ教皇庁の仕事も忙しかったアルベルティに代わりピウスは別の建築家に理想都市の建設を委託する。選ばれたのはベルナルド・ロッセリーノ、フィレンツェ以来のアルベルティの助手であり現場監督でもあった人。

彼はアルベルティの最初の建築であるパラッツォ・ルーチェライをフィレンツェで完成させている。このパラッツォ (宮殿あるいは邸館、公的な空間、都市住宅) はアルベルティの指示通り建設され、フィレンツェ全体を透視画法の世界に変容する意図が明確に発揮された画期的な建築となっている。

しかし、ピウスニ世の夢の夢を託されたロッセリーノ、ここでもまた助手の立場にすぎない。具体的な建築を実際にイメージし、建設していったのは施主である教皇ピウスニ世その人だった。


(私的関心の都市広場)

シエーナの南方50kmのコルシニャーノの丘、理想都市に相応しい聖堂と宮殿の建設というピウスニ世の夢。わずか五年という短期間ではあったがため、実現されたのは都市全体の一部に過ぎない。しかし、丘を貫く都市の街路とその中央に位置する広場と四つの建築は現在に残され、町の名もコルシニャーノからピウスにちなみピエンツァと改名された。ピエンツァはワインの町。周辺はなだらかな丘陵地帯、丘の上から眺めると美しいトスカーナの自然はまるで大河のうねりのような景観となって迫ってくる。ここはまさにアルカディア、ウェルギリウスのゲオルギガ(農耕詩)のような世界。


  (fig36)

丘を東西に貫く、大きな円弧を描くような街路、その街路の中央の南側の一角に広場が作られた。正面に司教座教会、左手東側が司教の宮殿、右手がパラッツォ・ピコリーニ、教皇の宮殿だ。特徴的なのは、広場が台形の形で作られていること。

街路から眺めると奥の教会側が広くなり、東西ともに正面の教会と宮殿の間からは遠くアミアータ山が望まれる。手前に狭く、後方に広い広場の形態は後のミケランジェロのカンピドリオの広場と同様、正面の建物を舞台背景のように見せる効果がある。

透視画法の逆視覚利用により司教座教会をより近くに、より大きく見せることを意図しているのだが、ピウスの広場の台形化の目論見は、教会より背後の自然風景にあったと言ってよい。

中世以来、都市の広場は天井のない宮殿のようなものなのだ。都市に作られた内部空間。 従って、自然空間の入る余地なく計画されるのが一般的だ。

しかし、教皇にとっての関心は、ここではむしろ背後の山々、日本的借景の手法を使って自然空間を広場の中に取り込もうとしている。現代では許され、賛美される目論見であろうが、結果からみると当時は、この後方を開いた広場づくりは、本来の都市広場の持つ意味を知らない人の計画とみなされた。

それは、ミケランジェロを先取った逆透視画法利用というより、広場の公共性を無視し、私的関心である眺望、自然を眺めることを重視した広場づくりと目されたからだ。

「都市」と「建築」は本来、自然(=カオス)から飛翔した人間の為の特別な空間を意味する。つまり、自然とは訣別した存在。ウルビーノの理想都市図に見るように「建築」に囲まれた都市広場に樹木を植える(自然を持ち込む)ことなど、アルベルティの時代ではあり得ないことだった。


(反ルネサンス的な司教座教会)

知ってか知らずか、自然との関係を重視するピウス二世の目論見は司教座教会の中にも明確に示される。もともとこの教会はロマネスク時代のサンタ・マリア教会。小さな広場を持ち、街路に沿った東西方向に建てられていたが、より大きい広場を確保する必要もあり、新しい教会は南北を軸とし南側の崖ぎりぎりまで、なるべく奥まって建て替えられた。

宗教的理由で決められた伝統的な東西軸をあえて南北軸に変えてまで確保したいものは何か。それは彼の回想緑に書かれていることなのだが、教会のアプスからの山々の眺望と輝く太陽の光にあった。

