2009年10月24日土曜日

ヴェネツィアの音楽と建築/©


(音楽のような都市)

ヴェネツィアは長期に渡って共和国であり続けた誇り高き海の貴族の都市。そこはまた中世以来、聖職者の政治的介入を拒んできた土地柄でもある。従って、この都市の建築・美術・音楽は他のイタリアの諸都市と較べ独特なものとなっている。ヴェネツィアでは聖と俗との境界線がゆるやかなのだ。東方の表玄関であったことから異色の世界とも容易に相互交流し、芸術のみならず、風習、人間観、振る舞い等は比較的自由。市民はカトリック・ローマの支配する中世的教会を恐れることなく、何事も活発に発展、展開させてきた。

ヴェネツィアの地形環境は水の上、ラグーンにある。絶えずたゆたう水とともにある教会や家々はいつも通奏低音の流れの上に載る音楽のような都市。そんなヴェネツィアだからであろう、多くの感情を音と言葉に変え、様々な芸術を生み出してきた。従って、いまでも世界中の人々がここを訪れるのは当然のことだ。長い歴史を持つヴェネツィア、その水の流れが音楽に例える通奏低音だとするならば、この都市の建築と美術は豊かな対位法を奏でる様々なメロディーとなっている。


 (fig60)


( サッコ・ディ・ローマ )

この都市が特に面白いのは十六世紀後半から十七世紀。ジョルジョーネ、ティッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等美術分野では多くの逸材が登場し、様々な建築家が活躍する。パラーディオ、サンソビーノ、サンミッケーリ、さらにローマ育ちのジュリオ・ロマーノなど、彼らはみな十六世紀イタリアを代表する建築家たちだ。

この時代、彼らの活躍がヴェネツィアばかりでなく、北イタリアで目立つのは、ローマ劫略(サッコ・ディ・ローマ)と呼ばれる大事件がきっかけとなっている。1527年5月、神聖ローマ皇帝軍の十日間に及ぶ教皇庁のあるローマに対する略奪、破壊、暴行、殺人。都市ローマの教会やパラッツォのみならず、ルネサンス美術は壊滅的な打撃を受けている。結果、ローマの貴族及び聖職者というパトロンを失った多くの画家・建築家はローマを離れ、ヴェネツィアや北イタリアの諸都市で新しい仕事を見つけていくことになる。


(ヴェネツィアの文化戦略)

フィレンツェのメディチ家の台頭は十五世紀前半。そこには名立たる画家が集まりルネサンス美術の花を咲かせたが、やがてこの都市も共和国からトスカーナ大公国へと変わって行く。イタリア半島全体は従来の中世的自治都市から新しい中央集権的な君主国家へと変貌して行く中、ヴェネツィアだけは君主国にかわることなく、中世以来の共和制を保持しつづける。

資本主義がフランドルに育つばかりか、東方との交易もトルコの台頭で難しくなり、経済的には黄昏期にあるヴェネツィア共和国が共和国としての対面を保つ為には実力者による共存共栄と多民族主義的な風潮を強めざるを得なかった。それがこの時代の政治であり都市経営。そのためには、人と人がより理解し話し合うためのコミュニケーションが最も重要。様々の立場の人々の最も有効なコミュニケーションの為には芸術の持つ力が不可欠、ヴェネツィアではその力が強く求められていたのだ。

ヴェネツィアの都市経営、それは花のフィレンツェが多くの美術と建築を生みだし、ヴィチェンツァがテアトロ・オリンピコを必要とした状況とよく似ている。求められるものは争いではなく、芸術による文化戦略だ。

黄昏のルネサンス期、ヴェネツィア共和国は画家、建築家、音楽家たちの活躍にその存続を賭けていた。文化戦略としてのヴェネツィアの特徴は体質境遇の異なる数多くの画家、建築家、音楽家により様々な作品を生み出し続けたことにある。ヴェネツィアは共和国を存続させるという目的を貫くため、現代に通低する様々な芸術の孵化装置の役割を果たしていたのだ。


(サン・マルコ寺院の音響と音環境)

十一世紀末献堂のサン・マルコ寺院はヴェネツィアの都市の中心であるばかりか、音楽文化の中心でもあった。巨大なウェディングケーキのような五つのクーポラの内部は濁りのない反響音を響かせる素晴らしい音響空間でもあったからだ。アルプスの北ではあまり見ることのないギリシャ十字の平面形を持つサン・マルコ寺院は東方の影響をまともに受けたビザンチン様式の建築だ。


