2017年2月4日土曜日

「そら」があっても「ま」がない話

吉田篤弘さんの「モナリザの背中」を読んでいた。

東京生まれ60年あまり、この街に住み続けた我が身にとって納得のコメントだ。
右肩上がりで、懸命に変わってきたこの街は便利で美しくなったが、失ったものもたくさんある。

新宿も渋谷も若くて便利で、とても可愛い。
しかし、いつも騒がしく、どこか単調。

視覚も味覚も驚きはなく、驚かされるのは時たま全開となる聴覚、ただただ疲れるだけの時と場所にすぎない。
とは言え、漸く掴んだ自由な空間と時間、いまさら趣味人を気取って、田舎巡りや、海釣り、野鳥探しを興ずる気がない我が身、結局、いつも銀座うらか、有楽町界隈を徘徊している。

「地下鉄を日比谷駅で下車して地上にでないまま有楽町の方へあてどなく歩く。
名も知らぬ古ビルへ迷い込んで、そのまま地下街を歩き回る時間。
都心の地下にこうした快い空疎な時間がひんやり残されている。
方角も分からず、ただ漠然と地下通路をさまよう。
灰色の壁ばかりが続く無愛想な地下通路に紛れ込み、もしや、このまま地上に出られなくなるのでは、とおびやかされる。
名付けたいのは空間ではなく時間。
・・・
年をとると時間とか空間とか、過去とか未来とかそんなものなくなってくる。失われる。
時はある、まだ、そこにある。時計が回っているから。空だって見上げればそこにある。だが、時やら空やらが持っていた「間」がない。間とは何かはともかく、時間は時になり、空間は空になった。」(モナリザの背中)

渋谷の街に出て気がつくことは、そこで展開されている風景はテレビで観るコマーシャルや情報と同じであって、人の営みではない、事件は時々見るが出来事が見えてこない。 

都市が消えた、見えない、カタチがない、文化としての人間的営みがどこにもない。 

空間がないと言うことは、人間としての営みが見えないと言うことだ。

これは大変なこと、そこでは誰も生きてはいないという事なんだ。 

建築とは意味のないところに意味を生み出す装置を作ることにある。

建築から生み出される都市空間もまた同じ。 

生きている現実的風景から何ら意味する人間の営みを読み取ることができないとするならば、それは人間的風景の喪失。

「そら」はあるが「ま」は無い、空間がない。

 ここで言う空間とは意味のないところに、意味を与えられた場を意味している。 

大昔から建築は空間を生み出す装置として造られてきた。

2017/02/04 12:08


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