メディアとしての都市・建築・音楽をテーマとしたkindle版を2013年10月に出版した。内容は古代ギリシャからバロックまで、西ヨーロッパの「都市」を支えてきた「音楽と建築」についてのアンソロジー。Part1~Part3は神話、風景としての「音楽と建築」、Part4~Part5はオペラを生み出すイタリア諸都市の「音楽と建築」。国立音楽大学での「講義ノート」から書き下ろしている。
2014年12月2日火曜日
2014年11月30日日曜日
メディアとしての音楽と建築=Commedia
2014年11月10日月曜日
ルネサンス建築はモダンだった
2014年11月3日月曜日
ピアノの時代
十八世紀は視覚革命の時代。タブローに描かれる世界は最早、中世の神の世界でもなければ、ルネサンスの人間中心主義を支えた透視画法でもない。
それはルドゥの建築に示される平行図像、気球から見たようなアイソメトリックな世界だ。
神の目に変わり、人間の目で世界を見ることが可能となった十五世紀以来、我々は透視画法を利用し、部分と全体を調和させた建築的世界を作ってきた。
しかし、十八世紀、建築家は人間中心の目を捨て、再び古代ギリシャの天使の目を希求している。
それは全てを等角投影、等距離におき、何処にも絶対的中心を置かない世界像。
ルドゥとモーツアルトは同時代人。
モーツアルトは人間の歌を楽器演奏の音楽へと導き、すべての世界をを楽音によって表現して行く。
ルドゥは人間の視線を解放し器械的記号化により世界を描いて行く。
十八世紀は「ピアノの時代」だ。
その初頭、フィレンツェで生まれたピアノはモーツアルト、ベートゥヴェンによって全く新しい音楽の世界を開いて行った。
ピアノの時代は、現代のコンピュータの時代に似ている。
アナログメディアをデジタル化していく現代のコンピューター技術者に似て、モーツアルトは開発時代のピアノ(コンピューター)を操り、あらゆる歌を軽快な機械音と同調させ、ウィーン中の居酒屋(ゲームセンター)を沸かせている。
彼はまさに現代社会におけるゲームやアニメづくりの天才と全く同じだ。
「ベートーヴェンの32曲のピアノソナタは新しいテクノロジーを貪欲に取り入れ、それと格闘してきた歴史でもある」と渡辺裕氏は書かれている。
ベートーヴェンの最新式ピアノとの格闘は、コンピューターを手にして、未だプリントメディアを超える新発想を見いだし得ていない、我々の姿に近いかもしれない。
ギリシャの時代は「天上の館」が建ち、「天体の音楽」が響いた時代。
巨大な楽器であつた宇宙、そこでは固有のメロディーが奏でられ、そのメロディーの中には世界を解きあかす法則が秘められていた。
芸術が、すなわち技術であった彼らの時代、宇宙はある種のスーパーコンピューター、数学的法則はそのためのソフトウェアーと言って良い。
しかし、十七世紀後半、ニュートンがプリンキピアによって、スーパーコンピュータとしての「宇宙=世界」を解体した。結果、天体は音楽を奏でる場ではなくなった。
十八世紀後半の「ピアノの時代」、建築家はルドゥは気球に乗り新しい理想世界を想像し、モーツアルトとベートゥヴェンは新しいピアノを駆使し、再び「天上の館、天体の音楽」を奏でようとしていた。
そして現在の我々はバームの中のスマホを駆使し、懸命に新しい世界を想像しようとしている。
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2014年9月30日火曜日
オルフェオの終焉、以降
2014年9月21日日曜日
ヒュプネロトマキア・ポリフィリ
15世紀イタリアの奇書「ヒュプネロトマキア・ポリフィリ」については数年前、Quovadisで取り上げたことがある。
当時、「ダヴィンチ・コード」がブームだったが、ボクは小説なら同時期出版された「フランチェスコの暗号」のほうがはるかに面白いと言いたかったからだ。
しかし「ヒュプネロトマキア」は「暗号」の一部であって、「フランチェスコの暗号」でもその周辺情報しか触れていない。
ボク自身は奇書そのものにも興味が惹かれ、その後調べても見たのだが、全く情報もなくお手上げ、すべて????で終わっていた。
ヴェネツィア建築大学ジョルジョ・アガンベン教授の「イタリア的カテゴリー」の中に「言語の夢」という章がある。偶々見つけたことだが、ここになんと「ヒュプネロトマキア」について30ページに渡って論述がなされていた。
「イタリア的カテゴリー」とは何かと言えば、「詩は何故必要か」という問いかけ、ポイエーシス(制作すること)とプラクシス(実践すること)の関係を問うことで「人間」の中味に言及しようとしている。
「人間」についてそれほど自覚的ではない我々にとっては「中味のない人間」を問うことは意味のないことかもしれないが、「イタリア的カテゴリー」はイタリアをテーマとしたのではなく古代から現代にいたる「人間の中味」「詩学に於ける言語と言葉」が問題となっている。
どうやら「ヒュプネロトマキア」はラテン語の幹に生きた俗語(母語としてのイタリア語)を接木した二重言語主義がテーマのようだ。
この奇書はルネサンス・イタリアの知的遊戯と言ってしまえばそれまでだが、アガンベン教授は「言語の夢」の中でこんな解説をしている。
この物語のポリフィロとポリアはダンテとベアトリーチェ、あるいはポリアはラテン語、ポリフィロは俗語に置き換えられる。
15世紀イタリアは都市や家族どころか人間にとって最も基本的な言語そのものの危機、知識人にとっては俗語も絶え間ない死にさらされていた。
そして「ヒュプネロトマキア」は14世紀のダンテの詩における諸テーマに類似させ作られている。
詩における愛の経験は生の出来事に対する言葉の根源的絶対性、生きられたものに対する詩作されたものの絶対性に支えられている。
しかし、今やその関係は転倒。
そんな詩作上の危機感から「ヒュプネロトマキア」がつくられた。
ということのようだ。
考えてみればボクの知るダンテ、ペトラルカ、アルベルティ、後年はラテン語だが初作はみな俗語、現在に言うフィレンツェ語が中心となるイタリア語だった。
「神曲」はイタリア語で書かれているからこそ、現代イタリアで小中高校と勉学中の全員が学ばなければならない教科書となっている。
しかし、ボクはラテン語は古代からのヨーロッパ公用語であるから、普遍的な論を立てる時の必要上の言語とかってに思い込んでいたのだが、それは余りにも浅はか、まさに人間の中味が全く理解できていないようだ。
ダンテが組み立てた清新体派の抒情詩の意味を理解しなければ、ボクは永遠に転倒に転倒を繰り返さざるを得ないかもしれない。
先の「言語の夢」はさておき「イタリア的カテゴリー」にもうすこし留まっていることにした。
序文に戻ると70年代にアガンベンはイタロ・カルヴィーノとクラウディオ・ルガーフィオーレとの三人で雑誌の発行を計画していたと言う。
目的はイタリア文化のカテゴリー的構造を究明しようとするもの。
発刊にはいたらなかったそうだが、この時ルガーフィオーレは「建築/優美」という対概念を提示していたと言う。
つまり、数学的かつ建築的な秩序によっての支配と移ろいゆくものとしての美の知覚。
このカテゴリーこそ、ボクの関心があるところ。
検索したが、残念ながらまだルガーフィオーレの「建築/優美」は見つからない。
しかし、松岡正剛がアガンティを解説する記事を千夜千冊(2009年10月14日)に書いていたのを思い出した。
久しぶりに読んでみて、そうか、やっぱりこの辺りだったんだ、ボクの関心。
その後、前に進むことは出来なかったが、イタリアに関わってみようという気持ちだけは今も変わらない。
2014年9月5日金曜日
幻影の書 ポール・オースター
名作映画「ルル・オン・ザ・ブリッジ」の監督であり、脚本家、そして現代アメリカ最高の小説家ポール・オースターの「幻影の書」を先週末、図書館から借り出し、ナイトキャップ代わりナイトブックとして楽しんだ。
アメリカの映画と小説はTVやネット、新聞以上に21世紀を最もポピュラーに表現する媒体といって良いのではないだろうか。
映画と小説どちらにも秀でているオースターは、こともあろうに今度はこの「幻影の書」によって、まさに映画と小説による「20世紀の鎮魂歌」を生み出した。
すべてが真実、すべてがあり得ない話。そして、すべてが消えさる壮大な虚構あるいは幻影。「わたしが月を見なかったなら、月はそこにはなかったのだ。」
やはり、彼は面白い、明日はまたオースター漁りだ。
この書は読みやすいから蛇足だが、若干内容に触れると、忽然と姿を消した無声映画時代の俳優の話。そして映画づくりでも良くあるように、オースターはこの物語の中に、「ガラスの街」のピーターや「リヴァイアサン」のサックスを登場させている。つまりフィクションの中に既に知られているフィクションを重ね合わせることでオースターは通俗的ではあるが、ある種の現代の世界観を描き出している。
日本の私小説のような私とアナタの物語ではなく、どこまでも彼(三人称の普遍的人間)を描こうとする姿勢。このスタイルこそ、エンターテイメントではあっても芸術的と呼べる古来からの方法と言って良いのではないだろうか。
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2014年8月27日水曜日
藤村の散文をめぐって
早くから英語もフランス語もマスターし、漢籍にも関心が高く、五七調の詩を書き、散文の世界にも関わっている。
その経緯はふるいものを壊し、新しい言葉を新たに作っていく。その時全てを壊すのではなく、いいものは残す。
藤村の方法はまさに、言葉の「継立て」と言えるようだ。
継立てとは 「夜明け前」にも度々登場する言葉。
街道において「宿」から「宿」へと「ひと」「もの」「情報」を 継立てていく。
