2016年2月5日金曜日

蜃気楼の舟

寡黙、引きずり歩く足音、 静かな鎮魂歌を聴いているよう時間の流れ。 
何かがあり、何かが起こり、何かを求め、どこかに行く、という映画ではない。 
無名な風景の中、無名な老人と若者が、何することもなく、ただ揺蕩っている。 
しかし、この映画は決して退屈ではない。
 丁寧に選び取られた幾つかの風景や廃墟のような建物が舞台となり、 静かなフィクションがあるがままの世界の上に浮かび上がってくる。 
この映画はまたオペラなのかもしれない。 
メロディーとしてカタチに成ることを拒む音の世界、 ここでもまた、何もなく、何も起こらず、何も求めず、 バイオリンの音だけがただただ揺蕩っている。 

 最近、映画をよく見るようになった。
 映画は現実世界の上に描かれる一つの虚構の世界だが、その世界の上に描かれる<フィクション=世界>はもはや、制作者のモノではない。 
映画は受信し想像する観客一人一人のモノだ。 
この映画を観ながら、ボクは今どこにいるのかを想像していた。 
渋谷の街の映画館の中だが、そこは映画の中の囲い屋とどこが異なるのだろうか。 
この街に集まる沢山のバラバラな人々。 
映画を観るボク自身もまた、映画の中の老人や若者の一人なのだ。 
そんな想像の中からあるイメージが浮かび、音楽が聞こえた。
ボクにしか見えず、ボクにしか聞こえない世界(フィクション=虚構の世界)だが、そこにはどこかホッとさせるモノがあった。

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