2014年5月27日火曜日

穴 小山田浩子


コンビニが一軒だけある田舎の町。
そこは夫の実家のある小さな町。
都市に住まう夫婦二人は夫の転勤でこの町に住む。
幸い、実家の隣家が夫の両親が持つ貸家。
妻は仕事を失い収入は減るが家賃はゼロ。
まだ子どもがいない、この妻の専業主婦生活が始まる。
隣家の舅と姑は夫と同じように、毎朝、車で職場に向かう。
車は各々別々、舅だけが普通車で姑と夫は軽のよう。
毎朝、残されるのは車も自転車も無い専業主婦。
いや、隣家には毎日、庭に水撒きをする九十歳近い義祖父がいる。
物置小屋のような別棟には、専業主婦が全く知らされていない義兄がいる。
川沿いのコンビニの近くの土手には、黒い獣の小さなたくさんの穴。
穴は義兄の小屋と実家を隔てるブロック塀の路地にもある。
ある日、義父が町を徘徊し、やがて肺炎で亡くなる。
隣家での葬儀には舅、姑、夫も知らない近隣の住人。
やがて、妻はコンビニを訪れパートの仕事を得る。
自転車で土手を走り、専業主婦生活が終わる。

読後感想
上手いね。
ファンタジーいや、リアルな空間に浮遊する幻影か。
読まされました。

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2014年5月20日火曜日

バルテュス展

バルテュスの絵は観る絵であって、考える絵ではないようだ。 猫がなぜ可愛いか、などと考えても意味がないように。 ビデオの中のバルテュスは語っている。 自分は芸術家ではない、絵を描く職人だと。 展覧会場の第一室にバルテュスが模写したピエロ・デラ・フランチェスカの絵があった。 ヤッパリそうか。 一人よがりの妙な得心を持って、彼の絵画の世界にわけ行った。 彼が描き続けたのは、中世やルネサンスの宗教画のように静寂で織り目正しい、しかし、どこか寂しい具象画ばかり。 光の中の世界が色とカタチとテクスチャーによって画布の中に丁寧に具体的に構成される。 描かれた少女はどれも不自然のポーズで片脚を組むが、 表情は硬く、視線は的を得ず他者とはばらばら。
勿論、絵を観るものの視線など眼中にない。 見方を変えればまるで神聖な機械のよう。 ルネサンス特有の透視画法も退けられ、 様々なカタチある物体はなにを意味する事なく、 ただただ二次元の静止画の上にバランスよく散らばっている。 かって、有元利夫の絵が好きだと書いた。 藤田嗣治も嫌いではない。 バルテュスはこのふたりに似ている。 だから、昔からバルテュスの絵も好きだ。 あえて言葉を探すと、 彼の絵はリアルな日常だが何処か非現実。 見る人を拒否し、距離を置く。 迎え入れようという優しさなど何処にもなく、 群れることを拒否し孤独を誘う。 最近読んだ好きな作家を持ち出せば、 それは間違いなく、アントニオ・タブッキだ。 さして混むこともない平日の会場。 二時間以上ほっつき歩いたが、 何も言わないのだから、何も聞こえない。 でも、有元利夫展同様、中世的な音楽が絶えず鳴り響いていたような気がする。

