2012年2月24日金曜日

家族・都市・オペラ・イタリア



イタリアは都市と家族、そのイデオロギーに支えられている、と考えている。 ダンテより100年後、ダ・ヴィンチより50年早い万能人アルベルティは15世紀半ばユニークな都市論(建築論)、家族論を書いている。 そんな彼はフィレンツェを追放された父親と亡命先ジェノヴァの寡婦ビアンカ・フィエスキとの間に生まれた次男。 しかし、アルベルティは若くして父と死別したため苦学し、家族も持たず都市を転々としている。 
そういえば、先日観たヴェルディのシモン・ボッカネグラも都市と家族、その持続をテーマとした悲劇だ。 何故、いつもこのオペラがボクを惹き付けて止まないのかわかったような気がする。


オペラの中のシモンとフィエスコ、三幕での彼ら二人、バリトンとバスの重唱は圧巻だが、まさに二人は都市と家族を失いかねない悲劇を朗々と歌い上げる。 そして、面白いことに気がついた。
 アルベルティの母ビアンカはフィエスコ家の寡婦と言うことだろうか。 調べてみなければ判らないが、ここまで来るともう一言いたくなる。 オペラを支えるのは音楽とドラマと劇場だ。 そしてイタリアの音楽とドラマと劇場を支えているのもまた都市と家族にほかならない。


2012年2月20日月曜日

建築のなかのアルカディア/©



(ゲーテが訪れたアルカディア)

十五世紀のイタリア・ルネサンスが生み出した新しい世界、それは透視画法の中の「理想都市そしてアルカディア」。その世界は十八世紀半ば、再び、多くの詩人・芸術家たちによって取り上げられる。

新古典主義時代の代表ゲーテは三十代の時、はじめてイタリアを訪れている。彼の「イタリア紀行」はその後、何度か改訂され、現在の我々の手元にあるのはその最終版、六十代後半の上梓されたもの。「われもまたアルカディアに!」が副題、ゲーテは生涯「アルカディア」を歩き続けたのだ。

「われもまたアルカディアに!」は現在ルーブル美術館に展示されているプーサンの絵画に由来する。アルカディアに生きる三人の牧童と一人の少女、彼らが見つめている墓碑にこの銘が刻まれている。テーマはメメント・モリ、理想郷にも死が存在することを強調し、人生の短さを教え、充実した人生を送るようにと、この絵画はメッセージする。ゲーテにとってのアルカディアはただいたずらな理想郷、「憧れのアルカディア」ではない、そこは古のローマの人々が「 日々をより良く生きた世界」、ゲーテはイタリアをそのように意味づけ、「イタリア紀行」の副題をプーサンの絵画から引用した。

ワイマール公国財務長官であったゲーテは1786年9月、その職務から逃れるかのようにブレンナー峠を越え、イタリア(アルカディア)に旅だった。この峠はフランス、ドイツ、オーストリアなどのアルプスの北の国々からイタリアへ向かう重要な山道。ルター、デュラー、モーツアルト、ホルバイン、ニーチェ、ヘッセ、マン、リルケなど、皆、若き日にこの峠を越えイタリアを訪れた

峠を越えれば、北イタリアの空はどこまでも高く、そよ風はいつまでもさわやか。左手に越えてきたアルプスの山並みを望み、右手にヴェネトの広漠たる平野が横たわる中、まっすぐな大道を馬車に揺られ、ゲーテはやがてミニョンの故郷、ヴィチェンツァに到着する。


(ミニョンの故郷)

「君知るや、レモンの花咲くかの国を。

小暗き葉陰にオレンジは熟し、

そよ風は碧き空より流れきて、

ミルテはひそやかに、月桂樹は高く

君知るや、かの国、

いざかの国へ、恋人よ、

いざかの国へともにいかまし。

君知るや、かの家を。円き柱は屋根を支え、

広間は輝き、小さき部屋はほのかに光る。

また立ち並べる大理石像、われを見つめて問う、

「あわれ、いかなる事に出会いし」

君知るや、かの家、

いざかしこへ、わが守護者よ、

いざかの家へともに行かまし。

君知るや、かの山、雲の懸け橋。

騾馬は霧中に径を求め、

竜子の古きやからの棲める洞窟、

絶壁にかかる滝は飛流し

君知るや、かの山、

いざやかしこへ、われらが道は、かしこに通ず。

わが父君よ、ともにいかまし。」(ヴィルヘルム・マイスターの 修行時代:新潮社)


ヴィルヘルム・マイスターに登場するミニョン。彼女はヴィルヘルムをアルカディアに誘う。ゲーテはイタリアに出掛ける前年、彼自身のはやる気持ちを、イタリアへのあこがれを、ミニョンに託しこの歌を作っている。物語の中でのミニョンは演劇修業中のヴィルヘルムの旅の共をする不思議な魅力と悲しみを持つ女の子。彼女はギリシャ神話の妖精ニンフのように、そこここにと現れ、物語の進行に関わっていく。ミニョンと共に旅する竪琴弾きは人間の認識を超える不可解な力の象徴。それは演劇修行中の主人公ヴィルヘルムとはある種の対旋律の関係にある。その旋律は読み手の心のうちそとを限りなく震わしていく。

物語はヴィルヘルムという定旋律にミニョンと老竪琴弾きの三つの旋律が絡まり、ミニョンの歌にある「丸き柱は屋根をささえ、広間は輝き、小さき部屋はほのかに光るかの家」で終曲する。

