2013年4月25日木曜日

醍醐寺


山科盆地、伏見の醍醐寺の塔は京都で現存する最古の塔。 936年に着手され、951年に完成している。 総高38mのうち相輪が13mと塔身の約半分も占めているのが特徴。 逓減率は小さいが組み物は上層ほど部材を小さくするなど、安定したプロポーションを生み出すため細かい配慮がなされている。 三手先は平等院鳳凰堂に見られる完成形の模索、屋根は当初は流板葺きという木瓦葺、現在は本瓦葺だ。
初重内壁には両回界曼荼羅空海像が描かれていて、仏舎利の塔ではなく密教の塔としてつくられたものだそうで、見てみたいと思ったが、今日は残念、無理のようだ。 この寺の始まりは874年理源大師が笠取山に草庵を設けたことにあるというから歴史は古い。 その地は上醍醐と言われ、現在の醍醐寺の後ろの山の上に開山堂、如意輪堂が残されている。 案内所のおばさんに、山道を一時間も登ればよいと言われたが、下から見るかぎり、眼前の山の更に奥の山だそうで、さぞかし眺めも良いのだろうとは思ったが今回はパスすることにした。 そう、旅は始まったばかりだ。 初日に頑張ってしまっては後が続かない。 下醍醐、つまり現在の醍醐寺は907年、平安時代の醍醐天皇の勅願寺。 醍醐寺は室町時代が全盛期でその堂塔を納める境内は山上と山下、広大な領域に及んだようだ。 しかし、15世紀半ばの応仁・文明の乱により五重塔を残し、悉くを焼失。 その後は醍醐の花見で有名、 秀吉によって再建される。 従って、塔をのぞく大半の建築は16世紀の桃山時代と言って良い。 1時間あまりの奥の院巡りは諦めたが、秀吉再建の三宝院とその庭は見学した。 建築と庭は京都では見飽きるほどある桃山建築と石の多い庭だが、表書院や勅使の間、秋草の間には目を見張った。 縁を挟んで庭とは直結、等伯一派や狩野山楽の障壁画を遠目で全体を近くに躙り、他に人がいないことを良いことに自由自在に動き回り眺めてきた。 しかし、ここでもまた一つの残念。 主室には醍醐棚があるはずだが、今日は入室禁止、次回までのお預けとなってしまった。

2013年4月22日月曜日

八坂の塔


京都の最大の盛り場は産寧坂だろう、今日も中国語・韓国語・日本語の若い嬌声でいっぱいだった。 しかし、路地を東大路まで降りれば観光客はまばらだ。 此処からは割安のおでん屋、呑み屋という店はそう遠くない。 振り返れば法観寺八坂の塔。
室町中期の五重塔のわりには塔身が細い。 何故かと本を見ると最初の建設は平安末期とある。 その後12世紀に焼失、頼朝が再建している。 さらに13世紀末再度焼失し、北条貞時に再建され足利尊氏により補修落慶供養が行われた。 そしてまたまた焼失、現在の塔は1440年に足利義教が再建している。 つまり、建設は室町だがデザインは鎌倉時代と言って良い。
一般に室町に比べ鎌倉の塔のほうが塔身が細い、どうやら、この辺りが八坂の塔の塔身の細さの原因だろう。 そして、気がつくことはさすが京の街中の塔だ。 壊されても壊されても再建されるこのしたたかさ。 塔を見て歩くと、戦で堂宇が焼かれても比較的、塔だけが残された寺が多いことに気がつくが、八坂の塔のように焼かれても焼かれても、こんなにも何回も再建され続けられた塔はほとんどない。
近江の寺々は悉く信長に焼かれている。 しかし、 山の下の子院の堂宇は焼かれても、 山の上の本堂と塔だけは焼失を免れている。 そこでは僧自らが自分たちの寺域を焼き、山上の塔と本堂もすでに焼失したと偽り、寺宝と塔を守ったのだ 僧たちの古い建築を守るしたたかさ、さらに京の街という、ここだけが唯一の都市人間の持つしたたかさ、今後も長く長く続いてほしいと、いまは考えている。