2012年5月18日金曜日

ピラネージ展

西洋美術館のユベール・ロベール展はこの20日で終わりのようだ。 
まだ寒かった3月の始め、芸大の帰りにたまたま寄ったのが最初だが、その後、気になり併設のピラネージ「牢獄」展を含め結局、3回も見学してしまった。 
もっとも、3回も観たとは言え、気になることが解決したわけではない。 
この時代の絵画や建築の特徴、カプリッチ(気まぐれ)、その真意はどこにあるのか。 
ピラネージの「幻想の牢獄」から始まり、ユベール・ロベールの古代憧憬画。 
ブーレ、ルドゥ、ルクーの「幻想の建築」をみると、同世紀の後半、建築にもカプリッチは引き継がれた。 
共通しているのはルネサンスからバロックの統一的透視画法は歪められ、スケールは巨大化し、人間は朱儒となり矮小化されて描かれていること。 
ピラネージの版画の持つ現実と虚構が一体となった作品群。 
それはグランドツァー客向けの土産物として出版され、北ヨーロッパの多くの人が共有した理想都市でありアルカディア。 
しかし、その最初の出版は「幻想の牢獄」に表現されたサディスティックな静寂世界、そこはもう人間の共生の場としての建築の意味とはほど遠く、孤独な個人的な世界だ。 
その後、パリよりローマを訪れ、古代憧憬として描かれたユベール・ロベールのサンギーヌによるスケッチ。 
それはピクチャレスな風景画ということだろうが、もはや神話も建築的カノン(規範)も失ったバラバラな人間社会にすぎない。 
描かれた世界はアルカディア・ローマだがすでにリアリティを失った幻想舞台と言えるのではないだろうか。 

18世紀後半、ルドゥは牢獄ではなく理想世界を描いている。
「ショウの製塩工場」や「ブザンソン劇場」は彼の師匠ブレに始まる球体や立体をテーマとした一連の新古典主義的建築に関わるもの、しかし、そこもまた巨大な人間不在なカプリッチであることは代わらない。 
そして見えてくる、この一連のカプリッチは現代の建築世界そのもの。 
意味もないバラバラな世界、美しいかもしれないが、感情を持った生の人間が不在の個人的世界。 
もっとも、18世紀のカプリッチは多くの観客を惹き付けたが、現代建築の100年後の廃墟がこの展覧会のように後世の人々に憧憬されるという保証はどこにもないのだが。 
つまり、ここには近代の始まりと現代の終焉、そのすべて展示されているような気がしてならない。

今回の展覧会には登場しないが、ヴェネツィアの風景を28枚の連作に仕上げたカナレット、さらにティエポロの版画集「空想のたわむれ」もまた同時代の作品。 
そんな一連の版画集を観ながら思うことは「夢と現実が入り交じった世界」とは何か、それは現代建築そのものに酷似しているが、その始まりは18世紀のオペラの舞台の中に描かれていた世界ではなかったか。
18世紀の劇場建築家はパルマのビビエーナ一族だが、同時代フェルディナン・ビビエーナは「市民建築」の中で、舞台装飾の一部として牢獄の光景を版画で表している。 
ピラネージの牢獄は間違いなくこの劇場装飾を引き継ぐもの。 
ピラネージのエッチングは全て、グランドツァー客が持ち帰る土産物として制作されている。 
同時代のプルチナーニやビビエーナのオペラ舞台画は宮廷の権威の印、その記録として残されていた。 

しかし、これらの先駆はすべて舞台の中の幻想世界であったことに留意しなければならない。 
その世界はフィクションだが意味のある世界、物語としての人間世界がプロセニアム・アーチの中に完結している。 
さらに、その世界はあくまでもフィクションであり、虚構の世界であることを少なくとも観客は理解していた。 
気になることはこの辺り。 
夢と現実をプロセニアム・アーチで切り分ける手法を失った現代の我々は日常的人間世界をオペラの世界と混同視していないか。 
オペラの中に描かれた文学と音楽と建築の世界、それはあくまでアーチの中の別世界、虚構の世界であるからこそ、虚構と幻想、巨大スケールとバラバラな空間を物語として眺め、古代を憧憬出来たのだ。
20世紀以来、プロセニアムアーチは存在せず、虚構と現実の額縁を失い、個人主義的欲望の中に人間的感情を求めている。 
そして本来、虚構であった建築は虚構であることを止め、合理的経済の道具と化す。 
21世紀、帝国化したグローバリゼンションの中、建築は虚構化した巨大スケールが前提となり、朱儒たる人間を阻害する。 
しかし、アーチを失った我々は虚構と現実の区別もつかず、その場限りの日常世界に一喜一憂している。