2017年6月7日水曜日

北大路紫野の大徳寺

新緑が終わり、梅雨を迎える前の一時は京都は思いの外、花は少ない。
しかし名所と繁華街、駅は修学旅行生と外国から訪れた人々で大賑わいだ。
昨日までの友人たちと別れ、久し振りに大徳寺の塔頭を訪ねることにした。

記憶では、ここではトップクラスの歴史と文化が展開されている寺院。
時間的には公家と武家の交代期を色濃く刻み、空間的には多彩な禅宗庭園と茶室建築の集積地となっている。
この日、思ったより観光客は少なかったがしかし、もっとも京都らしいところと言って良いのかもしれない。

大徳寺は14世紀の初め、赤松則村の援助で開山した臨済宗(禅宗)の小寺院から始まっている。
半ばには後醍醐天皇により五山筆頭の南禅寺と同格に列せられるなど、重要な寺院として隆盛した。
しかし、建武新政崩落後は時の足利権力に翻弄され沈滞する。
同じ臨済宗でも無窓疎石の関わる足利政権下の寺院群とは異なり、ここは公家に愛された大徳寺、その寺勢は思うようには伸ばせない。
15世紀半ばには、かの応仁の乱とそれに続く戦乱に巻き込まれ、歴史ある伽藍の大半は廃墟のような体となってしまった。

時代は動き、庶民の台頭が始まると、鎌倉仏教は農民の浄土宗、商人の法華宗として隆盛し、京都のみならず日本中に沢山の寺院が作られる。
そんな時代、禅宗寺院大徳寺は一休和尚により復興され、武家社会に広まって行く。

大徳寺の見学は南から東に連なるふたつ大きな方丈庭園に始まるが、楽しみは、人のいない縁側からのんびりと時間を忘れ、小さな石庭を、砂の海と石の島々を、見立てられた蓬莱の世界を体験するところにある。幾つもの塔頭で展開される絵画的世界は、まさに此処でしか体験出来ない禅曼荼羅の世界なのだ。

塔頭は桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提を弔うために建立した総見院が有名だが、戦国時代の京都に関わる家々の多くはこの寺の僧侶を開祖とし菩提寺としている。
まずは一休宗純の搭所真珠庵、能登畠山氏の龍源院、九州大友氏の瑞峰院と大慈院、加賀前田家の興臨院、前田利家夫人のまつが建立した芳春院、小早川家と毛利一族の黄梅院、三好家の聚光院、細川家の高桐院、ここにはガラシャ夫人の墓標もある。その数は22ヶ寺、しかし、一般公開は数ヶ寺にすぎない。

なかなか見学できないが最も有名なのは弧蓬庵だろう。小堀遠州の小庵を大徳寺に持ち込み彼の隠居所としている。その庭と茶室忘筌は国史跡・重文だが、19世紀日本の最高の建築空間と言って良いのではないだろうか。

コメントを投稿