2013年9月29日日曜日

whatがない風景世界

TVこころ旅、火野さんがはぁはぁいいながら走る自転車の旅。 日常感覚で同行している楽しみがあり、好きな番組。 今日は久しぶり、札幌を視ている。 気がついたことがある、批判ではない感想だ。 今日も走るところ老人ばかり。 整備された道路は何処もコンビ二とコンビニエンスな建築群、あまりにも均一すぎる街風景。 これは北海道のことだけではない、旅人の見る日本の風景だ。 視聴者の手紙一つ一つはそれぞれ個性的、しかし、走る空間は田園に出ても疾走するトラックのタイアの音だけ。 人間ひとりひとりはみんな異なるのに、人間をとりまく風景はどこも変わらない。
小説家白石一文の「火口のふたり」のなかにはこんな一節がある。 「こうやって土地の外面が画一化されていけば、地域性などというものはいずれ霧散霧消していくだろう。こんな風景で育った子供たちが故郷に愛着を持つはずもない。コンビニが三軒しかない街で成長した若者は、いずれコンビニが百軒ある街へと出ていくだけの話だ。」(p120)
えっ、これが小学校。 余所でもよく見る、ああ勘違いの建築だ。 個性的?だれの個性?均一?何故均一? 白いカラスを描いてもデザインとは言わない。 デザインとはどんな(what)カラスを描くかが仕事なのだ。 どう描いたかは技術。そう、デザインとはhow toではなくwhatのこと。 しばらくは我々の周辺、whatのない風景世界が続くのだろうか。 Google Keepから共有

2013年9月28日土曜日

楽園からの旅人

イタリア・リアリズムもこの監督(ユルマンヌ・オルシ)の作品となると、もう並の現実ではない。 木靴やポー川と同じ、今回も「人間」が深かい。 例によって始まりはシンプルだ。 礼拝堂の身廊を工場用クレーン車がヘルメットを被る作業員を従え、ゆっくり進む。 祭壇までの画面を真っ二つに割る水平な動きが止まると、 次は天井のキリスト像を取り外すべく昇るクレーンの垂直の動き。 まさに立体幾何学のような序曲が奏でられる。

物語の始まりはまず、礼拝堂の解体は町の人々の心の解体を意味する。 その夜その場は激しい雨の中、一瞬のうちにアフリカからの不法移住者たちのアジールに変わる。 灯火に輝き、雨や寒さからも逃れられる異教の人々に占拠された礼拝堂。 しかし、彼らにとっては水も火もビスケットもベッドもある楽園だ。 町の人々が放棄した礼拝堂は、町の人々に追われる不法移住たちの安楽の空間に変容する。

そして次は、アジールのなかでのリアルな人間の物語。 恋人同士の愛の語らいと別れ、救世主誕生の引用だろうか、苦難のなかでの出産と、それを助け見守る人々の喜び。 そして大いなる信頼の崩壊と許し難い裏切り。 一夜の物語はまるで宗教画の世界をイメージさせるかのようだ。

この映画全体は一幕もののオペラと言って良いのかもしれない。 舞台は全て礼拝堂の中。 激しい風と雨と、本来の人間の世界は扉の外。 楽園の外は決して目には見えることはない、耳に聞こえる音だけの世界なのだ。 そして、人々はこの楽園を出て何処へ行くのだろうか!