2015年5月23日土曜日

パプーシャの黒い瞳

馬車を連ね、花吹雪の森や雪が舞う街を遍歴し生活するジプシー。
彼らにとって言葉を文字にすることは、悲しみを記憶し、禍を招くことでありタブーであった。
しかし、パプーシャは文字に惹かれ、匿った青年に惹かれ、四季折々の世界と仲間たちの喜びと悲しみを小さな紙切れに書き残して行く。
20世紀初頭から始まるパプーシャたちの終わりのない旅が、微細な光の陰と輝きの風景として記録されている。
哀愁深い音楽 に合わせ、シンプルなモノクロ映像をきめ細かに描いていくこの映画は、60年間に渡るポーランド・ジプシーの書くことが許されない叙事詩だ。

2015年5月16日土曜日

マルティン・ベック シリーズの新訳

マルティン・ベック シリーズの新訳がキンドルにアップされていた。
 翻訳ミステリーやハードボイルドはボクの好みだが、電子出版はまだまだ少ない。 
人気作家はシリーズ出版だが、最近はオカルティックやエキセントリックなミステリーが多く、一作で厭きてしまう、時代差だろうか。
40年前のマルティン・ベック主任捜査官は当時大人気の007とは大違いだが、社会性に富むミステリーとして何冊か読んだ記憶がある、人間味のある地味なミステリーだ。 
ボンドが美女と愛を交わし世界中の都市や名所を駆け巡っている頃、たまに家に帰るベック捜査官は夫婦仲の冷めたカミサンの鼾に悩まされ、風邪で咳き込みながら、降りしきる冷たい雨の中の薄暗い北欧の街を這いずり廻っている。

 格好いいボンドからは読みとれない、捜査上に現れる複雑な人間模様ときめ細かな北欧の街々の風景。 映像と写真からは見えてこない大都市の持つリアルな面白さがこのシリーズの人気の秘密かもしれない。 
マイ・シューヴァルとペール・ヴァール(二人は今で言う事実婚)はストックホルムの地味な警察官たちの日常を黙々と書き続けたのだろうが、日本ではかって何冊ぐらい翻訳されたのだろうか。
 今回の新訳企画はこのシリーズで最も有名な「笑う警官」と第一作と言われる「ロセアンナ」の二冊からスタートした。
そして、早々にキンドルで読み終わったので、その感想をブログに残すことにした。
 前書は水の街ストックホルムの観光船の中で殺され、全裸のまま閘門に放り出されたアメリカ人女性の話。 
後書は日常の市内バスの中で起こった乗客9人が全員銃殺される事件。 

現代社会ならテロと勘違いする大事件だが、アメリカのベトナム侵攻に反対する当時のストックホルムの日常が舞台となっていて、まさに40年前のアメリカ嫌いのスェーデン社会がそのまま描かれる。
 読みながら、興味を持ったのはやはり現代と異なるこの街の印象かもしれない。
 社会福祉と洒落たインテリアデザインが今のイメージだが、退廃したフリーセックスと麻薬と自殺、そしてデモと移民の街というのが当時のストックホルム。
やがては東京も、という先取り的陰鬱観がかってのボクの関心、今回、再読して、その奇妙な関心を呼び覚まされると同時に、本当の都市の魅力とはいったい何だろうということを改めて考えさせられた。
 新訳企画は「ミレニアム」人気がきっかけとあとがきにあったが、確かに、その陰鬱さと重いリアル感は共通している。
しかし、マルティン・ベックが面白いのはなんといっても都市と人間の絡まりにある。

2015年5月1日金曜日

アラヤシキの住人たち

自由学園の宮島真一郎先生が始められた共同学舎はもう40年も経過していた。
ボク自身も一度は訪れてみたいと思いつつ、その世界を体験する事もなく、時は過ぎ去っていた。
しかし今回、本橋さんの映画のおかげでその実体に少し触れることができた。
残念ながら、先生は完成を待たずして亡くなられてしまったのだが。
2年ほど前の6月、写真家本橋成一の「上野駅」の再版を機会とした個展を見に行った。
久しぶりにお会いした彼もまたすっかり白髪。
しかし、話は終始撮影中のアラヤシキの話ばかり。
彼が夢中になる世界は、映画を観た今はとてもよく判る。
今回もまたナージャやアレクセイを引き継ぐ、彼自身による映画製作、モトハシ・ワールドだ。
彼の話す真木の面白さは、映画が始まり、すぐ気がついた。
この世界は決してドラマではない。
ドキュメンタリーでも記録映画でもない。
出産はあるが死はない、夜明けのラジオ体操はあるが就寝はない。
何事も決して声高に語ることなく、ただただ真木の里の時間が流れる。
六本木で会ったのだが、彼はそのとき、すっかりアラヤシキの住人だったのだ。
「いま撮影中だから見においでよ、しばらくあそこにいると、もうぜんぜん時間が違うんだよね」。
いろんな人がいろんなことをつぶやき、いろんなことに夢中になる。
決して、各々は理解し、つながっているわけではない。
人と人とのコミュニケーションとは必ずしも言葉のことではない。
人々は、自分を人に伝え、人を知るため、ともに食べ、ともに働く。
強制するものは何もなく、あるのはただただ流れる時間、住人たちはその時間に身を任せ共に生きている。
そう、この世界はまさに桃源郷、いや違うな、それは「音楽の世界」と言って良いのかもしれない。
熊よけのカウベルを鳴らしながら山道を1時間半、人里から離れた小さな窪地では犬が吠え、山羊が鳴き、風が流れ、アラヤシキが建つ。
白馬連邦の山並みに囲まれた小さな集落。
かっての小谷村真木の住人たちは今は里に下り、共同学舎にその地を委ねた。
現在、この真木の外、全国5カ所に拠点を持つ学舎は、知的障害や精神的障害を持つ人々を含め、農事に関心を持ち働ける人を誰をも受け入れ、共同で生活している。
誤解されては困る、ここはコミューンでもサティアンでもない。
「競争社会ではなく、協力社会を」宮島先生の呼びかけに応じて参加した人たちは、あるひとときを米や野菜をつくり、山羊を飼い、チーズやソーセージ、菓子やパンをつくり、そしていつか山を下りていく。
真木は音楽のような世界と感じたのは、描かれた時間の流れにリズムがあり、メロディーがあるからだ。
ひとりひとりがいて、ともにある世界、さまざまな声、さまざまな音、さまざまな思いがさまざまに錯綜するが、雨と風と雪の世界に響く、食事を知らせる板木の音だけが生々しく、毎日、その世界を秩序づけている。
音楽の世界とは人間がいきる秩序だった世界のことだ。
宮島先生は「あなたという人は地球始まって以来、絶対にいなかったはず、あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはず」と語っている。
バラバラで各々個性を持つ一音一音は決して誰からも強制されることなく、しかし、ともにあるためのハーモニー(秩序)を持ちリズムを刻む。
そんな世界がモトハシ・ワールド、雪を戴くアルカディアの山懐に住むミューズたちの「音楽の世界」。