2013年1月5日土曜日

筑波山麓の長屋門

土浦を訪れ、古地図マップを手に街を歩くと、100年前、江戸やヴェネツィアと同じ「水の街」であったことが想像されてくる。
同行した友人の話では25年前は現在の川越のような見せ蔵が立ち並んでいたということだ。
水の街を陸の街に変えたのが鉄道。
かっての運河の名残とおぼしき小さな川の脇に筑波鉄道のプラットフォーム、高さ60cm幅1m長さ6mほどの石列が残されていた。
明治末期に開設された舟運に変わる鉄道だが、昭和70年代、この街の見世蔵とともに列島改造に沸くバブルの中に沈んでしまった。
友人に誘われ、この鉄道に沿い、筑波山麓の街を走ることとした。
土浦から北条、神郡、東山、上大島。
長閑な春の陽の中のドライブは快適。
訪れた街々はどこも大きな長屋門の家々が、まだ健在であることを知り大いに驚く。
長屋門は武家屋敷には欠かせないもの。
しかし、苗字帯刀を許された富裕農家、さらに明治期には富農の家屋敷はどこでも長屋門を作った。
日本の集落に見る長屋門は、一面ではこの国のかっての繁栄の証と言って良い。
震災で訪れた東北の集落でも、半壊した長屋門の幾つかを見かけることがあったが、100年余り前の関東平野の農家がいかに裕福であったか、改めて教えられた。
横浜の瀬谷には長屋門公園が整備されているので、訪れた人も多いだろうが、ここ、筑波山麓の街々もまた沢山の門と屋敷、どこも原形を崩すことなく残されていて、かっての繁栄を固持しようとする意思のようなものが感じられ、教えられるばかりか深く考えさせられた。

話しは変わるが、高校時代、音楽部に誘われ、文化祭で「真間の手古奈」の畦彦を歌った。
万葉集を題材にしたオペラだが、その中で真間の村人が常陸の国から都へ向かう畦彦の噂をし、「常陸というのはどこ」という手古奈の問いに「筑波の山のあるところ、水のきれいなところだとよ」と応える歌がある。
今日、走った、豊かな平地がまさに万葉集にある常陸の国。
北条から神郡に向かう途中に「平沢官衛遺跡」が整備されていた。
この遺跡は畦彦の時代のもの、ゆるやかな草丘に平城時代の高床の官舎3棟が建つ。
クルマの中からの見学だが、まさに手古奈の畦彦を恋う歌が聞こえるような風景だ。
ほどなく走った街なかで、今度は手古奈の世代の女の子のグループに出会った。
大正の建設だろうか、小さな木造洋風建築、檜の床がピカピカな喫茶店。
スコーンとアールグレーを所望し、しばし、彼女たちのボーイフレンド談義に聞き耳を立てる。
彼女たちのかしましい笑い声。
今の世の常陸の国にはまだ沢山の畦彦がいて、
彼らはこの街に恋人を残し、ほどなく都へ旅立つようだ。

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