2016年8月29日月曜日

都市イメージを描く「ルル」

舞台空間でのオペラではなく、絵画空間の中のオペラという印象。初めて聴くベルクの十二音音楽オペラだが、歌もオーケストラも19世紀の音楽と大きく隔たるものではなく、決して難解でも違和感もない。音列、リズムは新鮮で、ダンスや絵画的映像ともシームレス呼応しとても気持ちが良い。

舞台はベルリンの踊り子ルルがベルリンで殺人の罪で捕まり、脱獄しパリに逃れるが、娼婦になり、切り裂きジャックに殺されるというドラマ。
近代都市に投げ込まれ、男性たちに翻弄され生きざるを得ない女性の物語だが、その方法はルルを鏡面とするそのウチと外。ベルリンとパリという二つの都市、どちらを真としても良いのだが、その反転の偽も同じ歌手に演じさせ、ルルの享楽を描いているところが面白い。

頽廃と堕落の近代は男性主導の都市イメージ。18世紀のロココ的文化サロン、室内空間によって展開された女性尊重の時代に比べ、19世紀は男性的都市時代の始まりと言って良いのかもしれない。
資本主義が徹底され、どこの都市も経済機能主義によって逞しく拡大するがその内実は頽廃と堕落。
しかし、オペラにはまだ、汚染されたモダニズムとは異なり、人間都市の持つアンニュイな居心地の良さも表現されていて面白い。

20世紀初め、ドイツのある町。町で出会った少女ルルを連れ帰って育てたシェーン博士は、彼女に惹かれながらも官僚の令嬢と婚約し、ルルは医者のゴル博士に嫁がされる。
男という男を魅了するルルは若き画家と浮気をし、その現場をゴル博士に目撃させ、医者はあっけなく悶死する。
やがてルルはシェーン博士の妻の座を手に入れるが、相変わらず、男女を問わず奔放な関係を続けるが、逆上したシェーン博士はピストルを突きつける。
結果は逆に博士はルルに殺されてしまう。投獄されたルルは同性愛の友、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の手引きで脱獄しパリに逃げるが、この都市ではもはや、ルルと令嬢は体を売るしか生きる道は残されていなかった・・・。

指揮:ローター・ケーニクス 
演出:ウィリアム・ケントリッジ
出演:マルリース・ペーターセン(ルル)、スーザン・グラハム(ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、
ヨハン・ロイター(シェーン博士/切り裂きジャック)、
ダニエル・ブレンナ(アルヴァ)、
マルティン・ウィンクラー(力技師)
ポール・グローヴス(画家/黒人)
フランツ・グルントへーバー(シゴルヒ)

2016年8月27日土曜日

ミケランジェロ展

ミケランジェロ建築を中心とした展覧会。
サン・ロレンツォ聖堂のファサードや新聖具室、ラウレンツィアーナ図書館、ファルネーゼ宮殿とサン・ピエトロ大聖堂、さらにサン・ジョヴァンニ・ディ・フィオレンティーナ聖堂案、ポルタ・ピア等々。ミケランジェロの時代の多くの建築家たちを支えていたのはローマ時代のヴィトルヴィウス建築十書。しかし、絵画・彫刻の制作で忙しいミケランジェロには、この書を読む時間はほとんどなかったと言われている。そのことがかえって良かったのではないだろうか、彼のテーマはギリシャの人文主義による観念ではなく、感情に訴える聖母マリアによる救済。結果から見ると、建築作品は当時の枠組みには捕らわれない自由なロマン主義的な構成と言って良い。

美術家であるミケランジェロの関心は建築ではなく、装飾にあった。数多く残された建築の為のスケッチはそのその悉くが建築装飾としてのかたちの模索かそのディテール図集。絵画や彫刻と同じ様に、ミケランジェロのスケッチでは建築というより、その柱や窓、ペディメントや持ち送りのかたちが入念に素描されている。つまり、彼の関心は現在の建築に似て、建築がどんな世界を生み出すかではなく、その建築はどう見えるかにあった。