その家は北イタリアの小都市ヴィチェンツァ近郊に現存する。宇津井恵正氏は「ゲーテの視覚の世界」の「演劇空間としてのあの家と過去の広間」の章でヴィチェンツァのロトンダがミニョンの「かの家」であることを論証された。

その全体はアルカディアの神殿の趣、建物の名はロトンダ。ロトンダとは円形平面の部屋を持つ建築のこと。ドーム状の天井や屋根を持ち、その形状は宇宙観が表現されると共に、人間の生死とも関連し墳墓や神殿にも用いられた。

通称ロトンダだが正確にはヴィッラ・ロトンダあるいはヴィッラ・アルメリコと呼ばれた。十六世紀半ば、この小都市の建築家アンドレ・パラーディオにより建築されている。


 (fig52)

澄んだ青空と柔らかい風に包まれ、ロトンダはまるで現実的な時間の流れを突然止めてしまうかのように建ち、あたりの空間全体は絵画的であり、まさに舞台のなかのアルカディアような世界が展開されている。

ゲーテは次のように書く。「私は町から三十分かかる気持ちのよい丘のうえの金殿玉楼、通称ロトンダを訪れた。上から光線を採った丸い広間を中に囲む方形の建物である。四方いずれからでも、大階段を昇れば、常に六本のコリント式円柱によって作られた玄関に達する。」(イタリア紀行・上:岩波文庫)


(建築四書の中のヴィッラ・ロトンダ)

ヴィッラ・ロトンダを設計したパラーディオにはアルベルティの「建築論」に倣った自著がある、「建築四書」。名前からもわかるようにアルベルティ同様、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの「建築十書」をモデルとし、この書を後世に残した。

建築四書は「イタリア紀行」のゲーテにとっても有効な参考書であったに違いない。ゲーテがミニョンにこの館を歌わせたのは、イタリア旅行の出発の前年こと。長編小説「修業時代」以前の「演劇的使命」の中、彼はイタリアを訪れる前に何度もこの「四書」を開き、図版を眺め想像を膨らまし、ミニョンに「かの家」を歌わせたのだ。


「四書」の中でパラーディオはヴィッラ・ロトンダをヴィッラの項ではなく「都市住宅」の項に掲載している。「この建物は町ほど近く、ほとんど町のなかにあるといってよいほどなので、私は、これをヴィッラ建築のなかに入れることが適切とは思われなかった。敷地は、考えるかぎり美しく、快適なところである。というのは、きわめて登りやすい小さな丘の上にあり、一方の側は、船が通えるバッキリオーネ川によってうるおされ、他の側は、きわめて美しい丘陵地で取り囲まれて、まるでおおきな劇場のような形になっており、また、一面耕されていて、きわめて良質の果物と、きわめてみごとなブドウの樹で充満している。それゆえ、ある方向では視界が限られ、ある方向では、より遠くまで見え、また他の方位では地平線まで見渡せるという、きわめて美しい眺望をあらゆる側から楽しめるので、四方の正面のすべてにロッジアが作られている。」(パラーディオ「建築四書」注解:中央公論美術出版)

ヴィッラ・ロトンダの建築的特徴はその完璧な形態にある。中央の広間は正円、広間を囲む四つの正方形の内部空間、その外側は四面均等にイオニア式(ゲーテはコンリント式円柱と書いている)の六本の列柱が立つギリシャ神殿風のロッジアだ。ロッジアとは列柱を持つ屋根が架けられているが、外部に開放されているポーチやギャラリーのこと。

四面のロッジアにはどの面もまた均等に、幅一杯の階段が設置されている。中央の円形広間の中心に点を取れば、建築の全ての部分はこの点による点対象として配置される。四面の同一性を強調し、どの方向にも特定な優越性を与えない透視画法の持つ等質・等法の空間的秩序がこの建築では明解に表現されている。

それは百年前のフィレンツェの二つの聖堂やウルビーノの理想都市図と全く同じ体験だ。そして、この中心点にはアルカディアの牧神パンの顔が雨水抜きの穴飾りとしてはめ込まれている。

円形広間の中心点の床から牧神パンが見上げる天井は球形のドーム。この地点に立ち四方を眺めれば、どの視線も広間をこえ、ロッジアをこえ、九月の晴れ渡ったヴェネトの田園をこえ、無限の彼方まで突き抜けていく。まさに自分自身はアルカディアの中心に立っているのだ。

 (fig54)

この建築の建主は「四書」によれば聖職者パオーロ・アルメーリコ、ピウス四世と五世の司法官をつとめ、その功によりローマ市民権者たることを許されたとある。しかし、行状は決してよろしくなく、ヴェネツィアの牢獄に監禁されたこともあるようで、建物は未完のまま、オドリコ・カプラに売却されていたので、ゲーテが訪れた時のロトンダは「ヴィッラ・カプラ」と呼ばれていた。

「内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとは言えない。」さすがのゲーテもあこがれの「ミニョンの館」について「イタリア紀行」でこんな辛辣な書き方をしている。

特異な建築形態を持つ住宅であるが故、ということなのだろうか、その運命は過酷だった。ゲーテがロトンダを訪れてまもなくカプラ家も血統が絶え、幽霊屋敷の異名を与えられた時代もあったようだ。しかし、この建築は無事、今に遺され、その独特の形態は単に明快な美しさだけでなく、「建築」について考える様々なテーマを投げかけている。


(ヴィッラとパラッツォ)