 (fig61)

その特異な建築空間は祭壇に向かう両翼の袖廊の各々に、オルガンと聖歌隊を向かい合わせて置くことを可能にした。このことから、この寺院では二つの合唱隊が相呼応したり(交唱)、応答する(応答唱)極めてドラマティックな音楽(複合唱)を古くから響かせていた。

ヴェネツィア音楽にとって、この複合唱は最も重要、そして、もう一つ重要だった事柄がある。それはサン・マルコはドゥーモ(大聖堂)ではなくバシリカ(寺院)であるということ。

ヴェネツィアはローマの代理人である大司教の権限が及ばない都市なのだ。従って、サン・マルコは共和国市民全員のための教会であって、カトリック・ローマの支配にある司教座聖堂ではない。ヴェネツィア総督の個人的な礼拝堂であり市民のための教会であることから大聖堂ではなく寺院と呼ばれている。

ヴェネツィア共和国は代々聖職者がいたずらに政治に介入することを拒んできた伝統を持っている。結果、サン・マルコ寺院の音楽は聖と俗との境界線はゆるやかで、様々な音楽が容易に相互浸透しやすい環境を作ってきた。

聖と俗との境界線のゆるい音楽環境、それは当時のフィレンツェやローマでは決して生み出せるものではなかった。サン・マルコ寺院の持つ特殊な音環境と音楽環境、この二つが相合わさり、ヴェネツィアは時代を超える新しい音楽を生み出して行く。


(イタリア人の音楽家)

十六世紀イタリアは、絶対君主国化したフランスやスペイン・オーストリアそして教皇庁ローマという、いくつかの勢力の覇権の調整地として翻弄された。このような背景から来る民族主義的な風潮だろうか、サン・マルコ寺院は1568年、フランドル人音楽家を押し退け、生粋のイタリア人ツァルリーノを楽長の任につかせた。

ツァルリーノはその後のバロック音楽の基礎を築いた重要な音楽家。彼は就任早々、サン・マルコ寺院の音楽的空間特性に合わせ、二人のオルガニストと二組三十人に及ぶ聖歌隊を編成する。さらに、世俗音楽の勇であり、従来は教会に入ることの許されなかった、優れたコルネット奏者を含め、二十人の常任の楽器奏者も雇い入れ、典礼音楽の演奏形態を全く新たなものとして確立していく。

聖歌隊による合唱を器楽アンサンブルが支えていくという新しい演奏形態は、ここサン・マルコ寺院の空間特性無くして生まれ得ないもの。ミサ曲の中に器楽が参入するということは、当時ローマで流行していたア・カペラ(楽器の伴奏を伴わない合唱曲)とは異なり、壮大な音楽空間を生み出した。

それは教皇庁の権限が及ばないことから生まれる自由であり、生み出された音楽的経験なのだ。その音響空間は後のオペラの誕生を導くイタリア人好みのものでもあり、ヴェネツィアはヴェネツィアの音楽、いやその後のイタリア音楽そのものを発見する。


(ホモフォニーとダイナミックなソナタ)

フランドルやフランスの人たちが好む複雑なポリフォニーとは異なり、朗々とした和声の響きを持つホモフォニー。それはオペラを生み出す為には不可欠な音響空間。イタリア人音楽家ツェルリアーノを楽長に迎えた後、サン・マルコ寺院の音楽はその音楽的空間特性とイタリア人好みの音響特性を生かし大きく発展する。

楽長ツァルリーノを支えたのはアンドレア・ガブリエリとその甥のジョバンニ・ガブリエリ。この二人もまたイタリア人。各々第一、第二のオルガニストとして器楽楽長の役割を担当。

第一オルガニストであるアンドレアは、テアトロ・オリンピコの柿落としの演目「オイディプス」の作曲者でもある。彼はサン・マルコ寺院での十六声部からなる壮大なミサ曲を天正の遣欧使節の訪問を祝う典礼のために作曲した。

さらに、ジョバンニにいたってはもっと重要な活躍、「強と弱のソナタ」という楽曲を作曲した。この作品は楽器による複合唱。現在にいたる、当時の最もダイナミックな音楽だ。

サン・マルコ寺院では古くから歌われていた人の声による複合唱、その方法を器楽に応用することで、新たに生み出された初めての壮大な器楽曲となった。題名が示す通り楽譜には強弱の指示が書き込まれ、従来の宗教音楽にはなかった音楽全体にダイナミックな動きがも持ち込まれる。