現代の建築の施主に似て、ピウスのこだわりは徹底している。しかし、それは当時のアルプスの北、フランス・ゴシックにある考え方で、イタリアとは真逆な建築と言える。つまり、ピウスの司教座教会はルネサンス期イタリアの教会の考え方とは鋭く対立するものだった。

 (fig37)

アルベルティは「建築論」に以下のように書いている。「神殿においては窓の開口は控えめに、高い位置になければならない。窓の外は何も見えず、宗教儀式をとり行う人や祈る人たちが、神聖なものから気を逸らさないためである。畏敬の念は陰に刺激され、その気持ちは心中に尊厳の気を高め、また多くの場合暗黒は崇高さを増す。さらに加えて、神殿の中に必要とされる灯は、それ以上に宗教的教化や装飾を神聖にするものはないのであるが、光が多すぎては灯の力を失う。」(建築論第七書第十二章:中央公論美術出版)

一見、人文主義者が好む古代風のファサードを持つこの司教座教会だが、基本原理に対する真の認識と理解を持つ当時の人々にとっては、その外観のペディメントやアーチ、あるいは円柱も彫像のための半円形のニッチも全て単なる装飾にすぎないデザインとなっている。

アルベルティの合理に違反し、ピウスの個人的な趣味、その経験主義的な建築は本来の構築的使用方法をわきまえず、単に古代モチーフで装飾した外観はもちろん、意味内容を無くした内観を持つものとして、当時の識者には鋭く批判されてしまった。


( 都市に帰すもののない宮殿デザイン)

人文主義者とは言え、ピウスは決して建築的人間ではない。建築家が追い求めた基本原理と鋭く対立してまで、施主であるピウスが徹底して追い求めたもの、それはどこまでも自然や眺望そして居心地の良い光。

古典的モチーフを装飾としてしか使用しない現在では、ピウスの趣味は簡単に容認され、かつ賛美されるかもしれない。しかし、ピウスの建築はピウスの持つ私的な喜びに過ぎず、集団的意味や公共的相貌には適しないと批判されている。

公共的相貌という視点では広場の右手、ピッコロリーニ宮殿はどう読みとるべきであろうか。都市の基本的構成要素であるパラッツォの外観は広場や都市のデザインに帰すべきものであり、私的な領域のデザインははすべて中庭内で処理するというのが当時の原則。

さらにその外観は三層の積み重ねで構成し、階を切り分ける力強いコーニス(柱上帯の一部)の水平線が都市にパースペクティブを与えると同時に、建築を壮大に見せかつ、都市と建築を一体的に連結しなければならないと考えられている。

その観点から見る限り、この小さすぎる広場に作られたこの三層のパラッツォはなんとも不適格。フィレンツェのアルベルティのパラッツォ・ルーチェライを酷似させたが故に、かえってその特徴ある外観は意味を失い、公共的役割はおろか、古典の理想とも程遠い、単なる私的遊興物となってしまった。


( 湾曲した道路を持つコルシニャーノの丘)

アルベルティは書く。「都市は領地の中央に位置すべきである。そこから自領境界まで見通し、攻撃される弱点を判断し、必要に応じ、機を失することなく便宜の措置をとる必要がある。またそこから農業管理人と農夫とは度々仕事に出てゆき、耕地からは車に満載した重い果実や収穫を持ち帰ることが出来る。・・・・また山上を占めてに都市を置くとき、創設者たちはおそらく、そこが他より防御しやすいと判断したと思う。しかし、水に困る。平地では河と水の便では勝るであろう。しかし同様に、空気は重苦しいことが予想され、夏は蒸されるようであり、冬は厳しく凍りつき、さらに殺到する敵に対して堅固さでは劣る。海岸は・・・・。君がどこに都市を置こうと、その利点のすべてを確保し、欠点をなくすように企画せねばならない。そして山では平坦な部分を、平地では丘の部分を獲得して、そこに都市を設けたい。」( 建築論第四書第二章:中央公論美術出版)

