2014年11月13日木曜日

供述によるとペレイラは・・・・ アントニオ・タブッキ

「ペレイラ」はポルトガル語では西洋梨の木。
もともとはヘレニズム語で果実をつける木を意味する。
タブッキはポルトガルの歴史の中で不当な仕打ちを受けた民を敬愛し、この小説の主人公をペレイラと名づけた。
夢と現実が錯綜し時間も後戻りする、曖昧と混乱の中に幻想的な物語を構成するタブッキだが、今回は1938年の夏というリアルな時間の中で順当に推移するまるで映画のような物語を読んだ。事実、この小説は1995年マルチェッロ・マストロヤンニがペレイラを演じ映画化されたという。

小説の中のペレイラは妻を失った「リシュボア」新聞の文芸面編集長。
すでに老成した彼は静かな安定した毎日を仕事面でも休暇面でも楽しんでいる。
1938年とはサラザール独裁政権下のリスボンが秘密警察の横暴と言論封じ等の圧政で第二次世界大戦前夜の悲劇に直面している時、同時代の日本と同様多くの市民は政府の意のまま、抵抗もままならず苦しんでいる、ペレイラもまたそんな市民の一人であった。

7月のある日、ペレイラが文芸欄の編集上必要としたことだが、リスボン大学哲学科を優等で卒業したフランシスコ・モンティロを見習い記者として雇うことから物語が始まる。
読み終わる以前の予測どおり、ペラエイラはポルトガル、スペインのレジスタンス活動に賭ける若者を支援するようになる、そして、モンティロはその活動の犠牲となりこの世を去る。

しかし、物語は歴史に対する抵抗運動の話ではない。老成し安定した日常生活を送るペレイラの内面世界が描かれている。もちろん小説ではモンティロの死はショックだが、小説はそこにいたる歴史の過酷さと人間の義務がテーマとなっている。
休養と体力調整のために滞在したパレーデの海洋療法クリニックのカルドーソ医師がペレイラに語る。

「大事なのは、疑いはじめたことです。もし若者が正しかったら・・・。」と医師はペレイラの人間としての内面に深く関わる。
「個人としての規範となる常態、それは決して結果ではなく、自らが課した主導的エゴに統括されているに過ぎない。問題はさらに強いもう一つのエゴが登場した時、あなたはその新たな主導的エゴのもと生きることができるか否かだ。」

ペレイラは若者たちの意見と行動とは隔たってはいるが、自己の内面にある新たな主導的エゴには忠実、そして彼らの活動を支援する。
物語は長い間培かってきた人格や信念というものをも、必要と考えれば変えられるかどうかがポイントだ。
つまり、この物語は現実を生きる人間として写実的に描き、主人公の生き方を問い、市民としてのあるべき姿を真正面から取り上げた小説と言ってよい。

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