サン・マルコ寺院の内部のそこここに配置された金管楽器の響きは、やがて新しい器楽合奏の形態となって確立され、ついには寺院全体に響きわたる音楽は教会における典礼の役割から独立し、近代音楽の基礎となるバロックへの道を歩んで行く。


(パラーディオとモンテヴェルディ)

ヴェネツィアの経験で多くの人が語る思い出はサン・マルコから見た夕景にある。グランド・カナルを赤く染め、対岸に建つ美しい教会のシルエットとともに消えて行く一日、それはイタリアの旅の忘れえぬ光景の一つ。ヴェネツィアの印象、サン・マルコの対岸に建つサン・ジョルジョ・マジョーレの音楽と建築に触れてみたい。



 (fig62)

建築家パラーディオと音楽家モンテヴェルディ、時代は些か異なるが二人は面白い、いや後世の音楽と建築にとって貴重な照応を示している。その照応はこのサン・ジョルジョ・マジョーレにおける「音楽と建築」の有り様を二つの面から説明しているのだ。

モンテヴェルディは十六世紀後半、マントヴァ公ヴィンチェンツォの宮廷ヴィオール奏者になった。ヴィチェンツァのパラーディオが没して十年あとのこと。近代劇場の原点となったテアトロ・オリンピコの建築家とヴェネツィアを沸かした初期オペラの音楽家、粉屋の息子と医者の息子である各々は共に生まれながらの道とは全く異なる世界でその才能を開花させていく。

二十三才でヴィオール奏者となったクレモナ出身の医者の息子はマントヴァの宮廷で沢山のマドリガーレ(多声の世俗歌曲)を作曲する。パドヴァの粉屋の息子も二十三才で石工の親方となり、やがてヴィチェンツァの人文学者のもとで建築家として成長し、ヴィッラとパラッツォを数多く作っていく。

後のヨーロッパ社会に貢献することとなる「音楽と建築」はともに世俗に生まれた庶民の息子たちによる世俗の作品であったことがまず第一の照応と言っておこう。

 (fig63)


(世俗に生きる音楽家と建築家)

オペラ・オルフェオの成功で名をあげたモンテヴェルディだが、彼はマントヴァ宮廷楽長の職に不満と不安を持っていた。浪費家の侯爵ヴィンチェンツォはモンテヴェルディの業績に見合う給料を支払う意志も能力もなかったからだ。ヴィオール奏者から頭角を現したモンテヴェルディはマントヴァで宮廷の為の音楽を作ることがあっても、教会音楽を作るチャンスはほとんどなかった。

そんな彼が1610年に「聖母マリアの晩課」を作曲する。複雑多彩、壮大なミサ曲であると同時に、情感豊かで官能的な独唱曲も持つこの曲はバッハのロ短調とともに宗教音楽の傑作と見なされている。しかし、この曲は浪費家ヴィンチェンツォの宮廷を離れ、サン・ピエトロ大聖堂あるいはミラノ大聖堂の楽長就任を目論んだモンテヴェルディの就職活動の為のものだった。音楽家モンテヴェルディが安心して家族と共に生きる為にはパレストリーナ同様、聖職を得なければならなかったのだ。

「聖母マリアの晩課」の作曲はマントヴァのサンタ・バーバラ礼拝堂でなされ、初演はアルベルティの名作サンタンドレア教会。この事実だけでも建築を知る人にとっては興味津々のミサ曲。しかし、パレストリーナ亡き後の教皇庁は音楽的関心が乏しく、モンテヴェルディは演奏どころか面会すら許されず追い返された。それから三年後、ようやっとヴェネツィアで念願適い、聖職の座を手に入れたモンテヴェルディはその就任の日、この曲を朗々とサン・マルコ寺院の大空間に響かせた。


(サン・ジョルジョ・マッジョーレと聖母マリアの晩課)

そしてここからが音楽家と建築家の二つ目の照応。モンテヴェルディがミサ曲「聖母マリアの晩課」を作曲した年はパラーディオの最大の仕事であるサン・ジョルジョ・マジョーレ修道院教会堂の工事がようやっと完成しつつある頃だった。サン・マルコの対岸に建つこの修道院とパラーディオとの関わりはモンテヴェルディがサン・マルコ寺院聖歌隊楽長に就任する五十年も前だ。

