2013年3月2日土曜日

カルディヤック 

オペラパレス中劇場「カルディヤック」を見る、今年の研修所公演も画期的。 昨年の「スペインの時」「フィレンツェの悲劇」に引き続き、ヒンデミットの「カルディヤック」。 今年もまた全くなじみのないオペラだったがその内容と出来映えには大満足している。

「カルディヤック」は今回が日本初演、しかし、今年が作曲者ヒンデミットの没後50年ということだけが公演選曲の理由ではないようだ。 昨年の 「スペインの時」「フィレンツェの悲劇」 も同じ、「公演は研修生のためのもの」と言うことにある。 「よく知られている曲では既成の歌手のコピーに陥りがち、研修生が初見の楽譜を読み、未知のオペラにどう挑戦するか」、それが「カルディヤック」公演の目的。 理由はともかく、結果は全くなじみのないボク自身をも大いに楽しませた素晴らしい舞台。 その出来映えだけでなく、なかみもまた限り無く興味深い内容を持っていた。

それは前回の「ピーター・グライムズ」の感想と似ている。 どちらも現代オペラ、観なれていないだけで現代オペラは健在であり、聴けば聴くほど面白いものと実感した。 ピーター・グライムズは1945年、カルディヤックは1926年に作曲されたもの。 この1920年代というところが今日のオペラの面白さのポイントだろう。

このオペラもまた合唱に始まり合唱に終わる。 その合唱はピーター・グライムズとおなじ、ギリシャ悲劇のコロスをイメージさせる。 さらに、その内容は明解に現代の無名・匿名の大衆を表現している。 そして、オペラはその大衆の持つ不気味さ、不安をテーマとし、現代社会の病理の中に主人公カルディヤックを放っていく。

1920年代は第一次世界大戦と第二次の中間の時代。 その時代の建築と音楽は恐ろしく酷似していて、もはや理想的な市民社会(19世紀ロマン派)の夢は消え、新たなカタチを探さざるを得なかった時代。 カタチを失った時代に音楽家や建築家は何をどう表現するのか。 それは新即物主義と言われる時代 、人間そして世界の有り様を前々代の規範(カノン)や前代の主観で捉えるのではなく、無機・無名、あるがままに機械的、即物的、機能的に表現することを標榜した。

ヒンデミットはシェーンベルグとは異なり無調音楽家ではない、中心音を決めその音をキーとして様々な音(楽器・声)の重なりをリズムと和声で紡いでいく。 しかし、その重なりは当然、主観やロマンではない、バッハの対位法に近いということだが、ボクにはまさにタウトやミースの建築に似て、決して機械的ではないが、無機・無臭、匿名性を帯びたテンタティブなカタチの重なりに見える。 1920年代はまたナチ台頭を助成する時代でもあった。 主人公カルディヤックはユダヤ人だ、金細工師でありよき父親、そして殺人鬼、アンビバレンツな彼の存在が大衆の合唱の中に沈んでいくオペラの終幕は強く1920年代を意識させる。

オペラでは彼だけが名前を持ち、他の登場人物は全てが役割(機能的)のみで無記名。 娘は貴婦人であり、騎士は士官、一幕の登場人物が二幕では声も人も機能も変わるが、本当はどこの何が異なるのか。 そして得体の知れない金商人は利益を得たのか失ったのか、さらに面白いのはオペラなのに全く歌を歌わない3人の登場人物、それは王であったり、警官であったり、記者であったり、娼婦であったり、全く同じ姿のまま、大事な場面ではいつも登場し、観るものの想像をかき回していく。 こんな不可解なオペラだが、なぜか、眼と耳は終始舞台に釘付けられる。 この当たりはたぶん原作者ホフマンのなせる技だろう。

あの「ホフマン物語」のホフマンだが、彼はこのオペラの原作「スキュデリ嬢」を18世紀に書いている。 しかも、その原作のモデルはなんと17世紀を舞台にした黒ミサの毒殺事件ということだ。 こうなると、ますます混乱のままの推測と想像だが、ホフマンの世界はこのような不可解なイメージが先に立つ「幻想世界」、だからカルディヤックの元はホフマンだということだけは容易に理解できる。 さらに身勝手な幻想を膨らませれば、カルディヤックはリゴレット。 ともに身近な世界からみれば異形な父親、決して手放すことが出来ない大事な可愛い娘を持つ父親の悲劇。 あの不可解なカルディヤックの娘はまさに裏返しに画かれたリゴレットの「ジルダ」に他ならない。