2015年8月12日水曜日

火花 又吉直樹

残念ながらピート又吉の漫才はまだ見たことはない、ほかのTV番組ではときどき見ていた。トウモロコシみたいな風貌はまさしく人気漫才師。沖縄人佐藤優が又吉直樹は沖縄人だ、とどこかで書いていたが、まさにザワワザワワ(?)のトウモロコシ畑をイメージさせるナイーブな青年と言って良い。TVで見る、物事に対しての独特の受け取り方と感想にはもともと関心を持っていた彼が芥川賞作家になったことを知り、やはりなぁーという驚きと、あるだろうなぁという納得が入り混じっていた。 早速、kindleからの「破天荒」をDL、その時予約しておいた文芸春秋電子版の「火花」を今、読み終え、書ける人は書くんだなと改めて感心している。こんな、言い方は失礼かもしれない、書ける人が芥川賞を取ったのであって、人気漫才師が取ったわけではない。しかし、読み急いだボクにとっては漫才師の芥川賞という関心があったのは事実だ。 ネット時代、どの分野でも人気者は大はやり。だからこそ、みんなTVから離れられず、SNSの「いいね」に嬉々とする。しかし、そんなフラットな電脳的日常生活であればあるほど、かえって、自分の好む、あるいは本当に「いいね」という出会いが難しくなったように思えてならない。 そんなことを言っても凡人は凡人、早々に、まずは「破天荒」をDLし、文芸春秋9月号を予約した。必ずしも毎回、芥川賞を読んでいるわけでもなければ、読んだからと言っていつも「いいね」と思ったわけではないのだが。 今回の「破天荒」と「火花」を続けて読んだ感想としては面白いものは面白いと素直に拍手したい。実父を描いた「破天荒」な父、「火花」のような生き方をする神谷さん、筆者である徳永君の繊細なもの言いと関わり方に何でもない日常がことこまかにビビッドに見える彼の小説はつくづく「いいね」と思ってしまった。 「破天荒」(又吉一樹)は予想を超えた面白さだ。「火花」の神谷さんに通じる父の振る舞いには破天荒というより、人間味あふれる可笑しさと哀しみと、とてもまねのできない生きるうえでの本音が描かれている。その父を見つめるまなざしがまたすばらしい。「火花」の徳永君も同じだが、彼の受け取り方は安易な理解や同情ではなく、繊細な関わりからくる強い言葉の正直さ。漫才師作家だが決して軽くはない、どーんとした人間の生きざまをしっかりと描いていく。 「火花」を支えているのは最近の小説に多い「個人的な内面の世界」ではない。様々な人と様々な場所との関わりが虚構として見事に計算され、人と場所と時間が細かく組み合わされている。井之頭公園、その脇の階段上の珈琲店(この店はぼくもよく知っている、まだあるんだ)から吉祥寺のハーモニカ横丁、そこから延々と歩く上石神井までの山茶花の道。池尻大橋の丸正から三宿、三茶、駒澤大学を抜け、二子玉川までのから揚げの道。どちらも男二人だけのとぼとぼした深夜の散歩。小説全体は熱海の花火に始まり、熱海の花火に終わる10年間の神谷さんと徳永君。そこに描かれるものは火花のような非日常的な日常。花火と花火の間の「火花」とはなんともうまい書きっぷりだ。計算されたみごとな虚構と言いたかったのはこのあたり、一瞬の200万部は決してだてではない。

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