この日、堀江敏幸氏の講演は「継立て」に視点を置いての藤村文学の話しと言ってよい。
藤村の故郷は美濃と木曾の境界にあり、中山道の宿、馬籠。そこは文字通り継立ての場。その文学もまた明治と大正の狭間、同時代、表現された言葉も文語と口語を継立てている。
藤村は言葉を「継立て」ることで、自らの文学を留まらせることなく、新たな表現を模索し、人間世界への洞察を深めていく。
藤村がもつ文章を書き続けていくことのしぶとさはこの「継立て」にあったようだ。
講演の後半で具体的に触れた作品は「柳橋スケッチ」の中の「海岸」。
「柳橋スケッチ」自体が5つの短編で作られているが、その中の一つの短編「海岸」は4部に分かれている。
内容は一文一文、時間が行ったり来たりする複雑な構成。
それは時間のズレを読者と共有しようとするもので、まさに柳橋の下を流れる水のように、絶えず揺れ動いている文章だ。
藤村は小さな短編を書いているのだが、それは大きな長編小説と全く変わることはない。
だからこそ、彼はその全体を「スケッチ」と呼んだのであろう。
「柳橋スケッチ」を一度も読んだことの無いボクにとって、堀江氏の言わんとするところを百パーセント理解できたわけではない。
しかし、メモ帳に残された走り書きはどれもこれも興味ある事柄ばかり。
すでに講演から1週間も経ってしまったが、幸い 「柳橋スケッチ」を電子ブックで見つけることが出来たのでメモ帳を片手に読んでみた。
「柳橋スケッチ」は柳並木、柳橋、神田川の岸、日光、海岸という5つの短編の一群とした中編小説。
明治から大正という狭間の時代に書かれている。
それは藤村自身が3人の子を失い、妻を失い、こま子との関係に懊悩している時。
そして彼がまさに自らの「新生」に向かおうとする象徴となる作品と言える。
特徴的なのは前半3部が川、藤村の日常生活の場である柳橋、神田川での考察、そして後半は海への思考。
この川から海への展開の「継立て」になるのがワイルドの「獄中記」であり、藤村を「新生」に導く。
川と海は死と再生のイメージを喚起し、生きる上での新たな活力を感じさせる。
その各々はバラバラなアンソロジーだが、全体は一つの長編のような構成。
事実、川部分の3部は長編小説の「新生」そのものと言える。
私とK君の川岸での出会いに始まり、静思、自省、停滞、澱み、理由のない寂寥感が描かれている。
転機を描く「日光」の編。
「私」という人間を規定している肉体的苦痛から旅行へを導くもの、それは獄中記への親近感と苦痛から遊離した虚構の持つ霊的な力と言えるようだ。
「彼(ワイルド)の「新生」とは人生を持って芸術の形式となすにあった。かくして始まる芸術的生活は結局一種の作り物語であろうと思うけれど、彼のいわゆる知力的勇桿には動かされる。」そして、「心がかわいてきたーどれ、日光を浴びようか」 (「日光」から引用) と藤村自身の「新生」への継立てを宣言する。
最後の編、「海岸」は今日の講演の堀江氏自身の継立てでもあるようだ。
藤村の特別な研究者でもない堀江氏が坪内祐三氏に請われ「明治の文学」の編集に関わったことからこの「海岸」に出会っている。
この短編は明治期に書かれ大正期に出版された。
文体には時代の気風が反映されるので、よくあることだが、書かれた時と校正し出版された時とのタイムラグはそのままズレとなって文章にはあらわれる。
「上総の海、とうとうこの海岸の漁村へ来た」 (「海岸」から引用) 、
今までの文体と異なり、まるで前代の雅文のような調子で藤村は「海岸」を書き始める。
つまり古い文体だが新しい精神を表現する。
中盤では海を写生する画学生の絵に現実の海にはない船が描かれていることから、無為、空虚、平凡な日常を引き吊り旅に出た自分だが、ごくわずかな間、 画学生の考えによって日常の海を「永遠」そのものとして見る海に、「なめらかな波の背、波のしわ、うず、日光の反射、透きとおるような海の色、それらのものが集まって自分のほうへはいってくる印象はあざやかに生き生きと感ぜられる。」海に、変わると藤村は書く。 (「海岸」から引用)
つまりここもまた、ワイルドが言う虚構が持つ霊的な力の再確認。
時制を含み、この短編の複雑な構成はすでに触れたが、藤村は最終節で70歳に近い、目の見えない老婦を登場させ、彼女の子供の頃、やがて大人になり、そして今はその人の最後を見る思いを感じさせる文章だと堀江氏は語っている。
「この宿に一人のおばあさんがある。七十近い、目の見えない老婦だ。その年まで生き延びたら、食うという欲よりほかに残らない人で、あてがわれたわんを大事にしては、食事の時間でなくともガツガツ震えている。暗い部屋《へや》にひとりで引きこもっていて、かみさんの足音を聞きつけるたびに、例のわんをさしつけて拝むようにする。
「おばあさん、朝の御飯がすんだばかりだよ……そんなに食べたがって、また腹下しするよ……。」かみさんにしかられては、おばあさんは、子供のようにわんを引きこます。わたしは思いがけない所で、人の一生の最後を見る気がした。
わたしはよく年ごろな婦人やかわいらしい娘などを見るたびに、その人たちの子供の時の容貌《ようぼう》や、それから年をとっての、姿などを思い比べることがある。
「わたしたちがずっと年をとったら、どんなふうになるんでしょうねえ。」とある娘が言ったが、わたしは今、あの娘の言ったことを思い出した。おそらくわたしが東京へ帰って、この漁村で見たおばあさんの話をしたら、どうかしてそんなになりたくないものだと、あの娘などは言うかもしれない。」(「海岸」から引用)
それはあの娘、新生の節子、実の姪のこま子へと引き継がれる想像的世界、この小さな短編は壮大な長編をその内に秘めていると堀江氏は読み取っている。
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島崎藤村展
「小諸なる古城のほとり」や「まだあげ初めし前髪の」は歌曲としても知られた藤村の詩。
その歌には思い出がある。
高校時代の友人、と言ってももはや他界してしまった、男ともだちだが。古今和歌集や山家集に被れたふたりは共に伊豆や信州の旅をし、演奏会にも出かけた。
本とクラシックが好き、お互い島崎藤村を読んでいたことは間違いない。
しかし、話は「惜別の歌」を含め、多少の若菜集や落梅集と歌曲のことばかり。
藤村のことやその作品に深くふれ、話し合うことははほとんどなかった。
ボク自身から友人に藤村の話をできなかったのには理由がある。
「新生」だ。
ある時、この友人とは別の友人から芥川の「ある阿呆の一生」の話しを聞かされ、そのませた情報に唖然とさせられた。
「新生」は藤村の実話、それも兄の娘に子を産ませた近親相関というスキャンダルをそのまま描いた物語。
小説は様々の局面が舞台となる様々な人間の物語。実話であるか否かに関わらず、当時、まだウブなボクはこの小説もまた近代の浪漫派小説の一つとして気楽に読んでいた。
しかし、友人の言う「ある阿呆の一生」の中の、(「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。)という芥川のくだりが、それ以降、ボク自身から藤村に触れることを奪ってしまった。
高校卒業近くになって、偶然、藤村のこんな文章に触れた。
……ここに引いた『新生』とは私の『新生』であるらしく思われる。私はこれを読んで、あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映ったかと思った。
知己は逢いがたい。『ある阿呆の一生』を読んで私の胸に残ることは、私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろうということである。私の『新生』は最早十年も前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかったであろうかと思う。しかし私がここで何を言って見たところで、芥川君は最早答えることのない人だ。唯私としてはこんなさみしい心持を書きつけて見るにとどまる。でも、ああいう遺稿の中の言葉が気に掛って、もっと芥川君をよく知ろうと思うようになった。
島崎藤村 「芥川龍之介君のこと」
以来、ボクは芥川龍之介を読むことはなかった。と同時に、藤村の言う「新生」で書こうとしたことと、その意図を正確に知りたいと思い、藤村を読み続けた。
「新生」は確かに、スキャンダルには違いない。しかし、ボクは文人として生きることを自分自身に科した藤村自身の決意と覚悟の物語として読みとっている。
大学は文学部ではなく、工学部建築科だが小説はかなり読んでいる。多くはフランス、ドイツ、ロシアだっただろうか。リリカルだが、古典の叙事詩のような人間の物語がボクの好みだ。日本の私小説はボクには不向き、しかし、藤村は好きだった。多分、書店にある藤村の大半は読んだだろう。
「新生」は藤村自身がようやっと文人として世に出た頃、描かれたもの。物語のなか岸本捨吉は東京に移住するが家族の生活は貧困のどん底。そんな中、妻は子どもを残し、早々に他界してしまう。
必死に書き続ける捨吉は節子に助けられる。彼と彼の幼い息子たちの世話と生活を支える健気な節子。いつか岸本は、そんな節子を愛するようになる。
やがて、身ごもってしまった節子を残し、フランスに行く捨吉。しかし、パリは第一次大戦によるドイツの侵攻。捨吉は友人の画家と共にパリを脱出、フランス中を逃げ回り、這々の体で阿修羅のようだが日本に戻る。
