2014年7月31日木曜日

リヴァイアサン ポール・オースター

「文学における原風景/奥野健男」「混住状況社会論/小田光雄」を読み、戦後の小説は都市および故郷の崩壊により文学の基盤となる原風景を喪失する中に描かれていることと、1980年以降の都市の郊外化により、私小説はますます「小さな物語」に変容しつつあるということを教えられた。

都市の崩壊と郊外化については多少知識もあり、両書を読んでいてもいろいろ教えられたが、日本の小説そのものをほとんど読んでいないので、喪失や小さな物語に特別な感想を持つことはなかった。
村上春樹等、偶々読んでいた小説も両書ではほとんど取り上げられていないものばかりだった。
日本の小説やコミック、いろいろあるんだなぁ、という感想で終わっている。

しかし、この何日か、ポール・オースターの「リヴァイアサン」にくぎ付けにされ「これは凄い小説だ」と思ったので、いろいろと気になりだした。
物語が人間の持つ普遍性や社会の理念に触れている「大きい物語」か、あるいは個人の微細な内面に関わる「小さい物語」かということより、まずはボク自身に取って面白い小説って何だろうと考えさせられることが多かったからだ。

ポール・オースターはすでに何冊か読んでいる。
しかし、この「リヴァイアサン」は特別の中の特別の小説と思っている。
小説は往々にして主人公が一人。ストーリーは始まりから終わりまで一直線とは言わないまでも、撚り合わされた線のように進んで行く。
確かに、最近の私小説では時間と場所は曖昧のまま主人公に絡まる登場人物との意志の疎通が事細かに描かれる。
心の行き違い、仄かな思いや強烈な恋心、大半はうまくいかない内面と外面、自己と他者とのずれ、そして悲劇。
しかし、「リヴァイアサン」では主人公は書かれたサックスか描いたピーターか、二人は互いに三角関係にあると同時に、最愛の妻や恋人との生活もあり、空間も時間も立体的。
描かれているフィクションは二重三重、複雑に折り重なった人間の胡散臭いがピュアでもある物語と言える。
決して二次平面の上に展開される単純なストーリーではない。

小説の舞台はオースター特有のニューヨークの下町が大半、それにバーモントの森の中とカリフォルニアのバークリー郊外、終幕ではアメリカ中の街へと拡散する。
舞台の時間は広島の原爆投下の日、1944年8月6日に始まり、1990年7月4日、アメリカ建国記念日に終わる。

チョット長いが、この小説が佳境に入る第三章、そのプロローグとなる重要な言説を引用したい。
「利己主義と不寛容、力こそ正義と信じて疑わぬ愚かしいアメリカ至上主義、といった昨今の風土にあって、サックスの意見は奇妙にとげとげしく説教臭いものに聞こえた。右翼がいたるところで力を得ているだけでも十分にひどい話なのに、彼にとっていっそう不安だったのは、それに対する有効な対抗組織があらかた崩壊してしまったことだった。民主党は力尽きた。左翼はほぼ消滅した。ジャーナリズムは沈黙していた。あらゆる議論が突如敵勢力に盗用され、それに対して反対の声を上げることは無作と見なされた。・・・・・」

ボクの知るオースターは小説の中で、政治についてこれほど直截に語る作家ではない。
どの小説でも現実は大半、韜晦と諧謔、生の政治や時代背景はある種の間テキスト性を持って描かれていたように思う。
しかし、この小説ではアメリカの「ロナルド・レーガンの時代」と括弧づきで詳細に現実世界を描いている。
そして、この時代こそこの物語を支える全ての基盤。
それは1980年代、アメリカの転機の時代であり、小田氏の混住状況社会論によれば日本の現在、2010年代に照応している。
つまり、物語は現在の我々が呼吸している生の現実であり、不満と不安に苛まれ始めた時代と言って良い。
「リヴァイアサン」は同時代の中に明確に描かれた場所と時間という現実世界をスッポリと覆う、まるで薄い透明膜のようなフィクションの世界なのだ。

韜晦を多用するオースターは本扉の裏に時々箴言を記す。
「すべての現実の国家は腐敗している。」ラルフ・ウォード・エマソン。
そして、この物語のタイトルは「リヴァイアサン」。
リヴァイアサンは旧約に登場する幻獣、いや、トマス・ホッブスの「近代国家」。
読み終わって見てわかることだが、オースターは国家の下に生きる等身大の我々の事を書いているのだ。

