2017年5月12日金曜日

ワレサの残像

京橋テアトルで試写会を観る。来月より、岩波ホールで公開されるそうだ。
画家として、人間として、ストゥシェミンスキほど優れていなければ、こんな過酷な半生を送る必要はなかったかもしれない。
教育者として多くの若者に人気があり、卓越した技量と知性を持ったモダニズムの芸術家。
しかし、キャンバスやインテリア空間に描いてきた絵画、言葉として纏めた視覚論(芸術論)、その悉くを時代の持つ暴力に侵され、奪い取られ、そしてストゥシェミンスキは倒される。
残ったのは像(イメージ)のみ、ワイダが残し得た映画という残像のみだ。

50年代のポーランドにおいて、資本主義モダニズムの持つ抽象と社会主義リアリズムの対立がこれほど過酷なものであったことは知らなかった。
いや、ワイダが描いたものは、芸術的対立ではなく全体主義の持つ過酷な暴力だ。
権力者が持つ、政治的イデオロギーを盾にしての暴力、それは人間から全てを奪い取る、残酷なものだった。

しかし、見終わった後、ワイダの「残像」が残したものは本当に政治的暴力のみだったのか、と考えてしまった。
政治経済社会を覆うイデオロギー(風)により芸術(表現)を評価しようとする悪癖はモダニズムはもちろん、ポストモダニズムと言われる現代もそれ程変わっていないかもしれない。
差異化のみを強調する表装化したパッケージデザインに明け暮れるゼロ年代、人間拡張という真の生産性を持った芸術の自立は今や可能なのだろうか。
ワイダが残してくれたもの、いや残そうとしたものは「残像」のみだ。

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