2011年12月27日火曜日

パルマのテアトロ・ファルネーゼ

十六世紀後半のイタリアにはもう一つの重要な演劇形式が存在した。
中世の馬上武術試合は新しい時代になっても決して無くなったわけではなく、新たに勃興したイタリアの君主にとって、最も有効な政治権力のプロパガンダとして発展している。
騎士による馬上の戦いが確実に君主を勝利者とする演出が尽くされることにより、馬上武術試合は祝祭の中に取り込まれ、政治色濃い演劇形式として発展する。
その形式を最も有効に利用したのもコジモ大公以降のフィレンツェ・メディチ家だが、インテルメディオ同様、その形式を洗練させることに力を注いだのはフェラーラ・エステ家だった。
この宮廷は早くからフランドルの音楽家を重用するなど北の文化情勢には敏感で、
ギリシャ・ラテン的諸要素とアルプスの北の中世の騎士道神話を結合させ、1560年代、アルフォンソニ世のもとで幾つかの「主題付き馬上武術試合」が演じられた。
一流の詩人たちによる筋立てにともない生み出された詩句や対話、そして歌と伴奏、複雑な仕掛けのついた舞台、馬上武術試合もまた後のオペラを予感させる重要な演劇形式であったと言える。

アルフォンソニ世の一連の馬上武術試合で最も有名なものは1565年の「アモルの神殿」。
彼とオーストリアのバルバラとの結婚を祝う祝宴の際、宮殿の中庭で演じられている。
この時の劇場には段席が設けられ、幾段にも重なって観客は見物するが、その中央は半円形で構成され、まるでアリーナ(競技場)のような形態を持った平戸間となっていた。

「アモルの神殿」はもちろん愛の神殿、「名誉」や「美徳」を経て神殿に到達しようとする騎士たちの館。
近づこうとする神殿の近くには六人の年老いた魔女、彼女たちは「高慢」「肉欲」となって「栄光の騎士」を奴隷にし岩に変えてしまう。
「凱旋」の姿で現れた騎士たちの長大な騎馬行列が進む中、囚われの騎士たちはこの行列を魔女から守ろうと放免され戦いに挑む。
魔女たちはつねに勝ち、騎士たちは迷路や森の中に追いやられる。
しかし、最後には「名誉」や「美徳」の騎士たちが優れた力を持って魔女の力に打ち勝つという物語。
「アモルの神殿」は試合の開始とともに舞台上に現れるが、試合中はずっと隠されていて、目にすることが出来ない。
可動式の舞台背景ときらびやかに仮装した騎士たちの行列、やがて再びいっそう壮麗な姿となって神殿が現れ、試合はエステ家を讃えるものとなって終わる。

プロセニアム・アーチはこのような馬上武術試合には不可欠な装置。
自由な場面転換も当然だが、壮麗な神殿を登場させたり隠したり、その為の雲をアーチの両側から押し出したりするのには便利。
しかし、最も重要な役割はドラマの中での凱旋門。
アリーナ(競技場)となる土間部分はアーチ(凱旋門)より登場した凱旋の騎士たちの騎馬行列の舞台となっている。
アルフォンソ二世の中庭にしつらえられた劇場は凱旋門と競技場そして最前面に手すりが付設された段席がU字型で囲む形態で構成されていた。
つまり、後のオペラ劇場に不可決なプロセニアム・アーチとU字型の客席は馬上武術試合の劇場をその範型としていたのだ。

アルフォンソ二世の劇場とパラーディオの劇場を足して二で割ったような劇場がパルマに作られ、現在に残されている。
プロセニアム・アーチを持ち、古代の円形劇場をそのまま引き延ばし、アレーナを取り込んだ形態の劇場、テアトロ・ファルネーゼ。
1617年パルマ公ラヌッチオ一世は広大なピロッタ宮殿の二階ホールに劇場の建設を開始した。設計はすでに七十歳を超えていたジャン・バティスタ・アレオッティ。彼はフェラーラ・エステ家に仕え多くの仕事をし劇場を建てていた建築家。
この劇場はパルマよりフェラーラこそ相応しかったのかもしれない、しかし、17世紀を迎えることなく、もっとも劇場を必要としていたフェラーラ・エステ家は没落してしまった。