物語は確かに、このフランス前後の藤村自身の世界だ。節子は兄の次女、実在のこま子のこと。そして、藤村はこの前後の事情を懺悔として描くと物語の中で語っている。と同時に標題は「新生」、人間は生まれ変わることはできないが、新たに生きることはできる。そんな、物語の核心は、阿修羅の中で取り交わされるふたりの手紙の中に垣間見える。特に節子の手紙、もちろんそれは作者である藤村自身の言葉だが。切々と語るその文は、もはやふたりだけの恋文とは大きく隔たる、人間としての新たに生れ出る新しい世界のことなのだ。
藤村は小さな私小説家ではない、大きなフィクションを書いているのです。
ギリシャ神話にあるような普遍的な人間の持つ虚構の世界を。
そんなかってな解答を秘め、芥川を嫌っていたが、さらに後年のある日、ネットの千夜千冊で松岡正剛さんの「夜明け前」を読んで「目から鱗」だ。
「夜明け前」は「新生」のすぐあと、フランスから帰国後、こま子と別れ完成させている。
その内容は藤村の実父、島崎正樹の半生を画いたもの。
つまり、「新生」と同様、藤村にとっての生の体験が大きな小説を生み出している。
そして松岡さんが書かれているのは以下のくだり。
(藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。
藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。)
千夜千冊「夜明け前」から引用
そうだよ藤村の物語はいつも大きなフィクションなんだよ、単なる木曽山中の本陣の息子の話しではない、当時の日本人が誰も書けなかった本来の「ご一新」と挫折を藤村は実父正樹の半生を青山半蔵に託して浮き彫りにした。
「ご一新」の本来的な意味、それはまだまだ問うべきであろう、永井荷風や幸田露伴、さらに漱石や・・・・文化的範疇で近代日本に疑問を持つ作家は数知れないのだから。
藤村好きのボクには藤村について考えて見たいことがまだまだ沢山ある。そして、いつも気に掛かり、手放せず、ことあるごとに振り返って読みたくなるのが「夜明け前」なのだ。
現代の我々が日に日に失っているもの、それを短絡的に現代の西欧主義・日本主義、右主義・左主義、工業主義・自然主義、民族主義、宗教主義で語って腑に落ちてしまっているのが大半だ。しかし、そういうわれわれ自身の問題を藤村は90年も前、すべてを文章にし、かたちにした、それが「夜明け前」なのだ。
「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業、 と松岡さん前述の彼の「夜明け前」に書かれているが、まさに、インフラストラクチャーの瓦解に関わる人間の生き様をこれほど実感を持って書かれた小説は日本では見当たらない。
ボクの関心はいつもこのインフラストラクチャーの瓦解に関わる「狭間の人間」にあり、それが相も変わらず「イタリア・ルネサンスの音楽と建築」から抜け出せない理由でもあるのだが、この「狭間」は決して単なる経過ではない、
人間の意志つまりフィクションだ、だからこそ、詩や小説が必要とされ、音楽と建築も必然なのだ、といつも思っている。
松岡さんは千夜千冊の「夜明け前」の締めを以下のように書いている。
(どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。)
どうやら、狭間にあるボクたちは現在、意志あるいはフィクションを表現しえていない。
やはり、古代に習い叙事詩を語り、音楽と建築を生み出す毎日であらねばならないようだ。
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2014年8月24日日曜日
時は老いをいそぐ アントニオ・タブッキ
時は老いをいそぐ アントニオ・タブッキ
アントニオ・タブッキの「インド夜想曲」を読んだのは昨年の10月、その後、思い出し図書館で「時は老いをいそぐ」の貸し出し手続きを取ると、なんと6人待ちと言われた。買えば、とも考えたが、まぁ急ぐ理由もないので、とお願いした。
そんなタブッキがこの月初め、ようやっとやって来た、すっかり忘れていた今になって。長らく待たされたのには理由があるようだ。
あのころ、タブッキが亡くなり、一気に関心が高まったのだろう。
しかし、借りだした本は以外に綺麗、多くの人に借り出された割には栞紐も使われておらず頁を繰ったあとも薄い。
どうでもよいことだが、読みだしてみると「インド夜想曲」同様とても読みやすい。
読み終わるのは明け方になったが、たった一日の一気読みで読了した。
綺麗な原因はこの辺りだろうか。
イタリアの現代文学といえばイタロ・カルヴィーノが有名だ。
彼の「蜘蛛の巣小道」は内容の割には明るくユーモラスで清々しかった。
そんな経験から「まっぷたつ男爵」「見えない都市」等はボクのお気に入りは多い。
もう一人は誰もがよく知るエーコ。
映画にもなった「薔薇の名前」はともかく、「フーコの振り子」「前日島」と評判になった作品はすべて積読状態、10年以上もボクの書棚の肥やしとなっている。
そんな経験からタブッキにはなかなか手が出なかった。
たまたま、須賀敦子訳が目に入り読み始めてみたら、これはいい。
その感想はすでにブログに書いた。それは今思うと彼が亡くなる5ヶ月前のこと。
「時は老いをいそぐ」は2009年の出版、(日本では2012年3月)タブッキが67歳の時の作品。
詩人でもある彼は自らの記憶と感情をわかりやすい言葉で素直に綴っている短編集。
全体はまるでバルトークの音楽のよう。
実際にその音楽が登場する「将軍たちの再会」はこの書の中央、使われた形跡のない栞紐が掛かった頁に書かれていた。
読書中のボクにとっても、インド夜想曲に引き継きタブッキの物語の全体が音楽となって歌われ、もっとも豊かに響いていた時間、もっとも印象深い掌編だ。
そう、9つの短編集はまた前作同様、今度も音楽なのだ。
思い出してみるとカズオ・イシグロの短編集「夜想曲」も音楽だった。
どうやら最近のボクの好みは明白、堀江敏幸、カズオ・イシグロ、アントニオ・タブッキ、表現と内容は全く異なる3人だが、その印象は皆、音楽のようなアンソロジーといえそうだ。
「時を老いをいそぐ」とはクリティアスのエピグラムだそうだ。
「影を追いかければ、時は老いをいそぐ」、追いかければ失うという繰り返しの中にしか「時」は貌をあらわさない。
しかし、その「時」をいやはっきり「記憶」と言っていいのではないかと思うが、内在化した感情は影を追うことで初めて本来の貌を描くのではなかろうか。
ボクはタブッキの短編をそう読んでみた。
9編はすべてイタリアからは東方の物語。
ザンクト・ガレンからはじまり、ブカレスト、ブダベスト、ワルシャワ、テル・アヴィブ、クロアチア、イラクリオン・・・・。大好きな映画監督ギリシャのアンゲロプロスに似て東方は静かな弦楽カルテットがふさわしい。
先ほどこの書をブックポストに返したが、この書の中の印象的ないくつかのフレーズをメモっておいたので、このブログに残しておきたい。
「無から、その感情がやってきたのは無からだ、それは自分の記憶と同じ、ほんとうの記憶ではなく人から聞いた記憶と同じで、まだ感情といえるほどのものではなく、むしろ感情の動き、実際には感情の動きですらなく、幼いころから耳にしてきた他人の記憶をたよりに想像で作り上げたイメージでしかないのだったが」
「遊びはいいことだなんて決していわなかった。遊びはすごくいいことだと言っていた。カラーの本を買ってくれないが、とてもカラフルな本を買ってくれるのだ。そして空が真っ青の日となれば散歩に行くのが当たり前だった。」
「ポタ、ポト、ポッタン、ポットン、ポタ、ポト、ポッタン、ポットン。音は頭骸骨の中まで届いたが響くことはなかった。脳にぶつかってはくるが、こだましないのだ。一つ一つがそっくりで、ピチョンとはじけて消えて次のピチョンのためにすぐに場所を空けるているとき、一見前のピチョンと同じ音だが、実は違う音色をしているみたいだ、ちょうど湖の岸に雨が降りはじめたときに耳を傾ける雨粒一つ一つに様々な音の種類があることに気がつくように。・・・」
「もしもホメロスがオデュッセウスに出会っていたりしたら、さぞつまらない男に見えたにちがいない。・・・」
「風に恋したわたし、ひとりの女の風に、女が風であるならば、わたしはたたずむ、かぜとともに。男は地面に滑り降りて仰向けに壁によりかかると、上をみつめた。空の碧が一角にのぞいた隙間を埋めていた。男は口を開けると、その碧を水根で呑み込むみたいにしてから、両手で抱きかかえるようにして胸に引き寄せた。口からは歌声が。風が風を運び去り、風が風を運び去り、その足の運びの速さに、娘と話すことさえかなわなかった、スカート上を巻き上げるようにして、風が娘を抱きしめる」このフレイズはこの書のffフォルテです。
フェスティバルはタブッキがカンヌ映画祭の審査員をつとめた経験からということだが、ちょっと毛色が異なり人を喰った物語。「今夜眠らずのいればいつもと違った魚が釣れる」
「その記憶はあくまでもおまえの記憶だし、おまえの記憶でしかあり得ない。他人に語り伝えたからと言って、おまえの記憶が他人の記憶になることはない。思い出を語ることはできても、その思い出を他人に移すことはできない。・・・」
「夢というのは、人生にあったことではなくて、人生にあったことを体験するなかで感じたものを表しているのだから。・・・それは感情というものが説明し得ないものだからだ。説明を可能にするためには、感情は意識に変化する必要がある、・・・・感情を意識に変えるのに夢は都合のよい環境ではない。」
と、まぁ切りがなくなってきた。
いま、アマゾンからの写真をリンクしたが、やはり、手元の書棚にこの書キープすことにし、ぽちっておいた。
よく見ると表紙のもなかなか良いではないか、画像はマグナムからだろう、三人の群れない男の貌が何ともかっこ良い、いや、右はじはもっと美しい、そう、群れない馬だ!
