2012年9月30日日曜日

バレエに生きる、パリ・オペラ座のふたり

ル・シネマの「パリ・オペラ座のふたり」を観る。 バレエを薦めてくれる人がいて、この2・3年、TVではよく観るようになった。 中でもルグリの「ドン・キホーテ」は印象的。 長らく、彼のyoutubeのクリップを楽しんだが、今はすべて削除されている。 そんな印象からこの映画はマークしていた。そして、雨の降る前に渋谷に向かう。 台風17号接近、館内は10人足らず、しかし、内容は期待通り、充分に楽しんだ。 映像はまず19世紀パリ大改造の目ダマとなった建築「オペラ座」。 今ではその設計者の名前からガルニエ座と呼ばれているが、 パリ・オペラ座の内部外部が克明に映し出される。 この建築の建設時はオペラが中心、しかしやがて、バレエの殿堂に変わる。 その建設と変遷はガルニエの師匠であるデュクをコンペで破る事から始まる「建築物語」として面白いが、今日のブログのテーマではない。 ドガが通いつめた「踊り子」の舞台だったとだけ言っておこう。 映画はこのガルニエ座で60年間踊り続けたギレーヌ・ステマーとピエール・ラコットの豪華で華麗なふたりの人生。 ただただうっとりするような音楽とダンサーたちが次々と舞う夢のような世界。 そんな世界が延々と今もまだ続いている。 思うに、都市も建築も美術も音楽もオペラも、この100年間に大きく変わった。 しかし、古典バレエを追求し続けるふたりのバレエ、それは今も生き、今後もきっと生き続けるだろう。 そして、疑問は何故?現代バレエも楽しいが、何故、まだ古典が生きているのか? 見終わった渋谷の雨と風と人ごみの中、ボケボケの脳内には何故何故何故ばかりが響き続ける。

2012年9月29日土曜日

ドン・ジョヴァンニ 芸大奏楽堂


ダンテの地獄の門に始まり、門に終わる今日のドン・ジョヴァンニ。充分に楽しみました。 上手を軸に20度に振られた門とスロープによる舞台構成は終始代わらないが、額縁の中の額縁を生かした舞台はシンプルだがメリハリがあり躍動的。 内容はいつもと変わらない、勧善懲悪だが、歌い手たちの爽やかな響きは若々しくて気持ちがよい。 レポレロ(清水那由太)の声も身体も太いバリトンと可愛らしいツェルリーナ(藤井冴)の響きと仕草はボクの好み、拍手拍手だ。一言加えれば、第一幕は圧倒的素晴らしい、しかし、二幕は聴く側のボク自身が少しだれた。何故だろう。

公演とは一切関係はないが、ボクのお気に入り、ドン・ジョヴァンニのセレナーデ、最近見つけたレミーの窓辺においで、Youtubeへリンクです。

2012年9月13日木曜日

ポエトリー、そして、素晴らしい一日

韓国映画二本立てを観る、飯田橋ギンレイ。「ポエトリー」と「素晴らしい一日」。邦題名は二作ともボクの好みではないが、映画はどちらも面白かった。3時から見始めて5時間の余りの長丁場、さすがに腰が痛い、しかし、飽きずに充分楽しんだ。近々、観たいと思っている岩波の「ジョルダーニ家の人々」はなんと7時間。今晩はそのための良い練習。映画での前者は、水と緑に恵まれたソウル近郊の街、孫と二人住まいの貧しいがおしゃれな老女の物語。後者は一年前に別れた恋人同士。子細あって二人で一日中、彼のガールフレンドを訪ね回る、ソウル周辺のロードムービー。韓国は一度だけ民俗建築を訪ねる旅をしたが、その時は田舎ばかりで、都市はほとんど未体験。なんの先入観なしに画面を見続けていたのだが、韓国の街はやはり日本によく似ている。しかし、その生活風景は随分違うなというのが今晩の印象。人の流れやバスや地下鉄、高層マンションに日常的な建物と街並み。似ているようでやはり違う、そう、韓国はまだ街が生きている。
唐突な物言いだが、先日の「火口のふたり」で白石氏が書いた人の生活や賑わいのないコンビニとチェーン店だけの日本の街。ボクも作者の印象に共感している。「こうやって土地の外面が画一化されていけば、地域性などというものはいずれ霧散霧消していくだろう。こんな風景で育った子供たちが故郷に愛着を持つはずもない。コンビニが三軒しかない街で成長した若者は、いずれコンビニが百軒ある街へと出ていくだけの話だ。」(p120)と書かれた日本の街は何とも悲しいが、映画の中の韓国の街は生きていた。路地では子供たちが駆け回り、バトミントンに興じ、涼み台では老人が語らい、露天で花を売る女性とのやり取りのある街と通過するだけの人とクルマ、街と田園の境界もなく、どこにも生活感がなく、フラットな日本の街。生きた日常の生活風景が舞台となる二つの映画はなんとも新鮮に思えるのだ。韓国映画をほとんど観ていない。現実の日常生活を眺めるという体験がこんなに面白いとは考えてもいなかった。生の世界をビビッドに眺めるということがボクの日常から消えてしまったのだろう。わかった、これからは人通りだけの繁華街、お店だけの駅地下やビル内ではなく、もっと日常の生活に触れるような街路を歩くことにしよう。そう、街は舞台のはずだから。