建築はいつの時代でも、土台、柱、壁、屋根、開口部という構造的エレメントが生み出す世界、それは物語でもあるのだが、彼の建築は本来の力学にも関わらない、見掛けの柱、装飾の為の壁、視覚に驚きと変化を生み出す特徴を持った窓や持ち送りを生み出している。16世紀半ばのローマ拷略以来、絵画も建築も最早、秩序やメッセージを重んじるルネサンスではなく、個人の感情に関わるマニエリスムの時代へと向かっている。そこでの作品は理念に支えられる人間世界とは異なり、現代に近い、個人的感情世界に関わっている。
従って、ミケランジェロの建築は彼の絵画・彫刻と同様に時代を先取りしていたといえるようだ。しかし、黄昏のルネサンスと言われるこの時代、多くの建築家はまだ柱、壁、屋根という構築的要素を言語として、いかなる世界を生み出すかに拘っていたことにも留意しなければならない。その 一人は遅れて登場したヴィチェンツァのルネサンス人、パッラーディオだ。

ミケランジェロの建築に、当初日本では白樺派の芸術家たちが多くの関心を払っていたことはとても興味深い。何故なら戦前戦後、日本では建築は建設技術と美術建築、二様に分離され取り入れられ研究されてきたからだ。ミケランジェロの建築は西洋のロマン主義、その美術、文学、音楽とともに称揚されてきたのであって、技術としての建築ではない。

2016年8月17日水曜日

その姿の消し方 堀江敏幸

古物市で見つけた一枚の絵はがきから始まる、フランスの片田舎の人々との関わり。
堀江さんの端正な文章に乗り、見知らぬ空間と時間をたゆたう、緩やかな読書体験。
「河岸忘日抄」以来、彼の言葉の世界のファンだが、この小説は幾様にも詠み解ける詩文集と言って良いのではないだろうか。

その姿の消し方、そのことばの消し方、ひとの消え方、街の消え方、建物の消え方。
その姿とはもぐらのこと、小説はもぐら探し、そう、消えた世界を探す探偵小説だ。
そんな冗談を言いたくなるほどこの小説、いや、紀行、堀江敏幸ワールドは面白い。
もぐらだけではない鯨もピノキオも出てくる。
全く分野は異なるが、ル・カレやポール・オースターの世界に共通するミステリーがある。

しかし、これは堀江敏幸の作品。
舞台はロンドン、ニューヨークではなくパリ、そして、フランス西南部の小さな街。
ボクはいつも堀江さんの作品を、彼女が登場しない恋愛小説だと思って読んでいる。
田舎の、郊外の、都市の、街中の片隅に生きる、繊細で優しい何処にでも居る人々。

2016年8月14日日曜日

オラクル・ナイト ポール・オースター

小説の中で複数の物語が重なりあって展開されるのはオースターの特徴、
さらに物語はみな、時と場所が明快に描かれる。
初期作品、ニューヨーク三部作同様、オラクル・ナイトはニューヨーク、しかし、今回はマンハッタンだけでなく、イーストリバーを渡ったブルックリンも舞台となっている。

物語の重層化は、我々の脳内がいつも錯綜しているのだから、その反映と言えるかもしれない。
現実の出来事はいつも時間・空間はキッチリと枠どられているのだから、
彼の物語に嘘はない。
しかし、その展開は入り組んでいる。
虚実と時系列をしっかり見極めないと、迷路に入り込む。
いや、このドン・キホーテ的蒙昧感がオースター小説の魅力かもしれない。
オラクル・ナイトはいつもよりメインストーリーは骨太であり、「ガラスの街」が伏線となって関わっている。
物語が断ち切れた、かっての赤いノートは青いノートに変わり、
オラクル・ナイトは展開される。