パラーディオは五十一歳になって初めてこの修道院の食堂を設計する。建築家になってもほとんど教会建築に関わることのなかったパラーディオ、彼は食堂の設計の成果からようやっと修道院教会堂の計画案の競作に参加することが許される。自立した生活を維持する為には建築家もまた同じ、 教会堂の建築家にならなければならない。余談だが、モーツアルトのお祖父さんもまた教会堂の建築家となり、一家を支えることができた。

今あるサン・ジョルジョ・マジョーレは1567年からパラーディオ制作の模型に基づき工事が始められたもの。すでにパラーディオは亡くなっていたが、モンテヴェルディの就任と時同じくして完成しつつあったのだ。そして面白いことに、教会の設計のチャンスがほとんどなかった建築家にとってのもっとも記念すべき教会堂は、教会音楽を作ることがほとんどなかったモンテヴェルディの楽長就任のための審査会場となった。


 (fig64)

白光に覆われ陰影に富む完成したばかりの教会堂の中に降り注ぐ陽光と壮麗なモンテヴェルディの「聖母マリアの晩課」の合唱との協和。それはパラーディオには思い及ばぬことであると同時に、現在の私たちでさえ今や体験することは難しい。ただただ想像するばかりの世界だ。


(異教の二つの神殿を重ね合わせた教会建築)

この教会堂が世俗の建築家の作品であり、その教会堂での音楽が世俗の音楽家の作品ということだけが二つ目の照応ではない。その「音楽と建築」はどちらの構成にもよく似た、際だった特徴を持っている。その構成とは「重ね合わせ」と言う手法、二人の「音楽と建築」はどちらも「重ね合わせ」によって生み出された作品と言える。

言葉だけではうまく説明出来ないが、まずは、サン・ジュルジョ・マジョーレのファサードは二つの古代神殿を一つに「重ね合わせ」た構成となっているということを確認していただきたい。それも、キリスト教にとっては異教であるはずの古代神殿のファサードが二つ重なりあい、教会堂の正面が形づくられている。


 (fig65)

背の高い身廊とそれを支える低い側廊を持つ教会建築では、その高さの異なる形態を一つの建築としてどう纏めるかが建築家の手腕の発揮どころ。パラーディオはその正面を二つの神殿の「重ね合わせ」で解決している。さらに重要なことは教会の内部空間もまた「重ね合わせ」となっていること。

ファサードだけではなく、「重ね合わせ」が内部空間にも及び、身廊と側廊という二つの部分を意識的に区分けしてデザインされた教会の例はこの教会以外ほとんどない。パラーディオ独自の方法と言っても良いだろう。ここもまた写真を見るしか方法はないのだが、サン・ジュルジョ・マジョーレの身廊の柱脚はファサードの注脚がそのまま内部空間でも使われ、身廊では背の高い柱脚が目立つばかりのデザインだ。

内部空間では身廊・側廊全ての柱は同じ高さの脚台の上に載るのが一般的。しかし、ここでは身廊と側廊の注脚がその高さを変えることで、外観のファサード同様、内部空間もまた、二つの建築の「重ね合わせ」、つまり、空間と空間が「重ね合わせ」られ作られている。パラーディオは神殿の円柱を教会の正面を飾る単なる記号として用いたのではなく、古代神殿という建築空間そのものを二つ嵌め込むように「重ね合わせ」ることで、内部空間もまた二つの神殿であることを明確に意識づけ、デザインしている。


(聖なる世界と世俗の官能的ラブソングを重ね合わたミサ曲)

モンテヴェルディもまた、「聖母マリアの晩課」を「重ね合わせ」の手法で作っている。現代のイギリスの音楽家エリオット・ガーディナーが指揮したこの曲のDVDの解説には以下のようなことが書かれていた。

「聖母マリアの晩課は最初の五曲と最後の二曲は聖母に捧げられた聖歌であり、その他はソロの歌曲を含んだ小曲によって構成されている。その全体は荘重な宗教的大曲。しかし魅惑的官能的なラブソング集でもある。特に独唱モテット「私は色が黒くても」は旧約の中の雅歌を典拠としてはいるが、それは世俗の官能的快楽がテーマとなり奏でられている。」ガーディナーはこのことを指し、「聖母マリアの晩課」は世俗の世界と宗教的聖なる世界とが巧みに重層化された音楽と呼んでいる。


