2014年9月11日木曜日

雨が降ったら「雨」と書けばいい。 小川洋子

「日記にすることで文章を簡潔にしたかった。雨が降ったら「雨」と書けばいい。・・・・・。ぶっきらぼうなほど文章を簡潔にそぎ落としていったとき、人間が浮かび上がる。」 
作家小川洋子サンのインタヴュー記事はまだ続く。 
「「博士の愛した数式」「猫を抱いて像と泳ぐ」も同じ思い。「本来感情のないはずの数式が、人間関係にかかわってくる。チェスをさす人もお互いの内面を出さないのに、盤上に何かが現れる。人間の感情から遠い場所に行っても、小説が成り立つかどうか。ずっと追いかけているテーマなんです。」

そうか、日記か。 
日記ならフィクションを意識する必要はない。 
書き手は日常世界と等身大でリアルに関わっている。 
しかし、ポイントはその中に一切の感情に関わらない「装置」をいかに仕込むか。 
その装置が「境界」となり、リアルな日常世界と非日常が分離しまた通低する、そしてそこにはじめて物語が生まれる。 

しかし、ここからは書き手の能力だ。 
読み手の感情を「境界」を行ったり来たりさせることで、語るべき物語をいかに読み手に想像させるか。 
この「境界」は従来の「額縁」あるいはプロセニアムアーチに似ているが、 フレームとして物語全体を囲い込み、日常世界とは分離した非日常な時間世界を生み出すのではなく、日常世界に仕掛けれた「装置」によって物語が生まれる。 

これはボクの「建築」の方法と同じだ。 
読み手は日常世界の中にあって、「建築」に出会うことで、初めて新たな物語を想起させられる。 
フレームにより静止空間を作りその空間を視覚的に捉え、かっこいいか、美しいかを押し付ける従来の方法に対し、絶えず動的時間の中にあって、読み手が望んだ時いつでも物語が想起される空間をデザインする。 
まぁ、「建築」もまた読み手の想像力次第ということなんだが、むしろ最近は作り手の想像力不足が気になってしょうがない。


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