2012年2月25日土曜日

どうだい銃声の音が聞こえるかい?


西洋音楽を聖なる教会から俗なる社会に転撤したのが14世紀、ギョーム・ド・マショーのアルスノーヴァ。 その音楽を市民社会の基盤としたのが16世紀末のオペラの誕生。 そして18世紀、モーツアルトのピアノソナタは近代市民社会を切り開いた。 20世紀、市民社会は大衆社会へ向かう。 イタリア未来派は音楽の大衆化を目論んだ。 もっとも未来派の運動は音楽のみならず建築も美術も文学も一体としての大衆社会への対応ではあったが。 未来派の活動はカテゴライズ化された、あるいはクラスファイした19世紀の文化活動全域へのアンチテーゼと言える。 その活動は、シュールレアリストや構成主義、モダニストに受けつがれるが、21世紀の今日、未来派のコンセプトを超えるものはまだ生み出されてはいない。 20世紀の音楽家サティやケージの活動、彼らの音楽が確実に基盤となって、最近ユニークな環境デザインが注目され始めた。 1960年代後半、米国全体がベトナム戦争に揺れ、不幸な事件が相次ぐ。 ケントステイト大学ではヴェトナム派兵に反対した学生たちが図書館が望めるキャンパスの丘に州兵によって追いつめられ、4人の学生が銃弾によって死亡した。 大学は早速、死亡した学生の追悼モニュメントのコンペを実施する。 その佳作が「どうだい、銃声が聞こえるかい?」という作品。 デザインされたものは4人が死んだキャンパスの丘に至る4本の小道。 大理石の彫刻や構築されたヴィジュアルなモニュメントではない。 4本の小道は事件を抽象化して「かたち」として表すという手法ではなく、モニュメントの体現者に過去の出来事を方法的に「経験してもらう装置」としてデザインされた。 樹林の中の4本の小道は銃火を避けるために逃げまどった学生たちの乱れた足跡を辿っている。 学生たちが追いつめられ最後に見たであろう青空、その青空が広がる小さな三角形の広場まで小道は続いている、垣間見える直線路の前方には大学の象徴である図書館。 そしてデザイナーは「どうだい、銃声が聞こえるかい?」と私たちに呼びかけた。(参考文献:都市環境デザイン/学芸出版) ニューヨーク・マンハッタン高層建築群の一角に12m*70m四方のナラの林がある。 アラン・ゾンフィスト作「タイム・ランドスケープ=時の風景」。 ゾンフィストは空き地にナラを移植することで空間の作品化を試みた。 木を移植した林だけで作品だと言うのはどういうことだろうか。 これは「時間の仕掛け」をデザインした作品。 デザイナーは樹齢数百年の立派な木を植え、完成された公園を作るのではなく、若木がそよぐ昔のまんまの風景を作り出すことによって、体現者に200年前のマンハッタンを経験させている。 ここでもまた彫刻という視覚装置ではなく、林の中の風や小鳥の声、かいま見られる青空によって過去の出来事を「経験してもらう装置」が試みられている。(参考文献:平安京 音の宇宙/平凡社) 騒音を出すことを音楽だと宣い、ピアノを前に座っているだけ、時にはピアノそのものを破壊することこそ音楽だ、という未来派等の活動は何を意味していたのか。 「はず」の世界から「あるがまま」の世界を開いたマショウやモーツアルトの音楽、しかし、その音楽的想像世界は19世紀には額縁(プロセ二アムアーチ)の中の「見せ物」「聞く物」に転化してしまった。 未来派の人々は視覚や聴覚だけでは決して捉えることが出来ない、人間の持つリアリティを再登場させようと試みたのだ。 そして彼らの活動がいま、都市や自然環境が持つ経験的側面を明確に浮かび上がらせるきっかけとなっている。 どの時代もデザインを支える基盤は想像力にある。 テーマパーク化していく都市、商品化していく建築、デザイン時代はかえってデザインを矮小化し、電脳箱の中に閉じ込めていく傾向にある。 未来派の活動そしてサティやケージの音楽について、今、再び検討する必要があるようです。