(世俗的観劇空間となった修道院教会)

サン・ジョルジョ・マジョーレは古代の異教の二つの神殿を重層化することで、十六世紀のキリスト教教会をデザインしたが、この教会はさらにまた世俗世界と宗教的聖なる世界を巧みに重層化している。前掲書、福田晴虔氏の「パッラーディオ」を読むと、サン・ジョルジョ・マジョーレは修道士のための教会ではあるが、その空間構成からは会堂は修道士達のためというよりもむしろ、一般会衆という世俗世界の人々のための建築と言える。

 (fig66)

その解説を以下に簡約する。「この教会の内部空間は互いに独立した三つの部分の集合。バシリカ風の会堂と四柱の間のような完結性を持った祭壇(内陣)と劇場風の聖歌隊席という三つの部分。修道院教会は本来、修道士達の日々の勤行や修道会の催すミサのための施設。従って、そこは一般会衆のためと言うより修道士達が特権的に占有する場という性格を持っているはず。修道僧達の修行の場である聖歌隊席は大祭壇に最も近くそれがよく見える場が与えられ、一般会衆はその背後の、大祭壇からははるか遠くに追いやられるのが通例となる。しかし、この教会の空間構成では修道士達の場所である聖歌隊席は背後に押し留まり、中央に配された四柱の間である祭壇(内陣)が一般会衆のために開かれている。つまり、サン・ジョルジョ・マジョーレの教会は修道士が集まる聖歌隊席が舞台であり、それに対峙する会堂はまるで劇場の観客席のような構成となっている。」(パッラーディオ:鹿島出版会)

サン・ジョルジョ・マジョーレは聖なる世界と世俗の世界の音楽と建築が「重ね合わせ」により協和され、照応した世界なのだ。聖職者の一般信者に対する優越的な扱いが反省され、大祭壇が一般信者に開かれるようになるのは、実際は二十世紀の第二ヴァチカン公会議以降のことらしい。

パラーディオは四百年も前に現代の教会建築の在り方を先取っていた。そしてモンテヴェルディもまた楽想を「重ね合わせ」ることで、新しい教会音楽の形式を切り開いていた。さらに付け加えるならば、この二人に見られる「聖と世俗」の「重ね合わせ」をテーマとした「音楽と建築」の展開は、後のオペラとオペラ劇場そのものの経験を先取っている。むしろ、この建築家と音楽家によって、かっての宗教的祝祭空間の中の「音楽と建築」は世俗的観劇空間としてのオペラの世界を開いて行く。


(ヴェネツィアは都市そのものがすでにオペラ劇場)

 衰退したとはいえ地中海の交易権を保持していたヴェネツィアはイタリア半島で唯一、中世以来の共和国としての体面を保っていた。 そのヴェネツィアが王侯貴族ではなし得ない新しいオペラの道を開いていくのは歴史的必然。フィレンツェで生まれたばかりの「登場人物が歌いつつ演技する」という形式は、宴会に明け暮れたパルマやマントヴァという宮廷でこそ意味を持っていた。オペラは宮廷が生き残るための戦略装置でもあったからだ。 しかし、君主を必要としない誇り高いヴェネツィア貴族にとっては「宴会のためのオペラ」は必要とされない。当然ながら、ヴェネツィアでのオペラは、その性格を大きく換えなければならなかった。 宮廷の中の数ある余興の一つとして、やがて消えてしまったかもしれない新しい音楽の形式が、決定的に変化するのは十七世紀の三十年代後半のことだ。 ヴェネツィア貴族によって、オペラは初めてビジネスとしての道を歩み始める。オペラの新しい道はヴェネツィアの公開商業劇場の開設によって始まった。ヴェネツィアの貴族にとって、君主の館で演じられるオペラは必要ないが、オペラそのものに対する関心は決して低いものではなかった。 ゴンドラ競争や数々の祝典が展開される大運河、ここはいつの時代も大舞台のような様相を示している。運河沿いの豪華な館は着飾った人々が陣取って演技を見る桟敷席。ヴェネツィアはオペラが誕生する以前から、都市そのものが壮大なオペラ劇場であったのだ。 マントヴァ時代の大きな話題であったオペラ「オルフェオ」の作曲家モンティヴェルディがサン・マルコの聖歌隊長であったことも幸いしている。聖職を得た彼だが、その後もマントヴァ宮廷だけでなく他の宮廷からの依頼に応じ、いくつかの宮廷オペラを書いていた。 

