2012年9月14日金曜日

アルベルティの家族論・絵画論・建築論

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Leon_Battista_Alberti_1.jpg

ブルネレスキの透視画法の発見を理論化したのはレオン・バッティスタ・アルベルティ。それは今でいう光学理論(perspective)への貢献でもあったのだが、むしろアルバルティの業績は実践的な絵画技法を開示したことにある。その理論は彼の「絵画論」の中に表され、1435年ブルネレスキに献呈された。

ブルネレスキは金銀細工師として職人社会の徒弟として修行を重ね彫刻家兼建築家として大成したが、アルベルティはパドヴァ大学で学んだ人文学者。没落したといえもとはフィレンツェの有数な貴族であった父を持つ彼は、ジュノバで生まれ、ヴェネツィアで育ち、パドヴァで人文主義を、ボローニャで法律を学んでいる。
彼はまた乗馬の達人、機知に富んだ会話の名手、劇も作り作曲もし、物理と数学を学び、法律にも通じ、法王や君主たちの良き相談相手でもあり、まさにルネサンスが生んだ新しいタイプの人。
建築家、芸術家でもなければ職人でもない、ディレッタント・タイプの最初の建築家と言って良い。

 アルベルティはローマ教皇庁からの依頼で1430年頃フィレンツェ近郊の修道院院長の代理を勤める。マサッチョやドナテルロとも親しくなるのはこの頃のこと、花の聖母大聖堂のクーポラの建設も真っ最中、ブルネレスキは造営局の古い工匠たちと戦っていた頃だ。
アルベルティは書いている。
「ここに、かくも壮大な、天にも聳え、その影でトスカナの人たちすべてを覆うほどの広さをもち、飛梁も大量の木材も付加せずに造られた、確固たる技量による構造の建造物を目のあたりにしても、どうしようもなく愚鈍でこの上なく嫉妬深い輩は建築家ピッポを讃えなかった。仮に私がもちろんとした評価を下すとすれば、当代にあって彼が信じられぬほどの職能の持ち主であるのに同時代の人々の無理解にさらされているように、古代人の評でも彼は理解も認められもしなかった。」(ルネサンスの文化史p257)

ブルネレスキによる花の聖母大聖堂のクーポラはアルベルティに新時代を感じさせる大きなの感動を与えた。その感動がブルネレスキが発見した透視画法の理論的基礎の明確化に駆り立て、「絵画論」を、それもラテン語で書かせることに繋がった。  

アルベルティは沢山の本を書く。
没落したとはいえ、アルベルティ家はイタリアでも屈指の家系、そんな一族がどのように生きるべきか、彼は20代に「家族論」をまとめている。
老いた父と兄弟、さらにアルベルティ家の叔父・従兄弟たちとの長い真摯な議論の経過を事細かに気負うことなく記録した「家族論」は最近になって読んだのだが、大きな驚きだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは有名だが、レオン・バッティスタ・アルベルティこそルネサンスの代表する真の万能人と言うべきだ。
「家族論」はどんな苦難に会おうとも、新しい時代をいかに生きるかを自分自身の家族のために書いている。内容は当然、後世の個人主義とは異なり真の集団としての人間の生き方、それも決して抽象に陥ることなく、判りやすく、具体的に書かている。
そんなアルベルティが40代にまとめたのが「建築論」。
それは文字通り都市と建築についての論だが、後に触れる「オルフェオの世界」の為のもっとも貴重な論考書と言って良い。

 
アルベルティの時代、社会秩序の確立には、法の執行や行政での実現以上に、実体としての都市や建築がきわめて有効に機能すると考えらていた。建築することは社会秩序を構築することを意味しいていたのだ。人々は法律の文章ではなく都市を作り、そのあり様を眺めることで、共に生きる人間の在るべき秩序を理解した。
つまり、都市とはもともと文化的基盤の上に建つものだが、アルベルティの「建築論」は同時代の文化的指導者、都市経営に関わる支配者、諸侯、君主さらに教皇にとっての座右の書と位置づけられていた。
事実、この書は時の教皇ニコラウス五世に献呈されている。そして、教皇は、この書に基づきローマ再建する最初の教皇として画策する。

一方、この書を読んだ各都市の諸侯、君主たち、彼らは実際上の都市建設にまでは及べ無いとき、この書に基づき都市図を制作し、その支配化の都市の理想化を表明した。
著名な画家・建築家たちによって描かれた数々のルネサンスの都市図、それは間違っても今で言う眺めるだけの美しい風景画ではなく、都市の支配者が示したい法律書、アイデアル(理想的)な都市建設のメッセージとして読まなければならない。  

アルベルティの「建築論」(1452年)はローマ時代の建築家「ヴィトルヴィウスの建築書」がモデルとなっている。
ヴィトルヴィウスは紀元前一世紀の建築家。彼は建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画というあらゆる分野を網羅した最先端の技術を「十書」としてまとめ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げた。
この「建築書」はアラビヤを経由しザンクト・ガレン修道院に納められ、14世紀になって発見される。
その発見は時宜を得たもの、新時代をイメージするイタリアの研究者たちにその書の評判は一気に伝わり、やがて、ルネサンスの人文主義者たちの必読の書として、都市や建築はもちろん、音楽や天文学、数学とあらゆる分野に波及していく。

アルベルティは1432年、最初にローマを訪れた時「都市ローマ記」を書く、しかし、この時はまだ、ヴィトルヴィウスの研究の成果が表れていない。彼自身の「建築論」の執筆は1443年頃、アルベルティはこの「建築書」と実際のローマの遺跡を相合わせ研究し、両者の関係から都市のあるべき姿、彼の「建築論」の構想を整えていく。