2012年2月24日金曜日

「都市」と「家族」に支えられるイタリアそしてオペラ

イタリアは都市と家族、そのイデオロギーに支えられている、とボクは考えている。 ダンテより100年後、ダ・ヴィンチより50年早い万能人アルベルティは15世紀半ばユニークな都市論(建築論)、家族論を書いている。 そんな彼はフィレンツェを追放された父親と亡命先ジェノヴァの寡婦ビアンカ・フィエスキとの間に生まれた次男。 しかし、アルベルティは若くして父と死別したため苦学し、家族も持たず都市を転々としている。 そういえば、先日観たヴェルディのシモン・ボッカネグラも都市と家族、その持続をテーマとした悲劇だ。 何故、いつもこのオペラがボクを惹き付けて止まないのかわかったような気がする。
オペラの中のシモンとフィエスコ、三幕での彼ら二人、バリトンとバスの重唱は圧巻だが、まさに二人は都市と家族を失いかねない悲劇を朗々と歌い上げる。 そして、面白いことに気がついた。 アルベルティの母ビアンカはフィエスコ家の寡婦と言うことだろうか。 調べてみなければ判らないが、ここまで来るともう一言いたくなる。 オペラを支えるのは音楽とドラマと劇場だ。 そしてイタリアの音楽とドラマと劇場を支えているのもまた都市と家族にほかならない。

2012年2月21日火曜日

愛の妙薬

底抜けに楽しいイタリアオペラは何かと聞かれたら、ボクはドニゼッティの「愛の妙薬」と答えるだろう。 イタリアに行けばオペラは限りなくさまざまだろう。 しかし、オペラ通ならともかく、ボクにとって「楽しいオペラ」と言えばロッシーニとドニゼッティ、ヴェルディの「ファルスタッフ」、それと昨年聴いたゴルドー二の戯曲をフェラーリがオペラ化した「イル・カンピエッロ」くらいしか見あたらない。 そういえば、オペラを楽しむならドニゼッティかロッシーニ、そしてベルーニでしょうと教えてくれた人がいた。 今日はそんな、ドニゼッティーの「愛の妙薬」を堪能した。 恋に落ちた男は100パーセントみな、このオペラのネモリーノと同様喜劇的だ。 しかし、ここで笑ってはいけない、男の愛とはいつもこのように一途で可愛いもの。 そんな普遍的?な男の話しだが、このオペラのように最愛を得ることが出来る男は多分10パーセントに満たない。 そして、また新たな恋へ、涙を拭い、男は喜劇的にさまよいつづける。 結果的に悲しいのがいつも男の恋だが、このオペラは悲劇ではない。 なんとも羨ましいではないか、オペラのネモリーノは最愛のアディーナの愛を得ることに成功する。 男たるものこのオペラが歌い上げるネモリーノの愛を見習わなければならない。 題名は「愛の妙薬」。 しかし、それは決していかさま薬売りリドゥルカマーラが売る惚れグスリのことではない。 「妙薬」は神話にあるクピドと同じ。 射抜かれてくだけるのではなく、真なる恋人アディーナを射抜く「強さ」を持たなければならない。 いや、強さではないな、なんだろう。 とまぁ、バカなことを言っているが、このオペラは傑作だ。ボクにとってはシモンとは両端にある、大好きなオペラだ。 今日、大画面でこのオペラを楽しんだ。 メディアは2009年グライドボーン音楽祭。 キャストは以下。 【作曲】ドニゼッティ Gaetano Donizetti/【指揮者】マウリツィオ・ベニーニ Maurizio Benini/【演出】アナベル・アーデン Annabel Arden/【出演者】エカテリーナ・シューリナ Ekaterina Siurina,/ピーター・オーティ Peter Auty このキャストリスト、ボクには初めての歌手ばかり。そもそもグライドボーンの作品を見ることが少ないからだ。 しかし、この音楽祭の評判は良く知っている。 ただ、いつもモーツアルトかドイツものと思っていたが、今日は抜群に楽しいイタリアのベルカントの華「愛の妙薬」。 主役脇役すべて歌手たち、みな素晴らしかったが、気がついてみると、イタリア人は一人もいなかったのでは無いか。 舞台の雰囲気は原作のスペインでもなければイギリスでもない、どこかイタリアのイル・カンピエッロだろうが不思議な雰囲気。 客席に平行ではなく45度に振った広場と建物、その構成は大胆で不思議を通り越し、多いに成功している。 沢山の登場人物が出たり入ったり、そして明かりがついたり消えたり、まさにイタリアの小広場が生き生きと浮かび上がっていた。 さらに褒めるならば、字幕の対訳も楽しめた。 このオペラの楽しみはイタリア語と音楽の関係に違いない。 イタリア語がわからないボクには致しかたないことだが、わかれば言葉と音楽のハーモニー、もっともっと楽しめたはずだ。 しかし、対訳は緻密に音楽を追っている、また訳からも言葉と音楽は重なって聴こえる。 これはとても大事なこと、入念にこの映像を日本語化してくれているのが良くわかる。 そして最も楽しかったのが、まさにこのオペラの華クピド役?、薬売りリカドゥルマーラ役の歌手の歌と演技だ。 まだ調べきっていないのでこの歌手の名前は書けないが、彼の歌と演技にはただただ圧倒され、楽しまされた。 ここのところオペラ三昧の毎日。 映画でもいい、こんなに楽しめるのならば。