テアトロ・ファルネーゼの完成・柿落としは1628年。劇場の建設は思わしくなく、着工から10年後、パルマの依頼者ラヌッチオ一世が逝去した翌年、嫡子オドアルドがメディチ家のマルゲリータとの結婚式の時、ようやっと完成した。
テアトロ・ファルネーゼはパラーディオのテアトロ・オリンピコを下敷きにしたと考えられている。
しかし、アレーナを持ったアレオッティの劇場は古代劇場風ではあるが宮殿の広間(テアトロ・ダ・サラ)を改装したもの、その観点ではブオンタレンティのテアトロ・メディオにも似ている。
つまり、テアトロ・オリンピコ以後、それは丁度オペラの誕生期のことですが、各都市の貴族の祝宴の場となる劇場は様々な形式を模索していたのだ。

3000人も収容できるというテアトロ・ファルネーゼは奥行きが間口の約2倍半もある。
観客席はU字型、舞台と観客席の間にはサッビオネータ劇場と同様の空間があり、その両脇にはファルネ−ゼ家の初期の公爵オッタヴィオとアレッサンドロの騎馬像が載せられたアーチ形状の出入口が付けられていた。
U字型の観客席は後ろに行くほど高くなる傾斜を持っているが平戸間とも2m程の段差があり、最前列には手すりが付いている。
最後部には二層のアーケード、その形態はパラーディオがデザインしたヴィチェンツァのバジリカ(市公会堂)のファサードに酷似している。
舞台周辺には台座の付いた巨大コリント式の列柱が並び、中央のエンタブラチャ(軒蛇腹)の上には二人の幼児がファルネーゼ家の紋章の付いた旗を持って載っている。

この劇場の柿落としは1628年、その祝宴を飾る豪華オペラはモンテヴェルディもその制作に関わったとされている「水星神と火星神」。
フルスケールの馬上武術試合や場内に仕立てたプールを使っての嵐や難破、はては海獣同士の戦いのシーンとその上演は大変衝撃的であったという。
しかし、この時の祝祭の舞台はすこぶる不興。
理由の一つはフィレンツェの生まれのオペラの形式にあった。この時代の劇場は貴族の饗宴の場に他ならない。
そこで歌われ演じられるインテルメディオの持つ祝祭性とスペクタクルは、出来立ての音楽劇(フィレンツェ・オペラ)には追いつくことが出来ない大きな魅力を持っていた。
そしてもう一つはプロセニアム・アーチ付きの舞台にある。
知的なオペラの形式より娯楽的なインテルメディオのほうが祝宴向きであったことは容易に理解できるが、ではプロセニアム・アーチのどこに問題があったのだろうか。

祝宴に参加した諸侯や貴族たち、彼らにとって最大の不満は、プロセニアム・アーチがステージの演技と聴衆との間に障壁を作ってしまうことにあった。 
当時の宮廷人にとって、牧歌劇や寓意物語に始まる祝宴の魅力は、ドラマの終幕部において、彼ら自身もまた演技者となりドラマに参加し、踊り歌い、様々な聴衆と無礼講的な交流を繰り広げることが最大の魅力だったのだから。
演技に参加した宮廷人は聴衆と踊った後で、劇のファンタジーの世界に入り込み、劇の登場人物である神や女神、ニンフや森の精と踊り、現実=幻影的世界を楽しむ。
つまり17世紀始めとは言え、テアトロ・ファルネーゼは、オペラ劇場とは異なり、舞台と客席が未分化で全員参加の祝祭空間である必要があったのです。