2012年11月28日水曜日

アルゴとルアーブルの靴磨き

先週、観た二つの映画の話し。 アルゴは実話が生み出すサスペンス、ルアーブルはリアルに作られたファンタジー。 全くタイプの異なるふたつの映画だが、一つの共通点を持っている。 それはどちらも現代社会の英雄の物語と言って良いだろう。 ルアーブルの人々を英雄そしてファンタジーと呼ぶのは語弊があるかもしれない。 しかし、豊かでもなければ、若くもない、なんの力も持たない普通の人々が、たった1人のアフリカの少年を命がけで亡命を助ける、だから英雄。 彼らは皆、言葉は丁寧、礼儀正しく、テーブルセットやベッドメーキング等、日常生活にごまかしがない。そんな生き方がまともに映像化されると、それはもはや現代のファンタジーと感じてしまうのだ。 現代社会に求めるべきもの、それは本来「サスペンス」や「ファンタジー」、「英雄」ということではないだろう。 世界中どこでも、普通の人々が普通に生活できる社会が求められている。 「アルゴとルアーブルの靴磨き」という物語を生み出す「元」となるもの、それは世界の「貧困」と「対立」、そして人間としての当たり前のライフスタイルの「喪失」。 「対立」の強調が生み出すサスペンス、「対立」の縮小を希求するファンタジー。 b0055976_237358.jpg英雄は日常を越えるからこそ英雄であり、ファンタジーは日常とかけ離れているからファンタジー。つまり本来の日常からの「乖離」だけが映画を観る楽しみだろうか。 今回は二つの映画の背後にある「乖離」を生み出し、日常化している「元」のデリートこそが本来のテーマと言えるのかもしれない。 二つの映画が映画にならない時、それがこの二つの映画の本当のテーマなのだ。
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