2014年8月14日木曜日
塩田平
亜熱帯化した東京を台風11号の接近前に抜け出し塩田平に来た。
ここはかっては湖の底、いや、常楽寺梅楽苑の女店主には海の底だったと教えられた。
大昔の信濃川が産み出す広大なアースワーク。
その河岸段丘の東は上田平だが、西が塩田平。
なるほど、ここはかって海の底だからこそ塩田平。
地名とは人が記録する文字ではなく、悠久の風景が語るものであるようだ。
東京駅から新幹線で僅か九十分、上田電鉄に乗り換え三十分余りで別所温泉。
シックなダークブルーの車両、オシャレな一両電車は塩田平をほぼ真一文字に西に走る。
その終点駅から、緩やかな坂を上ると段丘の淵、石造多宝塔の常楽寺と八角三重塔を持つ安楽寺に着く。
段丘の淵を段崖と呼ぶが、ここは崖とは言い難く、上る道はごく緩やか。
しかし、歩を進めれば進めるほど、振り返る眼下には長閑な平原が大きく広がって来る。
今は、フラットな戸建て住宅が密集する、日本中どこにでもある郊外住宅地の趣だが、かっては豊かな農産物を育む田園とそこに生きる人々の平安の地であったことを、前面の空を縁取る緩やかな山々の重なりが教えてくれる。
決して暑くない、幸いまだ雨もない塩田平の段丘に建つ幾つかの建築を見て回ろうと言うのが今日の目的。
と言っても、クルマもタクシーも使わないのが、ボクの建築見学の鉄則。
友人が待つ夕方の軽井沢の宿までのひとときの時間。
取り立てて下調べも予定も持たず、のんびりとした一人歩き。
安楽寺を有名にしているのは国宝の八角三重塔。
中国風禅宗建築と平安以来の和風建築をミックスした何ともユニークな建築。
四角を多角化すればするほど、形状は円に近づく。
軒を支える斗拱は複雑化し、部材断面は細分化され、木造架構は困難を極めるが、より丸く見せようとする塔は当時の新生中国、元との闘いに勝った明の国の息吹を伝えているかのようだ。
何故なら、明の時代こそ今の様々な大工道具が発明された時代。
我が国の木造建築もこの時代の中国からの到来した新しい道具を駆使し、いよいよ技術の洗練を極めていく。
一方、瓦ではない、こけら葺の屋根は和風の伝統、鳥の羽のような柔らかさはどの時代も我々の持つ心象とピッタリと呼応する。
隣りの常楽寺には塔はない。
あるのは日本には珍しい七重石塔の連なりと厚い入母屋茅葺きの屋根を持つ立派な本堂。
そして、圧巻は甘露甘露の梅汁のかき氷。
曇り空とは言え、今は日本の夏の真っ最中。
見晴らしのいい高台で、風に吹かれ、景観を楽しみつつの甘味は最高だ。
まだ、暑いし混むからと、家を出るの躊躇った我が身を強引に誘い出した友人に感謝しつつ、そんな話を他に客が居ないことを良いことに前述の女店主にうち明けた。
と、いろいろと彼女とのお喋りは続いたが、気がつくともうお昼すぎ、あわてて坂を降りかかると、今度は畑の中に「石挽き蕎麦」の旗竿を発見した。
信州に来たら、まずは蕎麦。
それに河岸段丘の断崖の地はどこも水がうまい。
その旗竿の脇にはクルマが数台。
さらに見回すと、店とはいえない普通の住宅の玄関に暖簾が掛かっていた。
ここの蕎麦も旨かった。
こんな店では山菜天麩羅は欠かせないのだが、
のんびり散歩には冷酒と焼き味噌か漬け物が決まりもん。
そば久は有名店のようだ。
混んではいたが、幸い引け時、待つこともなく座敷に座ると、
ほどなく注文の冷酒がきた。
それも、石挽きのさらしにはピッタリの酒、石川の「菊姫」だった。
ただ一人、顔には出さず胸の内では小躍りしながら、
小一時間タップリと想定外の酒と蕎麦を楽しんだ。
のんびり散歩とは言え、別所温泉だけですでに時間は悠に回ってしまった。
しかし、ついていると言って良いのか悪いのか、
そば久の席を立ちついでに帳場の女性に、これから行く段丘に建つ前山寺やデッサン館・無言館への道を聴こうとすると、なんと店の下二百メートルの温泉駐車場から、もうすぐ循環バスが出るという。
タンブラーのマップを見るまでもなく、バスは丘の緑陰を突っ走り、あっというまに龍光院まで来てしまった。
客は一人だけ、適当な場所で降ろしてもらおうと思っていたが、降りたのは正規の停留所。
なんのことはない、降りるつもりの中禅寺を一瞬のうちに通り越してしまったのだ。
中禅寺の薬師堂は重要文化財、平安末期の建築だが、見学は寺々だけが目的ではない、今日は諦め、先に進むこととした。
惜しまれ、躊躇させるのは塩野池手前の塩野神社。
その橋掛かりを持つユニークな形態の神社の話しは、梅楽苑で教えて貰っていただけに、悪いことした気分でチョット心残り。
バスを降りれば、ここは塩田の館。
立派な新築の木造建築の展示館。
形態は上階を持つ養蚕農家、多分、全盛を極めた繊維の上田の象徴だろう。
山門は欅の大木を従えた大きな黒門。
龍光院はそれだけでも、すでにある種の威厳を放っている。
この威厳はこの地を治めた北条氏の力だけではない、遠い鎌倉からの歴史を伝えているようだ。
創建は十三世紀後半、その後北条氏の滅亡とともに衰退したが、塩田北条氏ゆかりの地であっただけに武田氏に保護され、徳川時代、曹洞宗寺院として再建されている。
しかし、塩田の館と同様、今の建築は新しい。
狭い境内に大きな本堂。
屋根も大きく堂々としている。
正面入り口扉の両側に設えられた禅宗寺院特有の二つの火灯窓が何とも可愛らしく微笑ましい。
龍光院を出て心残りの塩野池を背にすると散策には持って来いの小道が前山寺まで続いている。
梅楽苑で教えてもらったアジサイの道、かっての鎌倉街道だ。
本道に戻ると、やがて右手に大きな椎の木(多分)を従えた黒塗りの門と前山寺と書かれた石柱。
同じ黒塗りだが、その門の風格と大きさは龍光院の黒門には叶わない。
しかし、大木を従え視線を参道に導くそのデザインには、今どきは見ることがない、意志の強さ鋭さが感じられる。
門からの敷石の参道は桜並木とともに一直線。
石段にかかると、ここからも一切折れることなく真一文字に頂上の山門に掛け上る。
上りきると三重塔は山門に縁取られ、なんと真正面に姿を表す。
塔は手招きするように前面に躍り出て、その全容を露わにする。
ここまでは大木を従えた小さな黒門から一直線の敷道と石段。
そしてまた、また山門をくぐると、三重塔まで一直線の敷道、石段が繰り返される。
ここまで来るともう、デザインの意志のもつ強さどころか脅威を感じさせる。
こんな古代風の伽藍配置も始めて体験させられた。
しかし、この配置は偶々だろう。
門、塔、講堂と一直線に列ぶ伽藍配置は日本では飛鳥や四天王寺という奈良以前の寺院ですでに終わっている。
斑鳩の法隆寺ですら、塔は本堂と並列、門の真正面に建つことは決してない。
この寺は九世紀の弘法大師に始まり、三重塔の建立も十六世紀前半の室町時代と目されている。
そんな古刹の寺が北を正面とした山門の前面に建つ事などありえない。
境内に上がり周囲を見渡してようやっと気がついた。
上がり切った境内の右手、西側に当たる、さっき通り過ぎてきた鎌倉街道側が元々の参道なのだ。
こちら側から上れば塔は真西に位置し、その左手、南側に本堂が建つことになる。
その本堂の正面も、いくら眺めが良いからといって決して北側、塩田平側に向けることなく、塔側(南側)、鬱蒼とした山側、 に向いている。
小さな三重塔だがこの塔は見応えがある。
解説書では未完の塔と書かれているが、この塔の魅力はむしろその完成度にある。
室町特有、塔身はやや膨らみかげん、しかし、こけら葺の屋根は反りが強く柔らかく、その全体はまるで十代の少女のようなイメージ。
すでに、日本中多くの五重塔、三重塔を見てきたが、やはりこの塔はボクの好み。
部材構成や断面形状に狂いなく、その全体は清楚絢爛に組み上げられている。
狭い壇上に建つ、立ち位置から、納得のゆくフォトを撮るのが難しいのは、日本の中どこの寺にも共通している。
そしてまた、プロのフォト作品でさえ、これはいい、これは凄いというものには、なかなかお目にかかれない。
雪や桜や紅葉という取り巻く周辺に一切関わることなく、生身の塔の面白さはやはり、生身で体験し、想像するしか方法がないのだ。
石段を北に降りると、平地の右手は信濃デッサン館。
蔦に絡まれた平屋建て切り妻の美術館。
今日は憑いていることになんと立原道造展の開催日。
本郷東大裏にあった道造記念館は一昨年閉館されたが、今日もまた図らずも、こころゆくまで、その展示を見ることができた。
実は明日からの友人との軽井沢予定は昨年六月に亡くなられた、なだいなださんの講演会、そして、立原道造展を覗こうというのが今回の目的。
そうそうに一人出かけてきたのは、この塩田平では道造展に出会うことはつゆ知らず、前山寺周辺の槐多庵・無言館・スケッチ館でのんびりしていようと思ったからだ。
無言館(戦没画学生慰霊美術館)は切り妻の屋根に打放しコンクリートの外壁、デザインは素朴で単純、そのイメージはストレートにヨーロッパ中世ロマネスクの僧院に繋がる。
その前方はすべて北の塩田平を見渡す長閑な平原。
後方の樹林からは蝉音も鳥声も聞こえてこない。
雨もないが照りもない、人もいない静かな時間。
草地には厚板の木板の椅子とテーブル。
そして、漂う珈琲の薫りと湯気。
まるで月並みな、コマーシャルなような時間だが、突然のバス音に消える。
16時31分、ボクだけを駅に連れて行く、小さな循環バスが到着した。
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2014年8月2日土曜日
ゲーテが訪れたアルカディア/©
われもまたアルカディアに
十五世紀のイタリア・ルネサンスが生み出した新しい世界、それは透視画法の中の「理想都市そしてアルカディア」。その世界は十八世紀半ば、再び、多くの詩人・芸術家たちによって取り上げられる。
新古典主義時代の代表ゲーテは三十代の時、はじめてイタリアを訪れている。彼の「イタリア紀行」はその後、何度か改訂され、現在の我々の手元にあるのはその最終版、六十代後半の上梓されたもの。「われもまたアルカディアに」が副題、ゲーテは生涯「アルカディア」を歩き続けたのだ。