先に触れた「建築論」のなかの湾曲した道路もこのコルシニャーノの丘を貫いている。アルベルティの理想都市は全てこのピエンツァにあてはまるのだ。彼の論調はいくぶん仰々しいかもしれないが、中世的ものすべて退けているわけでない、と同時に理想論だけから都市を見ているわけでもない。

一方、ピエンツァもまた、いささか健全とは言い難い広場と建築群が建設されたとは言え、そこは決して従来の絵画的・有機的な中世の趣が失われた訳ではもなければ、ルネサンス的趣きも醸成している。従って、ここもまた「建築論」という台本に基づく一つの作品、上演された「オペラ」と言って良いのかもしれない。

この都市の建設はピウスの死により未完のまま終結する。そして、現在は再び以前の寂れるままの町に戻っている。しかし、結果的には、そこは以前と同様今日に至るまで、農民たちの拠り所であり集散地、決して理念的な「都市」として完成してはいない。

むしろ、それが為であろう、数世紀にわたる時代の変革にさらされても、中世的牧歌を保ち「ピウスの理想都市」は今日まで保持され続けた。惜しむらくは建築家ベルナルド・ロッセリーノ。彼はピウスの死により職を失うばかりか、この町のパトロンとなったシエナの人々からは多大な費用を使ったということで非難され、ピウスの後を追うように同年、失意の内に世を去っている。



(ローマの再生)

古代ローマ帝国の首都であり、中世キリスト教社会の聖地であったローマはいつの時代も世界の中心、猶に二千年を誇る大都市だ。しかし、古代ローマから後、教皇庁がその絶対的権力を誇り、世界に君臨することが出来たのは十四世紀始めまで。フランス国王への配慮から、教皇に選ばれながらもローマ行きを果たすことが出来ず、クレメンス五世は南フランスのアヴィニョンに留められる。その後のローマは衰退と疲弊を重ねることになった。

廃墟のような都市となってしまったローマが現代に見る姿を取りだし始めるのは十六世紀。宗教改革への気風が高まる中、ローマに戻った教皇庁はその権威の再興と都市の再建に取り組んだ。

最も初期にローマ再建を計画したのは前節で触れた十五世紀半ばの法王ニコラウス五世。彼は建築家アルベルティの力を借り、教会を中心とした理想都市ローマの建設に着手した。そしてその後の歴代の教皇もニコラウスに続きカトリックの権威の復活に力を注ぐ。

しかし、この時代のローマはまだかってのように君主を生み出す役割からは程遠い段階。教皇庁ローマと言えども他のイタリア半島の小国同様、その権威と領土は列強の巧妙な外交政策に翻弄され、波間の木の葉のような浮沈を重ねる状況にあった。

十六世紀に入り教皇庁の権威の浮沈は相変わらずだが、都市ローマは着々と整備され、その偉容は刻々と姿を見せ始めた。カトリック・ローマを勇気づけ、活気づけ続けたのは「音楽と建築」なのです。

新しい世界の到来やローマ・の復活を内外に示す重要な役割はいつの時代も建築が果たしてきた。建築は制度や行政という観念的な作業以上に、物理的実体を持って新しい世界の権威や秩序を示すことが出来たからだ。


(聖ペテロ神殿の再建)

聖ペテロの殉教の地に建てられたカトリック・ローマのシンボル、旧サン・ピエトロ大聖堂がコンスタンチヌス帝の建設からすでに千二百年を経過していた。十六世紀初め、ユリウス二世は新教皇に選ばれるや、老朽化した大聖堂の建て直すことを決意する。サン・ピエトロの建設こそ、カトリック・ローマの再生を具体的に示し、さらにまた反宗教改革の意識と意欲を内外に示す、最も有効な手段だったからだ。

ユリウス二世はニコラウス五世にはなし得ぬことだったが、巧みに世俗と手を結び着々と資金を集めるばかりでなく、建築家の能力を見抜く能力を併せ持っていた。ブラマンテ、ラファエッロ、ミケランジェロという、ルネサンスが誇る最も重要な建築家たちがサン・ピエトロの再建の為に集められてくる。