 ( ビジネスとしてのオペラとオペラ劇場)

 1637年、ヴェネツィア貴族の一人、トローン家と計算高い市民は共同して既存のテアトロ・サン・カッシアーノを改造し、公開オペラ劇場として再建した。 最初の出し物はオペラ「アンドロメダ」。海の神ポセイドンの怒りを鎮めるため、岩に鎖で繋がれ、海の怪物のなすがままになっていたアンドロメダをペルセウスが助け出すというギリシャ神話が題材。ローマの作曲家フランチェスコ・マネッリの作曲。 音楽の内容についての記録は少ないが、機械仕掛けの舞台装置による一大スペクタクルは大きな評判となっている。この作品は舞台描写の入った台本が宣伝用に印刷され、数年続けて上演された。ヴェネツィアはまた印刷事業も巧みな都市。公演は新しいメディアにのってヨーロッパ中に広まって行く。 さらにこの数年はヴェネツィアのオペラハウスの建設期でもある。オペラ公演は画期的な新事業、42年には四つの劇場が建設され、七つの異なったオペラが上演されることとなった。 初期のヴェネツィア・オペラを支えたのはサン・マルコ寺院の歌手たちだ。後には、逆にオペラ公演のためヴェネツィアを訪れた歌手たちががサン・マルコで歌うこともあったのだが、どちらにしろ、寺院とオペラの協力関係はここヴェネツィアにおいては緊密。モンテヴェルディもそうであったが、後々の重要なオペラの作曲家たちも皆、サン・マルコ寺院聖歌隊に所属していた。 

 (ヴェネツィアの祝祭とグランドツァー)  

イタリア半島の都市がスペイン・フランス・神聖ローマ帝国の圧力で次々と君主国家化していく中、ヴェネツィアだけは中世以来の自治を守り、共和国として存続していた。共和国ヴェネツィアでの祝祭は君主のためのものではなく、どこまでも市民のもの。 季候の良い五~六月に行われるキリスト昇天祭はヴェネツィア最大の祝祭。その日、共和国は海との結婚を祝し、全員参加のフェスティバルとなる。人々は思い思いの服装と仮面をかぶり身分や貧富の区別なくサン・マルコの広場に集まった。 古代ギリシャがそうであったように、近代劇場もまた市民という観客が誕生してはじめてその存在理由を明確にする。マントヴァの宮廷楽長だったモンテヴェルディがヴェネツィア共和国に移り、次々にオペラを作曲するようになるのは宮廷劇場に変わる公共劇場、商業劇場という受け皿が存在したからだ。 十七世紀、フィレンツェの宮廷で誕生したオペラはヴェネツィアの公共劇場へと開催の場を広げ、市民オペラへと変貌していく。オペラはヴェネツィアでは市民の祝祭の出し物、市民という観客が入場料を払って観劇する劇場での演じものとなったのです。
 ヴェネツィアはまたグランドツァーの目的地でもあった。ヨーロッパ各地からやってくる、新しく台頭してきた市民、彼らは貴族や僧侶ばかりでなく事業に成功したブルジョワジーの息子たち。ヴェネツィアの公共劇場はアルプスの北からの人々にとって、ギリシャ・ローマに繋がるアルカディアであり、レモンの花咲く祝祭空間となっていたのです。 

 (市民のためのモンテヴェルディのオペラ)