古来そして現在でも、イタリア建築の中のヴィッラは緑豊かな自然風景を長閑な人間的風景に変える空間装置。特に、ヴェネトやトスカーナを旅するとき、田園風景はヴィッラが垣間見えることによって一気に好ましさが強調され、忘れがたい景観となって記憶される。

ローマの時代から郊外所有地に建つ住居がヴィッラだが、都市のなかのパラッツォ(宮殿あるいは邸館、公的な空間、都市住宅)に対する田園の住居、それは私的な空間と意識され本来の集団的意味を持つ「建築」とはいささか異なるものと考えられていた。

ヨーロッパにおける「建築」の役割、それは過去に祝祭が持っていた役割を引き継いでいる。「建築」は労働や日常生活の場と言うより、集団としての人間の儀式・祭礼・社交の場。つまり、「建築」は祝祭そして都市を生み出す装置なのだ。従って「建築」は人間が自然や日常から離れた「特別な空間」であり、田園の民家や住居とまったく異なるものと考えられている。


(都市と田園)

ヨーロッパの古来の「都市」と「田園」に少し触れてみたい。「都市」とは本来、集落から訣別した「特別な空間」を意味している。そこは利便や効率のための場所であることより、動物とは異なる人間が「人間として生きる特別な場所」、つまり、日常とは異なる「ハレ」の場所、社交の場のことなのだ。

そのような都市に建つ建築は文化的内実が備わってこそ「建築」であって、単に機能や利便に供するのみならば、それは日常的な集落の延長、住居であっても「建築」ではない。これは建物の上下の問題ではなく、我々とは異なる考え方の問題。

従って、パラーディオが「四書」で強調している、都市的な生活の場であるヴィッラ・ロトンダは田園にあっても文化的世界であることが求められ、社交に供する劇場的環境に建つ作品的世界、虚構の世界でなければならなかった。

ピエンツァのピッコロリーニ宮殿を自然に放ち、私的空間化したピウス二世への批判も同じような考え方が背後にあり、私的で個人的な趣味は「建築」ではないと見なされたのだ。

パラーディオの時代は黄昏のルネサンス期、アルベルティやピウスの時代から百年も経過し、建築の考え方も変わっては来ている。しかし、彼は現代の我々のように施主の希望や使い勝手に合わせ、ただ闇雲にヴィッラを作った訳ではない。その観点から見るとパラーディオのヴィッラはとても興味深い。本来「建築」の範疇には入らないヴィッラを集団的意味を持つ「建築」としてデザインしなければならなかったのだから。

十六世紀半ばから後半は美術史でいうマニエリスム期、パラーディオは過渡期の建築家であることは確かだ。しかし、彼はギリシャ以来の本来の「建築」からも決して逸脱することのない、まさに最後のルネサンスの建築家と言って良い。

遅れてきたルネサンス人パラーディオはヴェネトに沢山のヴィッラとパラッツォを造っていく。彼の「建築」は初期ルネサンス同様、透視画法の持つ等質・等方、何者にも序列化されないイマージナルな秩序空間として組み立てられていることを決して見逃してはならない。


(ヴィッラ・ロトンダとアテネの学堂)

「パラーディオはラファエロが古代ギリシャを描いた絵に表明した理想に相通じるものを現実に作り出そうとした」(都市と建築:東京大学出版)と北欧の現代建築家ラスムッセンは書いている。パラーディオのヴィラ・ロトンダとラファエロの描く「アテネの学堂」はドーム広場を中心とし、その前後に同型の広間を配置している。大きさと構造、その空間構成は全く同相にあると指摘しているのだ。

「アテネの学堂」と「ヴィラ・ロトンダ」の違いは、絵画にあっては全体が一目で見渡せるが、建築においてはその歩みによってしか体験できないことの違いだけ。ブルネレスキのサン・ロレンツォ聖堂は建築体験は絵画を眺めることと同質であると示していたが、ラスムッセンは逆に絵画を眺めることは建築体験と同質と言っている。つまり、「アテネの学堂」という絵画の中に「ヴィラ・ロトンダ」の建築体験が描かれているのだ。

前述したが、絵画と建築の違いは種類の違いではなく手段の違いだ。一見、当たり前の話のようだが、重要な指摘。このことは、ルネサンスの透視画法は等質・等方な空間の中にシンボルを配置することから生まれる、全く新たなイマージナルな空間、ということに立ち戻らなければ理解出来ない。

手段は異なるが、建築も絵画も透視画法の空間にシンボルを配置することから生まれる虚構の空間に他ならない。

立ち戻れば、ルネサンスの画家や彫刻家を夢中にさせた透視画法の空間は神の絶対的支配を逃れた人間中心の空間。その空間の発見によって、絵画はシンボルを配置することで、実際の建築以前に空間を体験させることが可能となった。絵画は建築同様空間を生み出す。あるいは絵画は建築することなく建築を生み出す。

ラスムッセンはラファエロの絵画空間からパラーディオの建築空間が読み取れると書き、ブルネレスキは建築空間を透視画法の絵画として作った。理解を複雑にしているのは、我々はルネサンスの透視画法の空間を理解せず、ルネサンス以降の舞台背景を含め、絵画的なイリュージュナル(幻想的)な空間のみを透視画法の空間あるいは絵画空間とみなしていることにあるのだ。


(想像的空間と幻想的空間)

イマージナルな空間とイリュージュナルな空間、どちらも虚構の空間であることは変わらない。しかし、前者は想像的自由な空間、後者は人為的に生み出された幻想的な空間だ。後者だけを絵画空間とする現代人はルネサンスの絵画と建築は表現手段が違うだけで、全く同相にあることを理解しない。