  (fig38)


(ブラマンテの計画案)

新しいサン・ピエトロ大聖堂の構想のポイントは「聖ペテロの神殿」の再生、古代にならった建築の方法に従って「壮大な神殿」をいかに作るかがテーマだ。従来のバシリカ式(矩形の大ホール)の教会ではなく、「神殿」を強調することは周辺の列強、ドイツ・フランスが標榜するゴシック社会とは一線を画すためにも、表現しなければならない重要なデザイン・コンセプトとなっている。

宗教上の改革を必要とするのは旧態化したゴシック・キリスト教であって、ラテンという古代社会に起源を持つカトリック・ローマではない。「聖ペテロの神殿」 の再生は、ルターの改革とは異なる、真の宗教改革を示すことなのだ、と建築家ブラマンテは考えた。

では具体的にサン・ピエトロ大聖堂を「壮大な神殿」として、どうデザインするのか。それはまさにその後の歴代の教皇庁建築家の思案のしどころであり、カトリック・ローマの再生と真の宗教改革を示すためにも、誰もが理解する明確ななデザインが求められている。

神殿を強調する建築デザインとはマルテリウムと呼ばれる殉教者の記念堂を形作ることにある。具体的には、平面形はバシリカ式の長方形のラテン十字ではなく、純粋なギリシャ十字。この十字が生み出す正方形の立体の上に半円球のドームが載る形態でなければならない。この考え方をまずブラマンテは忠実に表現した。

図面は羊皮紙に描かれたもので、かってのウフィッツ宮殿、現在のフィレンツェ絵画美術館に残されている。その平面は小さなギリシャ十字の重ね合わせ。空間はすべて純粋な幾何学形態で積み上げられ、その一つ一つは接点部分で前後左右自由に繋がれ、その全体は中央の壮大なドーム空間に導かれる。

 (fig39)


(ラファエロの計画案)

ブラマンテの計画を引き継いだラファエロは正方形の一端を延長したラテン十字の平面形で設計する。理想的な形態と具体的な空間利用とのジレンマ。ミサ典礼を考慮すると、旧来のバシリカのデザインに立ち戻らざるを得なかったのだ。

バシリカとは古代ローマにあった矩形大ホールのこと。もともとは裁判や会議あるいは市場など、沢山の市民が一堂に会する集会所として利用されていた建築を言う。ミサ典礼もまた集会であるが故に、初期キリスト教時代から、矩形のホールの一端に劇場の舞台のような祭壇を設え礼拝用建築として利用した、これをバシリカ式教会と呼んでいる。

 (fig40)

矩形の大ホールであるバシリカは水平軸を持つが、記念聖堂や洗礼の場は垂直軸が強調されている。同じように堂内を天上から神の世界そして人間界と垂直に階層化して表現した初期キリスト教時代のビザンチン教会も垂直軸を持つ。これらの建築形態は正多角形の組み合わせ平面に大きなドーム載せる形で作られ集中式と呼ばれた。

現在に見るキリスト教教会の大半は、このドームを持った集中式と礼拝の為のバシリカ、つまり二つの形態各々が持つ水平軸と垂直軸が重ね合わされた形で作られていると考えればよい。

ラファエロがブラマンテのラテン十字を捨て、バシリカに立ち戻らざるを得なかったのは、サン・ピエトロの堂内はまた儀式礼拝の場であり、多くの会衆が一同に会する空間でもあったからだ。

完全な二軸対象性が損なわれたが、長大な行列を組織し、多くの人を収容するためにはどうしても採用しなければならないデザインの変更。しかし、ラファエロの図面を良く見みると、彼は古代ローマの壮大な半円筒ドームをブラマンテの空間に浸透させることで、サン・ピエトロ大聖堂の起源が古代社会に生きた殉教者のための神殿であることを巧みに強調している。それは彼の絵画「アテネの学堂」の世界、そのイメージをこの大聖堂で建築化していると言って良いのだ。