「われもまたアルカディアに」は現在ルーブル美術館に展示されているプーサンの絵画に由来する。アルカディアに生きる三人の牧童と一人の少女、彼らが見つめている墓碑にこの銘が刻まれている。テーマはメメント・モリ、理想郷にも死が存在することを強調し、人生の短さを教え、充実した人生を送るようにと、この絵画はメッセージする。ゲーテにとってのアルカディアはただいたずらな理想郷、「憧れのアルカディア」ではない、そこは古のローマの人々が「 日々をより良く生きた世界」、ゲーテはイタリアをそのように意味づけ、「イタリア紀行」の副題をプーサンの絵画から引用した。
ワイマール公国財務長官であったゲーテは1786年9月3日、その職務から逃れるかのようにブレンナー峠を越え、イタリア(アルカディア)に旅だった。この峠はフランス、ドイツ、オーストリアなどのアルプスの北の国々からイタリアへ向かう重要な山道。ルター、デュラー、モーツアルト、ホルバイン、ニーチェ、ヘッセ、マン、リルケなど、皆、若き日にこの峠を越えイタリアを訪れている。
峠を越えれば、北イタリアの空はどこまでも高く、そよ風はいつまでもさわやか。左手に越えてきたアルプスの山並みを望み、右手にヴェネトの広漠たる平野が横たわる中、まっすぐな大道を馬車に揺られ、ゲーテはやがてミニョンの故郷、ヴィチェンツァに到着する。
ミニョンの故郷
「君知るや、レモンの花咲くかの国を。
小暗き葉陰にオレンジは熟し、
そよ風は碧き空より流れきて、
ミルテはひそやかに、月桂樹は高く
君知るや、かの国、
いざかの国へ、恋人よ、
いざかの国へともにいかまし。
君知るや、かの家を。円き柱は屋根を支え、
広間は輝き、小さき部屋はほのかに光る。
また立ち並べる大理石像、われを見つめて問う、
「あわれ、いかなる事に出会いし」
君知るや、かの家、
いざかしこへ、わが守護者よ、
いざかの家へともに行かまし。
君知るや、かの山、雲の懸け橋。
騾馬は霧中に径を求め、
竜子の古きやからの棲める洞窟、
絶壁にかかる滝は飛流し
君知るや、かの山、
いざやかしこへ、われらが道は、かしこに通ず。
わが父君よ、ともにいかまし。」
ヴィルヘルム・マイスターの 修行時代新潮社
ヴィルヘルム・マイスターに登場するミニョン。彼女はヴィルヘルムをアルカディアに誘う。ゲーテはイタリアに出掛ける前年、彼自身のはやる気持ちを、イタリアへのあこがれを、ミニョンに託しこの歌を作っている。物語の中でのミニョンは演劇修業中のヴィルヘルムの旅の共をする不思議な魅力と悲しみを持つ女の子。彼女はギリシャ神話の妖精ニンフのように、そこここにと現れ、物語の進行に関わっていく。ミニョンと共に旅する竪琴弾きは人間の認識を超える不可解な力の象徴。それは演劇修行中の主人公ヴィルヘルムとはある種の対旋律の関係にある。その旋律は読み手の心のうちそとを限りなく震わしていく。
物語はヴィルヘルムという定旋律にミニョンと老竪琴弾きの三つの旋律が絡まり、ミニョンの歌にある「丸き柱は屋根をささえ、広間は輝き、小さき部屋はほのかに光るかの家」で終曲する。その家は北イタリアの小都市ヴィチェンツァ近郊に現存する。宇津井恵正氏は「ゲーテの視覚の世界」の「演劇空間としてのあの家と過去の広間」の章でヴィチェンツァのロトンダがミニョンの「かの家」であることを論証された。
その全体はアルカディアの神殿の趣、建物の名はロトンダ。ロトンダとは円形平面の部屋を持つ建築のこと。ドーム状の天井や屋根を持ち、その形状は宇宙観が表現されると共に、人間の生死とも関連し墳墓や神殿にも用いられた。
通称ロトンダだが正確にはヴィッラ・ロトンダあるいはヴィッラ・アルメリコと呼ばれた。十六世紀半ば、この小都市の建築家アンドレ・パラーディオにより建築されている。
澄んだ青空と柔らかい風に包まれ、ロトンダはまるで現実的な時間の流れを突然止めてしまうかのように建ち、あたりの空間全体は絵画的であり、まさに舞台のなかのアルカディアような世界が展開されている。そしてゲーテは次のように書く。
「私は町から三十分かかる気持ちのよい丘のうえの金殿玉楼、通称ロトンダを訪れた。上から光線を採った丸い広間を中に囲む方形の建物である。四方いずれからでも、大階段を昇れば、常に六本のコリント式円柱によって作られた玄関に達する。」イタリア紀行・上岩波文庫
ヴィラ・ロトンダに託された物語
ヴィッラ・ロトンダを設計したパラーディオにはアルベルティの「建築論」に倣った自著がある、「建築四書」。名前からもわかるようにアルベルティ同様、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの「建築十書」をモデルとし、この書を後世に残した。建築四書は「イタリア紀行」のゲーテにとっても有効な参考書であったに違いない。ゲーテがミニョンにこの館を歌わせたのは、イタリア旅行の出発の前年こと。長編小説「修業時代」以前の「演劇的使命」の中、彼はイタリアを訪れる前に何度もこの「四書」を開き、図版を眺め想像を膨らまし、ミニョンに「かの家」を歌わせたのだ。
「四書」の中でパラーディオはヴィッラ・ロトンダをヴィッラの項ではなく「都市住宅」の項に掲載している。「この建物は町ほど近く、ほとんど町のなかにあるといってよいほどなので、私は、これをヴィッラ建築のなかに入れることが適切とは思われなかった。敷地は、考えるかぎり美しく、快適なところである。というのは、きわめて登りやすい小さな丘の上にあり、一方の側は、船が通えるバッキリオーネ川によってうるおされ、他の側は、きわめて美しい丘陵地で取り囲まれて、まるでおおきな劇場のような形になっており、また、一面耕されていて、きわめて良質の果物と、きわめてみごとなブドウの樹で充満している。それゆえ、ある方向では視界が限られ、ある方向では、より遠くまで見え、また他の方位では地平線まで見渡せるという、きわめて美しい眺望をあらゆる側から楽しめるので、四方の正面のすべてにロッジアが作られている。」パラーディオ「建築四書」注解中央公論美術出版
ヴィッラ・ロトンダの建築的特徴はその完璧な形態にある。中央の広間は正円、広間を囲む四つの正方形の内部空間、その外側は四面均等にイオニア式ゲーテはコンリント式円柱と書いているの六本の列柱が立つギリシャ神殿風のロッジアだ。ロッジアとは列柱を持つ屋根が架けられているが、外部に開放されているポーチやギャラリーのこと。
四面のロッジアにはどの面もまた均等に、幅一杯の階段が設置されている。中央の円形広間の中心に点を取れば、建築の全ての部分はこの点による点対象として配置される。四面の同一性を強調し、どの方向にも特定な優越性を与えない透視画法の持つ等質・等法の空間的秩序がこの建築では明解に表現されている。それは百年前のフィレンツェの二つの聖堂やウルビーノの理想都市図と全く同じ体験。そして、中心点にはアルカディアの牧神パンの顔が雨水抜きの穴飾りとしてはめ込まれている。
円形広間の中心点の床から牧神パンが見上げる天井は球形のドーム。この地点に立ち四方を眺めれば、どの視線も広間をこえ、ロッジアをこえ、九月の晴れ渡ったヴェネトの田園をこえ、無限の彼方まで突き抜けていく。まさに自分自身はアルカディアの中心に立っているのだ。
この建築の建主は「四書」によれば聖職者パオーロ・アルメーリコ、ピウス四世と五世の司法官をつとめ、その功によりローマ市民権者たることを許されたとある。しかし、行状は決してよろしくなく、ヴェネツィアの牢獄に監禁されたこともあるようで、建物は未完のまま、オドリコ・カプラに売却されていたので、ゲーテが訪れた時のロトンダは「ヴィッラ・カプラ」と呼ばれていた。
「内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとは言えない。」さすがのゲーテもあこがれの「ミニョンの館」について「イタリア紀行」でこんな辛辣な書き方をしている。特異な建築形態を持つ住宅であるが故、ということなのだろうか、その運命は過酷だった。ゲーテがロトンダを訪れてまもなくカプラ家も血統が絶え、幽霊屋敷の異名を与えられた。しかし、この建築は無事、今に遺され、その独特の形態は単に明快な美しさだけでなく、「建築」について考える様々なテーマを投げかけている。
古来そして現在でも、イタリア建築の中のヴィッラは緑豊かな自然風景を長閑な人間的風景に変える空間装置。特に、ヴェネトやトスカーナを旅するとき、田園風景はヴィッラが垣間見えることによって一気に好ましさが強調され、忘れがたい景観となって記憶される。ローマの時代から郊外所有地に建つ住居がヴィッラ。都市のなかのパラッツォ(宮殿あるいは邸館)は公的な空間。都市住宅に対する田園の住居は私的な空間と意識され、本来の集団的意味を持つ「建築」とはいささか異なるものと考えられていた。ヨーロッパにおける「建築」の役割、それは過去に祝祭が持っていた役割を引き継いでいる。「建築」は労働や日常生活の場と言うより、集団としての人間の儀式・祭礼・社交の場。つまり、「建築」は祝祭そして都市を生み出す装置なのだ。従って「建築」は人間が自然や日常から離れた「特別な空間」であり、田園の民家や住居とまったく異なるものと考えられていた。
ヨーロッパの古来の「都市」と「田園」に少し触れてみたい。「都市」とは本来、集落から訣別した「特別な空間」を意味している。そこは利便や効率のための場所であることより、動物とは異なる人間が「人間として生きる特別な場所」、日常とは異なる「ハレ」の場所、社交の場のことを意味する。したがって都市(祝祭)を生み出す建築は文化的内実が備わってこそ「建築」であって、単に機能や利便に供するのみならば、それは日常的な集落の延長、住居であっても「建築」ではない。これは建物の上下の問題ではなく、我々とは異なる考え方の問題だ。
パラーディオが「四書」で強調している、都市的な生活の場であるヴィッラ・ロトンダは田園にあっても文化的世界であることが求められ、社交に供する劇場的環境に建つ作品的世界、虚構の世界でなければならない。ピエンツァのピッコロリーニ宮殿を自然に放ち、私的空間化したピウス二世への批判も同じような考え方が背後にあり、私的で個人的な趣味は「建築」ではないと見なされたのだ。