透視画法の空間はブルネレスキからベルニーニに至る二百年の間に大きく変わる。それはルネサンスとバロック、美術史を理解する主要テーマだが、ここでは前述したイマージナルな空間がイリュージュナルな空間へと変容していく。つまり、ルネサンス絵画とバロック絵画、その二つの空間は全く違うもの、と考えれば容易にラスムッセンの説明が理解できるだろう。

中世における絶対的神の世界の揉縛から逃れ、人間中心の世界を標榜したルネッサンス人の賛歌である「アテネの学堂」がヴィラ・ロトンダの直接のモデルであったかどうかは「建築四書」からはうかがえない。しかし、署名の間を飾る「アテネの学堂」が円形に縁取られたプロセニアム・アーチ(舞台に設置された額縁)の中の演劇的構成を持っているように、ヴィラ・ロトンダもまた劇場のような敷地環境の中にあって、舞台背景となるように設計されたことだけは間違いない。


(アルカディアとしてのヴィッラ)

当時の建築家の仕事は音楽家同様大半は教会にあった。しかし、パラーディオには教会の仕事は少なく、ヴィッラとパラッツォという住宅ばかりだ。パラーディオが世俗の建築家、最初の住宅建築家といわれる所以はこのあたりにある。

ではパラーディオは田園に建つ住宅をどのように「建築」にしたのか。パラーディオのヴィッラはあるがままの自然、民家や農家の持つ田園的風景をメタフィジカルな理念の世界に、現実の背後にある秩序だった理性的な世界に変容している。そのために用いられたテーマは「アルカディア」。

「アルカディア」は貴族たちの社交には欠くことの出来ない文化装置でもあった。パラーディオは建築だけではなく田園環境も一体化し、全体をウェルギリウスやサッフォーが描いた古典主義的な田園風景、「建築」をアルカディアとして描くことで、現実の風景をメタフィジカルな理念の世界に変容している。だからこそ、彼のヴィッラは「建築」であって、単なる自然あるいは田園に建つ民家や住居ではないのだ。


(ヴィッラ・ロトンダに託された物語)

ヴィッラ・ロトンダはアルカディアとして作られた劇場的世界。その世界は等質・等方なルネサンスの舞台空間。そして舞台に配されるシンボル、それは「四書」にも書かれている古代神話に由来する彫像の数々。

四つのペディメント(ロッジアの三角形の破風端部)には3体ずつ12体。階段の上がり口には2体ずつ8体の等身大の彫刻像。それらは個々に神話から由来するアレゴリー(寓喩)、円形広間の中央水抜孔の牧神パンを始めとしてアポロンやヴィーナス、ジュピター等々。

その全体はアルカディアに隠棲する「ミダス王の物語」となっている。ヴァネツィアに捕らえられたこの建築の施主であるアルメリコはミダス王と同じように、アルカディアの住人となって故郷ヴィチェンツァ隠棲する、それがヴィッラ・ロトンダに託された物語だ。


(王様の耳はロバの耳)

ミダス王とは「王様の耳はロバの耳」、あの誰もが知る欲張り王のお話。王はバッカスにねだり「手に触れるものなんでも黄金にして下さい」とねだる。願いは叶えられるが、食事の際の食べ物・飲み物、すべてが黄金に変わりミダス王は飢えと乾きに苦しめられる。再びバッカスのところにゆき、神の言いつけ通り、パクトロス川(ロトンダの前にはバッキリオーネ川が流れている)で身を洗い、黄金の地獄からは救われる。

そんなミダス王はある時、アポロンとパーンの音楽家としての腕比べの審査を引き受ける。彼は素朴なあし笛のほうがアポロンの銀の竪琴より響きが良いと気に入り、パーン(ロトンダの中心の雨落ち孔)の勝ちにした。しかし、アポロン(その彫像はロトンダでは裏側となる南西のメディメント頂部)は怒り「お前の耳はばかな耳だ、そんな耳はロバの耳になるがいい」と言い、ミダス王の耳は毛むくじゃらの耳に変えてしまった。

ミダス王は恥ずかしがり、特別仕立ての帽子をいつもかぶっていたが、床屋にだけは隠せない。王は床屋に「秘密をもらしたら命はない」と厳命するが、耐えきれなくなった床屋は野原に出て穴を掘り、その穴の中へ「王様の耳はロバの耳」と言って、また穴を埋める。

やがて、春になりあしが生えた。そのあしは風が吹くとささやいた、「王様の耳はロバの耳」と。王様の秘密は風に乗り世界中に広まって行く。

山室静氏の「ギリシャ神話:教養文庫」の「ミダス王」からの簡約。

改めてこの物語からヴィッラ・ロトンダに戻ると、「建築」とはつくづく面白い存在であることを教えてくれる。

この「建築」はまず十五世紀のヒューマニズムの体現装置(透視画法の空間)、と同時に十六世紀の「アルカディア」なのだ。ヴィッラ・ロトンダは建築とリアルな環境とが一体化された秩序ある世界を想像的に体験する劇場的世界として作られた。

その後、ヴィッラ・ロトンダは「幽霊屋敷」とも言われ荒廃に荒廃を重ねている。しかし、結果としては、今に残されている。「建築」を残すものは「何」なのか、といつも考えている。