2014年5月19日月曜日

悪徳の栄え マルキド・サド

限りない悪徳のファンタジー、しかし、判りやすい哲学書と言って良い。
中世以来のキリスト教からいよいよ決別し、新たに人間と自然との関係を問わなければならなくなった18世紀後半、「美徳に奪われた権利を自然が取り戻すのも、悪徳のみのおかげです。」とする主張は説得力が有る。
しかし、「本当はあたしたちが自然にさからうことだけが、罪と呼ばれるべきなので、こういう罪は自然がけっして赦してはくれますまい。」と書かれると、安易に自然との一体化を口にする我々は肯首してしまうが意味は全くの真逆であることに気がつく。
西洋文化の中の「自然」はわれわれの自然とはかなり異なっている。
西洋にあって自然はいつも人間の外側にあって我々と対峙している存在なのだ。
自然を愛していると容易に語る我々は自然とは一体、その分離の結果としての西洋の機械化文明を我々は口々に非難する。
しかし、もともと自然の一部である人間が「人間」であることを明確に自覚したとき、はじめて今に受け継がれる文明(建築も同じ)が誕生した。
そして、自然を自然としての人間とは区別し対象化して捉え続けてきたのが西洋文明であり、キリスト教。
18世紀の哲学はキリスト教なき後の人間と自然との関係の新たな問い直しということになるが、サドはその末期、デカルトやカントという人間側からの問いではなく、自然の側から鋭く人間を問いている。
そして、あらゆる人間の「悪徳」を網羅し、「自然が人間を創ったのは人間が地上のありとあらゆるものを楽しむためにこそでした。これが自然の鉄則であって、あたしの心の鉄則も永久にこれのみです。」とジュリエットに語らせ、この書を書き終える。
最初に書いたように、この書はまさにファンタジー、人間が想像しうる悪徳のすべてがジュリエットによって語られている。
読んでいて時々、ピラネージの牢獄を思い出した。
あるいは、ダンテの地獄だったかもしれない。
14世紀、16世紀、18世紀のヨーロッパは低成長、経済や社会の展開とは異なる時代、積極的に時代の展望が開かれない世紀。
サドの時代は歴史に規範を見いだそうとする古典主義時代でもあったのだ。
そして、20(21)世紀の我々もまた一向に新しい時代の展望を開けそうにはない。

 


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2014年5月9日金曜日

愛の妙薬 ライブビューイング

愛の妙薬 ライブビューイング
今年のライブビューイングの始まりは「愛の妙薬」。
演出はバートレット・シャー、「ホフマン物語」でボクを魅了した人。
その面白さはすでに触れたが、今日は加えて大好きなドニゼッティのオペラ。
シャーの演出の面白さは彼の独自性の発揮にある。
前回のホフマンは決して孤独ではなかった。
ロマン主義いや個人主義の詩人ホフマンだが、彼にはいつもミューズであるニクラウスがついていた。
そんな舞台にすっかり魅せられ、時々DVDを聴く。
今日の「愛の妙薬」、幕間でシャーはドタバタ喜劇では終わらせず、人間ドラマとしてできるだけリアルに描いた、と解説している。
しかし、今日は、ボクは気に入らない。
確かに、気に入っているグライドボーン、あるいはYouTubeにもアップされているウィーンのシュタッドオパーとは大きく異なり、リアルな人間の物語。
というよりつきなみのよくある三角関係の物語。
そう現代風に二人は互いにリアルに相手の愛を探り合う。

もともとこの物語は第一幕でアディーナがトリスタンとイゾルデやマルスとヴィーナスの物語を語るように、中世の騎士物語やギリシャ神話の三角関係を下敷きにした喜劇。
そもそも、恋する男はいつの時代も、ホンモノであればあるほど喜劇的。
だからこそ、このオペラの面白さはドタバタにあり、二幕の「人知れぬ涙」が際立って真実味をおび心を打つ。
ネモリーノが垣間見たアディーナの涙。
男が知る愛の喜びは何故あれほど悲しみ持って歌わなければならないのか。
ドタバタでしか説明できない恋をした男の琴線だ。
シャーの演出ではこの喜劇のもっとも重要な役割を果たすはずのキューピット、そう、惚れ薬売りのドゥルカーマラが今日のオペラではまったく生きてこない。
それは歌手のアンブロージュ・マエストリの責任ではなくシャーの演出にある。
シャーはドラマの現実感を強めるために舞台背景は逆に奥行きを消し絵画的、2D化したと語っている。
なるほど、映画でオペラを観る観客を充分に意識した演出。
そして相変わらず2Dしか聴いていないネトレプコだが、今日も文句なしのディーバ、いや今日の役は神話の中のヴィーナスと言って良かろう。
奔放自在、シャーの演出を超え、男だったら誰でも惚れる魅力たっぷりのアディーナを歌い続けてくれた。

2012年11月7日
by Quovadis

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