(ミケランジェロの計画案)

現在のサン・ピエトロ大聖堂の最終案はミケランジェロの計画。ローマに呼び出され、ユリウス二世に託された彼の仕事はシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画の制作。ブラマンテやラファエロが進めているサン・ピエトロ大聖堂の計画は当時のローマ最大の関心事、ミケランジェロとて当然、気にはなっていただろうが、しかし、彼にその任が与えられることも、また彼がそれに関わる為の時間もなかった。

ユリウス二世が他界しブラマンテ、ラファエロが没した後、計画はメディチ家のレオ十世によってアントニオ・サンガロに任された。しかし、その時すでにカルロス五世のドイツとの関係は著しく悪く、資金も集まらないまま計画は遅々として進まない。そして、1527年、かのサッコ・デ・ローマ(劫略)が起こるべくして起こった。大聖堂の建設はおろかローマはわずか三日間で壊滅する。

ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂の建設に乗り出すのは1546年、晩年も晩年七十二歳の時のことだ。彼はカンピドリオの広場の建設をパウロス三世から任されローマに滞在していたが、前任の教皇庁主任建築家サンガロが亡くなると、いよいよサン・ピエトロ大聖堂の建設に携わる。ミケランジェロはブラマンテの案を乱雑でなく、明快で、単純で、輝かしいものとして高く評価する。一方、サンガロの案を「まるで牛の放牧地だ」と非難し、彼はブラマンテに立ち戻り集中式平面で設計する。


 (fig41)

すでに完成した柱の一部を取り壊すことまでした彼の最大の成果は、遅れていた工事を迅速に捗らせたことにあった。ミケランジェロはブラマンテの素案では構造的に実現不可能なドームを可能な形で具体的に示している。さらに、それに基づいた規模の設定と支柱の工事を行い、彼自身が没するまでには、そのドームの建設の直前のところまで工事を進行させた。

大ドームを実現するために、全体の面積を小さくし、ドームを支える柱をとてつもなく大きくした結果、ブラマンテの意図した、小さな自立した空間が次々と連なり、大空間に集結するというイメージは完全に消えしまう。従って、図面で比べれてみれば、空隙部分より柱となる支持部分(図では黒の部分)のほうが圧倒的に多くなったかのような内部空間。しかし、大聖堂は老年のミケランジェロの理屈よりも実践の力によって見事、実現された。

注目しなければならないのはドームの形態だ。ブラマンテは当然、聖堂であるが故、内外とも正半球によって計画した。失敗の許されない大聖堂の大ドームの建設、全体の規模まで縮小してまでのチャレンジだが、さすがのミケランジェロも正半球ドームでの実現は不可能だった。したがって、ここはブルネレスキのフィレンツェ・ドーム同様、自重に耐える紡錘形となっている。しかし、その内部天井は正確な正半球形態で見事完成させたことは見逃してはならない。主任建築家ミケランジェロの深い坤吟がここに表れているのだから。


 (fig42)


(ユリウス二世のシスティーナ礼拝堂 )

大聖堂の建設はローマの復興を内外に示す格好の舞台ではあるが、その姿が実際に都市を凌駕するようになるのは十七世紀を迎えてからのことだった。それはオペラの誕生に似て、まさに十六世紀という丸々の一世紀が生まれ出る為の準備の時間、大半は設計と大建築構築の為の基礎工事に費やされている。

一方、アルプスの北の人々の間に広がりつつあるカトリック・ローマ批判に対抗するためには、十六世紀の始め、ユリウス二世は敬虔なカトリック信仰の持つ真の意味を、早急に世界中の人々に説明する必要があった。大聖堂の完成を待つまでもなく、至急にカトリック・ローマのメッセージを示すもの、それがミケランジェロやラファエロの壁画・天井画なのだ。


 (fig43)

システィーナ礼拝堂が全世界に示さなければならないメッセージとは、それは「最後の審判図」や「天地創造図」という旧約聖書に記される「神と人間との契約の物語」、カトリック・ローマは初源に立ち戻り、神と人間との関係を具体的に示すことにあった。