パラーディオの時代は黄昏のルネサンス期、アルベルティやピウスの時代から百年も経過し、建築の考え方も変わっては来ている。しかし、彼は現代の我々のように施主の希望や使い勝手に合わせ、ただ闇雲にヴィッラを作った訳ではない。その観点から見るとパラーディオのヴィッラはとても興味深い。本来「建築」の範疇には入らないヴィッラを集団的意味を持つ「建築」としてデザインしなければならなかったのだから。
十六世紀半ばから後半は美術史でいうマニエリスム期、パラーディオは過渡期の建築家であることは確かだ。しかし、彼はギリシャ以来の本来の「建築」からも決して逸脱することのない、まさに最後のルネサンスの建築家と言って良いのかもしれない。遅れてきたルネサンス人パラーディオはヴェネトに沢山のヴィッラとパラッツォを造っていく。彼の「建築」は初期ルネサンス同様、透視画法の持つ等質・等方、何者にも序列化されないイマージナルな秩序空間として組み立てられている。
当時の建築家の仕事は音楽家同様大半は教会にあった。しかし、パラーディオには教会の仕事は少なく、ヴィッラとパラッツォという住宅ばかりだ。パラーディオが世俗の建築家、最初の住宅建築家といわれる所以はこのあたりにある。ではパラーディオは田園に建つ住宅をどのように「建築」にしたのか。パラーディオのヴィッラはあるがままの自然、民家や農家の持つ田園的風景をメタフィジカルな理念の世界に、現実の背後にある秩序だった理性的な世界に変容している。そのために用いられたテーマが「アルカディア」だ。
「アルカディア」は貴族たちの社交には欠くことの出来ない文化装置。パラーディオは建築だけではなく田園環境も一体化し(全体はウェルギリウスやサッフォーが描いた古典主義的な田園風景)「建築」をアルカディアとして描くことで、現実の風景をメタフィジカルな理念の世界に変容している。だからこそ、彼のヴィッラは「建築」であって、単なる自然あるいは田園に建つ民家あるいは住居とは異なるもの。「四書」で都市住宅の項に掲載した所以となる。
ヴィッラ・ロトンダはアルカディアとして作られた劇場的世界。その世界は等質・等方なルネサンスの舞台空間。そして舞台に配されるシンボル、それは「建築四書」にも書かれている古代神話に由来する彫像の数々。四つのペディメントロッジアの三角形の破風端部には3体ずつ12体。階段の上がり口には2体ずつ8体の等身大の彫刻像。それらは個々に神話から由来するアレゴリー(寓喩)、円形広間の中央水抜孔の牧神パンを始めとしてアポロンやヴィーナス、ジュピター等々に飾られている。
その全体はアルカディアに隠棲する「ミダス王の物語」と言われる。ヴァネツィアに捕らえられたこの建築の施主であるアルメリコはミダス王と同じように、アルカディアの住人となって故郷ヴィチェンツァ隠棲する、それがヴィッラ・ロトンダに託された物語だ。
ミダス王とは「王様の耳はロバの耳」、あの誰もが知る欲張り王のお話。王はバッカスにねだり「手に触れるものなんでも黄金にして下さい」とねだる。願いは叶えられるが、食事の際の食べ物・飲み物、すべてが黄金に変わりミダス王は飢えと乾きに苦しめられる。再びバッカスのところにゆき、神の言いつけ通り、パクトロス川ロトンダの前にはバッキリオーネ川が流れているで身を洗い、黄金の地獄からは救われる。
そんなミダス王はある時、アポロンとパーンの音楽家としての腕比べの審査を引き受ける。彼は素朴なあし笛のほうがアポロンの銀の竪琴より響きが良いと気に入り、パーンロトンダの中心の雨落ち孔の勝ちにした。しかし、アポロンその彫像はロトンダでは裏側となる南西のメディメント頂部は怒り「お前の耳はばかな耳だ、そんな耳はロバの耳になるがいい」と言い、ミダス王の耳は毛むくじゃらの耳に変えてしまった。
ミダス王は恥ずかしがり、特別仕立ての帽子をいつもかぶっていたが、床屋にだけは隠せない。王は床屋に「秘密をもらしたら命はない」と厳命するが、耐えきれなくなった床屋は野原に出て穴を掘り、その穴の中へ「王様の耳はロバの耳」と言って、また穴を埋める。やがて、春になりあしが生えた。そのあしは風が吹くとささやいた、「王様の耳はロバの耳」と。王様の秘密は風に乗り世界中に広まって行く。
山室静氏の「ギリシャ神話教養文庫」の「ミダス王」からの簡約。改めてこの物語からヴィッラ・ロトンダに戻ると、「建築」とはつくづく面白い存在であることを教えてくれる。
この「建築」はまず十五世紀のヒューマニズムの体現装置透である視画法の空間、と同時に十六世紀の「アルカディア」。ヴィッラ・ロトンダは建築とリアルな環境とが一体化された劇場的世界として作られた。
その後、ヴィッラ・ロトンダは「幽霊屋敷」とも言われ荒廃に荒廃を重ねる。しかし、結果としては、今に残された。「建築」を残すもの、それは「何」なのか。決して個人的な趣味や利便ではないだろう。「建築」は物語であり「メッセージ」。「建築」への考えかたが変わり「時代」が変わっても、建築に託された「言葉」は何時までも生き続ける。そしてまた、あしに吹く風は永遠に「王様の耳はロバの耳」とささやき続けるのだ。
ゲーテの建築術
九月の晴れ渡った日の午後、ヴィラ・ロトンダを訪れた時、ミニョンがそこここに佇み、追い掛けてくるような世界を体験した。その世界はゲーテとパラーディオの描く二つの虚構が相和し、鳴動した<作品的的世界>。建築が<作品的><観念的>世界にも実在しうることを実感したのは、この時初めてだが、ゲーテはこの旅行の後、つぎのような建築論を書いている。手近な目的、より高い目的、最高の目的と建築の目的は三段階あるというのがゲーテの認識。
「最高の目的は、あえていうなら感覚を溢れんばかりに満たすことを企て、教養ある精神を驚嘆と恍惚にまで高める。・・・これは建築術の詩的部分であり、本来ここに働くものは虚構である。・・・しかし、近代人は肝心かなめの点で最も立ち後れている。彼らは、それが最も必要なものであるのに、虚構の本来の姿、模倣の適切性をほとんど理解しなかった。彼らはこれまで寺院や公共の建物にのみ属していたものを個人の住居に持ち込み、そこに荘麗な外観を与えたのである。こうして近代では二重の虚構と二重の模倣が生まれ、そのため適用に際しても評価に際しても精神と感覚が要求されているということができる。この点においてパラーディオを凌駕した者はいない。彼はこの軌道において最も自由な活動を示した。そして彼がその限界を踏み越えた場合でも、人々は彼に非難すべき点に関してつねに寛大である。虚構とその精神的法則に関するこの理論は、建築術においていっさいを散文化したがる一種の国語浄化主義者たちに対抗するために必要である。」(ゲーテ全集第13巻:潮出版:p127)
このゲーテの建築術に触発され、実用実利中心の散文化した建築界ではほとんど見つけることが出来なくなった「虚構としての建築」をもう一つ、ゲーテに従い見学してみる必要がある。
合理主義的利便だけでは到達できない建築の価値、建築の持つ詩的側面である「虚構として建築」の価値を、ゲーテの目は明確に見据えて記述している。そしてその手法は矛盾である柱列と囲壁の巧みな説伏にあると書いている。
ゲーテはこの紀行の後、1795年に建築の虚構について触れた「建築術」を書いているが、そのテーマとなる「虚構としての建築」の着想はこのテアトロ・オリンピコから得たと考えて間違いない。
(via YouTube by Teatro Olimpico - Vicenza Italy - fotografie di Paola Furlan)
2014年7月31日木曜日
リヴァイアサン ポール・オースター
「文学における原風景/奥野健男」「混住状況社会論/小田光雄」を読み、戦後の小説は都市および故郷の崩壊により文学の基盤となる原風景を喪失する中に描かれていることと、1980年以降の都市の郊外化により、私小説はますます「小さな物語」に変容しつつあるということを教えられた。
都市の崩壊と郊外化については多少知識もあり、両書を読んでいてもいろいろ教えられたが、日本の小説そのものをほとんど読んでいないので、喪失や小さな物語に特別な感想を持つことはなかった。
村上春樹等、偶々読んでいた小説も両書ではほとんど取り上げられていないものばかりだった。
日本の小説やコミック、いろいろあるんだなぁ、という感想で終わっている。
しかし、この何日か、ポール・オースターの「リヴァイアサン」にくぎ付けにされ「これは凄い小説だ」と思ったので、いろいろと気になりだした。
物語が人間の持つ普遍性や社会の理念に触れている「大きい物語」か、あるいは個人の微細な内面に関わる「小さい物語」かということより、まずはボク自身に取って面白い小説って何だろうと考えさせられることが多かったからだ。
ポール・オースターはすでに何冊か読んでいる。
しかし、この「リヴァイアサン」は特別の中の特別の小説と思っている。
小説は往々にして主人公が一人。ストーリーは始まりから終わりまで一直線とは言わないまでも、撚り合わされた線のように進んで行く。
確かに、最近の私小説では時間と場所は曖昧のまま主人公に絡まる登場人物との意志の疎通が事細かに描かれる。
心の行き違い、仄かな思いや強烈な恋心、大半はうまくいかない内面と外面、自己と他者とのずれ、そして悲劇。
しかし、「リヴァイアサン」では主人公は書かれたサックスか描いたピーターか、二人は互いに三角関係にあると同時に、最愛の妻や恋人との生活もあり、空間も時間も立体的。
描かれているフィクションは二重三重、複雑に折り重なった人間の胡散臭いがピュアでもある物語と言える。
決して二次平面の上に展開される単純なストーリーではない。
小説の舞台はオースター特有のニューヨークの下町が大半、それにバーモントの森の中とカリフォルニアのバークリー郊外、終幕ではアメリカ中の街へと拡散する。
舞台の時間は広島の原爆投下の日、1944年8月6日に始まり、1990年7月4日、アメリカ建国記念日に終わる。
チョット長いが、この小説が佳境に入る第三章、そのプロローグとなる重要な言説を引用したい。
