2017年5月8日月曜日

僕とカミンスキーの旅


我々は観客席という現実世界から額縁の中の虚構の世界を眺めている。
絵画も映画も額縁(プロセニアム・アーチ)の中で演じられている世界だ。
プロセニアム・アーチは現実と虚構の境界を示す建築的装置。
舞台上のドラマが終われば、虚構の世界の演技者はこの境界から抜け出し、現実世界に戻るが、絵画や映画ではこの境界は決して消えることはない。
つまり、我々観客は永久に虚構の世界の住人に成ることは出来ない。

近代のキュビズム絵画やサウンド・スケープ、あるいはインスタレーションという表現活動では意図的にプロセニアム・アーチを解体し、虚実一体化した世界を産み出した。
ここでは、演技者も観客も一つの空間、虚実混淆した世界の住人となる。
しかし、映画ではどうだろうか。
かって、キアロスタミは虚実解体を目論んだ映画を制作したが、この映画の監督ダニエル・ブリュールはどうだろうか。

この映画ではどうやら、実在しない虚構の画家カミンスキー自身が描いた、絵画の中の世界が生身の現実世界であると設定し、作り出したようだ。
映画の中では額縁を施した絵画の中が現実であり、額縁の外側が虚構の画家カミンスキーが住む、虚構の世界として作られている。
そして、映画の外側にいる我々観客は、映画の中の虚実の反転に立ち会わされる。
その反転は唐突に登場する達磨大師の「有無相対」にある。

つまり、虚構を生み出す建築的装置であるプロセニアム・アーチが解体された映画の中では、カミンスキーの絵画という虚構こそ現実であり、その虚構からカミンスキーを眺める映画の中の「僕」はまた、映画の観客である僕でもあるのだ。
面白い映画ですね、美しいロードに展開される、戯画的な人間たちの虚実混淆、そして僕は本当にどこにいるのだろうか。
どうやら癖になりそうな、新たな映画タイプが生まれたようだ。

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