2012年2月20日月曜日

トスカーナの贋作

どうしても気になり、夜分に急いで見て来た映画、キアロスタミだ。 虚と実、本物と贋作、そんなことはどうでもいいんだ、どう生きるかだね。 お薦めします、騙されますように。 いや、騙されないように!

2012年2月18日土曜日

親愛なるきみへ

現代のアメリカの若者を蝕むのは戦争、というコラムは目にする。 この映画もまた同じ。 それを題材としてメロドラマを楽しむと言うエンターテーメント、 内容が良かっただけに、楽しませるだけで良いのだろうかと考えてしまった。 特殊部隊の兵士ジョンは休暇で帰り、父と住む浜辺でサヴァナと会う。 そしてわずか2週間、二人は恋におちる。 二人の恋を阻むもの、それを書くことはネタバレ、止めておこう。 1年後は除隊し、ともに生きることを約束し、二人は別かれる。 メールも電話も叶わないジョンの任地。 この時代だが手紙だけが唯一のコミュニケーション。 二人の恋はどこまでも古典的、さわやか、慎ましやかな二人の日々が経過する。 そして一年後。 ドラマはここからだ。 その後のドラマもどこまでも古典的で慎ましい。 こんなさわやかな結末で良いのだろうか。 それはないだろう。 このドラマは二人の悲劇で終わらせてはいけない。 背景にあるのは無関心な大人たちの銃後の日々。 映画は二人の悲劇を生み出す戦争と大人たちの無関心な日々こそ弾劾すべきだ。 戦争を若者たち恋物語のダシにしてはならない。

2012年2月17日金曜日

シモン・ボッカネグラ

今日もまた、ドミンゴのシモン・ボッカネグラを観た。映画版・銀座ヒューマントラスト、2010年4月のラ・スカラ。まだ、Youtubeにはアップされていない。 前回のメトより数段良かった。どこが、全部だ。バレンボイムのオケ、舞台、歌い手たち、観客、すべてだ。ドミンゴはここのところラ・スカラ、ロイヤルオペラ、ウィーン、メトとシモンを歌い続けている。もともとボクはシモンが大好きだが今日のは最高。この悲劇にはいつも泣かされる、しかし、今日のシモンを観て人間ヴェルディが少し判った気がする。 指揮 ダニエル・バレンボイム
演出 フェデリコ・ティエッツィ
出演 プラシド・ドミンゴ(シモン・ボッカネグラ)、フルッチョ・フルラネット(ヤーコポ・フィエスコ(アンドレーア・グリマルディ))、アニヤ・ハルテロス(マリア(アメーリア・グリマルディ))、ファビオ・サルトーリ(ガブリエーレ・アドルノ)、マッシモ・カヴァレッティ(パオロ・アルビアーニ)、エルネスト・パナリエッロ(ピエトロ)
オーケストラ ミラノ・スカラ座管弦楽団
作曲 ジュゼッペ・ヴェルディ (2010年4月29日上演/本編約150分)