「利己主義と不寛容、力こそ正義と信じて疑わぬ愚かしいアメリカ至上主義、といった昨今の風土にあって、サックスの意見は奇妙にとげとげしく説教臭いものに聞こえた。右翼がいたるところで力を得ているだけでも十分にひどい話なのに、彼にとっていっそう不安だったのは、それに対する有効な対抗組織があらかた崩壊してしまったことだった。民主党は力尽きた。左翼はほぼ消滅した。ジャーナリズムは沈黙していた。あらゆる議論が突如敵勢力に盗用され、それに対して反対の声を上げることは無作と見なされた。・・・・・」
ボクの知るオースターは小説の中で、政治についてこれほど直截に語る作家ではない。
どの小説でも現実は大半、韜晦と諧謔、生の政治や時代背景はある種の間テキスト性を持って描かれていたように思う。
しかし、この小説ではアメリカの「ロナルド・レーガンの時代」と括弧づきで詳細に現実世界を描いている。
そして、この時代こそこの物語を支える全ての基盤。
それは1980年代、アメリカの転機の時代であり、小田氏の混住状況社会論によれば日本の現在、2010年代に照応している。
つまり、物語は現在の我々が呼吸している生の現実であり、不満と不安に苛まれ始めた時代と言って良い。
「リヴァイアサン」は同時代の中に明確に描かれた場所と時間という現実世界をスッポリと覆う、まるで薄い透明膜のようなフィクションの世界なのだ。
韜晦を多用するオースターは本扉の裏に時々箴言を記す。
「すべての現実の国家は腐敗している。」ラルフ・ウォード・エマソン。
そして、この物語のタイトルは「リヴァイアサン」。
リヴァイアサンは旧約に登場する幻獣、いや、トマス・ホッブスの「近代国家」。
読み終わって見てわかることだが、オースターは国家の下に生きる等身大の我々の事を書いているのだ。
しかし、このブログも速読みしてもらっては困る。
オースターは決して、反政府、反国家、反自由を書いているわけではない。
確かに物語はサックスの爆死に始まり、怪人によるアメリカ中の自由の女神の爆破に終わる。
そして、近代国家の腐敗を箴言にしたエマソン。
しかし、箴言は「腐敗は現実の国家」であって、「未来を生きる理想的理念の存在」を敢えてこの言葉に隠しているのだ。
この小説のポイントはここにある。
描かれるのは3つのカップルの奇妙な三角関係、複雑に絡まり合う嫉妬に批判、セックスに純愛。
どの場面も場所と時間は周到に記される。
全体はギャツビーに似て、主人公だけの物語ではなく、語り手の物語でもある錯綜した形式だが、どこまでも現実を現実として追う、推理ドラマのようでもある。
そして、厄介なことに、大きな虚構の中に、全てが二重、三重のフィクションとして描かれている。
さらに、この厄介なフィクションから浮き上がって見えてくるのが、国家の理念、現実には悲惨も悲観もあるが、自由な意思が羽ばたき、理想があるというエマソンの箴言だ。
滑稽な人間どもが取る行動ではあるが、そこには自由な意志があり、理想がそれを支えているのだ。
ピーターが最後に古書店で見つけるサックスの「模倣のサイン」には、思わず涙を落としてしまった。
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2014年7月12日土曜日
ボルノウの希望
18世紀後半、アンシャンレジームにより人間はようやっと誰にもおかされない自由を手に入れたが、20世紀の二つの大戦は人間は決して理性的には生きることができない動物であることを証明してしまった。
しかし、ボルノウは「希望」をテーマに、人間について考えた。
理性ではなく衝動と欲望の動物である人間が「希望」を抱ける条件は何だろうと。
彼は人間が形成してきた文化(生き方)について調べることで、そのような文化を形成する人間の本質について考え続けている。
ボルノウが重視することの一つは、幼児の時代においては庇護されているという「信頼」の感覚。
大事なもの形あるものが壊れることがあっても、小さい時には「保護」されているという感覚が盾となり、それを乗り越えることができたのだから。
さらに、敵対的な世界の脅威に立ち向かう力はこの「保護」されていたことへの「信頼」のうちに育てられてきたと考えた。
「希望」とは底なしの淵へ没落するのではなく、またきっと救い上げられるという確信。
「希望」は不安と挫折を超えた人間の生活の土台となるもの。
確信を与え、土台をささえるのはボルノウはこの「信頼感」と言っている。
「希望」にとってもう一つ重要なことは「出会い」。
人間にとって「出会い」は偶然的なものであることは免れない。
あるいは、「出会い」はいくつもの可能性から選ぶこと、決断すること、賛成するか反対するかを強いるものです。
「出会い」は予期することはできないが、そのための用意だけは出来る。
教養と出会いのあいだには依存関係が生まれる。
教養は人生のお飾りではなく、教養の為にあるものではない
広い教養(リベラル・アーツ)は個々の出会いを偶然だけに終わらせない為の用意と言えるもの。
「信頼感」や「出会い」を支えるもの、ボルノウは、それは「親密な領域=家」、人間の空間と言っている。
つまり、ボルノウの「希望」は大きく意訳すると「信頼感」と「出会い」のある「建築」に支えらていると言って良い。
「人間と空間/オットー・フリードリッヒ・ボルノウ/せりか書房」を再読しつつ深夜になった。
しかし、つくりそして壊す、ボク自身の「建築」のなかでは、まだボルノウの言う「生きられている時間と空間」を見い出せてはいない。
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2014年7月10日木曜日
物語としての都市
2014年7月6日日曜日
黒の過程 マルグリット・ユルスナール
久しぶりに重量感溢れる小説だった。
ユルスナールは広くて深い、前回の「ハドリアヌス帝の回想」で感じたことだが、普遍的に生きようとする近代人間の孤独と悲しみを克明に描いている。
この小説もまた長編ではあるが、大作と呼ぶものとは異なる愉しみを持っている。それは主人公ひとりの内側と外側のすべてが描かれているからだ。つまり、時代や社会や人間、ありとあらゆるものを描くのではなく、ゼノンという独りの人間を語り続ける。
中世から近世へと、激しく流れる時間とじっととどまる都市と建築の空間。
そんな外側に吹き飛ばされ、懸命にしがみつき、ゼノンは近代を生きる自分自身を省察する。
読んでは戻り、ページを繰っては考えさせられる。読み終わることを恐れているような、不思議な重みのある読書体験だった。
16世紀宗教改革に揺れる西ヨーロッパ。
その世界はプロテスタントとカソリックの争いと括りがちだが、それはこの小説が描きたかった世界の姿ではない。
描かれた世界は、唯物的、物質的、現実的、背教的に生きざる得ない主人公ゼノンの、つまり、近代的人間に課せられた生き様の模索と言って良い。
「ペストは別段足を速める様子もなく、皇紀のように鐘の音をともなって旅を続けた。飲んだくれのコップをのぞき込み、本に囲まれて腰を下ろしている学者の蝋燭を吹き消し、司祭のあげるミサに仕え、蚤のように娼婦の下着にひそみ、ペストはあらゆる人間の生活に、無礼きわまりない平等の要素をもたらし、荒々しく危険な冒険の酵母を混ぜ込んだ。」(p108)
ユルスナールが描きたかった人間の悲しみがここにある。
近代を生きる喜びは、この「平等そして均質の中に」こそあるはずだったのに、ゼノンがその中に見たものはペストだけだった。
ゼノンの父親アルコベリコ・デ=ヌミはフィレンツェの大商人の息子。
ジュリアーノ・ファルネーゼの友人であり、ジョヴァンニ・デ・メディチと従兄弟だが、歴史上のジョヴァンニと同じようにデ=ヌミは従兄弟のジュリオ・デ・メディチに殺される。
母親はフランドル、ブリュージュの大商人を兄に持つ敬虔な女性イルゾンド。
しかし、未婚の母から生まれたゼノンはフィレンツェにもブリュージュにも生きる場はなく生涯、孤独と放浪の旅を続ける。
無神論者の彼は錬金術師(黒の課程とは錬金術においての化金石にいたる最も困難な段階)、それはつまり、医者であり科学者、物事をすべて合理的に思考する人。そして、彼はまさに前代との狭間を生きた最初の近代人だったのだ。
描かれた孤独と放浪と悲しみは現代人の持つ心象風景、ゼノンはその後の全ての人間を象徴した人。
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2014年7月4日金曜日
ガラスの街 ポール・オースター
2014年5月29日木曜日
建築と都市のメッセージ
2014年4月26日土曜日
ジャック・カロ展
西洋美術館のジャック・カロ展
フランスのロレーヌ地方に生まれたカロはローマに行き、国外追放されたフランス人フィリップ・トマッサンから版画の技術指導を受ける。
貴族を自称する彼はやがて、フィレンツェのメディチ家の宮廷づき版画家に抜擢された、17世紀初めのことだ。
そして10年、その作品群は「奇想の劇場」、 今日の展覧会の副題にはぴったりの内容だ。
1600年にフィレンツェではじまるオペラ、あるいは当時流行のインテルメッツォやドラマ仕立の槍試合、カロが生み出す版画はまさに劇場世界の雰囲気を伝える格好のメディアだった。
版画は印刷技術は発達したが、写真撮影がまだままならぬ時代の、宮廷の祝祭やイベント、あるいは街風景の中の庶民や虐げられた人々の生活をそのまま現代にリアルに伝える貴重な資料。
同時代にあっては、そのままの出版物あるいは印刷書に刷り込まれた他面的視覚メディア。
多くの人々をリアルタイムで愉しませる、まさに現在の新聞のようなものと言って良い。
従って、カロがメディチ家宮邸にいた10年、その製作は寸暇も惜しむ毎日であったのだろうと推測され、その作品量は膨大だ。
絵画とは異なり、墨刷り小品群は華やかさには欠ける。
しかし、表情や仕草、衣類や情景等、当時の世界が写真以上に細やかに、リアルに写し取られていて、現代の我々をも惹きつけて止まない。
会場にところ狭しと飾られた作品群だが、入場者は少なく、17世紀の世界に引き釣り込まれたままの愉しい午後の時間は静かに過ぎていく。
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2014年4月18日金曜日
