2013年8月22日木曜日

文化という言葉は曖昧

文化という言葉は曖昧 (ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2013年7月号)から


「 芸術は、我々の現実の危機化を「可能性の祭典」とするのだ。我々の集団的で内的な可能性の祭典である。」 (「唯美主義」と「政治参加」の対立というフィクション)から

魂の糧か社会変革の道具か、教養人のための芸術か、それとも人民のためか、このような対立は大昔からあるものではない。「 当然のことながら、一方はブルジョワ道徳を、他方は社会主義道徳を説くのである。そうなってしまえば芸術はもうプロパガンダの問題でしかない」。と19世紀半ばボードレールは語った。
彼は相互に対立する立場に対立し、「悪の華」を書いた。
アーティストとアルティザンの区別も19世紀。
フランス革命による平等の概念が内的差違の意識をうみだし、産業革命で民衆・大衆・庶民が可視化され、彼らの問題が提起されるようになった。
しかし、ブルジョアが勝利する。
そして芸術家は市場原理に支配される。
芸術家の取るべく態度は二つにひとつ、象牙の塔か非支配者階級の代弁者。
ギュスターヴ・フローベールは、『書簡』で次のように述べている。
「『芸術』とは、結局のところ、九柱戯よりも真面目なものだというわけじゃありませんよ。すべてが、果てもないお笑いに過ぎないのかもしれない」。
芸術が何の役に立つのかというのである。
ボク自身フローベールに同意するわけではないが、この先の現代に近づく人々にもまた同意しかねる。
ジレンマを解こうとすることより、ジレンマに関わろうとすることが、当面のボクの課題のようだ。
少なくとも「文化」を曖昧にしたくはないので。 

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