2014年7月4日金曜日

ガラスの街 ポール・オースター

真夜中に電話のベルが鳴る。 クインはニューヨークに住む作家だ。 ウィリアム・ウィルソンというペンネームで、探偵マックス・ワークのミステリー小説を書いている。 ウィルソンは腹話術師として機能する。クインは人形、ワークは命ある声、ウィルソンは幻影となり、二人の生に根拠を与える。そんなクインの部屋の電話のベルが鳴ったのは、彼がマルコ・ポーロの本を手にとっている時。 電話の主はオースター探偵事務所のポール・オースターさんと話がしたい、という内容。番号違いとクインは話し、電話を切る。 蛇足だが、ポール・オースターとはこの「ガラスの街」の作家さまの名前。 電話はあくる日の夜中にも掛かってくる。 マルコ・ポーロが北京から厦門への旅を語る章をトイレの中で読んでいるとき。 クインはこの電話をとることが出来なかった。 オースターへの三度目の電話は、なかなか掛かってこない。次の日も次の次の日の夜も掛かってこない。 5月19日という両親の結婚記念日の日にようやっと掛かってくる。 その日にちに意味があるのは、クイン自身が母のお腹の中に宿った日と言われたから。 クインは私がオースターです。 電話で答えると、私は殺されようとしている、と電話主は話す。 クインは翌朝十時、七十丁目と五番街の角でバスを降り、東にゆき、マディソンアヴェニューで右へ折れ、一ブロック南に行ってから左へ曲がりアパートメントのドアを開ける。 ドアは三度目の電話の主 、ピーター・スティルマンの家。 玄関に出てきたのはヴァージニアン・スティルマン。 電話主ピーター・スティルマンの奥さんだ。 そして、ピーターの奇妙な話が、彼が赤いビロード張りの肘掛け椅子に腰を下ろし、はじまる。 僕はいま何より詩人です。・・・詩人が終わった後は・・・消防士になりたい・・・その後は医者・・・一番最後は綱渡芸人に・・・綱の上で、死ぬまで踊る。・・・と物語はいよいよ佳境に誘う。 しかし、ここまでは31ページ、残りはまだ6倍はある。 明け方には読み終わるだろう。どうやら、今晩は楽しめそうだ。 読後 ヨーロッパの都市のような確固たる形を形成することもなく、また、漱石や荷風があるいた東京の原風景、何一つ残されることなく、戦後の東京は崩壊して行った。自己形成空間や生活空間の喪失は小説にとって致命的な危機であると書き、戦後の都市と小説の関係を長編評論集としてまとめたのが奥野健男氏の「文学における原風景」。 「ガラスの街」の舞台は戦後の大都市ニューヨーク。作者ポール・オースターは1986年にこの小説を書いている。 その時代の東京は都市膨張の最盛期、郊外と称する山の手周辺は団地と中高層住宅、ハウスメーカーによる無国籍デザインの戸建て売り住宅が野山を切り開き、ビッシリとマッチ箱状に建てられた。住宅団地周辺の新しいロードサイドには、これまた無国籍デザインのレストランや中古車売り場、本屋に住まいとガーデニングの為のドゥ・イットショップが軒を連なる。これが好き嫌い以前に、我々に架せられた生活環境の変貌だ。 それを「漂う生活空間」と捉え、この空間を舞台とした、新しい小説の可能性をいかに探るかが「文学における原風景」の意味ということになる。奥野が語る日本の小説はオースターと同時代、揺らぎ漂う不確かな都市空間に重ねられ、不確かな人間模様が必死に捉えられた虚構の世界だ。 しかし、「ガラスの街」は確固たるニューヨークを舞台とした幻影の世界。オースターは小説の舞台ニューヨークをこんな風に書いている。 「あてもなくさまようことによって、すべての場所が等価になり、自分がどこにいるかはもはや問題ではなくなった。散歩がうまく行ったときには、自分がどこにもいないと感じることができた。そして結局のところ、彼が物事から望んだのはそれだけだった、どこにもいないこと。ニューヨークは彼が自分の周りに築き上げたどこでもない場所であり、自分がもう二度とそこを去る気がないことを彼は実感した。」 そう、ニューヨークはもちろん、東京とは異なる実体のある街だ。しかし、その街はどこまでも透明、ヨーロッパの街々とは全く異なる透明感を持った街。この透明感の上に描かれた透明人間たちが小説の中味となっている。 オースターの描く虚構世界は嬉しくはないし、美しくもないが、死を死として迎えられる透明感を持ち、羨ましいほど詩的でもある。 最後に、ほんの数行だけ一人称で語る私が登場する。私は最初から最後まで、見えないのだ。都市が見えない以上に私は見えることなく、実体もなく、全くの透明のまま小説は終わる。

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