2017年6月11日日曜日

カーセンの「ばらの騎士」

ロバート・カーセン演出の「ばらの騎士」を東劇で観た。
この5月のメトロポリタン劇場の映画版。
彼が演出するオペラは物語の解釈や舞台構成に独特の工夫があり、いつも興味深い。
かって見たバスティーユ版 「ホフマン物語」の面白さはブログにアップした。
(http://sadohara.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html)

今回メトで見たばらの騎士は最初、ザルツブルグで公開されたという。
物語を第一次大戦前のウィーンに設定し評判となり、昨年末はロンドンのロイヤルオペラハウス、そして今年、ニューヨークのメトロポリタンで上演された。
歌手は劇場ごとに異なるが、全て人気のある公演となっている。
カーセン演出のばらの騎士は物語を第一次大戦前に置き換えたところが大きなポイントで、このオペラはまさにその時代、1911年にリヒャルト・シュトラウスによって作曲されている。
つまり物語だけではなく、カーセンはこのオペラが生み出された時代そのものも演出上のテーマとしているのだ。

18世紀の頭の禿げた田舎貴族とウイーンの成り上がり市民の若き美しい娘の結婚を取り持つ「銀のばら」を元帥夫人が恋人、オクタヴィアンに持たせるオペラは(http://sadohara.blogspot.jp/2010/02/blog-post_70.html)
今日のカーセン版は20世紀の大戦前の軍人と武器商人の娘に置き換えられたドタバタ喜劇。
オペラは19世紀市民のエンターテイメントであることは間違いないが、その物語を20世紀の始めに置き換えたことにより、カーセンはこのオペラにある種の真実性を帯びさせたと言って良いのかもしれない。
シュトラウスがこのオペラの生み出した第一次大戦前はまさに近代の始まり、それは芸術の崩壊、いや「文明の没落=ショッペングラー」、あるいは「中心の喪失=ゼードルマイヤー」が書かれたようにヨーロッパ文明の危機が騒がれていた時代だ。
シュトラウス自身もワーグナー的芸術オペラを作るが、モーツァルトやロッシーニの持つ喜劇的エンターテイメント・オペラにも関心を持っていたのだ。

世紀末は建築デザインにとっても大きな過渡期だが、音楽の世界では、 時代を超える新しい音楽を作ろうとする作曲家はシェーンベルクを筆頭とし、調性原理を放棄し、三和音によって秩序づけられた音楽とは異なる、複雑で独創的な音楽を追求し始めている。

振り返れば、18世紀以前、音楽は娯楽であり芸術。音楽は教会や宮廷にあり上流階級の独占物、 民衆が自然発生的に関わる民族音楽とは異なっていた。
さらに、フランス革命以降、宮廷オペラは勃興した中産階級に急速に普及していく。
娘にピアノを習わせることが新興上級市民たちのステータス・シンボルともなっていく時代だ。
そして、19世紀には様々な音楽が大量に作られ、サロン音楽や沢山のオペラ、いわゆるクラシックだけでなく、現在のポピュラー音楽の原型も生み出される。
ロッシーニのオペラに敵意を示したワーグナー、彼のオペラ(楽劇)は通俗性を嫌い難解なエリート性を強調する。しかし、全ての市民がみなワーグナーに傾倒したわけでもなければ、ベルリオーズやブラームス、シューマンだけが芸術家であったわけではない。
サロメ、エレクトラ、ばらの騎士を作曲したシュトラウス、彼はまさにオペラが娯楽か芸術かばかりでなく、新たな音楽を如何に生み出すかに立たされていたのだ。

ワーグナーの楽劇に示される、歌とオーケストラが連続し交響楽風に奏でられるオペラの隆盛はモーツァルトやロッシーニ、ヴェルディが作曲したアリア、レスタティーボで繰り返される絵画的オペラとは大きく異なる。
加えて、リストの交響詩やシェーンベルクの無調音楽も作られ始めた1911年、オペラや建築デザインは20世紀に何が可能かを問われていた。

この曲はサロメ、エレクトラから数年の間をおき、満を持し作曲されている。
前二作はどちらかと言うとワーグナー風であり娯楽性は乏しい。
シュトラウスはどうしても、芸術であり娯楽であるオペラを生み出さなければならなかった。
前作と同じ脚本家ホフマンスタールと喧々囂々のすえ、ばらの騎士は完成する。そして当時の新聞には、このオペラは前作を超え、観劇のために専用列車が仕立てられるほどの大評判になったと書かれている。

カーセンの演出はこの辺りの状況を丸ごとばらの騎士の演出に込めている。その方法は先に、このオペラにある種の真実性をおびさせたと書いたが、その真実性とは、オペラはいつも額縁の中の虚構であるところに作られてきた、そして、シュトラウスはその方法を舞台形式だけでなく、作曲にも取り入れていた。
ばらの騎士は前二作とは異なり、幕ごとに大きく音楽的色彩を変えて作曲されたところが、シュトラウスの成功の理由だが、カーセンはその音楽的色彩による枠組みに拘り、わかりやすく演出した。

ばらの騎士は幕が開く始まり部分と、三幕の終わりに再登場する元帥夫人の場面の音楽だけが連続した交響詩風の構成として作曲されている。
それがまさに音楽による額縁であり、その額縁の中はモーツァルトのフィガロ風の喜劇、田舎貴族と新興商人のドタバタ仮面劇として作られている。
つまり、カーセンはシュトラウスとホフマンスタールが呻吟した、枠の内外という、新しいオペラの事実をものの見事に強調し、このオペラの演出したのだ。

三幕のドタバタの真っ只の中に何故、突然、元帥夫人が現れたかはよくわからない。
しかし、登場した彼女はドタバタを終わらせ、オックス男爵に貴族的品位を持ってお帰りなさいと窘める。
さらに、状況が掴めない男爵に女中のマリアンデルは、実はばらの騎士オクタヴィアン、ロフラーノ伯爵であると明かし、「ウィーン風の 仮面劇 ただ それだけのこと」と歌う。
やがて、オックス男爵も得心し、彼も上出来の 仮面劇 と認め、「いまはもう終わり!」と退出する

終幕の元帥夫人とオクタヴィアンとゾフィーの三重奏はいつも美しい。
その歌は伯爵であるオクタヴィアンと商人の娘ゾフィーの恋の歌だが、華やかな元帥夫人の恋の終わりの歌でもある。
あるいは、三重唱はまさに20世紀の始まりの歌。

この公演の主役の男爵、ゾフィーはドタバタの中に時代の狭間をも感じさせる演技と歌唱で感心したが、特に素晴らしく、印象的でありビックリさせられたのは元帥夫人のルネ・フレミングとオクタヴィアン(ロフラーノ伯爵)のエリーナ・ガランチャ。
彼女たちはこのカーセンの「ばら」を、共々の当たり役の終わりの出演と決めていたと幕間に明かした。
芸術の終焉か新しい近代の始まりかの狭間を明快に演出したカーセン・オペラを二人の名歌手は、新たな始まりのための最後のオペラと決めていたのだ。

コメントを投稿