2014年10月29日水曜日

遠い水平線 アントニオ・タブッキ

透視画の中の消失点(焦点)や水平線が示していることは、モノや空間が無いのではなく、あるのに見えないだけだと認識させたことにある。 視覚によって見ることできる現実世界の限界はあっても、その限界は人間の住む世界の限界ではない、ということをルネサンスの透視画法は明らかにした。
タブッキはこの透視画法の水平線や焦点を目の中に持ち、物語を絵を画くようにまとめている。

須賀さんは描かれた都市はジェノア、と訳者あとがきで明かしている。 現実の都市ジェノアを知らないボクは、この本を読む楽しみは半分だったかなと思っていたが、須賀さんは逆に、「ジェノアだとわからないままで読んでみたかった気がしないでもない。」と書かれていた。
そうか、この小説を透視画法によるルネサンス絵画として眺めてみると、須賀さんのおっしゃることが判らないではない。

透視画法は実際のジェノアの街を透明な硝子板を透して眺め、その硝子板に風景をそのまま写し取り描いたもの。大事なことは描く人が目線の位置を変えなければ、その画面には目に見えなくとも水平線や焦点は画面の中に存在し続けるということ。

小説の中の見えない水平線の下の平面に、記号のようにばらまかれているのが港湾都市ジェノアのアチコチ。
各々の場所の持つ意味はジェノアを知れば地図を眺めるように具体的に理解できるだろうが、タブッキはむしろ20篇を記号としてバラバラに散りばめ、その記号的イメージをエピソード化することで、読者には読者のイメージとして自由に読者の目線(水平線上の焦点)の透視画法を読み取るよう仕組んでいる。

透視画法の焦点や水平線は観る人のものだが、焦点から観れば物語は水平線に立つ人の支配下にある。
つまり、作者であるタブッキの支配下。
それはまさにバロック都市の君主の視点。
作者であるタブッキはこの焦点に立ち、物語を支配しているがが、その場所はまた死者の位置でもあることも、この小説の面白さだ。

「 生者と死者 の間の距離はそんなに大きくない。」と書くタブッキは生者であるスピーノを極めて現実的な世界を徘徊させ、死者カルロ・ノーボディを探し回らせる。
それは場所あてゲーム、そして幻影探し。

どうやらタブッキはオースターのニューヨーク三部作同様、作家である自分自身を幻影化している。
水平線をうみ出すのは読者だが、そこに立つのはタブッキが描いた死者のカルロであり、作者のタブッキ自身。
「はっきりはかっていれば、ぼくは小説なんて書かない」と須賀さんのインタヴューに答えたタブッキ。
この小説はやはり読者自身が作家であるよう目論まれている。
そして生者スピーノは18世紀のスピノザの引用、死者カルロはノーボディ、どこにもいない人のこと。

訳者である須賀さんは「この本は、ゆっくり読んでいくのに適している。・・・・ひとつひとつのエピソードを、愉しみながら読んでほしい。・・・・結末ばかり気にしていては、見えるものも見落としてしまう。」と書かれている。
さらに須賀さんは「超えようと思えば、いつでも越えることのできる、ほんのひとすじの線にすぎない、というのが、作者の発想のもとになっている。天と地のように、生と死のように、私たちはふつう、まったく交わらないと信じていることが、じつは、そうではない。そういったことを作者は表現しようとしているようだ」と書いている。
ボク自身、例によって早読みの癖がある。
次のイタリア行きのチャンスにはジェノアを訪れ、丘の上の墓地のベンチに座り、このタブッキをゆっくり再読したいと思っている。

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