しかし、このブログも速読みしてもらっては困る。
オースターは決して、反政府、反国家、反自由を書いているわけではない。
確かに物語はサックスの爆死に始まり、怪人によるアメリカ中の自由の女神の爆破に終わる。
そして、近代国家の腐敗を箴言にしたエマソン。
しかし、箴言は「腐敗は現実の国家」であって、「未来を生きる理想的理念の存在」を敢えてこの言葉に隠しているのだ。
この小説のポイントはここにある。

描かれるのは3つのカップルの奇妙な三角関係、複雑に絡まり合う嫉妬に批判、セックスに純愛。
どの場面も場所と時間は周到に記される。
全体はギャツビーに似て、主人公だけの物語ではなく、語り手の物語でもある錯綜した形式だが、どこまでも現実を現実として追う、推理ドラマのようでもある。
そして、厄介なことに、大きな虚構の中に、全てが二重、三重のフィクションとして描かれている。

さらに、この厄介なフィクションから浮き上がって見えてくるのが、国家の理念、現実には悲惨も悲観もあるが、自由な意思が羽ばたき、理想があるというエマソンの箴言だ。
滑稽な人間どもが取る行動ではあるが、そこには自由な意志があり、理想がそれを支えているのだ。
ピーターが最後に古書店で見つけるサックスの「模倣のサイン」には、思わず涙を落としてしまった。





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2014年7月15日火曜日

永遠の一瞬 ドナルド・マグリーズ

舞台劇を観ることはほとんどなかった。
週末の図書館で「悲劇喜劇」の新刊(8月号)を手に取った。
めったにないコトだが、 巻末の戯曲が気になったからだ。
「永遠の一瞬」の公演は毎月送られて来るTheAtreで知っていた。
シナリオを読むという経験はほとんど無かったが、読み始めてみると引き込まれていた。
1時間ほど読んだだろうか、舞台を観たいという衝動が疼き始めた。
携帯でボックスオフィスに連絡すると、明日の(月曜日)のバルコニーならまだチケットはあるという。
今日の午後、新国立劇場の小劇場に出かけた。

ドラマは舞台奥のTVモニターがスイッチオンされ、シャシャー音が鳴り響いた時、始まった。
幕のない舞台が明るくなると、そこはロフト風のアパートの一室。
その部屋に爆弾テロで九死に一生を得、松葉杖をついたサラが恋人ジェームズに助けられ戻ってくる。
サラは戦場カメラマン、ジェームズはライター。
ほどなく、雑誌社のフォトエディターであるリチャードと、彼の新しいガールフレンド、マンディが見舞いにやって来る。
戦地、難民キャンプで命を賭ける恋人同士と、結婚を決めた年の離れたカップルの四人、彼ら彼女らの趣味と仕事と人生観、生き方の違いがドラマの内容だ。

見慣れていない舞台劇では印象としてのフィクション性が先に立ち、リアルティを見つけるのが難しいのだが、このドラマではシナリオを走り読みしていたせいか、すんなり入り込めたようだ。
いや、演出だろう、個々人の極めて奥底に触れるシリアスな会話劇であるため、ドラマからはことごとくフィクション性を排除し、4人各々の胸のうちを切々と言葉にしていく。

戦争、飢餓、大量殺戮はイベントなのか?
死に行く子どもを助ける事なく、何故、シャッターを切るのか?
一枚の写真によって、始めて知らされる不幸と残虐、しかし、戦争は決して、永遠に終わることはない。
世界は永遠に続く飢餓と戦争、しかし、人はネガティブな記事ばかりを好んではいない。

アドレナリンを放出してカタルシスの体験を喜ぶ虚構、それは、撮る人なのか観る人なのか。
極めて虚構性を排除した舞台は暗転となり消えるが、サラのカメラの閃光が虚構の客席に鋭く一瞬の意味を問い、ドラマは終わる。

翻訳・常田景子
演出・宮田慶子
出演・中越典子・瀬川亮・森田彩華・大内浩
美術・土岐研一





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2014年7月12日土曜日

ボルノウの希望

18世紀後半、アンシャンレジームにより人間はようやっと誰にもおかされない自由を手に入れたが、20世紀の二つの大戦は人間は決して理性的には生きることができない動物であることを証明してしまった。
しかし、ボルノウは「希望」をテーマに、人間について考えた。
理性ではなく衝動と欲望の動物である人間が「希望」を抱ける条件は何だろうと。
彼は人間が形成してきた文化(生き方)について調べることで、そのような文化を形成する人間の本質について考え続けている。

ボルノウが重視することの一つは、幼児の時代においては庇護されているという「信頼」の感覚。
大事なもの形あるものが壊れることがあっても、小さい時には「保護」されているという感覚が盾となり、それを乗り越えることができたのだから。
さらに、敵対的な世界の脅威に立ち向かう力はこの「保護」されていたことへの「信頼」のうちに育てられてきたと考えた。