ロマン主義時代の音楽と建築
18世紀は虚構から自然、集団から個人、観念から経験という市民社会への変容の時代。芸術においては視覚的静止した絵画的世界より、音楽や建築のような動的体験的世界が問題となっている。その世界とはもはや「神話や風景」というsenographyではなくscenery、一時的瞬間世界ではなく持続的体験世界へと変容した。
一般的には18世紀はカソリック支配のバロックから脱した新たな人間の世紀、神ではなく人間の現実をよりどころとし理性主義、啓蒙主義の時代と言われている。啓蒙とは無知蒙昧を啓発し人間性の向上を目指そうという考え方。迷信や信仰、あるいは不合理な習慣は批判され、「自然に帰れ」と叫ばれた。しかし、同時代が言葉通り新しい人間を生み出したかどうかは疑わしい。そこに生きる多くの人々がことごとく新しい時代を理解し、新しい世界を生み出してきたわけではない。なぜなら、現代にいたる近代人は相変わらず、自然を破壊し、エコノミックアニマルとの戦いに明け暮れざるをえないからだ。
台頭した市民意識の中で旧態の共同体が持つ集団主義的権力は払拭されたが、それに変る個人主義的自由が新たな世界そして建築を生み出したわけではない。むしろ本来の建築が持つ集団的な意味や「特別な空間」という虚構的世界が解体されていっただけではなかったのか。その後、現在に至る350年間は機能と機械を拠り所とする建造物はともかく、新しい世界をメッセージする建築は悉く崩壊した。虚構から離れた建築はあるがままの風景に役立つの道具へと変容していく。
一方、音楽史からみるとこの18世紀は古典主義という土台の上にロマン主義の花を咲かせた時代。それは、建築とは異なり、あるはずの時代が持つ神話・宗教を払拭し、新しい人間の音楽を生み出す時代となっていた。コスモロジーは失ったが神と距離を知った時代、音楽はソナタという形式を獲得し、調性を駆使し、時間的にも空間的にも切れ目のなく連続する風景世界を描いていく。
2014年3月20日木曜日
バッハの教会
中世初期、ロマネスク教会では、聖歌は単旋律で歌われていた。
単旋律のグレゴリア聖歌はモノトーンでお経のような音楽。しかし、唱和され聖歌は堅い石の壁とボールト天井に反響し、次々に重なりあい教会内は独特のハーモニーで満たされる。
結果、その音響は決して単純かつ質素なものではない。体 感的には、その後のヨーロッパ音楽の特徴である旋律的、和声的な音楽のすべてはこのロマネスク教会の単旋律音楽が始まりと考えて良いようだ。
石で囲まれたロマネスクの教会では、神父の普通の話し声はとても聞き取りにくい。それは子どもの頃、洞窟やトンネルで騒いだ体験があれば容易に理解できることだろう。
音はウヮンウヮンと響いてしまい、多くの人に解るように大きな声を出せば出すほど、シラブルは長い間反響し言葉の意味はますます聞取りにくくなる。
ロマネスクやゴシック教会での神父の話が全て音楽のように聞こえるのは、朗誦の部分もリズムをとり、前のシラブルが消え、次のシラブルは抑揚を変えるなどして音の重なり合いを起さないように語られているからだ。
16世紀の宗教改革後のルター派教会では従来のカソリック教会に比べ、聖書講読することや説教を聴かせる事がその大きな役割となった。プロテスタント教会の牧師にとって最も重要なことは聖歌を歌うこと以上に聖書の中の物語を普通の話し声で教徒たちに語ることと言って良い。
新しく聖書講読用に造られた教会は別にして、古いドイツの教会では、この目的に叶うため、内装上の幾つかの改修が必要とされた。ライプチッヒの聖トーマス教会はバッハの宗教上の名曲が数多く生まれた教会として有名だが、この教会はプロテスタントのために改修された教会として知られている。
今年も年末を迎えると、ロ短調ミサ、マタイ受難曲・・・・は、あちこちの教会や大学あるいはコンサート会場で演奏される。現在ボクたちの誰もが親しめ、楽しめるこの名曲は牧師の言葉が明瞭に聞こえる、改修されたばかりの聖トーマス教会から生まれていることり留意する必要がある。
聖トーマス教会に施された改修とは、ひだのついた垂れ幕を石の教会内にたくさん施し、木製バルコニーを導入し、音を分散させ、残響時間を1.6秒程にまで押さえたことにある。石に囲まれた残響が長い音響空間ではなく、人の話が明瞭に聞こえる野外や木造の祈祷室(オラトリオ)のような空間はまさにバッハ音楽のために用意された音楽空間と言って良い。
つまり話は逆なのです。プロテスタントであったバッハは話し声という精妙・微細な音も明瞭に聞こえる音響空間を得たことで、以前の石の教会の音楽家ではなし得なかった、弦のパートが明瞭に響き、きびきびしたテンポ、複雑な音型とハーモニーの素早い展開を持ち、早いリズムのメロディーを、雪解けの水の流れのように軽やかに奏でていく名曲の数々を、作曲することが可能となったのです。
バッハの後に生まれたモーツアルトはカソリックの教徒です。彼の宗教音楽は決して多くはないが、その中の一つ有名なレクイエムを聴いてみると面白い。そして、バッハのロ短調ミサ曲と聴き比べてみる。同じ、宗教音楽でもその音楽の響きかたが大きく違うことに気がつくだろう。
音楽は名曲であるかあらぬか以前に、音楽が生み出される、あるいは奏でられる空間の違いによって、全く異なる世界を生み出していることが実感されるはずだ。
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2014年3月12日水曜日
バッハの音楽
バッハの音楽は川のせせらぎに似て、始まりもなければ終わりもない、クライ マックスない音楽です。一定の時間内にドラマが起き、完成するという西洋的な思考からみると、バッハ音楽の時間の流れはその場その場の音の世界を、ただひたすら生み出したもの、と山田雅夫さんは「渦と水の都市学」に書いている。時間はある目標を完成させるための手段ではなく、ただひたすらに経験すれば良いという視点は、西洋というより東洋的な感じがしとても興味深い観点だ。
バッハの音楽が東洋的であるかどうかはともかく、クラシック音楽を聞くうえで当たり前に思われている、クライマックスやフィナーレという見方は案外新しく特殊の考え方である、と教えてくれたのは国立音楽大学の小林緑さん。
18世紀のある音楽会のプログラムでは、まずシンフォニーの第一楽章のみが演奏される。次に続くのが全く別の器楽曲、そしてさまざまな歌手によるアリアが歌われ、最後になって再び先程のシンフォニーの第四楽章が演奏されるのだそうだ。
現在ではとても考えられないプログラムだが、これが18世紀の普通の音楽会であったそうだ。17世紀以来のオペラの人気が高い当時のヨーロッパの音楽会ではアリアが中心、器楽だけのシンフォニーは音楽会を構成する枠組の一つ、お飾りに過ぎなかったということだろう。
中世の教会から始まった音楽の歴史では、西洋の音楽は歌うことから始まっている。つまり、全員参加が音楽の前提だ。歌手の歌を聴くということが始まるのもルネサンスになってからのこと。そして、音楽がただ聞くためのものに変わるのは器楽音楽が人気となったモーツァルト以降のこと。
宮廷オペラが人気となるバロック時代だが、器楽だけの音楽はまだ貴族社会における衣食住の道具に過ぎず、日常的ななりわいの一つにほかならない。
器楽音楽は生活用品であり、衣装で身体を飾るように、日常空間を装飾していた。つまり、器楽音楽は家具のようなものなのだ。そこでの音楽は量が重要であり、豊かに沢山の器楽音楽が鳴り響いていることが空間を豊かにすること、そして、権力の高さを象徴していた。つまり器楽音楽は聴いて楽しむものではなく、荘重でも厳粛である必要もなく、ただただ聞き流すものであったのだ。
18世紀になり、聞き流していた器楽音楽を身を入れて聞くようになったことから、フィナーレ感が重視される。ここでは社会における音楽の役割の変化を考えてみる必要がある。時代は貴族社会から市民社会へ、音楽はオペラだけでなく聴いて楽しむ器楽音楽が盛んになる。そして19世紀になり、フィナーレとそれを迎えるためのクライマックスはなくてはならないものに変わった。
器楽音楽は貴族社会にあっては当初は芸術ではなく、ディリービジネス、終わりという観念もなく、風や水の流れのような存在であった。やがて、市民社会になり「音」だけを楽しむという演奏会が誕生し、初めて器楽音楽におけるフィナーレという終わりが重視される。そして、音楽は全てはじめがあり、クライマックスがあり、フィナーレがあるものとして完成していく。
器楽音楽はかって、フィナーレがなく、ただひたすらの時の流れであったということはとても重要なことを意味している。音楽は時間の中にあり、時間は何かの目標を実現するための手段ではなく、人間として生きることの全てである、という当たり前のことを改めて喚起してくれているのではないだろうか。
人間が生きる上での「時間」は東洋も西洋も変わらない、当たり前で自然なことなのだ。しかし、この当たり前の時間の流れが西洋では「音楽」となり芸術となった。西洋文化の面白さはこんなところに姿を表す。
ボクは「音楽は建築」だと考えている。歴史から見ると、建築が音楽なのだが、「人間が人間として生きる特別な空間」つまり芸術の空間はかってはすべて建築の中に統合されていた。しかし、市民社会に入り、音楽は聴くもの、絵画・彫刻は見るものとなり、全ての芸術は建築からは分離し独立してゆく。
残された建築はニュートラルな生活の容器であり道具あるいは箱に変容した。つまり建築の解体だ。美術館やコンサートホールという「建築」はもはや、美術でもなければ音楽でもないのだから。
こんなことを考えながら、バッハおよびそれ以前の「都市と建築」を体験して見る必要がある。時代が変わり、貴族社会が市民社会に変わったという事実からだけでは見えてこない、「人間が人間として生きる時間」の流れを気づかせてくれる。現在の建築からは決して体験することができない、何か大事なもの、そこには「日常的な時間」の流れと同時に、「特殊な時間」も重層して流れている。
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