 ヴェネツィアの貴族が宮廷内での娯楽を、入場料を支払って見物する大衆のためのオペラにと変貌させたことにより、グランドツアーでヴェネツィアを訪れた観客は、大喝采で新しいオペラを受け入れた。 
ビジネスとしてのオペラにとって重要なことは、ギリシャ神話などに関心のない庶民でも楽しめるものでなければならない。庶民のそしてヨーロッパ中からやって来る観光客の関心は君主好みの神話より、歴史を生きた生の人間の物語と機械仕掛けの一大スペクタクル。モンテヴェルディの「ウリッセの帰還」と「ポッペアーの戴冠」はそんなビジネスとしての要求から生まれている。 これらのオペラはオルフェオとは異なり、エピソードが錯綜し、官能的場面も登場する。ウリッセでは船の難破場面がよりリアルにスペクタクルに展開され、多くの観客を沸かせている。大きく単純で、激しい情念、そしてポッペアーに示されるような個々人の持つ心の動きに反応する音楽による多様な情感表現が必要だった。 この時代はまだ、モーツァルトのようにドラマに絡まる一連の人々を細かく書き分けることはないにしろ、モンテヴェルディは多感な人間感情をアリオーソを用い巧みに表現していく。
 1640年、ウリッセの初演の劇場は、後のオペラ劇場の原点、グリマーニ家がカルロ・フォンターナに作らせたテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・パオロという劇場。ホメロスが書く叙事詩「オデュッセウス」を題材としたこの物語。人間の儚さや、時の流れ、人間の運命、そして愛、オペラはますます現代のものに近づいて行く。全体は旋律的であり、有節形式のアリアも続く、登場人物各々の性格も音楽によって確実に書き分けられている。  
1651年にはナポリでも上演され大評判となった「ポッペーアの載冠」。このオペラもまたはテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・パオロが初演だったが、1642年から三年の間の謝肉祭シーズンにはいつも大人気となって上演されている。その光景はヒットを続ける現代のミュージカルと全く同じ。世界中の人が押し寄せる三百五十年前のブロードウェーの姿なのだ。 題材は古代の歴史家タキトゥスの年代記。フランチェスコ・ブゼネルロのリブレットはローマ皇帝ネロが自分の部将であるオットーネから彼の妻ポッペーアを奪い、正妻オッタヴィアの代わりに王女に据えるという物語。このオペラに表現されているもの、それは、哲学者セネカの厳粛な戒めと怒り、部将オットネーの悲痛だが気高い諦め、オッターヴィアの行き所のない嘆きと悲しみ、そしてネロとポッペアーの情熱的で肉体的な二重唱。
 晩年のモンテヴェルディは個々人が持つ人間的な性格と感情を全て音楽的に表現することに成功する。そこに果たされたものはドラマと音楽のバランスの取れた統一にあった。この統一はやがて、音楽的な面だけを強調するオペラの流れの中では失われて行く。しかし、エウリディーチェから始まりわずか四十年、ローマの「アレッシオ聖人伝」に引き続き、人間的な性格と感情を巧みに表現する近代オペラの原理が、ここヴェネツィアでも生み出された。  
ヴェネツィアのモンテヴェルディのオペラを引き継いだのは彼の弟子、サン・マルコの第二オルガニスト・カヴァルリ。彼のオペラはますますスペクタクル的要素が強くなる。ヴェネツィア・オペラは商業色を強め、「音楽の神」オルフェオによる文明生活の教化というその理想は「豪華で、おびただしく金のかかる娯楽番組」へと転化する。しかし、ヴェネツィアでのこの音楽劇の原理はその後グランドツァーによってアルプスの北へ持ち込まれ、ヴェネツィア様式はヨーロッパ中に広まっていくこととなる。

 
(ヴェネツィアの公共劇場とそのシステム)  

1645年、ロンドンのジョン・イーヴリンは人気になりはじめたヴェネツィアのオペラ劇場に出掛け、その印象を記録に残している。名家の次男坊として生まれた彼は、同時代の日記作者、仕立て屋の息子ピープス氏には不可能であったであろうヨーロッパ大陸のあちこちの漫遊を行い、その記録を日記に残した。 ジョン・イーヴリンはケンブリッジ卒業後、グランドツァーに旅立ちヴェネツィアに逗留。「今夜は座席を予約して置いたので、ブルース卿といっしょにオペラ劇場へ行ったが、そこでは喜劇やその他の芝居が、非常に優れた声楽家や器楽者たちの、歌い、奏する朗誦風の音楽を伴奏として上演された。
舞台装置も透視画法技術で描かれた、やはり精巧なものであり、さらには、空中を飛ぶ機械仕掛けとか、その他いろいろなすばらしい工夫が凝らされていて、要するに今夜観たものは、人間の知恵がこしらえ上げた非常に豪華で、おびただしく金のかかる娯楽番組の一つだった。」(世界オペラ史:東京音楽社)  
イーヴリンの書くヴェネツィアのオペラと劇場は、その後の状況と本質的には大きな変わりはない。市民という新しい観客を得たオペラと劇場はここヴェネツィアを端緒とし、十七世紀半ばよりヨーロッパ中の都市と生活の中に浸透していく。  
グランド・ツァーの旅行者たちはヴェネツィアで知った豊かさとプロ精神に育まれたオペラと劇場をヨーロッパ全体の都市と宮廷に持ち帰って行くが、彼らが持ち帰った重要なポイントは二つある。  それはともに音楽的側面ではなく劇場的側面。
一つは透視画法を利用した高度な変換可能な機構を持った舞台背景。
二つ目は高価なスペクタクルを維持運営する劇場システム。
君主となるような突出した貴族が存在しないが故に、共和国を維持し続け得たヴェネツィアでは、有力な貴族と商人が株主となり公開商業劇場を経営した。 建設の動機は利益を上げること、所有者はボックス席を賃貸し、平土間や桟敷席からの収益により俳優や歌手への支払いを賄い、劇場の維持運営を行った。このような劇場システムがやがて国家あるいは上層階級全体の助成の上に立った高価でスペクタクルなオペラの上演となり、豪華な劇場の維持運営という概念を生み出していく。