システィーナ礼拝堂は先の教皇シストゥス四世によって造営されている。長さ41m、幅13m、旧約聖書に記されたソロモンの寺院と全く同規模、同型のプランによって作られていたパラフィナ礼拝堂を、この教皇は改築整備し、自分自身の名シクストゥスを冠し、1483年に最初の礼拝を行った。

シクストゥス四世はニコラウス五世やピウス二世に続く人文主義教皇として知られている。彼はトルコへの対策や教皇領の安定、無法な貴族の横行に対し精力的に関わると同時に、文学や芸術のパトロンとしての役割もニコラウス五世にならい充分に発揮した。

ニコラウス五世が創設したバチカン図書館を一般の学者に解放したのもこの教皇、彼の最大の業績はカッペラ・グランデと呼ばれた聖歌隊に二十五名もの歌手を雇い、教皇の聖歌隊、カッペラ・システィーナ(システィーナ礼拝堂聖歌隊)を組織し直したことにある。

シクストゥス四世はユリウス二世にとっては叔父に当たる人。甥であるユリウスはこの教皇によって枢機卿に抜擢され、やがて自分自身も教皇となる道が開かれた。従って、叔父の創設したこの礼拝堂こそユリウス二世にとって、全ての要となっている。

その内部装飾を仕上げることはシクストゥスを継承する彼自身の存在の証でもある。さらにまた、彼は十三世紀以来のローマ法王選挙秘密会議であるコンクラーベをここで実施するばかりか、教皇自身の為の公式の礼拝の場所をこの礼拝堂に位置付けた。つまり、システィーナ礼拝堂はユリウス二世の礼拝堂であり、教皇庁で最も重要な建築となった。


(カッペラ・ジューリア)

ユリウス二世は叔父にならい音楽にも貢献している。1513年に創設されたカッペラ・ジューリア(ユリウス)は大聖堂の聖歌隊。ユリウスは教皇の私的聖歌隊であるシスティーナ礼拝堂聖歌隊に対し、もう一つの大聖堂聖歌隊を組織した。このことから音楽家の立場は、教皇や君主という個人に雇われる仕事ではなく、大聖堂という公的な場に職を得るものとなる。

後に、この公的な聖歌隊がモデルとなり、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーナ教会やサンタ・マリア・マジョ-レ教会にもカッペラが創設され、数多くの音楽家たちの活躍が公的にも社会的にも多くの人々、国々に知られることとなるのだ。音楽家の社会的立場作りにも貢献したユリウス二世だが、時はまさにフランドルに代わりイタリアの音楽家が盛んに力を発揮した時期だった。十六世紀初めのこの教皇は、武器を持つことが好きで、戦う教皇と見なされているが、音楽と建築をこよなく愛した人としても記憶されている。


(対抗宗教改革のために活躍する各教会の聖歌隊)

ルターやカルヴィンの宗教改革に対抗しなければならなかった十六世紀、カトリック・ローマが最も必要としたものは音楽だ。

プロテスタントは豪華な建築や美術ではなく、聖書の言葉によって民衆の支持を得ていく新しいキリスト教。そのプロテスタントに対抗する為には、カトリックもまた建築や美術で理念を表現するよりも、具体的・直感的にわかりやすく神の世界を示してくれる音楽を必要とした。

サン・ピエトロ大聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの礼拝堂、イエズス会のオラトリオ、十六世紀ローマの教会は何処もミサ典例や宗教儀式の為に聖歌隊は大活躍だつた。


(ローマのパレストリーナ)

生まれ故郷パレストリーナの教会の聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した最大の音楽家がジョヴァンニ・ピエル・ルイジ・ダ・パレストリーナだ。 彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、建設に呼応するかのようにカトリック・ローマ全体を新しい音楽的世界に変えていった。

パレストリーナの時代は教会における聖なる音楽だけでなく、宮廷における世俗の音楽も発達した時代だ。その音楽が世紀末にオペラを生み出すことになるのだが、パレストリーナは世俗の音楽には関わることが少なかった、いや、関われなかった音楽家。