それは決して個人的な趣味や利便ではない、「建築」は物語であり「メッセージ」であるからだ。「建築」への考えかたが変わり「時代」が変わっても、建築に託された「言葉」は何時までも生き続ける。そしてまた、あしに吹く風は永遠に「王様の耳はロバの耳」とささやき続ける。


(ヴェネツィア貴族の陸の支配)

ヴェネトのヴィッラは使い方の面でも、現在のリゾートハウスとは異なる役割をもっていた。ヴィッラはたしかに街なかの建築とは異なり、乗馬や運動により健康をもたらすもの、都市の刺激で疲れた心を慰めるもの、静かに文芸の研究や瞑想にふけることもできる住宅。しかし、産業や農業などにより資産を増やすための建築でもあった、とパラーディオは書いている。

ヴィッラは農業経営の為の建築だった。パラーディオと同時代、海の権益を奪われつつあるヴェネチア貴族にとっては陸に作った船なのだ。ヴェネトのヴィッラは現在に見る自然の中の別荘というより、追いつめられつつある海の貴族の陸の拠点と言って良いのかもしれない。納屋や小作人の住居さらに農作業の為の作業庭を持つばかりか、パラッツォ同様、社交のための華やかなサロンも持っている。

そのようなヴィッラの一つがヴェローナ近郊のヴィッラ・サレーゴ。ヴィッラ・サレーゴは現在はヴェネトワインの有数な生産拠点。シーズンには多くの人々が集まるワイナリーであり、一大社交場となっている。

誇り高き海の貴族の一つバルバロ家はヴェネチアでは名門中の名門。粉屋の息子であったパラーディオにとっては、彼を古典の世界に導き、建築家として育ててもくれた恩人でもある一族だ。そんな貴族の為のヴィッラ・バルバロをパラーディオはロトンダよりも十年前に設計している。


(バルバロ兄弟のメッセージ)

このヴィッラは農業経営の為の建築、と同時に広大なアルカディアの体現装置。

ヴェネツィアからは北西方向の内陸部、アゾロ丘陵の麓にマゼールという小さな街がある。人口五千人足らずのこの街にヴィラ・バルバロは建つ。北斜面を埋める針葉樹の木立を背景として、ヴィッラは鮮やかな色彩を放ち、まるで絵本を飾る建物の趣。イオニア式の四本の円柱を持つギリシャ神殿のような主屋を中心とし、左右はロマネスク風の正円アーチのロッジア(開廊)が連なる。ロッジア の両端部にはどちらも日時計としても使われた鳩小屋が載りユニークが外観を形作っている。


 (fig55)

このヴィラの設計をパラーディオに託したのはバルバロ家の兄弟。二人はともに英国やフランスそしてトルコの大使を務める共和国の重鎮でもある人だ。兄ダニエーレはヴィトルヴィウスの注釈者としても有名であり、弟のマルカントーニオもまた美術好き、彫刻や機械、彫刻等に深い関心を持っていた。

アドリア海そして地中海を支配しつづけたヴェネツィア貴族だが、その支配が揺らぎ始めたこの時代、彼らは内陸部の農業経営に力を入れ、新しい時代を生きる術を模索していた。

海の貴族が陸の支配を目論む建築は、農地や自然というカオスの中にあっても、自然に支配される農家や民家ではなく、「大地から飛翔した特別な場所」を強く意識付けるメッセージを持った建築でなければならない。

バルバロ兄弟にあっては従来の自然に支配されるキリスト教とは別種のメッセージが不可欠となる。従って、建築には自然の中に屹立する人間的秩序世界を象徴する物語と、都市に建つパラッツォ(邸館)と同様、多くの知識人による知的コミュニケーション(社交)が可能な場が必要。つまり、ここでもまた居心地の良い居住空間と言うことより、知的な人間関係を生み出す社交の場、キリスト教会とは異なるある種の劇場空間が求められていたのだ。

主屋の正面に立ち、振り返ると視線は一直線にならぶ木立の列に導かれ無限の一点に消えて行く。透視画法が生み出す絵画的手法はこのヴィッラが神(自然)の支配から離れた人間的世界そのものであることを示している。

透視画法の焦点(中心)に建つのがヴィラ・バルバロの主屋。ヴェネツィア貴族バルバロは広大な自然を農地として従え、そのまっただ中に神の力をよらずして自らの館を構える。左右対称な建築の広がりと十字をなす真一文字の視線の交錯により、自然である無秩序世界(カオス)を秩序ある人間的世界(コスモス)に転換した。

しかし、既に触れたように十六世紀の時代意識はもはや、やみくもに古典を引用すれば良い時代とはいささか異なっていた。バルバロ兄弟が「建築」に託したメッセージ、それはオリンポス神話を引用した諧謔的な物語、神々と共に守る水の神殿なのだ。


(虚と実が重層する空間)

古来より、建築は詩や音楽同様、様々な物語を語るメディアでもあるが、このヴィラは農業神を表象する神話を建築空間と絵画空間を交差させ、リアルでありイリュージュナルな神話と現実を共存させることで物語っている。


 (fig56)

このヴィラの主屋の正面には玄関はない。入り口と目されるものは一階の厨房のための勝手口にすぎず、本来の玄関は主屋の裏側の階段を昇った二階部分。階段は左右対称のロッジアの両側に設置されているが、昇り切ると小さなホール、しかし、入り込んだ途端、あっと息を飲まされる