 (近代オペラ劇場のデザイン)  

ヴェネツィアの公共劇場の最初は、ヴェネツィア領内、ユーゴスラヴィアのレジナ島にあった小さな劇場(現在名ファブール劇場)、1612年に完成している。本土では1639年ベネット・フェルラーリ設計によりテアトロ・サン・カッシーノが完成が最初。  (fig105) その後1699年までにはヴェネツィアには十六もの劇場が建設され、そのほとんどが劇場の建つ教区の名前で呼ばれていて、オペラと劇場の都市内での人気と繁栄ぶりがよくわかる。これらの劇場は貴族や有力商人が出資者。動機は利益を上げること、劇場では出来うる限り多く観客席を確保することが最優先となっていた。
 テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロは 1638年、ヴェネツィアの名門グリマーニ家が演劇用に建設し、その後カルロ・フォンターナがオペラ用に改造した劇場。1645年イーヴリンがヴェネツィアを訪れた年にちょうど完成している。パラーディオのテアトロ・オリンピコ、アレオッティのファルネーゼ劇場をモデルとしてデザインされたこの劇場はカルロ・フォンターナの設計。  
面白いのは古代劇場が原型の二つの劇場の観客席は傾斜のついた座席であったが、フォンターナは観客席を五段に積層するばかりか、平土間(アレーナ)部分も座席で埋めたところにある。 公共劇場ではいかに多くの観客を劇場に取り込むかが重要だったのだ。所有者は積層した部分に桟敷席を押し込め、その一部をボックス席として賃貸している。ここは貴族や富裕の商人がシーズンを通して使用する、その為には権利金も必要だが、席の背後には客間も設置し、商取引や政治的話し合いの場となっていた。 平土間部分は当初は立ち見、やがてはベンチそして座席、劇場全体はオペラ好きの庶民の格好の娯楽の場であり社交の場。近代劇場の形式はこのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロによってほぼ完成したと言って良いようだ。 

 (サン・ジョヴァンニ・グリソストーモ劇場)  

ヴェネツィア・オペラの繁栄は数多くの公共劇場の建設もさることながら、その公演が華やかな祝祭の一環として行われたことにある。オペラのシーズンは年三回、先にあげた昇天祭がその中心だが、春まだ遠き謝肉祭、そしてヴェネツィアが最も美しい秋、九月から十一月。 全員参加の祝祭空間は宮廷劇場とはまったく異なるオペラを育てていく。ヴェネツィア・オペラの特徴はジョン・イーヴリンの日記にもある機械仕掛けのスペクタクル。都市での祝祭をそのまま劇場に取り込んだかのような華麗な舞台。そこでは音楽のみならず人々の興味の対象となる視覚的世界の展開が重要となっている。  
1678年にはヴェネツィア最大の劇場、サン・ジョヴァンニ・グリソストーモ劇場が建設される。テアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロに引き続きグリマーニ家の出資。今度はオペラ専用の新設の劇場としてこの劇場を建設した。 各階小さな桟敷席で構成される観客席はヴェネツィアの劇場の特徴。合計百七十五の桟敷席は一年契約で売りに出され、買い取った上級市民たちはその場所を自由に使うことが許された。 一方、一階平戸間席は各上演ごとの売り出しで、誰でも観客となり自由にが買うことができた。
グランドツァーのイーヴリンも多分この席からオペラを楽しんだのであろう、そして外国からの公使や外交官、はては兵士や将校たち。しかし、観客のほとんどはやはりヴェネツィア市民や商人たち、三つのシーズン、特に謝肉祭には彼ら自身も仮面を付け衣装を着込んでオペラの上演を楽しんだ。
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