2012年9月9日日曜日

ノイズ ジャック・アタリ

建築史を検討するとき、自流のポイントは<想像的・聴覚的・視覚的>に建築デザインを読み取る、という点にある。そんな観点から、世界を捉える方法として、見取れられことより、聞こえてくるものとする、アタリのこの書は発行当初から気になっていた。
「音楽は予言的であるが故に、来るべき時代を告知する。」なんとも魅力的な書き出しだ。神保町の東京堂の書棚から即レジに運び読みだしたのが盆の頃。一心に読み続け月末には読了したが、残念ながらお手上げ状態。ボクの力では半分も理解できていない。とはいえ、悪戦苦闘の結果である、書き込まれた付箋代わりの赤線がほぼ全頁に渡って引かれている。一呼吸おいた週末、このままでは放っておけないので、気になった付箋部分だけでも後日の為のメモとしてブログに残すことにした。 

章立てはこの書の前書き的な概説部分「聴く」から始まり「供える」「演奏する」「反復する」「作曲する」と続く。音楽の理論書ではないので、この分類は音楽を直接的に説明するものではなく、むしろ時系列あるいは歴史的分類と言えるようだ。しかし、音楽史ではなく経済史いや情報史でもなく。>沈黙>騒音>音楽>騒音>沈黙>という音楽的世界の消費と需要と生産、その昨日・今日・明日。 何を書いているのだろう。

充分に読み取れていないとは言え、飽きずに読み通したのだから面白かったのだ、それも後半になればなるほど、特に「反復する」のあたりは真っ赤っか。話はブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の戦い」から始まるが、ここもまた絵画の直接的な話ではなく「ブリューゲルは西洋絵画ではじめてわれわれに<<世界>>を見せるだけでなく、聞かせてくれた」。確かに論は全て個人主義と祝祭・謝肉祭に帰結する、そして彼は「作曲」という未来社会を凝視する。

2012年9月6日木曜日

火口のふたり  白石一文

観ても面白いと思う映画に出会うことなく、新聞やTVはネガティブなニュースばかり、当面は逃げる訳ではないが、気楽な小説が一番と、昨日の帰り道、駅前の書店で久しぶり月刊「文藝」最新刊を買った。白石一文の長編「火口のふたり」を読んでみたいと思ったからだ。最近、読むことは少ないがかっての文庫、現実から逃避しない主人公たちにほっとしたのを思い出したから。しかし、昨晩一気読みしてみて、今回の小説はボクの好みではない。内容がセックス描写だったからではない、近未来への不安が、どうして彼ら二人のセックス、あるいは宙ぶらりんの世界と繋がるのかが良くわからなかった。まぁ、直子という女性、彼女のあっけからんとした楽天主義は嫌いじゃないが。なんでこんなブログを書こうと思ったか。今、夕刊を見てビックリしたからだ。 "富士マグマ 震災で圧力 「宝永」直前より強い力" 小説家ってすごいね、その情報収集と想像力。「火口のふたり」は来年つまり震災から3年後の話しだが、白石一文はいつも「現実から逃避しない」だけに恐ろしい。 いや、恐ろしいのではない、悲しいのだ。悲しいのは作者ではない、主人公の賢だ。災害に直面し、進路も失い、母港に寄港したような40代の賢。寄港地であるから安らぎはあるが、そこは人間的にも景観的にも、今の日本、どこもそうなってしまったフラットな死の町。救われるのは原発汚染に影響されていない場所であったこと、そこには幼なじみの直子がいた。 性と精神がテーマなら恋愛小説、性には生殖と快楽または欲望があり、前者は自然、後者は精神。快楽だけを問題にし、結果が不問なら、それは精神的だがポルノグラフィー。(川本三郎、吉行淳之介の「暗室」の解説からの意訳)しかし、道徳や規範への小心的な対応だけでは新しい恋愛も詩も夢も生まれることはない。小説はタブーを越えどんな精神を生み出したか。この小説には自然があり精神があり恋愛がある。しかし、この小説はどこまでも悲しい。