三人の子供との家庭生活を大事にした彼は教皇庁だけでなく諸都市の貴族、宮廷からの招請も少なくはなかったが、彼はローマとその周辺で生涯を送り、教会の音楽を作り続ける。この時代、音楽だけで家族とともに生活することは大変なのだ。


 (fig44)

しかし、面白いことに、宮廷の音楽を作ることがほとんど無い彼だが、宮廷が生み出したオペラの題材にされた唯一の音楽家でもある。1917年、ミュンヘンのプレンツレゲンテン劇場、ハンス・プフィッツナー作曲のオペラ「パレストリーナ」、ブルーノ・ワルターの指揮で初演された。ルターの宗教改革への対抗から開かれたトレント公会議では世俗に傾きすぎた音楽に対し数々の苦情が寄せられていた。苦情は世俗の定旋律に基ずくシャンソン風のミサ曲や言葉の理解を不可能にする複雑なポリフォニーに対して。あるいは教会における楽器使用や不作法な歌手たちの振る舞いに対してのこと。

そして多声音楽を廃止し、昔のグレゴリオ聖歌のみで典礼を行うという案が体勢を占めつつあったのだ。その時、パレストリーナのミサ曲が会議の席上で演奏され、そのすばらしさに感動した人々は、従来通りポリフォニーを典礼の音楽として認めたという伝説がオペラ化された。

十六世紀半ばの二十年という長きにわたったトレント公会議、そこでは教会からの悪弊を追放し、カトリック信仰の原点に立ち戻ることが確認されたが、その席上、卑俗で不純な音楽の排除が決議され、当時、フランスやフランドルで流行していた複雑なポリフォニーに対する批判が強まっていた。

しかし、パレストリーナの音楽はフランドルのポリフォニーを基礎としながら、各声部には独立性を与え、異なったリズムと歌詞を与えるもの。このことによりポリフォニーであってもホモフォニーに近く、その宗教音楽が、決して不敬虔でも、歌詞の意味が不明となる音楽でもなく、厳粛さと透明性を保持しているものであることが理解され批判は弱まった。

真偽のほどは不明だが、伝説上のミサ曲は「教皇マルチェルスのミサ曲」。そして、パレストリーナは教会音楽の救い主として長く伝えられる。

様式の持つ正当性を自らの演奏で守り抜いた伝説を持つパレストリーナは、バッハ、ヘンデル以前のもっとも人気のある作曲家であり、後期ルネサンスの最大の宗教音楽家と言って良い。

サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会、サンタ・マリア・マジョーレ教会というサン・ピエトロに並ぶローマ最大の教会の楽長を歴任したパレストリーナは、皇帝マクシミーリアンニ世やマントヴァのゴンザーガ公からの誘いにも一切応じることなく、生涯、ローマの宗教音楽家としての生を全うする。

百に及ぶミサ曲や四百を数えるモテットと並び、わずかではあるが世俗の作品も作曲されている。当時全盛の世俗の音楽、マドリガーレにも幾多の名曲を残している彼だが、後に、恋愛詩に作曲したマドリガーレを恥じ、悔やんでいると告白している。しかし、その告白は本意ではなく、彼と家族が安心してローマで生活していく上での方便だと、後世の研究者は指摘した。

そんな方便を必要とするパレストリーナのローマは、十七世紀を迎えても、祈祷所における音楽劇はともかくとして、オペラはほとんど根付くことはなかった。1594年、パレストリーナが亡くなると、その後の二十年、教皇たちの音楽に対する関心は急激に薄れてしまう。

1610年「聖母マリアの挽課」を教皇パウロ五世に献呈すべくモンティヴェルディがローマにやってくる話は有名だが、彼は一切のポストも支持も得ることもなく、ローマを引き上げヴェネチアに向かった。結果、モンティヴェルディは初期オペラには欠かせぬ作曲家としてヴェネツィアで活躍するのだが。


