2015年12月14日月曜日

雪の轍

トルコのアナトリア地方、奇岩を住居とするカッパドキアの冬を背景とする人間の物語。
既に観た映画だが、休日、近所の映画館での上映、出かけることにした。
館内は満員、良い映画はやはりだれもが見逃さない。 
この映画が長いのは一人一人の言葉を忠実に話終わるまで、いや疲れるまで、留まることなく、写し取り続けるからだ。
しかし、もう一度見たいと思ったのも、この会話の数々が気になりじっくり聞いてみようと思ったからだ。
 観終わって、前回は書けなかった感想、今は書けるだろうか。
いや、再度、見たからと言って、会話の一部始終を理解したわけではない。
内容も決して、哲学的であったり、眩惑的であったりするわけではない、誰もが問題とする日常的会話だ。
しかし、よくわからない、そして、気が付いた。
この映画は人間の会話、あるいは「言葉」というもの、そのものをテーマとしているのではないか。
全ての登場人物は悉く皆、喋りすぎ。
しかし、そのお喋りからは決して、新たな関係は生まれない。
結局、お喋りは人を傷つけ、喋る自分自身が最も大きな深手を追っていく。 
この映画では、話せば話すほど人は空しくなっていく。
人は話せば話すほど、阻害され、その関係は壊れていく。
人間の関係は決して話し合ったからといって、新たな関係が生まれるものではない。
もちろん、会話や言葉に罪はない。
しかし、言葉は罪かもしれない。
人間の言葉は自分が思っているほど、正直でももちろん嘘でもない。
しかし、話せば理解してもらえるという単純なものではない。
哀しいのはそういう言葉を持ち、言葉にとらわれるのが人間だということだ。

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