2014年5月19日月曜日

悪徳の栄え マルキド・サド

限りない悪徳のファンタジー、しかし、判りやすい哲学書と言って良い。
中世以来のキリスト教からいよいよ決別し、新たに人間と自然との関係を問わなければならなくなった18世紀後半、「美徳に奪われた権利を自然が取り戻すのも、悪徳のみのおかげです。」とする主張は説得力が有る。
しかし、「本当はあたしたちが自然にさからうことだけが、罪と呼ばれるべきなので、こういう罪は自然がけっして赦してはくれますまい。」と書かれると、安易に自然との一体化を口にする我々は肯首してしまうが意味は全くの真逆であることに気がつく。
西洋文化の中の「自然」はわれわれの自然とはかなり異なっている。
西洋にあって自然はいつも人間の外側にあって我々と対峙している存在なのだ。
自然を愛していると容易に語る我々は自然とは一体、その分離の結果としての西洋の機械化文明を我々は口々に非難する。
しかし、もともと自然の一部である人間が「人間」であることを明確に自覚したとき、はじめて今に受け継がれる文明(建築も同じ)が誕生した。
そして、自然を自然としての人間とは区別し対象化して捉え続けてきたのが西洋文明であり、キリスト教。
18世紀の哲学はキリスト教なき後の人間と自然との関係の新たな問い直しということになるが、サドはその末期、デカルトやカントという人間側からの問いではなく、自然の側から鋭く人間を問いている。
そして、あらゆる人間の「悪徳」を網羅し、「自然が人間を創ったのは人間が地上のありとあらゆるものを楽しむためにこそでした。これが自然の鉄則であって、あたしの心の鉄則も永久にこれのみです。」とジュリエットに語らせ、この書を書き終える。
最初に書いたように、この書はまさにファンタジー、人間が想像しうる悪徳のすべてがジュリエットによって語られている。
読んでいて時々、ピラネージの牢獄を思い出した。
あるいは、ダンテの地獄だったかもしれない。
14世紀、16世紀、18世紀のヨーロッパは低成長、経済や社会の展開とは異なる時代、積極的に時代の展望が開かれない世紀。
サドの時代は歴史に規範を見いだそうとする古典主義時代でもあったのだ。
そして、20(21)世紀の我々もまた一向に新しい時代の展望を開けそうにはない。

 


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