長い病みから退院した主人公シドニー・オアはブルックリン・ハイツに近い自宅から久しぶりの散歩に出掛け、
立ち寄った文房具店でポルトガル製の青いノートを見つける。
仕事部屋に戻った彼は友人ジョン・トラウズと二週間ばかり前に話した、
自分の人生から忽然と姿を消す男をめぐる奇妙な寓話のあらがきを書き始める。
あらがきのはじまりは、青いノートの小説の中の主人公、ニューヨークの出版社の編集者ニック・ボウエンの机に届けられた「オラクル・ナイト」(神託の夜)。
さて、
青いノートの中のニック・ボウエンはどうなるか?
友人ジョン・トラウズは?
トラウズの息子ジェイコブは?
妊娠しているシドニーの妻グレイスは?
青いノートを売ったM.Rチャンは?

2016年8月10日水曜日

ガラスの街 ポール・オースター

真夜中の間違い電話から始まる友人も妻子も持たない探偵作家のニューヨーク彷徨の物語。
中世の多声音楽に似て、様々な旋律が絡まる小説。「エレガントな前衛」と言われたポール・オースターの初期の「ガラスの街」はまさに多旋律であり、モダニズムの持つユートピアが知的透明さを持って崩壊していく。
彼の小説はどれも、一つの小説の中に幾つかの物語が流れるように折り重なっている。ロマネスク音楽はグレゴリオ聖歌がベースとなる多声歌曲だが、「ガラスの街」ではエデンの楽園とバベルの塔が主旋律となり、メタフィジカルなニューヨークが詳細に描かれる。

「ガラスの街」の主人公は作家であるダニエル・クイン。彼はウィリアム・ウィルソンというペンネームでマックス・ワークを主人公とする探偵小説を書いている。そんなクインの部屋に真夜中、探偵のポール・オースターさんですか、という電話が掛かってくる。間違い電話は毎夜繰り返され、三度目の夜、クインはポール・オースターとなり電話を受ける。
物語はこうして始まるが、その内容は間違い電話を掛けてきたヴァージニア・スティルマンと彼女の夫ピーターの依頼によりピーターの父親、昔コロンビア大学の教授であった、息子と同名のピーター・スティルマンを尾行することにあった。
そして物語の終わりだが、ピーター・スティルマンが消え、神託となっていた話し中の電話トーンに従い依頼者であるスティルマン夫妻をビル街の隙間、裏側の路地から2ヶ月あまり見守り続けるが、彼らの世界であった二人のアパートメントの白い透明なユートピアも消える。空っぽになったユートピアの部屋の真ん中にはクインの尾行記録である赤いノートだけが残された。

物語は神託の導きなのか、言葉によって生きる人間の運命にあるのか、あるいは渡らなければならない橋なのか、ボードレールのいうどこでもいい、この世界の外に出ることなのか。
オースターの物語はいつも虚構と虚構が重層するような構成だが、その内容のすべては正確な場所と時間に枠どられたリアリティある現実世界のなかで展開される。
「ガラスの街」の舞台はニューヨーク、その大半はセントラルパークとコロンビア大学周辺。日時、時間、地名、通り名、建物名はすべて克明に、あるがままの日常として描がかれている。しかし、その世界は形のない、透明なガラスという像のみが浮遊するメタフィジカルな「ガラスの街」。その街はドン・キホーテであるピーター・スティルマンが朝早く彷徨し、鍵のかかった部屋の鍵を探した街。

オースターは現代社会の孤独・寂寥・消滅・空白を描く作家だが、読み終わるといつも「だまされても面白いならだまされても良い。」と彼のドン・キホーテ論の一部分が思い出される。透明で乾いている、抽象的だが、決して難しくはない。
この小説は最も初期、彼を作家として世に出したニューヨーク三部作のひとつ。
まさに、彼の小説を貫くもの、ドン・キホーテはこの初期作品を縁の下からしっかり支えている。