「希望」とは底なしの淵へ没落するのではなく、またきっと救い上げられるという確信。
「希望」は不安と挫折を超えた人間の生活の土台となるもの。
確信を与え、土台をささえるのはボルノウはこの「信頼感」と言っている。

「希望」にとってもう一つ重要なことは「出会い」。
人間にとって「出会い」は偶然的なものであることは免れない。
あるいは、「出会い」はいくつもの可能性から選ぶこと、決断すること、賛成するか反対するかを強いるものです。
「出会い」は予期することはできないが、そのための用意だけは出来る。
教養と出会いのあいだには依存関係が生まれる。
教養は人生のお飾りではなく、教養の為にあるものではない
広い教養(リベラル・アーツ)は個々の出会いを偶然だけに終わらせない為の用意と言えるもの。

「信頼感」や「出会い」を支えるもの、ボルノウは、それは「親密な領域=家」、人間の空間と言っている。
つまり、ボルノウの「希望」は大きく意訳すると「信頼感」と「出会い」のある「建築」に支えらていると言って良い。
「人間と空間/オットー・フリードリッヒ・ボルノウ/せりか書房」を再読しつつ深夜になった。
しかし、つくりそして壊す、ボク自身の「建築」のなかでは、まだボルノウの言う「生きられている時間と空間」を見い出せてはいない。






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2014年7月6日日曜日

黒の過程 マルグリット・ユルスナール

久しぶりに重量感溢れる小説だった。
ユルスナールは広くて深い、前回の「ハドリアヌス帝の回想」で感じたことだが、普遍的に生きようとする近代人間の孤独と悲しみを克明に描いている。
この小説もまた長編ではあるが、大作と呼ぶものとは異なる愉しみを持っている。それは主人公ひとりの内側と外側のすべてが描かれているからだ。つまり、時代や社会や人間、ありとあらゆるものを描くのではなく、ゼノンという独りの人間を語り続ける。
中世から近世へと、激しく流れる時間とじっととどまる都市と建築の空間。
そんな外側に吹き飛ばされ、懸命にしがみつき、ゼノンは近代を生きる自分自身を省察する。
読んでは戻り、ページを繰っては考えさせられる。読み終わることを恐れているような、不思議な重みのある読書体験だった。


16世紀宗教改革に揺れる西ヨーロッパ。
その世界はプロテスタントとカソリックの争いと括りがちだが、それはこの小説が描きたかった世界の姿ではない。
描かれた世界は、唯物的、物質的、現実的、背教的に生きざる得ない主人公ゼノンの、つまり、近代的人間に課せられた生き様の模索と言って良い。
「ペストは別段足を速める様子もなく、皇紀のように鐘の音をともなって旅を続けた。飲んだくれのコップをのぞき込み、本に囲まれて腰を下ろしている学者の蝋燭を吹き消し、司祭のあげるミサに仕え、蚤のように娼婦の下着にひそみ、ペストはあらゆる人間の生活に、無礼きわまりない平等の要素をもたらし、荒々しく危険な冒険の酵母を混ぜ込んだ。」(p108)
ユルスナールが描きたかった人間の悲しみがここにある。
近代を生きる喜びは、この「平等そして均質の中に」こそあるはずだったのに、ゼノンがその中に見たものはペストだけだった。

ゼノンの父親アルコベリコ・デ=ヌミはフィレンツェの大商人の息子。
ジュリアーノ・ファルネーゼの友人であり、ジョヴァンニ・デ・メディチと従兄弟だが、歴史上のジョヴァンニと同じようにデ=ヌミは従兄弟のジュリオ・デ・メディチに殺される。
母親はフランドル、ブリュージュの大商人を兄に持つ敬虔な女性イルゾンド。
しかし、未婚の母から生まれたゼノンはフィレンツェにもブリュージュにも生きる場はなく生涯、孤独と放浪の旅を続ける。
無神論者の彼は錬金術師(黒の課程とは錬金術においての化金石にいたる最も困難な段階)、それはつまり、医者であり科学者、物事をすべて合理的に思考する人。そして、彼はまさに前代との狭間を生きた最初の近代人だったのだ。
描かれた孤独と放浪と悲しみは現代人の持つ心象風景、ゼノンはその後の全ての人間を象徴した人。