一瞬のうちに、前後左右のあらゆる壁面から、このヴィッラの住人たちと思われる人々の鋭い視線に射すくめられてしまうからだ。入り込んだ世界はバルバロ家の日常世界のまっただ中。奥方と太った小間使い、少年と遊ぶ小鳥に子犬、そして扉を開き挨拶に出る召使いと可愛らしい少女、奥の扉からは狩りから帰ったばかりの猟犬をつれたご主人の姿。描かれるのは住人たちだけではない、日常の掃除道具や小物、現実の扉と絵画の扉が混在したイリュージュナルな絵画空間。

そこでは眺める自分自身も絵画の中、リアルな自分も幻像化し真実と虚構が共存するドラマの中に巻き込まれる。つまり、ヴィッラ・バルバロは多くの人々が真実であり虚構であることから生まれる、豊かなコミュニケーション・スペース(社交)、劇場空間となっている。

ヴィッラの内壁のフレスコ画は画家ヴェネローゼによって描かれた。施主バルバロは建築家パラーディオ、彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアそして画家ヴェネローゼを制作スタッフとし、このヴィラを完成させた。当代きっての三人の芸術家に託したヴェネツィア貴族による陸支配への意欲、それは並々ならぬものであることが良くわかる。


(水の神殿)

そして次に、バルバロが託した陸支配の意味、この建築が表現した劇場的世界そのものを福田晴虔氏の「パッラーディオ」を借り読み解いてみる。読み解く鍵はパラーディオの著書「 建築四書」にある。

「上階の部屋の床面が背後の中庭の地盤面と同一平面にある。その中庭には、家と向かい合った丘に泉が掘りぬかれ、スタッコ細工と絵画による大量な装飾が施されている。この泉は、小さな池となり、これは養魚池として役立っている。そこから溢れ出る水は、台所に流れ込み、それから、建物に向かってゆるやかに上昇してゆく道路の左右にある庭園をうるおし、二つの養魚池を形づくり、公道に面して、家畜の水呑場も設けられている。そこから溢れ出た水は果樹園をうるおしているが、この果樹園はひじょうに広大で、極めて良質の果樹や、さまざまな雑木が豊富に植えられている。」( 建築四書: 中央公論美術出版 )

「 建築四書」はヴィッラの背後の山裾から溢れ出る水のいく末ばかりに終始している。いや、陸の支配を意味付けるこのヴィッラのテーマはこの「水」にあるとパラーディオは間接的に語っているのだ。


 (fig57)

ヴィッラの背後の山裾から溢れ出る水は神々に導かれ、水の精ニンフに守られる池、ニンファエムに蓄えられる。グロテスクな神々とニンフを祭るニンファエムは彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアにより作られた。

入り口ホールの北側、主屋の最後尾に配されているのが、このヴィッラの最も重要なスペース、オリンポスの間だ。この部屋はバルバロが陸支配をメッセージする建築の始まりであり、ヴィラ全体の物語の中心。ニンファエムと中庭を挟んで、同じ床の高さで対峙するこの部屋こそ、新たな生命の誕生と豊かな人間生活を保障する神々の世界と意味付けられている。

入り口ホールから南、主屋の生活あるいは社交空間はすべてオリンポスの神々と共にある人間的世界ということになる。そこからの眺めは先に触れた木立による透視画法によって秩序づけられた農業空間へ一直線に導かれる。

ニンファエムから湧き出る水もまたヴィッラを飾る神々に導かれ前庭の噴水となり、さらに敷地を通過し一直線に田園地帯(無秩序な自然ではなく、人間の秩序支配により生み出された農業地)を貫いて行く。

田園に流れ出る水は地をうるおし、安定と繁栄を約束するもの。東洋でも同じだが、水は生命あるいは再生のシンボル。自然の中のニンフやサチュロスもまた生命・再生をイメージさせる小神たち。海の覇者であったバルバロは時代に追いつめられての農業経営ではあるが、かっての栄光の再生をこのヴィッラを建築することで祈願したのだ。


(ゲーテの建築術)

ヴィッラ・バルバロやロトンダを初めて訪れたのはゲーテと同様九月だった。天高く晴れ渡った午後、ヴィラ・ロトンダを訪れた時、ミニョンがそこここに佇み、追い掛けてくるような世界を体験した。またバルバロでは、そこは騙し絵の世界だがまさに家族の会話も聞こえるオペラの舞台に立たされた気分。その世界はゲーテとパラーディオの描く虚構が相和し、鳴動した「作品的的世界」と言って良い。

建築は「作品的」「観念的」世界にこそ、実在すると実感したのはこの時の経験。ゲーテは「イタリア紀行」の後、建築論を書いている。手近な目的、より高い目的、最高の目的と建築の目的には三段階あるというのが彼の重要な指摘だ。

「最高の目的は、あえていうなら感覚を溢れんばかりに満たすことを企て、教養ある精神を驚嘆と恍惚にまで高める。・・・これは建築術の詩的部分であり、本来ここに働くものは虚構である。・・・しかし、近代人は肝心かなめの点で最も立ち後れている。彼らは、それが最も必要なものであるのに、虚構の本来の姿、模倣の適切性をほとんど理解しなかった。彼らはこれまで寺院や公共の建物にのみ属していたものを個人の住居に持ち込み、そこに荘麗な外観を与えたのである。こうして近代では二重の虚構と二重の模倣が生まれ、そのため適用に際しても評価に際しても精神と感覚が要求されているということができる。この点においてパラーディオを凌駕した者はいない。彼はこの軌道において最も自由な活動を示した。そして彼がその限界を踏み越えた場合でも、人々は彼に非難すべき点に関してつねに寛大である。虚構とその精神的法則に関するこの理論は、建築術においていっさいを散文化したがる一種の国語浄化主義者たちに対抗するために必要である。」(ゲーテ全集第13巻:潮出版)

