2017年7月26日水曜日

モダン・デザインの展開 ニコラウス・ペヴスナー

ヘーゲルの歴史主義あるいは弁証法的発展主義を下支えとしてきたモダニズムはミレニアルの建築をみる限り完全に破綻してしまったようだ。

そして、今、19世紀の建築家、著述家が再び注目されている。

記憶、出来事にオブセッションするロッシの建築からベンヤミンのパサージュ論が広く読まれているが、ベンヤミンはフロイトの精神分析やその後のシュールレアリスムとの関わりが強く、近代の理解には欠かせないのだろうが、ここからは前へは進めない。

しかし、建築もまた想像力が生み出す世界なら、今一度、世紀末に立ち戻ることは意味があろうと思い、ここのところ古い本の書棚を漁っている。

そして、引っ張り出したのは、ギーディオンでもバーンハムでもなくペヴスナーだった。

彼の二冊を読みながら実感したことは、建築は思想史にも美術史にも関わらない、建築の有り様にある、ということだ。

そして、彼が感情の魔術師と呼んだラスキンの言葉を載せていた。

建築の質は人間の質を示すもの、「おろかな者はおろかに、かしこい者は感受性豊かに、高潔な者は美しく、そして罪ぶかい者はいやしく、建てる。」

建築とは建物のうえに刻み込まれた「それ以外には何の必要もない、ある種の尊厳あるいは美の性格なのだ」

「われわれが建築とよぶものは、高貴なかたちをしたそれらを伴い、それらを適切な場所に配したものだけなのだ。高貴な芸術の力をもたないすべての建築は・・・単なる建物にすぎない。」

ペヴスナーは「ラスキンとヴィオレ・ル・デュク」の締めのページに書いている。
「19世紀絵画においては、進歩派と伝統派、受け入れらざる者と受け入れられた者との間に断絶があったことはよく知られている。けれど建築においては進歩派や新派はなかった。というのも、受け入れらざる建築というのは、存在しようがないからだ。・・・・・建築家は依頼主を持たなかったら、建築は存在しない。」
当然の事柄だが、ここに関わるペヴスナーもまた、建築は、美術とは全く別事とは考えられなかった。つまり、近代建築は決して、貴族的なルネサンス建築から離れることはなかったのだ。
やはり再び、アルベルティに戻る必要がある。
彼は同時代のマキャベリに似て、全く別種の建築を模索していたのだから。

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