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2014年7月4日金曜日

ガラスの街 ポール・オースター

真夜中に電話のベルが鳴る。 クインはニューヨークに住む作家だ。 ウィリアム・ウィルソンというペンネームで、探偵マックス・ワークのミステリー小説を書いている。 ウィルソンは腹話術師として機能する。クインは人形、ワークは命ある声、ウィルソンは幻影となり、二人の生に根拠を与える。そんなクインの部屋の電話のベルが鳴ったのは、彼がマルコ・ポーロの本を手にとっている時。 電話の主はオースター探偵事務所のポール・オースターさんと話がしたい、という内容。番号違いとクインは話し、電話を切る。 蛇足だが、ポール・オースターとはこの「ガラスの街」の作家さまの名前。 電話はあくる日の夜中にも掛かってくる。 マルコ・ポーロが北京から厦門への旅を語る章をトイレの中で読んでいるとき。 クインはこの電話をとることが出来なかった。 オースターへの三度目の電話は、なかなか掛かってこない。次の日も次の次の日の夜も掛かってこない。 5月19日という両親の結婚記念日の日にようやっと掛かってくる。 その日にちに意味があるのは、クイン自身が母のお腹の中に宿った日と言われたから。 クインは私がオースターです。 電話で答えると、私は殺されようとしている、と電話主は話す。 クインは翌朝十時、七十丁目と五番街の角でバスを降り、東にゆき、マディソンアヴェニューで右へ折れ、一ブロック南に行ってから左へ曲がりアパートメントのドアを開ける。 ドアは三度目の電話の主 、ピーター・スティルマンの家。 玄関に出てきたのはヴァージニアン・スティルマン。 電話主ピーター・スティルマンの奥さんだ。 そして、ピーターの奇妙な話が、彼が赤いビロード張りの肘掛け椅子に腰を下ろし、はじまる。 僕はいま何より詩人です。・・・詩人が終わった後は・・・消防士になりたい・・・その後は医者・・・一番最後は綱渡芸人に・・・綱の上で、死ぬまで踊る。・・・と物語はいよいよ佳境に誘う。 しかし、ここまでは31ページ、残りはまだ6倍はある。 明け方には読み終わるだろう。どうやら、今晩は楽しめそうだ。 読後 ヨーロッパの都市のような確固たる形を形成することもなく、また、漱石や荷風があるいた東京の原風景、何一つ残されることなく、戦後の東京は崩壊して行った。自己形成空間や生活空間の喪失は小説にとって致命的な危機であると書き、戦後の都市と小説の関係を長編評論集としてまとめたのが奥野健男氏の「文学における原風景」。 「ガラスの街」の舞台は戦後の大都市ニューヨーク。作者ポール・オースターは1986年にこの小説を書いている。 その時代の東京は都市膨張の最盛期、郊外と称する山の手周辺は団地と中高層住宅、ハウスメーカーによる無国籍デザインの戸建て売り住宅が野山を切り開き、ビッシリとマッチ箱状に建てられた。住宅団地周辺の新しいロードサイドには、これまた無国籍デザインのレストランや中古車売り場、本屋に住まいとガーデニングの為のドゥ・イットショップが軒を連なる。これが好き嫌い以前に、我々に架せられた生活環境の変貌だ。 それを「漂う生活空間」と捉え、この空間を舞台とした、新しい小説の可能性をいかに探るかが「文学における原風景」の意味ということになる。奥野が語る日本の小説はオースターと同時代、揺らぎ漂う不確かな都市空間に重ねられ、不確かな人間模様が必死に捉えられた虚構の世界だ。 しかし、「ガラスの街」は確固たるニューヨークを舞台とした幻影の世界。オースターは小説の舞台ニューヨークをこんな風に書いている。 「あてもなくさまようことによって、すべての場所が等価になり、自分がどこにいるかはもはや問題ではなくなった。散歩がうまく行ったときには、自分がどこにもいないと感じることができた。そして結局のところ、彼が物事から望んだのはそれだけだった、どこにもいないこと。ニューヨークは彼が自分の周りに築き上げたどこでもない場所であり、自分がもう二度とそこを去る気がないことを彼は実感した。」 そう、ニューヨークはもちろん、東京とは異なる実体のある街だ。しかし、その街はどこまでも透明、ヨーロッパの街々とは全く異なる透明感を持った街。この透明感の上に描かれた透明人間たちが小説の中味となっている。 オースターの描く虚構世界は嬉しくはないし、美しくもないが、死を死として迎えられる透明感を持ち、羨ましいほど詩的でもある。 最後に、ほんの数行だけ一人称で語る私が登場する。私は最初から最後まで、見えないのだ。都市が見えない以上に私は見えることなく、実体もなく、全くの透明のまま小説は終わる。