2012年9月6日木曜日

火口のふたり  白石一文 

観ても面白いと思う映画に出会うことなく、新聞やTVはネガティブなニュースばかり、当面は逃げる訳ではないが、気楽な小説が一番と、昨日の帰り道、駅前の書店で久しぶり月刊「文藝」最新刊を買った。白石一文の長編「火口のふたり」を読んでみたいと思ったからだ。
最近、読むことは少ないがかっての文庫、現実から逃避しない主人公たちにほっとしたのを思い出したから。しかし、昨晩一気読みしてみて、今回の小説はボクの好みではない。内容がセックス描写だったからではない、近未来への不安が、どうして彼ら二人のセックス、あるいは宙ぶらりんの世界と繋がるのかが良くわからなかった。まぁ、直子という女性、彼女のあっけからんとした楽天主義は嫌いじゃないが。

なんでこんなブログを書こうと思ったか。今、夕刊を見てビックリしたからだ。 "富士マグマ 震災で圧力 「宝永」直前より強い力" 小説家ってすごいね、その情報収集と想像力。
「火口のふたり」は来年つまり震災から3年後の話しだが、白石一文はいつも「現実から逃避しない」だけに恐ろしい。 いや、恐ろしいのではない、悲しいのだ。
悲しいのは作者ではない、主人公の賢だ。災害に直面し、進路も失い、母港に寄港したような40代の賢。寄港地であるから安らぎはあるが、そこは人間的にも景観的にも、今の日本、どこもそうなってしまったフラットな死の町。

救われるのは原発汚染に影響されていない場所であったこと、そこには幼なじみの直子がいた。 
性と精神がテーマなら恋愛小説、性には生殖と快楽または欲望があり、前者は自然、後者は精神。快楽だけを問題にし、結果が不問なら、それは精神的だがポルノグラフィー。
(川本三郎、吉行淳之介の「暗室」の解説からの意訳)
しかし、道徳や規範への小心的な対応だけでは新しい恋愛も詩も夢も生まれることはない。小説はタブーを越えどんな精神を生み出したか。この小説には自然があり精神があり恋愛がある。しかし、この小説はどこまでも悲しい。
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