2013年5月16日木曜日

風の群像  杉本苑子


「人間のこれがまことの生き方といえるだろうか。」 作者杉本苑子さんは長編小説、それも残りわずかなページ、まるで呆れ果てたように、群像たちのていたらくをまとめて言葉にした。 
この小説は南北朝の王者・覇者・武将たち、そんな群像による非人間的な物語りだ。 
それは中学生時代の社会科での「建武中興と南北朝」とは大きく異なるもの。 
「事実は小説より奇なり」、どちらが事実かは問わない、この小説では大儀も正義もなく、ただ右往左往するまさに「風の群像」が描かれる。
 いや風にも劣る人たちによる、人にあるまじき所行の数々。 
作者は人間のもつ中世的色合いを趣ふかくかたり物語を進めて行く。 

「優しく、つねにお弱く、運命の波に弄ばれ、帝王にあるまじき恥辱や苦しみを味わいつくされた光厳院・・・・」 
「しかし一人、光厳院のみは、いまなお黙々と歩いておられる。勝ち負けを遙かに越えた境地・・・・」 
それは小説の随所に現れる夢窓疎石が示したもの、四大元空にも似た境地。 
「人間はもとより、生きものすべてを形成する四大元素は、死すればもとの空に還る。あの世などなく、後世もない。」 

小説を読みながら、正義もなくポピュリズムに染まった現代の諸将の有り様を書く夕刊に目を通すと、なんとまぁよく似ていることか、と思ってしまう。 
元寇に布陣したことから生まれた鎌倉幕府の経済的失墜。 
救国の恩賞を与えることが出来ない北条氏の不人気、その自滅とも言える幕府に反旗する後醍醐の王政復古、しかし、彼は民に何をもたらしたか、やがて足利氏による幕府と南北朝。 
その権力闘争のどこに、中興があり建武があるのか。 
どの争いをみても、そこには「人が生きるこの世界」という大儀が見あたらない。
あるのは尊氏の骨肉の争いと南北諸将の私利私欲、風が吹き人が変わるが、風のごとくの戦乱のたびに疲弊する民百姓たちの苦しみと悲しみには誰ひとり触れることなく、何一つ変わることはない。

「風の群像」を読んだのは、その前に「獅子の座」を読んだからだ。 
探してみたら、思ったより少なかったのが「室町時代」を題材とした小説。 
近江に行き、幾つかの室町の塔を見学し、イタリアで言えばルネサンスの始まり、同時期日本でもこんなに美しい、それもどちらかと言えば眺めるだけの「無用不用」の建築がこんなにも沢山造られ、遺されていたことに驚く。 
そしてこの時代をもっと知りたいと思い、小説を探していた。 
「獅子の座」についてはまた日を改めよう。 
尊氏、親房の死後、義詮の子義満は何を目指したか。 
そこには観阿弥・世阿弥も登場する。 
さらに、北山金閣が造られ、小説には登場しないがあの常楽寺の塔も造られるのだ。 
それは丁度、フィレンツェのサンタマリア・デル・フィオーレの建設時期、ブルネレスキとギルヴェルティは洗礼堂の扉のデザインで透視画法を駆使しその技量を競っていた時。 
イタリアの都市はどこもまた戦乱につぐ戦乱。 
そして、世阿弥の能が生まれ、同時にオペラが誕生した。
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