このゲーテの建築術に触発され、実用実利中心の現在の散文化した建築界ではほとんど見つけることが出来なくなった「虚構としての建築」をもう一つ、次の項で再びゲーテに従い見学する。


3-3 建築のなかの理想都市


( テアトロ・オリンピコ )

古代ローマ以来二千年の都市文化を持つイタリア、その歴史的建築物はどこの都市にも数多く遺されている。パラ-ディオの建築も同じだがその大半は現存する。保存も歴史的記念館や博物館としてではなく、建設当時と同様、オフィスや生活のためのスペースとして。

ヴェネトの小都市ヴィチェンツァにはパラーディオの名が被せられたメインストリートが今に残され、四百年前に彼が作ったパラッツォが軒を連ねる。パラ-ディオ通りは15分も歩けば突き抜けてしまう、ヴィチェンツァはそんな小さな都市。

しかし、近隣のヴェネツィア共和国やローマ教皇庁の支配からは一線を画して生きようとするヴィチェンツァは都市としての誇りが極めて高い歴史を持っている。文化的資質、気品のある佇まいは現在、ローマのコンドッティ通りに劣らず、たくさんの有名店を集め、世界中から多くの観光客を迎え入れている。

街はずれの広場の一角にテアトロ・オリンピコがある。ここがあの有名な劇場か、というのが第一印象。中世時代のレンガ積みの擁壁と鉄の門扉に囲まれ、外観から劇場をイメージさせるものは何もない。半信半疑のまま路地側の壁にうがかれた小さな木戸をくぐりぬけると突然、そこは十六世紀の世界。

パラ-ディオ時代もここが入り口だそうで、入り込んだ天井の高い殺風景なこの部屋は舞台や客席に至る広間(オディオン)の為の前室となっている。前室とはいえ、天井に接する壁面の上部の四面にはすべて、グリサイユ(単彩フレスコ)が描かれていて、その内の一枚は、なんと遠路遥々日本からやって来た天正の少年遣欧使節。

ちょうどこの劇場の完成期に訪れた日本の少年たちはヴィチェンツァ市民にとっても初めてのこと、大いに歓待されたようだ。彼らは得体の知れない劇場と舞台をどんな思いで眺めたのであろうか。

オディオンの扉を開けると、突然、古代広場に入り込んだ印象。しかし、ここは劇場、左手は舞台で右手が観客席。客席側に階段を降りると、舞台の上には実物大の立体模型化された都市風景、書き割り的な建築群が立体化され街並みのように連なっている。


 (fig58)

観客席はローマのサン・ピエトロ大聖堂と同じ様に列柱に取り囲まれた広場の趣。と同時にそこは階段状に駈け上る観客席、古代劇場のように半円形の形状を描いて登っている。

オディオンからの見学者は舞台脇から入り、広場(観客席)に降りるのだが、中央に進むと舞台上の立体模型の都市風景はますます現実感を帯びて迫ってくる。透視画法により遠近感が強調された舞台上の街並みは劇の為の固定背景として設えられている。それはアルベルティ以来思考され、幾たびか描かれてきた理想都市の情景だ。

しかし、この舞台背景となる都市の中に、俳優が直に入り込むことは出来ない。奥に行くほど街路はせり上がり、作られた建物は極端に小さくなって行く。この都市を形造る立体模型は客席からの視線に深い奥行き感を与える装置として造られている。

従って、現実に演技できる場はこの背景の前のわずか3mほどのスペースだけ。固定背景としての都市風景とその前の小さな演技スペースのみで構成される舞台空間なのだ。

テアトロ・オリンピコでは舞台上のドラマが始まる前から、ドラマが始まっているといって良い。周りを見渡せば、劇場全体はまるでルネサンスの都市広場だが、それはまた古代ローマの世界でもある。

空間の形態は古代のローマ劇場の形をそのまま模したものであり、固定背景の舞台と列柱で取り巻かれた観客席はルネサンスの都市広場の有り様。つまりローマ時代の劇場であり、ルネサンスの理想都市。建築が生み出すドラマは二重の「虚構の世界」となっているのだ。

観客は古代のローマ劇場を体験させられる、そしてまた理想都市の広場にも立たされる。つまり観客は舞台上で演じられるドラマ以前に古代のローマ人という役を演じなければならない。と同時に、ルネサンスの理想都市の広場にも立たされている。場内全体は小さい、しかし、密度の高いこの劇場空間は驚くほど饒舌な世界。


 (fig59)

テアトロ・オリンピコは残存する最古の屋内劇場。ギリシャ以来、劇場は野外であることが一般的。教会や宮殿のサロンも劇場として使われることはあるが、ここはヨーロッパで初めて作られた屋内の専門劇場。従って、近代劇場の原点と言われている。

古代のギリシャやローマ劇場には屋根はない、あっても日除け用のバリリウムと言われるテントのみ。しかし、この劇場には屋根がある。その天井には、ここがあたかも古来からの野外劇場でもあるかのように、円形の青空の中、幾すじもの雲が描かれたなびいている。

手法はマンティーニャの天井画同様、ルネサンスの透視画法が開いた世界。舞台上の書き割り的都市を生み出すのが透視画法だが、天井画の透視画法もまた近代劇場には不可欠となる重たい屋根を青空に換え解放している。


(二つの虚構の世界)