(ア・カペラ)

故郷の音楽家と同名のパレストリーナの町の司教がローマ教皇に選出されたことから、若くしてシスティーナ礼拝堂の聖歌隊員に抜擢されたパレストリーナだが、教皇亡き後は当然解雇され不遇の身となる。しかし、四十代後半、彼は実力でカッペラ・ジュリアの楽長の座を勝ち取り、教皇庁に復帰する。

パレストリーナの活躍によって、ジュリアやシスティーナの礼拝堂がローマ音楽の中心となっていく頃、ア・カペラが育つ。ア・カペラとは「楽器などの演奏が無く、無伴奏」という意味で使われる音楽用語、本来は「礼拝堂風に」と訳される。


 (fig45)

ア・カペラのカペラは礼拝堂、システィーナ礼拝堂を意味しているのだ。この礼拝堂で演奏される曲は全て無伴奏で演奏されるのが習慣だった、記録によればオルガン伴奏さえなかった。仮に外では楽器伴奏付きの曲であったとしても、ここでは一切の楽器伴奏は許されない。従って、ア・カペラは礼拝堂風に、つまり楽器伴奏なしの歌曲ということになった。

この礼拝堂の秘曲と言われるミゼレーレを、十四歳のモーツアルトが聴いた逸話は有名。ミゼレーレは十七世紀の作曲家グレゴリオ・アレグリの作曲。モーツアルトはこの曲を一度聴いただけで宿に帰り、全てを間違いなく楽譜に書き移したという神童逸話がある。

パレストリーナが活躍し、モーツアルトが秘曲を聴いたシスティーナ礼拝堂。しかし、現在ではバチカン美術館の中心と位置つけられ、音楽の為の空間というよりミケランジェロの美術館として有名となっている。毎日、ミケランジェロを一目見ようと、沢山の人々が押し寄せる現在の礼拝堂だが、ここは様々な音楽と音楽家が活躍し、対抗宗教改革の中心となった場所、カトリック・ローマの浮沈を担う場所でもあったことを忘れてはいけない。


(カストラート)

カストラートの誕生も実はこの頃のこと。カストラートとは声変わりを迎える少年時代に去勢し、青年になっても子ども時代の高音で歌える男性ソプラノ歌手のこと。

礼拝堂の中では、徐々にではあるが、より強く、より幅広い音域を持つ彼らの歌声が重要な役割を占めていく。カストラートは男性であるが故にその歌声は圧倒的に力強い、そして高音。様々な音量と音域の歌手の歌声が合唱され、音楽はますますその表現領域を広めていく時代だ。

無伴奏の歌曲と女性に頼ることのない高音の歌手の誕生は、やがて始まるオペラの時代の中心的役割を担うもの。後々はカッペラで生まれたカストラートが世俗のオペラの大スターとなって行く。


(オラトリオの音楽とコレッジョ)

システィーナ礼拝堂の音楽はオラトリオ会やイエズス会の音楽とも巧みに連携していく。オラトリオとは対抗宗教改革の機運の中、より多くの人々、一般の人々が、ラテン語ではなく日常語で、気楽に神に接することが可能な場、祈祷所を意味している。

そこでの音楽は宗教的ラウダが中心。ラウダとは中世以来、イタリアの俗語によって歌われた民衆の中の宗教歌謡。一般家庭での祈りの際、あるいは巡礼、行列の際に歌われた民衆的な音楽を言う。

民衆が中心となった祈祷所(オラトリオ)に多くの人々を集めたオラトリオ会やイエズス会は十七世紀に入ると、このラウダと礼拝堂の音楽、そしてフィレンツェのモノディを組み入れて、教会の中のオペラとも言えるオラトリオを生みだした。

さらにまた、この二つの会は音楽の教育機関となるコレッジョを運営し、やがて多くのオペラ歌手を誕生させて行く、つまり、近代の音楽の多くをこの時代の礼拝堂と祈祷所が担っていたと考えて良いのではないだろうか。






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