2013年6月3日月曜日

「貴婦人と一角獣」タピスリー展 

先週の版画に引き続き、今週はタピスリーの展覧会、クリュニーの「貴婦人と一角獣」を見る。 謎多き中世の作品の現物を、そのまま生で見学できるチャンスなどそう多くはない。 仮にパリにいたとしても、ルドゥやシンケルやポリフォリそして一角獣の織物など、そう簡単に一気にお目にかかれるものではない。 
土曜日の午後、当然ながら会場は一杯だ。 見るべきものは六枚の壁掛け織物だけ、というのにこの混雑、それは土曜日だからという理由だけではなさそうだ。 
多分、すでにこの作品については並々ならぬ知識をお持ちの方々が、この大きな織物に描かれた謎解きに加わるべく訪れたのだろうと予測できる。 
かく言うボクは織物のこと全く知らない、描かれた図柄も全く解らない。 そもそも中世の作品的世界は「言葉の世界」だ。 作家の主義主観、その内面が作品として表現されるのは18世紀半ば以降のこと。
 中世となると絵画はもちろん、版画や織物となればなお一層、超実用的な「書物」に他ならない。 
従って、その作品を享受したいと思うなら、それはただ闇雲に好きだ嫌いだ、美しいとか、気持ちが悪いとか言っても始まらない。 かってな自己解説ではなく、それ相応の知識を持ち、じっくりと読み解き理解しようとするのが中世作品の観賞の方法だろう。
 しかし、19世紀半ばフランスの中央、リムーザンのブーサック城で発見された全長22Mに及ぶ巨大なタピスリー、それをどう解釈し、どう読みとるか、現在のフランスでもこの作品についてはまだ喧々囂々らしい。
 だからこそ「貴婦人と一角獣」はジョルジュ・サンドを筆頭に多くの作家の様々な想像の対象となるばかりか、その想像が小説として読まれ、結果、作品はますます名声を高めることになり、多くの人々の関心の対象となっている。 
と考えると、この展覧会が人気となるのは当たり前だ、 誰も解説できないのだから、どう想像し、どう読みとろうが鑑賞者の自由なのだ。 つまり、この作品は現代絵画同様、最早、作り手のものではない。 自由に想像し、自由に読みとり、自由に解釈する鑑賞者一人一人のもの。

 天井が高く、中世の宮殿の広間のように設えられた展覧会場の四周には六枚のタピスリーが「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」という順で、時計回り、左から右へと展示されている。 
最も大きい六枚目のタピスリーは唯一作品の中に書かれた文字列から「我が唯一の望み」と会場では解説されていた。 あとは、グルグルぐるぐる自由勝手な想像の世界だ。
 おおやはり「味覚」は大きいな、何故「視覚」には侍女がいない。 貴婦人の膝に手を置き、手鏡に写る自分自身をうっとり見ているのはナルシスの様な一角獣ではないか。 縦長なタペストリーが何故「聴覚」か、しかし、 獅子や一角獣も正面を向き、 図柄的にはこのタペストリーがもっとも多彩でバランスがよい。 
一方、「触覚」「味覚」「嗅覚」にいた猿がここで居なくなるのは何故か。 そうか、「視覚」にもいない、やはり、見ざる、言わざる、聴かざるか、そんなバカな。 

冗談はともかく見ているときりがない。 そして一つだけ面白いことに気がついた。 このタペスリーに描かれた貴婦人の表情はかなり入念に描かれ豊かだ。 それも織物表現で感じたこと、であるとすると、もともとの原画ではそうとう細かく描かれていたに違いない。
 六枚全部、その各々に画かれている小さな動物や千花文様、その表現はかなり類型的で雑だ。 しかし、貴婦人と侍女と獅子と一角獣はその表情ばかりでなく着ている衣類やマントに毛並みまで、どれも入念に細かく織り込まれ表現されている。 
とすると、その制作時代や画家が誰か、あるいは注文主も解き明かされているようだが、もはや中世の名も無き職人芸の世界ではなく、特別の人による特別な作品、そして特別にタピスリー化された貴重品。 
当然、織り手は一人ではない、しかし、特別な織り手が一人だけ居るようだ。 なるほど、クリュニーに展示されるはずだ、「貴婦人と一角獣」はもっとたくさん制作されたのではないか、しかし、発見されたのは、あるいは残されたのはこの一点。 

図柄の解釈はますます人気になるだろう、貴重であればあるほど、様々な想像を呼び、様々に解釈されるだろうから。 しかし、特別な作り手が尊ばれる時代、それは作家の誕生であって最早、中世ではない。 そう、芸術家による芸術作品の誕生だ。