古代劇場はそこが劇場となる以前は秩序ある天体に覆われた世界の中心、聖なる場所、祝祭空間と意味づけられていた。従って劇場は大宇宙のもとの大地、野外でなければならない。古代劇場を模したテアトロ・オリンピコもまた、ここが世界の中心、自治都市ヴィチェンツァの誇りと文化を主張する場となるところ。

古代の祝祭空間を模したテアトロ・オリンピコは透視画法を駆使することにより生まれた、屋内の中の野外劇場ということになる。と同時にローマの英雄たちと共に今を生きる都市広場、ヴィチャンツァに生まれたこの劇場は、天体と一体化した古代の祝祭空間であると同時にルネサンスの理想都市。つまり、二つの空間が重ね合わされた二つの世界劇場、壮大な「虚構の世界」となっている。

屋内であり木造で作られている為、テアトロ・オリンピコは石造の中世教会に比べ残響が少なく、一音が長時間響きわたることはない。従って、ギリシャ・ローマの野外劇場同様、この劇場は細やかなニュアンスを持った台詞を聞き分けるに程よい反響を作り出している。テアトロ・オリンピコが近代劇場の初まりと言われる所以はここにもあるのだ。

残響の長い中世の教会では微妙な音の変化や声が発する意味を明瞭に聞き取ることは不可能。しかし、この劇場では詩や劇の朗唱が明瞭に聞こえる。つまり、宗教音楽の為の教会とは異なる、新しい音楽のための空間の誕生。

キリスト教会とは別種の屋内劇場の誕生は十七世紀まであとわずか、フィレンツェで始まる、繊細な器械である楽器、豪華な衣装、絢爛たる舞台装置によって統合化されるオペラの幕開けを待つばかりの時だった。


(ゲーテのパラーディオ論)

「数時間まえに当地に到着し、もう町を一わたり駆けまわって、パラディオ作のオリンピコ劇場や建物を見てきた。」ゲーテはヴィチェンツァに到着するや否やまずテアトロ・オリンピコを見学している。

そして次のようなパラーデイオ論を展開する。「それゆえ私はパラーディオを評して言う、彼は真に内面的にしてかつ内部から偉大性を発揮した人物であったと。この人が近代のすべての建築家と同じく征服しなければならなかった最高の困難は、市民的建築術における柱列の適正なる応用である。なぜなら円柱と囲壁とを結合することは、なんといっても矛盾であるからである。しかるに彼はどんなにこの両者をうまく調和せしめたか、また彼はどんなにその作品の現前の姿によって人を讃歎せしめ、彼が単に巧みに説伏しているのだということを忘れさせているか。実際彼の設計の中にある神的なものが存している。それは虚実皮膜の間から第三の物を造り出し、それの仮の存在を持ってわれわれを魅了し去る大詩人の通力と全く同じ物だ。」(イタリア紀行・上:岩浪文庫)

利便と快適性だけでは到達できない建築の価値、建築の持つ詩的側面となる「虚構として建築」の意味をゲーテはここでもまた見据えていた。前項で触れたゲーテの「建築術」の上梓は1795年、彼がテアトロ・オリンピコを見学したのはその九年も前のことなのだ。

「イタリア紀行」は何度も書き換えられているので、そのあと先はどちらでも良いのだが、彼の「虚構として建築」の論旨はこのテアトロ・オリンピコの見学で着想したと考えなければならない。そしてその手法は矛盾である柱列と囲壁の巧みな説伏にあると書いている。

ローマ建築の手法は日常的利便に供する空間を壁により生みだし、その壁にギリシャ的な柱列空間を巧みに付加することで、建築の目的である用と美を生み出しているが、イタリア・ルネサンスの建築家たちの関心もまた同じ。さらに十六世紀パラーディオの時代には、神殿や教会という聖なる建築のためばかりではなく、住宅や市民会館という世俗の建築に対して、この手法をいかに反映させるかが課題であった。

従って、ゲーテが言う円柱と囲壁とを結合することの矛盾、それは相異なる二つの構築的要素で一つの建築を作ることのみを言うならば、その手法はローマ以来のイタリアの手法であって、パラーディオの建築に帰することではない。

しかし、ゲーテはその巧みな使い手である建築家を虚実皮膜の間から第三の物を造り出す大詩人と絶賛しているのだ。

事実パラーディオはローマ的「柱列と囲壁」をパラディアーナという巧みな造形の構築的要素に変容しただけでなく、「光や色彩」さらに非古典的モチーフも同等の建築的要素として取り上げ、建築の中に折り込んでいく。

それは大詩人ゲーテのみが語り得る大詩人の通力。十六世紀のパラーディオは十八世紀の大詩人に「大詩人」と呼ばれた唯一人の建築家なのだ。

「イタリア紀行」の全体を読む限り、 ゲーテは面白いことに、 小都市ヴィチェンツァには長く逗留するが、フィレンツェには一度も立ち寄ることなくローマに向かっている。「イタリア紀行」ではゲーテはブルネレスキやアルベルティの建築には全く触れていないのだ。

十五世紀は古典・古代を想像した時代、十八世紀のゲーテの時代はルネサンス以来の発掘が完了し、古代ローマが最も研究された時代でもある。

ルネサンス初期の建築はゲーテにとっては古代ローマの建築とは異なるものだったのかもしれない。彼のイメージする古典世界は全てパラーディオの建築を意味している。ゲーテの「アルカディア」はフィレンツェではなく、建築家パラーディオによって描かれた世界だった。