2012年4月6日金曜日

ニーチェの馬

「ニーチェの馬」を観る。恐ろしくミニマルな映画だ。作ったのは「倫敦から来た男」の監督、ハンガリーのタラ・ベーラ、会場も一昨年と同じ宮益坂だった。(http://leporello.exblog.jp/12747085/) 作品は今回もモノクロ、この監督はなんと言っても映像がいい。 2時間余りをわずか30カット、長回しのカメラ映像は観客をしっかりと引きつけ続ける。 音楽はたった一つのメロディだけ、一切の変奏もなく弦二つとオルガンが物憂げに時たま挿入される。 音の大半は例によって環境音。 この映画の主役は嵐のような風だが、ほとんど全編にわたり鳴り響く。 映画には言葉はいらない、映画は映像がすべて、それがこの監督の映画のようだ。 5部に分節されているがいつものようにドラマが進行するわけではない。 観客は映像を見つめるだけ。 しかし、不思議だ気がついてみると、ボクは勝手に様々なことを想像している。 なるほどわかった、これが監督の作戦、彼はすべてをそぎ落とし、観客をただただ映像の中に引き込むことが目的、後はなんでも勝手に想像させようとしているのだ。 題名のニーチェは意味深だが、その辺の詮索は一切意味がない。 そろそろ終わりかなと思う頃、映像に変化が生まれる。 馬は何も食べなくなり、井戸から水が消え、ランプも消え、火種も無くなり、風が消え、そして映像が消え館内が明るくなる。 でも、不思議だ映像に引き込まれながら、必死にいろんなことを考え続けていた自分だけが取り残された。 この映画、自宅のカウチポテト鑑賞なら10分で飽きていたかもしれない。 丁度、読みなれない小説の最初の10頁を何回も再読させられ、一向に先に進まないように。しかし、今日は真っ暗な映画館。 縛り付けられているわけではないが、席を離れることはない。 そして、監督の作戦通り、ただただ映像を眺めているうちに、いろいろなことを考えていた。 「人間ってどこから始まるんだろう?」。 それは、物理的・現実的あるいは生物的意味での人間ではなく、観念としての人間だが、そんなことを考えているうちに、全てが「終わった」。 青山通りに出ると今日もまた風がやけに強かった。
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