2012年2月16日木曜日

人生はビギナーズ

人生に迷走している30代半ばの男女二人と「私はゲイ」とカミングアウトしたがんを煩う70代の父親。 この父親のはしゃぎと息子との会話が句読点となり、ドラマは淡々と静かに、微睡んだように進行する。 人との距離感にひときわナーバスなアナ、喪失感を拭えないオリヴァー、そんな二人の恋はなぜか新鮮で微笑ましい。 ボクはゲイではないが、理解しやすく波長が合い、居心地の良い時間だった。 そう、ユアン・マクレガー、メラニー・ロラン、クリストファー・プラマーという俳優たちがボクの好みだからだ。 音楽もまた。

2012年2月15日水曜日

フラメンコ・フラメンコ

平日の昼下がり、しかし、会場は満員、ビックリだ。 ここのところ、スペインの物語ばかりを読んでいる。アルハンブラ物語に泥棒日記、そして気になるのはアンダルシアの風景と歴史と音楽。 そんな関心から、始まったばかりだが、渋谷のル・シネマに足を運んだ。 この映画はドラマではない、ダンス・歌・ギターそして驚異的に圧縮された感情と肉体のアンソロジー。 なかなか体験できる世界ではない、理性や知識で捉えられるものではないからだろう。しかし、フラメンコは強力な形式に支えられている。 人間持つ日常的な感情と想像は、フラメンコでは知識を必要とせず自然と一体化する。 フラメンコってなんだろう?頭で理解しようとするから、何も掴めないのかもしれない。そんな取り残されたような自分が歯がゆい。

2012年2月1日水曜日

リソルジメント(イタリア統一運動)から150年

昨年、東京では沢山のイベントがあった。 特に建築・美術系のイベントはほぼ皆勤したかの感がある。 ボクにとってはバロック以降のイタリアは、 オペラ作品以外は全くの不案内。 あらためてイタリアを考える良い機会だったから。 15世紀以来、諸外国に翻弄され続けたイタリアの諸都市、 19世紀になりようやっと統一に向かう若者たち。 それはマッツィーニのGiovine Italliaの思想に象徴されるのであろうが、 あれだけの犠牲を払ってまでのイタリアの統一とは、 かれら、若者にとって一体なんだたんだろうか。 日本の神風特攻隊の話し、それはかって、 「わだつみの声」として沢山読んだ。 しかし、いまいち判らないのが、 それがやはり「人間の生き方なのか」。 時代を生きるとはどういうことなのか。 15世紀以降の混乱の中、 イタリアでは文学・建築・絵画・音楽・オペラ、 全ての文化分野が一斉に花開いていく。 19世紀の混乱の中、 あるいは、はっきり言ってあれだけの犠牲の中、 多くのオペラ、音楽が生まれ世界中を魅了する。 そして、残されたのは建築と美術。 21世紀の端っこに立ち、 相変わらず何も判らないまま、 ロマン主義について考えている。 真に自由に生きるとはどういうことか? カタチを失った、あるいは共有世界を見失った我々は、 どんなカタチを探していたのか、 どんなカタチを探しているのか? photoは去年のヴェネツィア映画祭で上映された、 マリオ・マットーネの作品から。 3時間半の超大作。 しかし、ミラノでは一日だけの試写だっというニュースを読んだ。 日本ではDVD以外に見るチャンスは無いだろう。 イタリアを知るチャンスなのだが。 いや今の自分自身を考える、 チャンスかもしれないのだが。